Chapter Text
飜訳文芸が繁昌だそうである。一応は結構なことだ。あの五十年という制限の網の目がだいぶ緩められて、生きのいい魚がこっちの海へも泳いできて、わが文化の食膳にのぼせられる。悪かろうはずはないが、物事には必ず善悪の両面がある。水から揚がるのは、いい魚ばかりとは限らない。お客さんは腹が空いているから何でも食う。そこで料理人は転手古舞で、材料の吟味はもとより、ろくろく庖丁も研ぐひまがないという景気になる。つまり濫訳の弊が生じるわけだ。もっともこれは、何も飜訳文芸に限った話ではない。需要の盛大が粗製濫造の弊を伴なわないで済むのは、よほど文化の根づきの深い国のことだろう。【※クリックすると下にソースコードが出ます】
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