Chapter Text
『「うん、知ってる」』
――知ってるから言わないで、奪いたくなるから
グレンフィディックに火照った硬い指先が、唇に柔らかく触れた。こぼれそうになった言葉は、そうしてまた路垚の身の内へ押し込められて、不恰好に喉が鳴る。
目尻に喜びと苦しみの皺を等分に寄せて微笑む喬楚生は、瞼を伏せるだけの頷きを返して首を振った。それで十分だった。
離れていく指先を追いかけたい舌、空気を震わせたい告白、すべて捨てたい衝動を、今日も飲み込んで得られる明日にしか、彼はいない。
***
『私がどんな女かも知らないで、』
――出会ってくれてありがとう
恋ではなかった。愛でもなかった。しかし、ふと鈍く輝く瞳の奥に沈んだ孤独や、不意に翳る横顔に、どうしようもなく惹かれてしまった。彼もそうだと知っている。
それでも、終末の前に見る夢にしては甘く、優しく、小さな気泡のような期待がふつふつと、心臓で音を立てていた。
憐れみの目で断罪する、彼の男が現れるまで。
私が足掻くほど、彼が傷つくほど、彼の男に垂らされていく、一滴の嫉妬が私をしとどに濡らすまで。
***
『あなたはそれを、恋といった』
――このハンカチを、君へ
「結婚の誓いに、恋の文句がなくてよかった」
受け取ったハンカチを、胸ポケットの裏へ仕舞う。 手渡された恋を大切に、誰にも見つからないように。
「神に嘘を吐かずにすむ」
ふたりだけの聖堂、花嫁より先に歩むバージンロード、その終着点に立つ男に、一歩寄り添い耳に囁く。
「俺の恋も永遠に、喬楚生だけに」
誓いのキスすらできずとも、神が許しをくれずとも、この男がすべて許してくれるから。いつもと同じ、仕様のない男へ向ける微笑みが、路垚の恋に焦がれてくれるから。
―――己の恋に、強欲に、彼を死ぬまで巻き込むことを誓います。
***
『せめて、隣に立つことだけは』
――たったひとつ、祈るくらいは
早く帰ってこいと言いながら、永遠の別れも覚悟していた。抱きしめて触れた頬の熱は、まだ確かに残っている。
誓いの指輪の重み、車の鍵、顧問をやめる決意の声、抱擁、最後の言葉、去っていく背中、すべてが鋭いナイフとなって胸を刺す。たとえ意図がわかっていても、流れる血は永遠に止まらない。
すべては愛のために。だからこそ彼の意志を尊重した。いつも彼を尊重している。痛みを耐える価値があると。
そう、思いながらも、電報を打つ指にはどうしようもなく祈りが乗って、微かに震えた。
***
『恋人ですけど、なにか?』
――誰も本気にしてくれないけど(彼だけが知っていればそれでいい)
女は目を見開いて、それから上品にくすくす笑う。逞しいからだに巻きつけた細腕で、柔らかい胸へ彼を引き寄せながら。
もういったい数えきれないほど言っているのに、彼の腕にぶら下がる女たちはみんなおんなじ反応で、可愛らしく笑っては俺から彼を奪っていく。
そうして彼は、否定もせず肯定もせず、 曖昧に口角だけを持ち上げて、伏せた目で女を誘い、今夜も柔らかい肉に抱かれて眠る。
冷たいベッドで嫉妬に狂う、愛する俺を夢に見ながら。
