Chapter Text
凛は、自分の感情を正しく表現する方法をずっと知らないままだった。
それはいつも唐突に、あらゆるところから一度に押し寄せてきた。
静かで穏やかな部屋。テレビではサッカーの試合が流れている。凛は座っているあなたの膝に頭を預けていた。
そばにいてくれることに、感謝していた。 不器用で、愛をうまく伝えられない自分を、ありのまま受け入れてくれる。
自分でも認められないほどの罪悪感が、その事実だけで胸の奥に居座っていた。
人生のどん底にいる時、凛は物を壊すか、あるいは完全に沈黙した。そんな姿は見せたくなかった。恥ずかしかったのかもしれない。 だから、どんなに悲しくても、助けを求めることなんてできなかった。
あなたの指先が髪を掻き乱す感触に、凛はもう試合に集中できなくなっていた。 思考がどこかへ漂っていく。どうにかして恩返しがしたかった。どれほど愛しているか、伝えたかった。
けれど、気づけばいつも隣にいてくれる。心がぐちゃぐちゃで、自分でも自分の感情が理解できない時でさえ、 は凛を現実に繋ぎ止めてくれた。 支えてくれと頼んだことさえないのに、なぜ今も隣にいてくれるのか、凛には分からなかった。
凛はたまらず、太ももに顔を埋めた。
「ひゃっ……な、何、凛?」
「……別に」 そっと顔を離し、凛は身体を起こした。
不思議そうに首を傾げる に向けて、凛は唐突に問いかけた。 「……何か欲しいものはあるか」
(……直球すぎたか)とすぐに後悔した。 もっとさりげなく、言葉にせずとも大切に思っていることを伝えたかったのに。それでも、相手が何を望んでいるのか知りたい、もっと深く知りたい
「ええと……今はゆっくり休みたいかな」 ソファに深く背を預けながら、楽しそうに鼻歌が漏れた。
(もう休んでるだろ) 凛は少しだけ唇を尖らせた。力になりたいのに、 はもう自分一人で満たされているように見えた。
それが自分に欠けているものなのかもしれない。あなたのコップはいつもいっぱいで、士気と愛で溢れかえっている。
対して、凛のコップは半分しか満たされていない。その半分でさえ、隣から溢れ出した愛を分けてもらったものだった。
「他には?」 凛の声は少し強くなった。まるで、自分を押し通そうとするかのように。
「うーん……じゃあ、寝ようかな? 凛も眠い?」 穏やかで、少しだけ抑揚のない声。
「……それだけか」 粘り強い問いかけに、ようやく意図が伝わったようだった。
「あ!」 とは言ったものの、本当に欲しいものがすぐには思い浮かばなかった。
新しいファンデーション? チョコ? それともスペインへの航空券二枚……?
ふと、視線が凛の唇に落ちた。
そして、微笑む。
「……キス、してほしいかも」
長い沈黙の後、凛が答えた。 「あ……」
少し気まずい沈黙に、あなたの笑みが深まった。
「それだけでいいのか」
「うん—」 言いかけた唇を、凛が奪った。
不意を突かれ、クッションに手を突いてよろける。
「ん……っ」 目を閉じ、凛の背中に掌を添えた。
静かな部屋に、甘い水音が響く。
緊張で思わず唇を噛んでしまい、顔に熱が昇っていくのが分かった。
けれど、二人はそれ以上を拒まなかった。
重なる吐息、背中に回された手、絡める足。
心臓の鼓動がうるさいほどに響く——と思ったら、それは凛のスマホの着信音だった。
キスをしたまま、チラッとスマホの画面を見た。
「……凛。エゴさんから電話だよ」
息を切らしながら、凛の胸に手を当てて少し離れた。絡めていた足も、ゆっくり離した。
凛はポカンとしたあと、スマホを見て、すぐに電話を切った。
「ちょっと、なんで切るの? マネージャーでしょ」
「あいつの用件なんて、今のこれより重要じゃない」 凛は面倒そうに目を逸らした。
「キャリアに関わるよ?」
「あ、そう、だから何」
呆れて力が抜け、ソファに沈み込んだ。
すると突然、凛が抱きついてきた。
「……今日はずいぶん甘えん坊だね」 耳元で囁き、背中をぽんぽんと叩いた。「可愛い」
凛は首筋に顔を寄せて、そっとキスをした。
その香りを吸い込みながら、凛は呟いた。
「好きだ。……すごく」
赤くなった凛の耳を見て、どう返せばいいか分からず、小さく息を吐いた。
想いを伝えられたのは、これが初めてじゃなかった。
「……うん、知ってる。私も好きだよ」
凛はさらに顔を埋めた。その感触も、匂いも。
出会ってからサッカーに興味を持ってくれたところ。好きなことに真っ直ぐなところ. アパートで一緒にホラーゲームをして過ごす時間。自分の匂いに包まれてベッドで眠る姿。
そんな、なんてことのない日常が好きだった。
自分勝手な癖も、シャワーを浴びながら鼻歌を歌うところも。観客席から応援してくれる姿も、笑った時の唇も、細められた瞳も。 黙って塞ぎ込んでいる時に隣にいてくれるところ。泣きそうなのに、いつも悲しみを隠そうとするところ。怒っている時に怖がるんじゃなく、理解して距離を置いてくれるところ。
服の好みも、時々選んでくれるコーディネートも。一日の出来事を話す声も。自分の低い声を褒めてくれるところも。待ち合わせに遅れてボサボサの髪で来るところも、気合を入れて綺麗に着飾って来るところも。
その全てが、愛おしかった。 きっと、これが「愛」なのだと凛は思った。
「……愛してる、あなた」 喘ぎのような、掠れた囁き。
「私も! 愛してる!」 あまりの近さに、つい元気よく返しすぎてしまった。
急激に顔が熱くなる。 「待って、今なんて呼んだの?」 慌てて口を覆って身を引くと、そこにはトマトのように赤くなり、愛おしそうに目を細めた凛の顔があった。
「……あー。今の、なし。やりすぎた」
「ううん! 全然! 凛が呼んでくれるなら、なんだって嬉しいよ」
「……そうかよ」 凛はソファの上で居心地悪そうに身を動かした。「ずっと、呼んでみたかったんだ」
幸せなホルモンに包まれたせいか、深い眠気が襲ってきた。
感情がごちゃまぜで、眠りたいのにワクワクもしている。
「凛、ベッドに行こ?」
凛が頷いて、立ち上がった。
その夜、二つのコップは、愛でひたひたに満たされていた。♡
