Chapter Text
ロキはホントに、そりゃもうホントに、ついてない一日を過ごしていた。
己の最期が首を締めあげられる、それもいまいましい紫親指に――マジで?――とはロキは想像もしていなかったし、むしろそのことに腹が立っていた。マッド・タイタンの目を見据えながら、最期まで汲々と、ロキはなんとか言葉を絞り出した――空気を求めながら――「お前は決して神にはなれない」それから考えて、なんてことだ、これが私の最期の言葉か? 傍らでソーが必死にもがいているのが聞こえたし、その苦悶を実際に感じることもできたが、しかしロキの視界はぼやけてきて、そして肺はただただ悲鳴をあげて。
その瞬間、ロキは意識を失いつつあり、次の瞬間、彼は空気を湛えた肺と共にアスガルドの大広間の天上を見上げていた。
彼の上にはがやがやという声、煌めく宝石、ふわりとした布地そしてこれは母上ではないか? 母上が彼の顔の傍に跪き、彼の髪を撫でていて、その顔中に懸念を浮かべていて、そしてロキが考えうるこの状況の説明はたったひとつだった。
「さて、これは驚きだな」 ロキは言った、主に自分に向けて。
彼はヴァルハラへ辿りついたのだ。
もとより己に死後の場所があるかどうかさえ確信がなかった――霜の巨人とかそういうことで――ましてや善き人々 のために作られた場所へなぞ。
周りを囲む人々の静かなざわめきに囲まれて、母がまた髪を撫でるのをロキは感じた。
「あなた、気分は大丈夫? 酷い落ちかただったわ」
ロキは――気分はここ最近でもっとも満ち足りている気がする、実際――痛みを帯びた笑みで母の心配を退けた。「窒息死したことを除けば、素晴らしいですよ、実際」 そしてそれは事実だった。母の落ちたという言葉の意味が何なのか彼にはよくわからないが――おそらくサノスが彼の死んだ体を亜空間へ放りだしたかなのだろうか?――彼は――ええ――そう、生きている 感じ。まるで過去十年にわたる全ての苦しみと痛みがただ……消え去ったように。
「窒息?」 彼の左側で誰かが言い、そしてロキは顔を傾けて彼の素晴らしい兄が、眉を顰めている顔を見た。
ロキは呻いた。「おお、後生だから、ソー、あんたまでサノスにやられたなんて信じられない、このとんま!」
ソーは何にも答えなかった――その代わりに、なんとういうことだろう、ずうずうしくもさらに困惑したような顔をした。もしも死んでる時でも血圧が爆上がりするなら、いまにもそうなるところだとロキは考える。「そうだ、馬鹿者めが」と、ロキはぴしゃりと言う。「わたしはあんたが死んだという事実に怒っているのだ! あんたはいつだってホントに自分勝手だった。未だ半数残されている我らが国民(くにたみ)を率いる者が必要だとは考えなかったのか? この先、誰が彼らを率いる? バナーか? それになにより――」
「なんてこった、彼とうとう気が触れたな」 ファンドラルの横やりは、ロキの言葉の流れを止めてしまった。
なに?
群衆の中に静かな呟きが――同意の呟き、とロキは気付く――そこへ爆弾のごとき命令が側方から来た。オーディン自身が群衆を分かつた。
「これこれ、その子に少し息をつかせてやらぬか」 オーディンが言った。「倒れた時に頭を打ったのではないだろうか。ソー、お前達の母がロキを部屋へ連れて行く間に治療師を呼びにいってくれるか? おそらく少しばかり混乱しているだけだろうが、用心に越したことはない」
常に変わらぬ従順な息子としてソーが頷き、そして慌てて走り去る、その間にロキはフリッガの手を借りて立ち上がった。母は彼をしっかりと支えていたが、しかしロキはオーディンの姿から目を離すことができなかった。
どうもなにかかがおかしい。
さっと人々を見渡したロキの目に映るのは多くの見知った顔。母、父、シフと三戦士、評議員たち、従兄弟たち、子どもたち、それらのいくらかはまだ生きていることを彼は知っている、そしてもう何年も見ていない顔もある。
オーディンは若く見える。
ロキは大広間に目を向け、そして、そうだこれはなんと、ソーの戴冠式のための装飾がまだそこにある。
オーディンが群衆を散じ、フリッガが彼を広間から連れ出していて、そして争うにはロキの頭はあまりに混乱していて、心臓は胸の中で激しく脈打ち、肺は空気を求めて喘いでいて。
これは死んだ者の反応ではない、とロキは悟る。
自分の部屋に戻り、ロキは鏡の中の自身をじっと見つめ、皮膚を引っ張った。
彼は若く 見える。彼の髪はずっと短く、その顔は時と苦痛にまだ損なわれていない。まるで、それは彼が――
――時を遡ったように。
自室は彼が憶えている通りだった――開いたままの本、床に散らばった服、机を覆っている地図――だがそれは彼がビフロストから落ちる前に憶えていた通りなのだ。
そんなことがあるだろうか? と、ロキは心中思い巡らした。
廊下で治療師と話していたフリッガが戻ってきた。彼らの話からするに、来たるソーの戴冠を祝う晩餐の席で、乾杯のために立ち上がりグラスを掲げたロキが、白目をむいて床に崩れおちたらしかった。母はもうあまり心配していないようだが、それでもロキに近づきながら手を差し伸べてきた。「気分はどうですか、我が息子よ」 ためらいがちに彼女が聞き、手で彼の腕をさすった。
ロキは自動的にその手を取った、すべての感情を呑み込んで――長きにわたる哀しみ――母が生きてここにいる――母に微笑みかけた。「ずいぶんよくなりました、母上。まったくどうしてあんなことになったのだか」 嘘はスムーズに口をついた――なぜそうしているのかロキにはわからなかったけれども。
いや、わかっている。気が触れたとのファンドラルの非難はまだ彼の想念を啄んでいた。それは彼を不思議に思わせ、彼の記憶を、あれらはただ転倒によるものなのだろうか? あの――この数年は全て夢だったのだろうか、と?
ロキは首の周りにサノスの手の名残りを感じた。
いや。とロキは結論づける。あれは夢ではない。
ともあれ、ロキは母の顔から怖れが去るのを見ていた。「よかったわ」 フリッガは言いながらソーに――ちょうど外からずかずかと入ってきた――口を挟む機会を与えた。
「まったく、弟よ、気絶でさえお前はドラマチックにしてしまうんだからな」と、ソーがからかう。「いまじゃお前が宴中の話題だぞ」
ロキはすらりと薄笑いを浮かべた。「あんた、自分が話題の中心じゃなくなったってことを気にしてるだけだろ」
「ロキ!」 母上が声を上げ、そしてソーはただ少し驚いた顔をしていた。だがすぐに、ばか笑いをしながら近づいてきてロキの背中を叩いた。
「やれ、こいつの機知が転倒で損なわれた心配は無用だな!」
ロキはくるりと目を回した。「あんたの宴会に戻れよ。今宵の自分の面倒は自分で見れるから」
「あなた、ほんとうに大丈夫なの?」 母が聞き、しかしロキはただ首を振った。
「大丈夫ですとも」
ロキは二人が去るのを待って震える息を吐いた。ようやく独りになり、ロキは自身にファッキンパニくる時間を与えた。
過去に戻ったんだ、それはもう疑いの余地ない。ロキは愚かではない――他に説明のしようがない。いったいどうやってこんなことになったのかはまた別の問題だ――それはロキがこれから広範囲にわたって探求しなければならない――だがいまこの時、ロキが気に掛けるのはそれが現実に起こった ということだけだ。
これからどうする? この先また同じ未来を発生させるのか? もし気が触れてしまったらどうする? 元乱交船で紫色のタイタンに首を絞められるなんて記憶は正気の者の記憶にはとうてい聞こえがたい。だが――だが彼の記憶はとても現実的に感じられる――遠い、あるいはぼんやりした夢のようではない。
そして閃いた。
ロキは目を閉じ手を前に差し出した。彼がヨトゥンの血筋を知ったのはソーの戴冠式の後だ。もし気が触れているなら、その時には――そう――彼は間違っているだろう。
幾度かの規則正しい呼吸ののち、ロキは氷のように冷えた部屋と真っ青な手とともに目を開けた。
ロキは震えを止めることができなかった。
それから数時間、彼は未来について憶えている限りの事柄を書き出していた。今度サノスがやってくるときには、準備万端にと断固とした決意を固めていた。
ロキはもともと逃げることを考えていた。いますぐここで、すべてを投げ捨てて。彼は死にたくなかった、あんなふうに、もう二度と。
だが。
机に座り、乱れた筆跡でインクペンを紙にきしらせながら、ロキは一呼吸おいた。椅子の背に寄り掛かり、目の前に書き出された自身の人生をとっくりと眺める。
逃げることが、彼の多くの問題の原因だった。
ロキは計画を練り始めた。
