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その日、同性婚ができるようになった。晴れていて、少し風が吹いていて、なんてことのない1日で、世の中のほとんどの人にとっては変わりのない1日だった。
及川にとってその日は劇的な日だった。その話題をずっと前から、祈るような気持ちで見つめていた。この話題に関連して、新聞、テレビやネットからいくらでも出てくる誹謗中傷、偏見、ステレオタイプの発言に及川は傷ついて、怒って、岩泉に何度も泣きついた。慰めや応援の言葉も、もちろんたくさんあって、気持ちが揺れ動いて落ち着かない日々だった。
その日は、真っ先に岩泉に喜びの言葉を綴ったメールを送った。及川は自分の恋人について、職場で言ったことはなかったし、職場でこの話題は全くと言っていいほど出なかったから、誰とも喜びを分かち合うことができなかった。本当は飛び上がって喜んで、誰かれ構わず抱きついて、声をあげて泣きたい気持ちだった。
岩泉は珍しくすぐにメールを返信してきた。そっけない言葉が書かれているだけだったが、返信の速さは岩泉の常にない感情を示していた。
帰りはできるだけ早く職場を出た。10月も後半になると、朝晩は冷えて、冬の気配がそこかしこに現れる。周囲には、寒さのためにポケットに手を入れて足早に歩く人や友人らしき人とどこかに寄り道しようとしている人、疲れたようにゆっくりと歩く人、いろんな人がいる。この中でどれくらい、今日を祝って過ごした人がいるのだろうか。
家に帰ると、岩泉は及川より先に帰宅していた。及川はただいまと言うのと同時に岩泉に飛びついた。
「岩ちゃん結婚しよう」
衝動的に出た言葉は、この日に絶対に言おうと思っていたものだ。ずっと待って、待ち焦がれていた。岩泉は及川を抱き返して耳元で返事をした。
「悪い、無理だ」
及川は岩泉の腕の中で言われた言葉を反芻し、岩泉に髪をかき混ぜられながら、しばらくの間ショックで呆然としていた。
「岩ちゃんさあ、ひどいよ。なにも即答しなくてもいいじゃない」
ちょっと迷ったりしてもいいんじゃない、と及川はローテーブルに片手で頬杖をついて、もう片方でビールをあおる。岩泉は及川が買ってきたケーキをつつきながら、ビールを飲んで顔をしかめている。ケーキは今日のお祝い用に買ったものだが、ビールと相性が悪い。
「別に今までと同じで、俺はお前と一緒にいられればいい。いまさら苗字を変えるなんざ面倒だし、職場に書類を出すのも、結婚式とかそういうのも嫌だ」
「確かに面倒だけど、俺はやっと認められたんだから、みんなに岩ちゃんを自慢して、見せびらかしたいんだ。俺のパートナーは最高だって」
「簡単に離婚もできねーし、不便だ」
「ちょっと岩ちゃん、別れる前提で結婚するの? 冗談でもやめてよ」
及川が机から岩泉の方へ身を乗り出すと、及川の頬に岩泉の手が添えられる。岩泉の手はいつもと同じで暖かい。
「誰かに言わなくても、お前は最高だし、好きだ」
真剣な顔で言われ、思わず赤面した。及川は二人を隔てるテーブルがもどかしくて、席を離れて岩泉に抱きついた。岩泉が応えるように背中に手を回すのが洋服越しに伝わってくる。抱きしめられる感覚が心地よい。
「それに知ってるやつは知ってるだろ。俺はそれで十分だ。プライベートを吹聴しなくてもいいだろ」
「それとこれとは別だよ。俺は結婚したい。岩ちゃんと一緒にいたい。認められたい。もう誰にも非難されないし、貶されない。やっと世界が変わったんだ」
「……考えとく」
及川は首筋を指で辿られ、息を詰める。首をそらして快感を逃してから、岩泉の方を見やる。
「岩ちゃん、ごまかそうとしてない」
「時間をくれ、今すぐは答えられない」
「わかった」
及川はため息をついて、岩泉の肩に顔をうずめた。
「岩ちゃん、続きがしたい」
「おう」
及川はプロポーズを断られたことに落胆していたが、浮かれた気分は続いていて、買い物に出かけるときに岩泉と手をつないで歩いた。今まで手をつなぐことはあったけれど、心穏やかな気分で公道を歩くのは初めてだった。大げさかもしれないが、及川にとっては前と今では全然違うことだ。途中で何人かに物珍しいものを見たかのような表情をされたが、大体の人は通りのすがりの人間に関心を持たない。
スーパーで夕飯の献立を二人で考えつつ、買い物をしていたら、子どもが二人、手をつないで買い物かごを抱えて歩いているのに遭遇した。昔、岩泉と一緒におつかいをしたことを思い出し、懐かしく思っていたら、岩泉に声をかけられた。
「及川、結婚したいってのは、子どもがほしいってことか」
「え、いや、別にそこまで考えてないよ」
結婚したいとは思ったが、子どものことまでは思い至らなかった。岩泉は納得したように、うなずいている。
「子どもが欲しいんだったら、結婚しなくても何かしら方法があるかと思っただけだ」
養子とか、と言う。岩泉が結婚について考えると言ったのはその場しのぎではなかったらしい。
「岩ちゃんは欲しいの」
「いや。ただ、お前は結婚して何がしたいのかわからなかったから」
「俺は岩ちゃんと一緒にいたいよ。子どもとかはまた別の話だし」
及川がつないでいた手に少しだけ力を入れて握ると、岩泉も握り返した。
まだ学生だった頃に、恋人はいるかと聞かれて、岩泉と付き合っていると答えた時に悲しそうな表情で可哀想にと言われたことがある。意味が分からなくて、聞き返すと、だって誰にも認められないのに、と言われた。気持ち悪いと嫌悪感をむき出しにされたこともあれば、頑張ってと励まされたこともある。可哀想なんて同情されてむかついていたし、どこも気持ち悪くなんてないし、恋人でいることは頑張ることでもない。二人でいることは何も悪くなくて、周りが悪いんだ、と腹が立ってしょうがなかった。
及川にとって、結婚できるということは、そういう人たちに胸を張って自慢できることだった。
「そう思わない、マッキー」
「俺じゃなくて、岩泉に言えよ」
居酒屋は適度なざわめきと、ときどき大きな声が聞こえてきて、にぎわっている。それで喧嘩してるのか、と花巻に聞かれ、喧嘩してないし、いつもラブラブだよ、と言うと花巻はおかしそうに笑っている。
「そこで別れ話になんねーのがすげーよ」
「だって、結婚しようがしまいが、俺と岩ちゃんはずっと一緒にいたいって思ってるからね」
「そしたら焦って今すぐ結婚しなくてもいいんじゃねーの」
これからはいつだって籍入れられるし、自慢も今からだってできるんだろ、と花巻は言う。
「そうだけどさ」
及川は頬杖をついてグラスをふった。カラカラと氷がぶつかり合って高い音を立てる。
「ずっと一緒にいるってわかってても、不安な時があるんだよ」
岩泉は時々一人でどこかへ出かけていく。
とはいっても、30分ほどで戻ってくるし、どこに行ったのか聞くと、ただ歩いてきただけで目的地は特にない、と言う。及川はいつでも岩泉といるわけではないが、休日はできるだけそばにいたいし、出かけるなら一緒に行きたいと思う。
一人になるとき、岩泉は決まって上の空でどこか遠くを見ている。及川が声をかけても生返事で、いつもの岩泉ではないようで少し怖い。
一緒にバレーを始める前、岩泉は網と虫かごを持って、どこまでも一人でいってしまって、及川は追いつけなかった。及川がとうとう泣き出して、道端で座り込んでいると、いつの間にか岩泉が戻ってきていることもあった。バレーをしてから、岩泉がそばにいることが当たり前になって、安心していた。
財布も携帯も持たず、ふらりと出ていく姿を見るたびに、怖いと思う。岩泉を何とかして捕まえておかないと、いつかのように及川一人が置いていかれて、岩泉はどこか行ってしまいそうな、そんな気分になる。
結婚できるようになって、それを利用しない手はない、と思った。これがあれば、岩泉はずっとそばにいてくれる。本当はそれを理由に結婚なんてしてはいけないような気もする。不安を理由に束縛したら、岩泉は子どもじみた及川にあきれて、今度こそ本当にいなくなってしまいそうだ。
「及川、この間の結婚の話、今してもいいか」
岩泉がこの話題を出したのは、二人で夕食の皿を片付け終えたところで、先に風呂でもはいろうか、と思っていた時のことだった。二人掛けのソファーに座って、岩泉を眺める。今日の岩泉は朝からなんだかぼんやりしていて、及川はひやひやしていた。また、一人でどこかに行ってしまうのかと思った。
「結婚できるようになったのはよかったと思う」
及川が喜んで、他にも大勢の人が喜んでる、とどこか遠い目をして言う。
「でも俺はどうしてもできない。悪いな」
及川はがっかりして、理由を聞こうとすると、岩泉は及川の頬を両手で挟むようにして目を合わせる。皿を洗ったばかりで冷えた岩泉の手に驚く。
「もし、どうしても結婚したかったら、他のやつとしてくれ」
「……何言ってるの、岩ちゃん」
「お前がどうしても籍を入れたいなら、お前がやりたいことを優先しろよ」
「俺は、岩ちゃんと一緒にいたいんだよ、他の人なんかどうでもいいよ」
岩泉は頬から手を放して、自分の顔を覆った。そうか、そうだよな、と言う。いつになく切羽詰まったような岩泉に及川は不安になった。
「及川と一緒にいたくないとか、そういうことじゃねーんだ。ただ、今は結婚したくない理由を言いたくない。悪い。俺の問題だ」
及川は恐る恐る岩泉の肩に触れた。
「岩ちゃんを追い詰めたいわけじゃないんだ。俺は岩ちゃんがどこかに行っちゃうのが不安で、俺だけ一人置いて行かれたくなくて」
岩泉は顔から手をおろして、どこにも行かねーよ、と言って、ちょっと怒ったような顔をする。岩泉がどこか遠いところではなくて、及川を見ていて、及川は少しばかり安心する。
「お前が望む限りどこにも行かねーから、泣くなよ」
及川が泣いてない、と拗ねたような口調で言うと岩泉は笑った。岩泉の声はさっきまでのこわばりがなくなっている。ほっとした及川は岩泉の言葉通り、涙があふれそうで、顔を岩泉の肩に顔を押し付けた。
岩泉は窓を開けて、夕焼け空を眺めた。空気がいつもより冷えている。日が沈んであたりが真っ暗になったころに、及川が寒いと言って、不機嫌な顔で帰ってくるだろう。部屋に入って、十分あったまったころには幸せそうな顔をする。及川は気分がすぐ顔に出るから見ていて面白いと思う。
及川に結婚の話を持ち出されて、思い出したことがある。
昔、母方の祖父母の家に行ったとき、誰かに話しかけられた。岩泉は誰に話しかけられたか覚えていない。親戚の誰かだったと思うが、一度会っただけでその後会うこともなかった。
祖父母の家は庭が広く、草花や木が剪定されて、美しく整えられていた。岩泉にとって、庭は虫の宝庫だったので、周囲を駆け回って、木に上ったり、草をかき分けたりした。ちょうど、3本目の木に登ったところで、岩泉は男に声をかけられた。
「坊主一人か」
「うん」
「お母さんは?」
「家にいる。俺は遊んでていいって」
男は手に煙草を持っていた。今になって考えてみると、男は偶然、煙草を吸いに外に出て、岩泉と出くわしたのかもしれない。木登りが好きなのかと聞かれたので、虫が好きだと答えた。
「お父さんは一緒に来なかったのか」
男が言うので、岩泉はいないと答えた。
「俺んちはお母さんだけだよ」
保育園でも小学校でも大人や周りの子どもたちに何度も聞かれたことだったから、岩泉はいつもの通り、あれこれ聞かれる前に先回りして答えた。男は眉をひそめて煙草に火をつけた。
「お父さんがいないなんて可哀想だな」
思い返すと、この手の言葉は何度も色々な人から言われたものだ。結婚もしないで子どもを産むなんてとか、可哀想な子だとか、せめて誰かいい人を見つけたらとか。母親を責める言葉はいくらでもあった。子どもの頃の岩泉は可哀想に見えたんだろうか。
結局、そういうことを言う人たちは岩泉のことなんかどうでもよかったんだろう。子どもをだしに使って母親を悪く言いたいだけだ。それほど結婚ってやつはえらいものなのか。こちらを見て、笑ったり、馬鹿にしたりするくらいには。
ときどき感情がよどんで、息ができないような、いくら息を吸っても苦しいような、叫び出しそうな気分になることがある。そういう時は一人で外に出る。冬の朝、日が昇って間もない時間の空気や、日が沈みゆくときの静けさの中で目を閉じる。
一人で出かけた後、家に戻ると、及川がおかえりと言うのが好きだ。外の空気と打って変わって、及川はうるさいくらいだが、そのにぎやかさが心地よい。家に帰ったと実感するからだ。
及川は一人で置いて行かれたくないと言う。もし二人の道が分かれるのなら、置いて行かれるのは岩泉の方だ。岩泉は及川のためにいると思っている。及川がもう別れると言うなら、それを優先するし、一緒にいたいと言うなら、ずっとそばにいる。ただそれだけだ。
