Work Text:
進路調査をするからと調査用紙が配られた。進路調査の紙を適当にたたんで鞄に突っ込む。周りの生徒たちはもう決めてるとか、全然考えてないよとか、それぞれに不安と期待を込めて話し出す。担任が二者面談に使うから真面目に書くこと、と忠告する。まだ1年の冬だ。今すぐ進路を決めなくったって大丈夫だ。そうやって自分に言い聞かせる。用紙は明日集めるからという担任の声をぼんやりと聞いた。
ホームルームが終わったら、すぐに部活へ走る。下駄箱へ向かう生徒たちの流れに逆らって、渡り廊下を通る。校舎から少し離れた部室に一番にたどりつく。ジャージに着替えたら、体育館へ向かう。ポールを立てて、ボールを出すころには他のチームメイトがやってくる。
「今日も早いな、もう準備したの」
「ネットはまだ。優ちゃん、反対側手伝って」
「りょーかい」
たいてい私と優ちゃんが早めに来て準備を済ませる。二人とも、担任のホームルームが短くて、すぐに部活に行ける。他のチームメイトはもう少し時間がかかる。先輩が来る頃には準備運動を始めている。ああ、はやくボールに触りたい。
いつものように優ちゃんと組んで、準備体操をしていたら、男子バレー部の方に大学生が来てると、先輩が教えてくれた。うちの学校のバレー部は男女ともにそこそこ強くて、たまに卒業生が来たり、監督の知り合いが来たりする。今日は大学生だから卒業生の方だろうか。
「先生に聞いたら、コーチの知り合いだって。後で女子の方にも来てくださいって言っておいたよ」
機会があればアドバイスが聞けたらいい。床に座り込んで、柔軟体操をする。柔軟は苦手だ。足をまっすぐ伸ばして前屈する。優ちゃんが私の背中を押す。痛い。体が柔らかい人は羨ましい。靴の先を眺めながら、先輩の話を聞く。
「さっき見かけたけど、すごくかっこよかった」
先輩の声はうきうきして、はずんでいる。優ちゃんは私の背中から手を放して、先輩に詳しく話を聞こうとしている。私は先輩の話に曖昧に相槌を打った。対照的に優ちゃんは積極的に先輩に質問している。優ちゃんはきれいなものが大好きだ。
優ちゃんは葉っぱが濡れているのを見てうっとりしていたり、髪のきれいな先輩を見つけて嬉しそうにしていたり、炎色反応の実験から一瞬たりとも目を離さなかったりする。私はそういうふうにきれいなものを眺めている優ちゃんがきらきらして見える。そこにだけスポットライトが当たったみたいに私の世界に光が照らされて、とてもきれいだ。
先輩と優ちゃんの話を傍らで聞く限り、その人はセッターで、とても強くて、茶色い髪をセットしたおしゃれさんで、にこやかに笑顔をふりまいているらしい。
部員が揃ったので、練習を開始する。練習の時間って、あれもやりたい、これもやりたいって考えるんだけど、あっという間に過ぎていってしまう。チーム内で練習試合をするためにチーム分けをしていたところで、件のかっこいいおしゃれさんが現れた。
こんにちは、と柔らかな声の挨拶は、バレー部員たちの動きを止めた。体育館の入り口で背筋を伸ばした姿勢は、背の高さも相まってその人を自信たっぷりに見せる。それはこの人にプラスの効果を与えていて、とても魅力的だ。優ちゃんは顔の周りにお花をいっぱい飛ばして、全身で喜びを表している。ねえ、見て、あおちゃん、あの人本当にかっこいいよ、どうしよう。
そのかっこいい人は期間限定でこの高校に来ているみたいだ。しばらくの間、よろしくお願いします、と美しい笑顔で言うので、部員は一瞬でこの人の味方についた。そういう技術はそうそう身に着けられるものではない。すごい。
私はそうやって外からやってくる人に聞きたいことがあった。私はスパイカーだから、技術のことを聞きたい。それともう1つ、聞きたいことがあるけど、これは聞けたらでいい。でもいつも意気地がなくて聞けない。だから、聞けなかったらそれでいい。
その人の名前はおいかわとおると言うらしい。おいかわという漢字は有名な俳優さんと同じだと言う。及川さんは群がる部員たちをものともせず、歓談に応じている。人馴れしている。人懐こい人なんだろうか。すぐには話が聞けなさそうなので、私は諦めて練習に戻った。優ちゃんもしぶしぶ練習に戻る。とても悲しそう。練習試合でボールを持った優ちゃんは、ラインの外に立って、サーブ打つ前に及川さんに視線をやってから、コートを見つめた。優ちゃんは好きなものがとてもわかりやすい。
及川さんの笑顔は外国のモデルの人みたいにちょっと近寄りがたいと思わせる。外用というか、作りあげられて洗練されている美しさだ。優ちゃんが笑っているのは親しみやすい。及川さんはちょっと壁が見える。
結局その日は及川さんと話はできず、部活は終わった。帰り道で、優ちゃんは及川さんってすごくきれいだ、と褒める。いまふうの、華やかで甘くて人の目を引く風貌だったと思う。私がそう言うと顔だけじゃなくて、サーブもすごいんだよと力説された。
たしかにすごかった。及川さんは練習の途中で、部員から要求があったのか、サーブを何本か打っていた。男子の方は力があるから、力強さが女子バレーと違うのはあるけど、それ以上にあのサーブは努力の結晶だった。力任せに打つのではコートの中に入らないし、かと言ってコントロールの事ばかり考えていれば、威力は落ちる。両方を乗り越えて作りあげられたサーブは何年も磨き上げてきた成果だと想像した。
曲がり角で優ちゃんと別れる。ばいばい、と手を振って、自分の帰り道を辿る。家に帰るのは気が重い。優ちゃんと一緒の帰り道は好きだ。一生、家につかないで、優ちゃんと歩いていられたらいいのに。
家に帰って、鞄にしまっていた進路調査の用紙をお母さんが見かけると(ああ、もっと鞄の奥にしまって隠しておくべきだった)、将来の事をどう考えているのかと問われる。私は大学とか行くのかなと、曖昧に言ってみる。
「大学は学費が高いから、どうしても行きたいって思わないんだったら、就職したら? 女の子なんだし、別に高学歴でなくてもいいでしょう。いい男を見つけたらいいんだから」
それが正しい女の子の道ってものだよ、とにこやかに話すお母さんに、私は洗濯物を出すふりで顔を背ける。こういうことを言われるから、進路の話をしたくない。
お母さんとお父さんが女の子なんだから、と言うたびに、私は個性のないお人形になったような気分になる。私は葵という名前のバレーが好きなだけの人間なのに、何か遠くの幻想が私と入れ替わって私はどこかよそに放り出されたような辛い気持ちになる。
私の希望はお母さんにもお父さんにもどうでもいいことなのかな。私がどうしたいかとか、私がどういう人間かということは聞く価値もないということ?
ごはんをなるべく早く食べて、部屋に駆け込む。早く一人暮らしがしたい。全部自分のことは自分でやって、誰の世話にもならずに、一人で生きていく。
さっさと宿題をやって、進路調査の紙を適当に埋めて、クラスの友達に貸してもらった漫画を読む。女の子が恋愛をしている。大好きな男の子がクラスにいて、でも自分に自信がなくって、自分を成長させて、勇気を振り絞って告白する話だ。起承転結のしっかりしていた話で面白かった。でもこの漫画はどこか遠い世界の幸せな誰かの物語だ。
私の世界に私の味方はいない。私が今いる世界では正しいと認められる人しか、何事も、特に恋愛は応援されないからだ。漫画を見ても、親を見ても、クラスの中でも、テレビも雑誌も、男の子に恋をしている女の子が正しい。女の子に恋をしている女の子は正しくない。日頃から常識をわきまえろとナイフをつきつけられているみたいだ。
もし私がこの世界で正しくない人だったら、どうなるんだろう。正しくない人だと誰かに知られたらどうなってしまうのか。
周りの人は正しいことがとてもいいものだと考えている人ばかりで、私の味方はいない。そういう人に囲まれてとても怖いから、私は正しい人のふりをする。私は敵ではないと嘘をつく。
翌日、放課後になると走って体育館に向かう。途中で、廊下を走らない、と注意されたので、早歩きにする。
やっぱり一番乗りで体育館に着いた。コートの準備をして、優ちゃんが来て、準備体操を始める。先輩と同級生のチームメイトが揃って、練習が始まる。個人練習の後は、練習試合でメンバーを入れ替えながら、試合を何回か行う。コーチや先輩からアドバイスをもらって、再び個人練習に戻る。昨日と同じく、及川さんが部活に顔をのぞかせる。及川さんはときどきコーチと話して、それから部員に何か言っている。
私が壁に寄りかかって、水分補給をしていると、及川さんが来てアドバイスをもらった。スパイクとか、レシーブとか。一言も聞き漏らすまいと、じっと聞く。最後に及川さんはこう締めくくった。
「正しい方法を身に着ければもっとよくなるから」
そう言われて、私はむっとした。正しいってなんだろう? 今までの私は全然正しくなかったのだろうか。
「正しいってどういうことなんですか? 私は強くなりたいです。でも正しいって言われると、私がこれまでやってきたことは間違っているって言われているみたいで、私はそういう言い方きらいです」
後になって冷静に考えると、全然よくない行動だった。私はこの時、とても腹を立てていたが、それはこれまで先輩やコーチに言われてきたことや、昨日とそれよりずっと前から言われ続けた親の言葉が原因だ。及川さんにしてみれば、なんだかよく知らない高校生に八つ当たりされたんだから、こいつなんなんだと気分を害したとしてもおかしくない状況だった。
言葉にしてから、言ってしまったと後悔した。そういえば、中学生の頃に同級生から、あんたそういうふうにはっきり言うからきらわれるんだって言われたんだった。
言ったことを謝ろうとして、でも、自分のことが間違っているとは納得できなくて、相反する感情を持て余す。
「なんだ、そういうふうに考えてたの。もっと言ったらいいのに」
及川さんは面白そうに言った。
「馬鹿にしてるんですか」
「そうじゃなくて、せっかくバレーやって、強くなりたいって思ってるなら、言えばいい。ここのチームなら、強くなりたいって言っても否定されないよ」
「正しいとか間違ってるとか、そういうの好きじゃないって言っても?」
「そこまではわからないけど、きみはスパイカーだろ。もっと相手に要求してもいい。さっき見てても、遠慮してるのか、セッターに何も言わないから、どんなボールが欲しいのかわからなかった。どんなやり方が好きなのか、伝えてみてもいいんじゃない」
及川さんは余裕のある人だと思った。私に何か言われても、笑顔でかわして(実際はとても怒っているのかもしれないけど)、アドバイスを最後までしている。それに、言ってみなければわからない、なんていうことが言えるのは、相手にどう思われても、それを吹き飛ばせるくらいの才能がある人か、何を話しても最終的に許される、愛嬌があって、人を魅了する人だ。
及川さんは少なくとも、好ききらいを超えて愛されるようなとんでもない人なのだろうか。それとも、正しい振る舞いをする正しい人だから、みんなに敵だと思われず、味方をいっぱいつけているのだろうか?
何はともあれ、そのやりとりをきっかけにして、及川さんと少しだけ話をする機会ができた。とは言っても、及川さんは基本、男子バレーの方を見ているし、女子バレーの方にいても、たくさんいる部員に話しかけたり、サーブをやって見せたりしているから、そうそう話すこともないけど、たまに空いた時間に話しかけられることがあった。
及川さんは女の子だから、と言わないのが楽だった。バレーがしたいか、強くなりたいか、それが及川さんにとって大事なことのようだった。
外の景色は部活を始めた時は夕焼け空だったのが、部活が終わると真っ暗になる。先生の声を合図に部活が終わった。1年生は一斉に片づけをはじめる。私も片付けようかと思ったところに、つんとジャージの袖をひかれた。優ちゃんだ。
「いまならチャンス、及川さんに質問できるよ」
及川さんはコーチと話をしている。部員は途切れている。たしかにいいタイミングだ。
「片づけは?」
「初めに準備をしたから、片づけはちょっとくらいしなくても大丈夫だよ」
優ちゃんは私の手を握って、及川さんの方にずんずん歩いていく。私は引っ張られて連れていかれる。質問をすると答えてもらえる。及川さんの説明はわかりやすい。人に説明するのに慣れているから、この人は部長をやっていたのかもしれない。優ちゃんは及川さんのプライベートをさりげなく聞き出そうとして、うまい事はぐらかされている。
バレー以外にもう1つ聞きたいことがあるけど、ここで聞いてしまってもいいだろうか。
ここに来る人たちは何度も来る人もいれば1回のみの人もいる。及川さんだって期間限定で、いろいろなことを聞いても、期間が過ぎればもう二度と合わない可能性だってあるのだから、と自分に発破をかけた。
「あの、大学って楽しいですか」
バレーの話ばかりしていたところに、急に大学の話をし始めた私に、及川さんと優ちゃんは面食らったようだった。私は2人にじっと見られてたじろいだ。人の虹彩の色って微妙に違う。及川さんは明るい茶色で、優ちゃんは焦げ茶だ。及川さんは整然とした石畳の上に展開されているカフェみたいに、華やかでおしゃれな雰囲気で、優ちゃんは及川さんより落ち着いた色で、湯煎で溶かした甘いチョコレートのようだ。私は2人から目をそらした。2人とも目に力があるから、ずっと見ているのはちょっと怖い。
「大学、というか進路の事、考えなきゃいけなくて、私、なんとなく大学行ってみたいなって思うけど、親は高校卒業したら、就職しなよって言ってて、実際に大学ってどうかと思ったので」
「行ってみたいって思うなら、行ってみなよ。俺はバレーを続けたくて、大学を選んだから、あんまり参考にならないかもしれない。でも、どうしてもバレーがしたいって思ったよ。俺の場合はそう。大学って楽しいよ、勉強も悪くない。レポートとかテストは大変だけど」
及川さんは慎重に答えているようだった。行きたいって言ってもいいんだろうか? 黙って考え込む私のそばで、優ちゃんが大学ってどんなところですか、と聞く。及川さんからなんだか楽しそうな話が出てくるので、私と優ちゃんは夢中になって聞いていた。お礼を言いそびれたのに気づいたのは、片づけが終わって、しばらくしてからだった。
結局、及川さんは恋人いるのかわかんなかったと、優ちゃんがこぼす側で、私は人としてあるまじき対応だったと落ち込んでいた。せっかく聞きたいことを聞けたのにお礼も言わないなんてと反省モードになっていると、優ちゃんは、あおちゃん真面目に進路の事考えてたんだ、と言う。
「それなりに考えてるよ。バレー続けるかどうかとか、働くのかとか、大学行けたら行きたいとか」
「行ったらいいんじゃない? さっき及川さんも行ってみたらって言ってたし」
荷物を持って部室を出ると、他の部活の人たちも帰っていく。ぽつぽつとした人影の中、学校の建物の方に、遠目にふわふわとした髪の背の高いシルエットを見つけて、私は思わず駆け出していた。
「優ちゃん、門まで先に行ってて」
走っていった先にいたのは思った通り、及川さんだった。職員室の前で誰かを待っているようだった。職員室は閉め切られているが、中に先生たちがいて話し声が聞こえてにぎやかだ。廊下はときおり生徒が通り過ぎて、なんだか及川さんはそわそわしているようだった。
「及川さん、さっきはありがとうございました」
頭を下げて言うと、及川さんはにこやかに、どういたしましてと返す。及川さんはなんとなく落ち着かない様子なので、誰か待ってるんですか、と聞く。及川さんは迎えが来るから、と嬉しそうに答えた。
私は首を傾げた。及川さんから優ちゃんみたいにお花があふれているみたいだ。部活の時はそうでもなかったのに。どちらかというと、おしゃれなモデルさんが街角に立っているみたいに、にこやかでもどこか硬質な雰囲気があって、近づきにくい部分があった。それが、今はふわふわとお花がいくつも漂っているみたいな空気だ。
「迎えに来る人は恋人ですか」
職員室の先生たちを眺めていた及川さんは、おもいきりこちらを振り返ったので、私は驚いた。
「うん、どうしてそう思うの?」
「え、そ、そのすごく嬉しそうだったので、そうなのかなと」
及川さんは周りにお花をたくさん浮かばせたみたいに、にっこり笑って言う。
「そう、俺の自慢の恋人。今日はたまたま近くまで来たから、迎えに来てくれるって。珍しいんだ。普段は車に乗っけてくれない。まだ運転に自信がないから乗せらんないって言ってたのが、今日やっと、乗せてくれるんだ」
及川さんは楽しそうに話をする。よっぽどその人が好きなんだなあ、と思って、そう言ってみたら、及川さんは、そうなんだよ、とせき止めていた水を一気に流したときのように、恋人の話をした。一緒に話していると楽しくって、普段はあっさりとしているけど、及川さんが辛い時は何かあったのかと心配していたり、恋人はいろんな図鑑を持っていて、それを眺めていると嬉しそうで、及川さんは恋人が嬉しそうにしているのを見るのが好きだったり、及川さんがバレーに打ち込んでいるのを恋人はその道を進めって言ったりするそうだ。
「俺はやりたいことをやれよって言われて嬉しかった」
及川さんは何か懐かしむように遠くを眺めた。それから、おもむろに私の方を見た。
「大学に行きたいって、言ってたね。自分のやりたいことを知っているなら、その道を突き進むといい」
そう言う及川さんをぼんやりと見ていると、廊下の向こう側からぱたぱたと足音がする。音の方を見ると生徒ではなく男の人が走ってきた。廊下を走ったら先生に注意されるなと思っていると、男の人は口を開いた。
「及川」
「岩ちゃん」
及川さんはいそいそと、その人の方へ向かう。両手でその人の手をぎゅっと握って、お花をいっぱい飛ばしたような笑顔だ。大盤振る舞いだ。
「手が冷たい。待ってる間は部屋に入ってろよ、風邪ひくぞ」
「そうだけど、岩ちゃんがすぐ来るって言ったから、待ちきれなくって廊下で待ってた」
にこにこと笑っていた及川さんはくるっと私の方を振り返って、いつものモデルさんみたいな美しい笑顔でじゃあね、と手を振った。私は頭を下げる。及川さんはそのままその男の人と手をつないだまま行ってしまった。去っていく2人を、私はぼんやりと見つめ、それから我に返った。優ちゃんを門に待たせっぱなしだ。
急いで引き返しながら、私は及川さんを思い返していた。及川さんが恋人さんを目にした時、優ちゃんに負けず劣らず、お花をいっぱい撒いたみたいに、笑顔になって、まぶしそうにしていたことに私は胸がいっぱいになった。
門までたどりつくと優ちゃんが、遅い、とちょっとだけ怒っている。ごめんね、と謝ると、優ちゃんは笑って言う。
「いいよ、走ってきてたの見えたし」
「あのね、優ちゃん、私、さっき」
そこで私は迷った。優ちゃんはわからない。優ちゃんは正しいことを正しいと思っている人なのか、正しいふりをしている人なのか。及川さんが恋人と会えて、とても嬉しそうだったことを言って、それでどういう反応を返すのか、私にはわからない。とても嬉しい気分だったのが、とても悲しい気分になる。
「あおちゃんどうしたの」
「えっと、及川さんにちゃんとお礼言えたよ。それから、その」
うつむいてしゃべる私に、優ちゃんはそっと言う。
「悲しいことがあったの」
「そうじゃないよ。嬉しい事だったけど、でも、言っていいのかわからない」
「私ね」
優ちゃんの真面目な声に私は顔をあげた。優ちゃんは真面目な顔をして言う。
「あおちゃんが落ち込んでると私は心配になる。辛い顔をしてると、私も辛い。私は何にもできないけど、もし言いたいことがあったら、聞くよ」
私は返事ができなくて、しばらく黙っていた。優ちゃんは黙って私を待っていた。風が冷たくて優ちゃんがくしゃみをしたので、私たちは帰り道を歩き出した。曲がり角の手前で私はやっと声を出した。
「いつか、もし私が勇気を出せたら、そのときは聞いてくれる?」
優ちゃんは笑って、うなずいた。
「もちろん」
曲がり角で、ばいばい、と手を振って、優ちゃんと別れる。帰り道に私は及川さんと優ちゃんの言葉をずっと頭の中で繰り返した。家に帰って、珍しくお父さんが帰ってきていて、お母さんが嬉しそうにどこか食べに行こうと張り切っているのを見て、私は決めた。
「お母さん、お父さんも、私、大学に行きたい」
お母さんもお父さんもびっくりして、私を見ている。2人が何を言うのか、私はとても怖い。拒否されて正しくないと言われることを恐れている。私は肩にかけた鞄のひもを、命綱のように握りしめて2人を見つめた。
