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約束

Summary:

三人の約束を失った二人が、それでも約束をする話。1-A入学~タルタロス後くらいの時間軸です。pixivより再掲。
The story of Yamada and Aizawa who lost their promise after losing Shirakumo, but still make a promise.

Work Text:

 相澤消太は約束をしない。
 全てのプロヒーローの身はつねに死と背中合わせになっている。今日死ぬか、生きて明日を迎えるか、決して交わらない分岐に折り合いをつけながら、皆自分のこころを分割することで円滑に生活を送ろうとしているのだ。
 ただ、相澤のそれは極端だった。
 生きて明日を迎える分岐の上に立っているのは、プロヒーローとして、教師としての相澤だけだ。プロヒーロー・イレイザーヘッドは命懸けの覚悟はあれども死にに行くような無謀な仕事はしなかったし、教師としての相澤は教え子の将来を見据えて指導を行っていた。
 それが仕事から離れたいち個人としての相澤となると、まったくいつ死んでもいいような生き方になる。社会人になって初めて山田が相澤の家を訪れたときなど、その極限まで私物の削られた殺風景な部屋には目眩を覚えたものだ。相澤の遺品整理をする人間はきっと楽をするだろう。そういう部屋だった。
 相澤がそうなったきっかけに、山田には確かな心当たりがあった。
 永遠に叶わなくなった三人の約束。白雲の死んだあの日から、相澤は誰かと約束を結ぶことを避けるようになった。約束さえしなければ、それを破ってしまったときに相手を無責任に放り出すこともなく、いつ死んだって悔いはなくなる。相手の死によって約束が無残に破り去られる所在なさを相澤も山田も身をもって味わった。相澤が約束をしないのは、その悲痛な所在なさを相手に味わわせまいとする優しさだ。ヒーローとして、教師としての生き方を捨てられないからこそ、その生き方の足枷とならないように、相澤は約束を結ばないことを選んだ。
 笑うことを忘れたわけでも涙を流すことを忘れたわけでもなく、ただ約束をすることだけを拒む。それだけに山田は十数年間も、相澤の生き方に口を出すことができずにいる。

「ん……、おい、なに考えてる」
「あー、ソーリー?」
 他所事を考えていることを咎めるように、相澤がその踵で山田の背を蹴った。自分で山田の背を蹴っておきながらその振動に息を詰めているのだから世話がない。いつの間にかこの相澤の部屋の寒々しさに意識をさらわれていたようだ。あいまいに答えながら、山田は逸らしていた視線を相澤に戻す。白いシーツに相澤の黒髪が泳ぐように広がっている。
「相澤のこと考えてた」
「はあ?ッあ、ッ……」
 ぐっと奥を突き上げてやると相澤が唇を噛みしめて息を詰めた。このベッドだって山田が半ば無理矢理買わせたもので、相澤は最後まで渋っていた。自宅なのに寝袋で寝るやつがいるかと呆れながら叱った記憶はいまでも鮮やかだ。
 噛みしめている相澤の唇へ指を這わせる。歯列に指を割り込ませてやると、恨みがましい相澤の目が山田を見上げた。

***

 山田が相澤をそういう目で見るようになったのは、成人してはじめて二人で飲んだ夜からだ。
 居酒屋を出た山田はひどく酔った相澤を一人で帰すのも心配で家に連れ帰り、筋肉でずっしりと重たいその身体をソファに転がした。結んでいた髪をほどいてやると、それが眠りこける相澤の顔にぱさりとかかった。何の気なしに顔を寄せてその髪を払おうとしたとき、相澤がゆっくりと目を開いたのだ。目を開いたといっても相澤は意識が覚醒したふうではなく、普段より濡れた瞳で山田を見上げて、山田が指先で丁寧に髪の毛を払ってやるとまた瞼を閉じた。
 目の前の影が山田だと認めたときの安心しきった相澤の表情。それに対して腹の底をくすぐられるような感覚を覚えたのが、最初だった。

  はじめて関係を持ったのはたしか二十五歳くらいのころ、同じように酩酊していた夜だ。しかし少なくとも山田にとって、それは酒の勢いがもたらした過ちではなかった。
 その夜、山田は気持ちを自覚したときと同じように相澤を自身の家へ連れ帰ってソファにその身体を横たえた。相澤の寝顔を見下ろしながら、居酒屋での会話を反芻する。今日も通い慣れた大衆居酒屋でいつも通りふたり気楽に飲み食いをしたが、しかし話題はたまたま常と違う方向へ走った。

『へ?相澤、恋人いたことあンの?』
『恋人は、ない』
 相澤と猥談をしたことがなかったのは、好きな相手だからという気まずさは勿論のこと、恋心を自覚する以前から、相澤を他の同年代の男たちとは違うきれいなもののように思っていたせいでもある。恋人がいたことはないという言葉に胸を撫で下ろしつつ、聡い山田はその言葉の含みをしっかりと感じ取ってしまった。
『恋人は、ねえ』
『……悪いか?』
 こいびと、なんて言葉を選ぶようになったのは相澤への気持ちを自覚してからだ。相澤の彼女にはなれなくとも恋人にはなれる、そういう小さな望みをかけて。開き直った相澤の物言いに、なんも悪くねーヨ、と枝豆を剥きながら笑う。相澤が安堵するような表情を浮かべたのは見て見ぬふりをしてやった。
『相澤はどういう子が好みなの?』
『べつに、そういうのはない』
 相澤がぼそぼそ答えつつグラスを傾ける。酔った相澤は、硬質な外面がはがれて素直なやわらかい男になる。約束を恐れて立ちすくむ相澤のやわらかな人間みを感じられるその瞬間が、山田は好きだった。グラスから口を離した相澤が、ああでも、と思い出したように息を吐く。
『金髪はあんまりよくなかったな』
 理由を問う前に、相澤は続けた。
『おまえのこと思い出すから』
 衝撃のあまり、息をするのを忘れた。しかし当の相澤はそれだけ言い放って満足してしまったようで、皿の上に残っていた料理を口に運んでいる。おまえの頭ん中で金髪イコール俺になってんの、なんで思い出すと良くないんだよ、俺のことは性的対象じゃないからか、いやそもそも重ねるってことは相手は男なのか、男が相手なら抱いてんのか抱かれてんのか、山田の心中で浮かんだ無数の問いは理性によってそのまま押しとどめられた。

 ソファに転がる相澤の寝顔を見つめる。二十五歳になった相澤の面立ちは出会った頃よりずっと男らしくなり、ついでに客観的に見て小汚さも増した。それなのにどうしようもなくその小汚い男が可愛くて、その上セックスしたいとさえ思っているのだから救えない。
「あいざわ」
 名前を呼んでみる。互いにずっと崩さない名字呼びは、白雲の欠けたあの日から決定的になったような気がする。
「おまえ、俺ともセックスできんの」
 口説き文句にしてはあまりに直截な言葉は、山田の独り言として消えていくはずだった。その瞬間に相澤が目を開きさえしなければ。いつの間に目が覚めていたのか、相澤はおもむろに瞼を上げて微かに笑った。
「できるよ」
 たしかな肯定がやわらかな語尾を伴って返される。緩慢な動作で持ち上げられた相澤の手が、山田の指に絡みついた。

***

 好きだと伝えようと何度迷ったかわからない。けれどそれを伝えてこの関係に恋人という名前を付けるのは、また新しい約束を相澤に押し付けることになりはしまいか。もしも自分が相澤より先に死ねば、相澤は再び放り出されることになる。約束を恐れているのは相澤ばかりでなく山田も同じだ。三十路に入ってもなお、ふたりの傍に横たわったどうしようもない過去は動いてくれない。
「イレイザー、飯は?」
「もう済ませた」
「それいつものゼリーだろ?買ってくるからちょっとは食べたら」
 昼休みまで時間を惜しんで仕事をしているのはいつも通り教師の相澤だ。仕事とオフとで呼び方を変えるのももうすっかり馴染んでしまった。相澤が山田の提案に唸るような生返事をするときは、提案に甘えてしまうか迷っているときだ。書類から視線を外さず手も止めないが、今日は買ってくれば大人しく食べるだろうと判断して山田は席を立つ。
「んじゃ、行ってきますかね。米とパンとどっちがイイ?」
「……米」
 呟かれたそれに頷いて食堂へ向かう。片手で食べられるように購買でおにぎりを三つほど買う。米だけなのもどうかと思い、自分の分の定食を注文するついでにランチラッシュに頼んでおかずを少しばかりパックに分けてもらった。相澤が食べなければ自分が食べればいい。山田は自分の食事をさっと済ませて相澤のもとに戻った。
「イレイザー、食える?」
「ああ、悪い。ありがとう」
 書類から顔を上げた相澤が机の上を軽く整頓する。給仕よろしくかしこまった仕草で空いたスペースに昼食を置くと、相澤の顔が綻んだ。
「A組はあした対人訓練だっけ?」
「いや、災害救助訓練だ」
 黙々と食事を進めながら、相澤が隣に座った山田に応える。雄英は入学直後から数多くの実習を課すため新入生は毎年泣きを見るが、それは指導をしている相澤とて同じことだ。入学式からひと月と経たないうちに目の下の隈が濃くなっている。
「じゃあさ、あしたの夜飲まねエ?」
 にやりと口角を上げて笑いかけると、相澤がふっと笑った。飲みに誘うのはそのまま夜のお誘いでもある。ここ数年の習慣だった。
「定時で上がれたらな」
 ごちそうさま、と手を合わせて相澤が片付けのために立ち上がった。相澤と山田がこんな小さな約束をできるようになったのすらここ数年のことだ。数年先、数か月先まで拘束するような約束となると、相澤にそれらしい理由をつけて躱されてしまう。
「おまえの家?」
「イエス。どうせ家になんもないでしょ」
 山田のからかいに相澤はふんと鼻を鳴らしてまた席につき、キーボードを叩き始めた。山田もさっさと口を閉じて自分の授業の準備に戻る。どれだけ小さな約束だって、したからには守らねばならない。山田は相澤との約束にかけては何よりも誠実だ。

 

***

 

 翌日、約束は果たされなかった。
 災害救助訓練中の敵の襲撃によって、相澤が重傷を負ったからだ。
 ボロボロの布切れのようになった相澤を視界の隅に捉えて、山田からは知らず舌打ちが漏れた。敵が去ってすぐさま怪我人たちは病院へ担ぎ込まれたが、その晩は傷の重さゆえに相澤の病室に入ることさえ許されず、山田はどれほど苛立ちの溜息を吐いたかわからない。 
 翌日の昼頃に診察を終えた医師から面会を許可され、静まり返った病室に足を踏み入れる。頭まで包帯に包まれた相澤は、リカバリーガールの治癒で体力を消耗したのか寝息を立てていた。ベッドに歩み寄り、膝をつく。相澤が呼吸する音に耳を傾け、その胸が呼吸に合わせて上下するのを確かめる。そこでようやく、山田は息を吐けた。
 生きている。相澤が、ここに。相澤は生徒たちを守るために真っ先に前線に立って戦ったのだろう。ヒーローとしても教師としても当然の判断だ。山田は、そう思う反面で歯痒さを抱いている自分に気がついた。
「相澤」
 本来静かに眠らせておくべきだ。分かっているのに、つい口をついて出た。たった一度名前を呼んだだけなのに、包帯で覆われた相澤の瞼は微かに震えてゆっくりと持ち上がる。
「……山田?」
「そ。ご機嫌いかが」
 相澤が動かずとも顔が見えるよう、身を乗り出して話しかける。
「泣いてんのかと思った」
 暫しの沈黙の後ぽつりと放り出された一言に、かえって涙が出そうになった。こんなときにまで目の前の相手を気にかける相澤が、山田にとってはかなしいほど愛おしい。
「泣かねェよ。生きてるもん」
 白雲のことを思い出させるような言葉を選んでしまったと口に出してしまってから後悔した。黙ってしまった相澤の視線が宙をさ迷う。
「明日には復帰する」
「ハア!?何言ってんの」
 予想の斜め上を行く発言に、山田は思わず大声を出した。うるさい、と視線だけで制されたので声のトーンを落として語りかける。
「おまえ、両腕粉砕骨折で眼窩底骨骨折よ?お医者さんの話聞いてた?」
「足は動くし問題ない。もう了承ももらった」
 ここにいない医者に舌打ちをしそうになって留める。どうせ無理を言う相澤に医者が押し負けたのだろう。敵の襲撃でショックを受けたであろう子どもたちに早く姿を見せて安心させたい、相澤のことだからそんなところに違いない。自分を蔑ろにするのは気に食わないが、山田とてその心意気を否定したくはない。
「……わかった。相澤、治るまでは俺の家ね」
 こうなった相澤はてこでも動かない。同じ勢いで押していかないと負けてしまうことを山田はよく知っていた。
「はあ?別にいい。一人で何とかなる」
「ならない。その腕じゃトイレだって行けないんじゃない?風呂も無理デショ。早く治したきゃ俺に任せた方が合理的だと思うぜ」
 相澤が押し黙る。こうなればこちらのものだ。
「部屋のキー、学校に置きっぱなし?いるものあったら取ってくるけど」
「……明後日の授業で使う教材が家にある。机の上のやつ全部持ってきてくれ。あと捕縛布と着替え一式」
「了解。退院はいつって?」
「明日朝。そのまま学校に行く」
 相澤に頷いてみせて、一言二言交わしてから病室を出る。
 臨時休校となっている今日のうちに相澤の荷物を取りに行くべく雄英へ一度戻り、置き去りになっていた相澤の荷物から自宅のキーを探り出す。もう幾度となく互いの自宅を訪れているのに合鍵を交換することはしていなかった。あくまでふたりは『恋人』ではなく『友人』であるからだ。相澤の部屋から持ってくるもののリストを脳内に書き出しつつ、愛車を発進させる。

 そうかからずに相澤の自宅に到着し、鍵を開けて部屋へ立ち入る。本人のいない相澤の部屋に立ち入るのは初めてだった。
 カーテンを閉め切られた部屋はまだ昼下がりだというのに薄暗い。寝に帰るだけの日々を送る相澤にはカーテンを開け閉めする習慣がないのだ。真っ先に窓へ歩み寄り、カーテンを開ける。日差しが燦燦と射し込んだ部屋を見渡して、山田は突然夢の中に放り込まれたような錯覚を覚えた。
 相澤の遺品整理をする人間はきっと楽をする。常日頃から考えていたことを、相澤のいない相澤の部屋に立ってみて思い出した。一切の装飾が省かれ、必要最低限の家具のみが配置された殺風景な部屋。相澤の生きていた、生きようとしていた痕跡がここにはいったいどれだけあるんだろう。そう考えて、恐ろしくなった。
 白雲が亡くなった後しばらくは、日常の中に紛れる白雲の痕跡に悩まされた。数学の教科書に白雲が勝手に残した落書きを見つけて、相澤が涙を零したのを見たことがある。何度も目にしては泣かされた白雲の痕跡は、いつの間にかふたりの拠り所になった。相澤がいまだに使い続けているゴーグルなんてまさにそれだ。
 ところが、相澤はどうだ。相澤に言われた通り机の上にあった教材を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。仕事熱心な相澤の書き込みがそこここにあった。けれどこれは、教師としての相澤の痕跡に過ぎない。一個人としての相澤消太の痕跡は、いったいどこにあるんだろう。
 心の中の空虚さから目を逸らして、淡々と相澤の荷物をまとめる。長い付き合いでどこに何をしまってあるのか大体は把握していた。カーテンを閉め、両手に荷物を抱えて相澤の部屋から出る。こんな薄暗い気持ちは怪我人の看病には不似合いだ。車を走らせながら、山田は気持ちを切り替えた。

 

***

 

 日々の授業をこなす傍らで相澤はリカバリーガールの治癒を受け続け、体育祭を終えた頃にはようやく包帯が取れた。その日の仕事帰り、山田の部屋にある相澤の荷物を返すからと半ば強引に相澤を車に乗せた。流石に疲れたのか大した抵抗もなく、相澤は助手席で目を閉じている。
「目の下、残っちまったなァ」
 山田の呟きに相澤は反応を返さない。目の下の傷一つ、相澤にとってどうということはないのだろう。
「どーせだし俺ん家で飯食ってけよ。食えるだろ?」
 意外にも素直に頷いた相澤が、山田に顔を向けた。
「……世話になった。助かった」
「いーよ。俺がしたかっただけだし」
 日はとっぷりと沈んでいて、車内に射し込んだ橙色の街灯が相澤の顔を照らしている。山田は視線を正面に向けたまま、なんでもない顔で返した。相澤が怪我をするのが嫌だ、相澤に死んでほしくない、そういうことを漏らしたが最後、相澤が山田に背中を預けるように甘えることはなくなるだろう。
「ご飯何にしよっか。相澤はなんか食いたいもんある?」
「酒」
「それ飯じゃねえし。コンビニ寄るかァ」
 怪我が治るまでは、とドクターストップをかけられていた相澤に大人しく飲ませてやることにする。少し回り道してコンビニに寄り、相澤の好む酒をいくらか買い込む。レジで財布を出そうとした相澤を快気祝いだからと制した。

 山田の手料理で腹を満たして缶を三つほど空けた相澤が、眠たげに目をしばたかせ始めた。久々なのに飲ませすぎたかな、と思いながら山田は相澤の髪を撫でる。無理矢理に現場復帰をした相澤は案の定少し歩くだけでふらつく有様で、空き時間を見つけてはリカバリーガールの治癒を受けて眠っていた。山田も両手が使えない人間の生活を手伝うのはなかなか苦労したから、互いに疲労困憊だ。
「もう泊まってく?」
「……ん」
 ローテーブルの上の食器をまとめて立ち上がり、片付けを始める。眠たげな相澤の腕を掴んでソファの上に移動させた。こんな風に身体を預けてくれるのは酒に酔ったときだけだ。とろんとした目が山田を見上げる。
「片付けてくるからちょっと待ってて。寝るなよ」
 んん、と唸る相澤を置いて山田はキッチンに移動し、使った食器類やゴミを片付ける。極力急いでリビングの相澤のもとに戻ったが、やはりもう寝息を立てていた。そっと腰を下ろして、ソファに寄り掛かるようにその寝顔を見つめる。
 目の下に増えた傷痕。相澤はこれからもこういう怪我をするだろう。プロヒーローとしての相澤の実力を信用していないわけではない。ただ、その戦闘スタイルや守るべき対象への思いの強さが、相澤の身体に生傷を刻む要因になっている。遠距離攻撃を主とするプレゼント・マイクと違って必然的に怪我が多くなることも理解しているからこそ、一個人としての相澤を想ったときに遣る瀬ない。山田が指の背で傷痕をそっと撫でると、相澤が微かに声を漏らした。
「俺さァ、それでもやっぱり約束したい」
 酔って眠った相澤に、山田が独り言をこぼす。ふたりが初めてセックスをした日によく似ている。
「いつ死んでもいいようにって、おまえは思ってるかもだけど」
 山田の脳内に相澤の部屋が蘇る。相澤は、毎晩あの寒々しい部屋に帰って何を考えているのだろう。
 相澤が重傷を負うのはこれが初めてのことではない。けれどここまで一方的に蹂躙され、相澤の個性の核となる目に後遺症が及ぶほどの傷を負ったのも、そのさまを山田が目の当たりにしたのも初めてだった。相澤の黒いスーツから滲み出した赤。ずっと続いていくと根拠もなく信じていた日常が、ある日突然断ち切られる。あの日あと一分でも遅れていれば、相澤はそういう死を迎えていたかもしれない。白雲を失ったときだって同じだった。忘れていたわけではない。
 白雲が残していった約束のような、形見になりうるものがふたりの間には一切ない。暗黙の了解としてふたりでそうしてきたからだ。今回のことで相澤をほんとうに失いかけて初めて、山田はそれを心底恐れている自らに気づいた。
「俺は、相澤の、相澤消太の生きていた証がほしい」
 山田が素面であれば、あるいは相澤が目覚めていれば、こんな重たい懇願はしない。眠る相澤の手を祈るように握った。
「もう一回だけでいいから、おまえと約束してみたい」
 三人の約束は確かにふたりの道標となり、白雲を想う拠り所となった。けれど、もう永遠に果たされることはない。だからこそもう一度、ふたりで約束をしたい。結んだ約束を、今度こそ誰も欠けることなく果たしたい。
「……泣いてんのか」
 掠れた相澤の声が降ってくる。驚いて顔を上げると、相澤が眩しげに目を眇めて山田を見た。
「泣いてねーよ。生きてるもん」
 少し前の病室でのやり取りをわざと繰り返すと、相澤が気づいて薄く笑った。笑い返しながらも山田の背中にはひやりとしたものが伝う。
「聞いてた?」
「んん、約束がどうとか。ほとんど覚えてないが」
 何喋ってた、と相澤が無邪気に尋ねる。山田おまえ、最近なにか言いたげだっただろ。そう続けられて、山田は気が抜けたように息を吐いた。山田が相澤に対してそうであるように、相澤だって山田の機微にはそれなりに敏感なのだ。
「なんでも。消太クンは怪我が絶えねえなァと思ってサ」
「世話すんの、面倒だったか?」
 だらしなく寝ころんだまま、相澤が首を傾げる。
「違う違う。まあ確かに大変だったけど」
 首を振って否定する。酒を飲むと素直になる相澤は、普段なら言わないような質問も口にする。山田が否定すると分かっていてそんなことを訊くのだから、きっと甘えているようなものだ。
「ちょっと心配なだけ」
 山田の金髪がさらりと揺れた。食事の前に二人ともさっとシャワーを浴びたから、漂う酒の匂いに交じってほのかに清潔なソープの香りがする。
「俺が?」
「おまえが」
 念押しするように答えて、相澤の息を奪う。相澤の包帯が取れてから初めてのキスは甘ったるい酒の味がした。
「さ、歯磨きだけでもしよ。さっさと寝ちまおーぜ」
「セックスしないのか?」
 立ち上がった山田を、もの言いたげなとろけた瞳で相澤が見上げる。なんとなくいじめてみたくなって、山田は酷薄に笑った。
「しない。俺もうクタクタだし、相澤も早く寝たほうがいいよ。準備もしてないでしょ」
 本音と意地悪が混ざった山田の言葉に、相澤は反論の余地もなく押し黙る。不満げに尖った唇が可愛くて、また唇を啄んでから山田は洗面所に向かった。相澤の分の歯ブラシも手に取って戻る。
「ほら、ブラシ持ってきたから」
 自分の分を咥えながら相澤にブラシを差し出すと、相澤が口を無防備に開く。怪我をしている間は山田が歯を磨いてやっていたが、両手を自由に使える今のこれは単なる甘えか、意地悪な山田への意趣返しだ。
「アーもう!自分の歯磨きしながらひとの磨けないから!ちょっと待ってて」
 相澤に無理矢理歯ブラシを握らせて、超特急で歯磨きを済ませる。一日くらい雑でも構わない。山田が戻ると、先ほど手に握らせた歯ブラシを差し出した相澤がまた口を開けた。溜息を一つ吐いてそれを受け取り、相澤の顎にそっと手を添える。
 相澤の歯並びはきれいだ。奥歯から順番に、優しくブラシを動かしていく。明日には酔いが醒めて悶絶するんだろうな、とほくそ笑みながらことさら丁寧に磨いた。相澤の歯を磨くことなんてもう滅多にないだろう。無防備に目を閉じて口腔を明け渡している相澤を見ていると妙な気分になる。山田がブラシを動かすたび、相澤の赤い舌が反射的にうねった。
「相澤、ちょっとだけ上向いて」
 素直に従った相澤が、山田の表情をうかがうように目を開いた。磨くのに集中していた視線を上に向けて、相澤と目を合わせる。
「さっきの話、気になる?」
 喋ることができない代わりに、服の裾を引っ張られる。それを肯定と受け取って山田は言葉をつないだ。
「なんかねェ、相澤と約束してみたいなーって思っただけ」
 ほら、おしまい。うがいしに行こう。まだ聞きたげな表情の相澤から目を逸らし、強引に話を終える。実際それ以上何を言えばいいのか山田にもわかっていなかった。
 洗面所から戻ってきた相澤とふたりでベッドに入る。これもまたここ暫くの生活でできたルーティーンだが、今夜でもう終わる。相澤の帰る家はあの殺風景な巣だ。
「電気消すよ」
 寝室の照明を落として、目を閉じる。隣の相澤からはすぐに寝息が聞こえてきた。明日からはまたいつも通り、キスもセックスもするけれど何の約束もない友人同士だ。今夜のこの会話も、相澤はきっと忘れてしまうんだろう。

 

***

 

 蝉の鳴き声の響き渡る夏。林間合宿への襲撃と神野事件を経て雄英の全寮制化が決まり、教職員も漏れなく入寮を指示された。
 山田は自宅の契約もそのままに仮の住まいとして荷物を移動させたが、相澤は自宅の賃貸契約を解除する心づもりだった。もともと私物などないに等しいから、荷造りも大した苦労なく済ませられる。相澤らしい話だと山田は笑い飛ばした。
「イレイザー、荷造りはどうよ」
 生徒たちの夏休み中に連日行われている会議を終えて、山田は相澤の肩を叩いた。明日明後日と、生徒たちに先立って教員たちが入寮する手筈になっている。
「終わった。あとは業者さんに預けるだけ」
「さすが!ベッドとかも全部運んじまうんダロ?今夜はどうすんの」
 相澤がどうするつもりなのかは察しがついていたが、山田はわざと尋ねた。それを見破って少しばかり苛立った相澤が命令口調になる。
「泊めろ」
 子供っぽいとこもあるよなァ、と山田は笑いながら了承する。それから少し背をかがめて、上目遣いに相澤の顔を覗き込んだ。
「俺はまだ荷造り終わってないんだよね。手伝って?」
「おまえはそうだろうと思ってたよ」
 呆れ笑いをしながらも、相澤はいいよと快く頷いてくれる。その目の下の隈が濃くなっているのを、山田は苦々しい気持ちで眺めた。自分の担当するクラスの子どもたちが何度も襲撃を受けていて、今回は命の危険すらあったのだ。相澤が自責の念に駆られているのも察しがついた。そのうえ襲撃事件以降も度重なる事情聴取や報告書の作成、連日の会議に各家庭への謝罪・説明と慌ただしく業務に追われている。肉体的にもあまり休めていないのだろう。
「ゴミとかめんどくさいから飯は外で食っちまおうぜ。何が食べたい?」
「あー、和食」
 頭の中でいくつか相澤の希望に沿う候補を並べて、近場の店をピックアップする。職員室に戻って帰り支度を整え、ふたりで山田の車に乗り込んだ。日の傾く時間とはいえ未だ八月の半ば、車内は昼間の熱気を閉じ込めていて蒸し暑い。暑苦しい仕事着から着替えておいて正解だった。
「あっつ!窓開けよ窓!」
「はいはい」
 発進しながら窓を全開にして外の空気を取り込む。車内に吹き込んだ風で相澤の癖のある黒髪がなびいた。
 気安い和食のレストランに立ち寄って、軽く夕食を済ませる。お互いさっさと荷造りを済ませたいので、食事中の会話は最小限に抑えた。割り勘で会計を済ませ、山田の自宅まで一直線に車を走らせる。助手席に座る相澤が少しだけ窓を開けて、ぬるい夜風を取り込んだ。
「A組はちゃんと同意取れたんだろ?」
「ああ。なんとか」
 一部の保護者の説得に骨を折ったのはオールマイトづてに山田も知っていたが、相澤はそれを口にしなかった。責任はすべて学校にあるのだから保護者が納得しないのも当然だ、そういう相澤の考えは理解できた。
「お疲れさん。なんだったら先に寝とけヨ。片づけすっからちょっと騒がしいかもだけど」
 山田は多忙の相澤を気遣うつもりでそう言ったが、相澤はそれにムッとしたように山田を見た。
「俺もやる。話したいこともある」
「話したいこと?」
 横目に盗み見た相澤が、思いがけず唇を引き結んだ静かな顔だったから驚いた。着いたら話す、とだけ言いきって黙ってしまった相澤に、山田は緊張と不安で胸が締め付けられた。全寮制になって相澤が自宅を引き払うこのタイミングだ。寮に入ってしまえば、今までのように触れ合うことはなかなか叶わないだろう。この関係の清算を言い渡されてしまったら山田には拒否するすべもない。
 このまま家に辿り着かなければいいのにと思いながらも、いつもどこかで理性的な山田は最短距離で自宅に着いてしまった。やたらゆっくりと開閉するエレベーターにふたり無言で乗り込み、鍵を開けて自宅へと足を踏み入れる。山田はさながら断頭台に向かう気分だった。相澤がこの間の『約束がしたい』なんて発言を覚えているのだとしたら、より分が悪い。
「で、どれくらい終わってないんだ」
 縮みあがっている山田に対して、相澤は至極いつも通りだ。家主より先に上がって冷房をつけながら尋ねてくるあたり、むしろ機嫌は悪くないように見える。気合を入れるように、相澤がポケットから取り出したゴムで髪をひとまとめにする。
「えーと、あと衣類と、あとそこのラックとか」
「じゃあラックは俺が分解するから、おまえは衣類ね」
 テキパキと役割分担までしてくれる。これはこれで恐ろしいが有り難いことなので山田は素直に頷いた。相澤はラックのあるリビングで、山田はクローゼットのある寝室で、それぞれ作業を進める。この部屋を完全に引き払うわけではないので足りなければその都度取りにくればいいのだが、できるだけ無駄は省きたい。山田が慎重に衣類を選び取っていると、相澤が寝室の扉から顔を覗かせた。
「分解し終わった。梱包はどうする」
「そこにビニール紐あるから長いのは束ねといてくれる?こっち終わったら行くわ」
 相澤は寝室に入ってきて山田の傍にあった紐を手に取ると、真っ白なシーツの引かれたベッドに視線を投げた。
「このベッドはどうするんだ?」
「これはこのまま置いとくよ。部屋がこれだけで埋まっちまう」
 キングサイズとは言わないまでも、山田のベッドは相澤と二人で横になってもゆとりのあるものだった。広さの限られている寮には確かに向かないだろうと相澤は納得する。
「寮じゃ相澤とイチャイチャできねえよなァ」
「イチャイチャはしてないだろ、もともと」
 先ほどまでの緊張もわずかにほぐれ、山田は軽口を叩く。
「歯まで磨いてあげたっつーのに薄情なの」
「忘れろ」
 相澤が山田の頭を軽くはたいて寝室から出ていく。頭を自分でさすりながら、山田はまた作業に戻った。
 衣類を詰めた段ボールにぴっちりとテープを貼って、それらを廊下に移動させる。リビングに戻ると、相澤がローテーブルに俯せてうたたねをしていた。相澤が紐で縛った解体済みのラックも梱包し終えて山田はひと息つく。相澤が手助けしてくれたおかげで、あとは業者に預けるか自分で移動させる荷物のみになった。
「相澤、ありがと。助かった」
 ささやきながら髪の毛を撫ぜると、相澤が身動ぎをした。
「風呂入れてくるね。溜まるまでソファで寝とけよ」
 湯船の湯を溜めに行って戻ると、相澤はさっきまで傾いていた体を起こしてソファに座っていた。もの言いたげに見上げられて山田はたじろぐ。相澤の隣を手で示され、恐る恐る隣に腰を下ろした。
「聞きたいことがあったんだ」
 静かな声だった。ふたりとも素面の今話そうとするあたり、きっと真剣な話だ。山田はそう腹を括って相澤と目を合わせた。
「山田、おまえ約束したいって言ったよな。俺と」
 酔った相澤に山田がこぼした戯言。喉がぐっと詰まったように、山田は声を出せなかった。
「おまえは俺とどんな約束をしたいんだ?」
 そこに責めるような響きはない。相澤がどうしてその話題を掘り返そうとしたのか、そのことが山田には不思議だった。白雲との三人の約束を蔑ろにしていると感じたのであれば、こんな回りくどい問答なしにきちんと伝えてくる男だ。
「この間の話、そんなに気になった?」
「質問に質問で返すな」
 疑問をわざとらしく軽い口調で包み込んで尋ねてみると、溜息をつかれる。相澤が、結んでいた髪をおもむろにほどいた。
「……おまえが、えらく思い詰めた顔してたから」
 外したゴムを指で遊びながら、そんなことを言う。山田の身体に緊張はもうなかった。
「正直に言うとさ、どんな約束がしたいとかまでは考えてねーの」
 遊んでいた相澤の指をそっと包み込む。山田よりは指が少し短く、しかし関節がごつごつと張っている武骨な手だ。捕縛布を操る相澤の努力を如実に映し出したその手が、山田は好きだった。
「ただおまえと約束がしたいだけ」
 人差し指で手のひらを辿り、そのまま指を絡める。それに視線を落としていた相澤が息を詰めた。
「飲みに行こうとかそんな小さなやつじゃなくてさァ、もっと大きなやつ」
「大きな?」
 視線を上げて、相澤が首を傾げる。大きな約束。いまだ山田の中で形を成さないそれは、形を成したときにはとてつもなく重たくて大きいものになるだろう。相澤はそれを受け入れてくれるだろうか。白雲と約束をしたときのような軽やかさは、今のふたりにはない。
「そう。決まったら聞いてくれる?」
「……決まったらな」
 甘えるように顔を覗き込んで尋ねると、相澤がぶっきらぼうに頷いてくれる。ただの友人同士なら、こんな風に会話しながら手を繋ぐなんてありえない。この男がその距離まで近づくのを許してくれているのだ。十年以上もかけて、自分はとんでもないところまで相澤の手を引いてきてしまったのではないか。山田にはそういう感慨があった。
「さ、風呂入っといで」
 絡めていた指を離してそう促すと、相澤は立ち上がってから山田に振り向いた。
「準備してくるから」
 だから、寝るなよ。それだけ言い切り扉をバタンと閉めて行ってしまう。相澤のこういうところには敵わない。落ち着かない気分で、山田は荷造りの最終確認に取り掛かった。

 

***

 

 あっという間に夏が終わり、山田が約束を決めかねているうちに気温はぐっと下がって秋らしくなった。山田が何も言いださないのを、相澤は催促するでもなく待っていた。相澤自身も目が回るように忙しく、プライベートにあたる山田との関係に時間を割く余裕がなかったとも言える。
 相澤がイレイザーヘッドとして招集された死穢八斎會への突入。インターン中の雄英生も数多く参加したその事件で、ひとりの少女が救出された。相澤が身元引受人となったその少女、壊理の受けていた仕打ちはあまりに残酷なものだった。少女が退院し、雄英で身元を預かるにあたって教師陣にも事件の概要が共有される中、涙を流す者、憤る者と、幼気な少女を想う気持ちはみな同じだった。

 身元を引き受けて一か月ほどが経過し、はじめは周囲を畏れるように眉を曇らせていたエリが徐々に笑顔を見せるようになった。教員たち全体で見守る体制を作り、通形をはじめとする生徒たちもエリをよく可愛がり触れ合っている。
 そんな中にあって、山田は相澤にもまた変化を見出していた。
 教員寮の一室で寝起きするエリは、毎朝真っ先に相澤に挨拶をしに駆け寄る。最初のうちは無口な相澤に怯え気味だったエリだが、今やすっかり相澤を信頼して懐いている。挨拶を返す相澤の慈しむような表情に、山田は懐かしいものを見たような気がした。白雲と三人でつるんでいたころに見せていたような、愛しいものを愛しいと感じていることを隠さない表情。それは教師やプロヒーローとしてではない、相澤自身の性分を映し出すようなものだった。今までは酔ったときにしか見られなかった相澤のやわらかな部分が、この子によってするりと引き出されてしまう。山田はそのさまを眺めるたび微笑ましい気分になった。

「あの、あいざわせんせいは……?」
「あいざわはまだ仕事があるんだって。どうしたの?」
 仕事を終えた山田が共有スペースでくつろいでいたところに、エリが遠慮がちに近寄ってきた。十二月に入りすっかり冬らしく冷え込んできたので、エリもみんなからプレゼントされた暖かなセーターや靴下で身を包んでいる。
「あのね、ルミリオンさんとお絵かきしたの」
「ヒュウ!上手じゃん!これ自分で描いたの?」
「うん。それでね、あいざわせんせいに……」
 もじもじと唇を動かすエリに、山田は思わず笑みが漏れた。エリが見せてきた絵には、おそらくエリと通形と緑谷、それから相澤であろうと分かる人物が描かれている。通形や緑谷はともかく相澤まで笑顔で描かれていることに、たとえ子ども特有の拙さだとしても山田は心を掴まれた。それだけ相澤がこの少女に笑顔を見せてきた証だ。
「オッケー!あいざわせんせいにあげたいんダロ?」
「うん!」
「でも直接渡したいよなあ。あしたの朝、いっしょにあいざわに渡しに行こうか」
 山田がそう提案すると、エリは目をきらきらさせて大きく首を振った。
「ヨッシャ!じゃあ絵はいったん俺が預かっとくから、朝ごはん食べたらここ集合ね。トップシークレットだぜ?」
「とっぷしーくれっと……?」
 聴き慣れない英語に首を傾げるエリに山田の相好が崩れる。酷な生い立ちにもかかわらず、エリは生来の優しさや純真さを少しも失っていない。それは勿論雄英のインターン生を含めたヒーローたちが救出を成し遂げたが故だが、相澤にとってもそれはそれは愛おしいはずだ。
「あいざわには秘密ってこと!できる?」
「……うん!がんばる!」
 エリから絵を受け取って、頭を優しく撫でる。
「じゃあ明日のためにも今日は早く寝ちゃおーぜ!」
 自室に戻るエリをミッドナイトに預けて、絵を手にした山田も自室へ戻る。折り曲げたり汚したりしないように絵をそっと机に置いた。ファイルなどに入れておくか迷ったが、クレヨンで描いてある絵なのでそのまま渡すことにする。少女との約束を果たすべく、山田も今日ばかりは早めに眠りに就いた。

 翌朝、エリはいつも通り目覚めて真っ先に相澤に挨拶しに行ったようだ。相澤と山田が向かい合って朝食を摂っている最中、相澤が山田に問いかける。
「さっきなんとなくエリちゃんに落ち着きがなかったんだが」
 自分が秘密だと言い出した手前裏切るわけにもいかず、山田は素知らぬ顔で会話を続ける。
「どんな感じ?」
「ああ。ソワソワしているというか、もじもじしているというか。何か知ってるか」
「うーん、わかんねえなあ。俺にはいつも通りだったぜ!」
 そうか、と相槌を打ちながらも相澤は考え込んでいる様子だ。あまり深刻に捉えられる前に種明かしをするべきかもしれないと山田は話題を切り替えた。
「このあとさ、共有スペースの家具動かすの手伝ってくんねェ?五分くらいで終わるから」
「家具?なんでだ」
「エリちゃんが過ごしやすいようにってさ。俺は一回部屋戻ってから行くから、それまでちょっと待ってて」
 もちろん嘘だが、相澤はエリの名前を出せば納得したようにすぐに了承してくれた。あとは朝食を終えたエリに声をかけて自室から絵を持ってくればいい。ごちそうさまと手を合わせて、同じタイミングで食べ終わった相澤とともに席を立つ。
 相澤を共有スペースで待たせて自室に戻る。エリの絵を手にして廊下へ出ると、ちょうど約束通り共有スペースへ向かおうとしているエリに出くわした。
「エリちゃん、準備はできた?」
「うん。ちゃんとひみつにできたかなあ」
「絶対ダイジョーブ!行こうか」
 しゃがみこんでエリに絵を渡す。少女は頬を紅潮させてやる気に満ちた表情だ。山田が促すと共有スペースに立つ相澤に駆けて行き、言葉を詰まらせながらも手渡す。驚いたように膝を折って受け取った相澤が、目を細めてエリの頭を撫でた。エリに礼を告げた相澤が、浮ついた雰囲気を隠し切れない様子で山田のもとに歩いてくる。
「マイク、おまえか?」
「イエス!つっても、俺は昨日おまえがいなかったから明日にしたらって言っただけ。通形と一緒に描いたみたいよ?」
「そうか、通形にも礼を言わないとな」
 絵を両手で広げてみて、相澤が微笑む。家具の件もこのための嘘だと種明かししたが、今日ばかりは相澤も叱らなかった。相澤お得意の合理的虚偽の範疇だ。

 その晩、いつもは事務仕事に追われて滅多に自室から顔を出さない相澤が珍しく共有スペースにいた。エリやミッドナイトも一緒だ。校舎の方で残業をしてきた山田も遅れてその輪に加わった。
「何してんの?」
「マイク、遅いわよ!今相澤くんに絵を教えてたとこなの」
「イレイザーに!?」
 驚きながら視線を落とした先の相澤の手には、確かにクレヨンが握られている。黒ずくめの男の武骨な手にカラフルなクレヨンがあるアンバランスさに山田は噴き出した。
「笑うなよ」
 居心地悪そうな相澤がこれ以上臍を曲げてしまうのもエリに申し訳ないので、山田は笑いを抑えてソファに腰掛ける。
「悪い悪い。なに描いてんの?」
 覗き込んだ紙には、お世辞にも上手とは言えない絵が描かれている。髪の色や長さなんかから、辛うじてエリだろうと当たりをつけられる位だ。相澤がこんなもんかとクレヨンを箱へ戻し、紙をエリの方へ差し出した。
「エリちゃん、朝はありがとうね」
 差し出されたエリが、その絵を見て顔をぱっと上げる。嬉しさでいっぱいの目だ。
「これ、わたし……ですか?」
「そう。あんまり上手じゃないけど、今朝のお礼に」
 山田やミッドナイトが見守る中、相澤が首をかいてそう告げる。両手で絵を受け取ったエリが満面の笑みになった。
「あいざわせんせい、ありがとう!」
「こちらこそ」
 嬉し気なエリの頭をぽんと撫でて、相澤が立ち上がる。
「じゃあ俺はこれで。エリちゃん、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「ミッドナイトさんも、先に失礼します。マイクも」
 ミッドナイトが軽く返事をしたのに頷き、相澤が自室へ戻っていく。山田はそれを見届けてから自分も立ち上がった。
「じゃあ俺も風呂入ってきまーす。ふたりともグンナイ!」
 手を振るエリに振り返して、山田はふたりと別れる。
 共同の浴場で汗を流してさっぱりとした気分で、自室のベッドへダイブした。山田の自宅のものよりはずっと小さい、シングルのベッド。染み一つない天井を見上げながら、山田の脳内には相澤のやわらかな声が蘇る。
 自分は今まで何か思い違いをしていたのではないか。相澤はその魂からヒーローであり教師なのであって、それは一個人としての相澤消太と分割できるようなものではない。エリと触れ合うときの相澤は、ヒーローであり教師であり、なによりも一人の人だった。
 相澤は一個人としての自分を捨てて仕事に魂を捧げているわけではない。その仕事中に見せる心意気があまりに潔く美しいものだから、それが何よりも先に一個人としての相澤のものだと気づかなかったのだ。
 その魂に誓うなら、自分はどんなことを誓うべきか。魂からヒーローであり教師である相澤を尊重したいのなら、自分が彼と結ぶべき約束は何か。山田の中で答えは出ていた。とっくの昔から、ずっと願ってきたことだ。相澤の魂を損なわずに済む、たった一つの純粋で切実な約束。
 息を深く吸い、腕を伸ばす。それから気合を入れて立ち上がった。
 相澤の部屋の扉をノックし、自分であることを知らせるように名前を呼ぶ。短い応答の後少しの間をおいて内側から扉が開いた。
「山田か。どうした?」
「話したいことがあるんだけど、今いい?」
 山田の表情に何かを察したように相澤の顔が引き締まる。部屋の中へと促されて、後ろ手に扉を閉めた。
「いいよ。もう終わるから少し待っててくれ」
 相澤はそう言うと仕事用の椅子へ腰を下ろし、キーボードを叩き始めた。最小限の家具しかないので腰を下ろすべき場所も分からず、山田はとりあえずベッドに腰掛ける。
 教員寮に移ってから相澤の部屋をこうして個人的に訪れるのは初めてだ。生徒たちには知らされていないが、内通者特定のため寮内には至る所に監視カメラが張り巡らされており、おそらく個人の居室すら例外とは言い切れない。互いにそれを口には出さずとも察していたので、寮内では触れ合いを一切控えていた。それがなくとも同僚や生徒とともに暮らす公共の場であるから、相澤は許さなかっただろう。
「悪いな、あと五分で終わる」
「俺が急に来ちまったしいいよ。なんだったら出直そうか?」
「いや、いい」
 背を向けたままの相澤とやり取りをする。相澤の背中を見ていた視線は、そのまま少し横の壁に吸われた。今朝エリが相澤に手渡したばかりの絵が画鋲で壁に留められている。デスクの前に座ったまま少し視線を上げれば目に入る位置。山田は自らの胸がじわりと熱くなるのを感じた。なんとなく、今の相澤なら真正面から山田の約束を受けとめてくれるような気がした。実際に約束してくれるかはともかく、きっと静かに耳を傾けるくらいはしてくれるはずだ。
 相澤の仕事をあまり覗くのも良くないと思い、山田は手持ち無沙汰にベッドに寝転がる。自分の部屋と全く同じまっさらな天井だ。静かな部屋に、心地いいタイプ音だけが響く。今でこそタッチタイピングが様になりオールマイトの書類作成を指導するまでになったが、もともと武闘派の相澤は機械にほとんど触れたことがなく、最初のうちは悪戦苦闘していた。隣に座る相澤のタイピングがみるみる上達していくのを、山田はずっと音で感じ取っていたのだ。
 山田が居心地よい沈黙を過ごすこと数分、相澤がパソコンの電源を落とし、暗くなる画面の前で伸びをした。座っている椅子をくるりと回転させて山田に向き直る。
「終わった?」
「ああ、待たせた。話ってなんだ」
 一切の無駄なく、本題に切り込む。相澤との会話はいつもこうだった。言葉遊びを楽しみたい山田が、意見や情報の伝達を無駄なく済ませたい相澤のペースへと緩やかに合わせていく。
「前にした約束の話、覚えてる?」
「……ああ」
 頷いた相澤が、山田の目をまっすぐに見た。十数年間、時折離れることはあれどもずっと隣に立ち並んできた同期の男。ただの友人で済ませるには行き過ぎた時間を、感情を、山田は相澤に注いできた。キスもセックスももうとっくに互いの身体に馴染んでいる。きっといまさら何を言ったって相澤は驚かない。それなのに山田の喉はからからに乾いて、たった一言を絞り出すのに勇気が要った。
「俺は相澤が好き」
 恥ずかしいくらいなんの捻りもない告白に、相澤が目を瞬かせる。思いつくまま勢いに任せて告げた言葉には、思いのほか重みが乗っていた。
「俺と一緒に生きよう。それが多分、俺のしたい約束」
 山田はずっと、相澤と約束をするのが怖かった。自分が死んだとき、相澤との約束を放り出してしまうのが怖かった。そしてそれと同じくらい、相澤が死んだときにふたりの間に何の約束も残らないのが怖い。
 相澤がヒーローをしていくうえで足枷にならない約束をずっと考えていた。白雲との約束がふたりをヒーローへの道に繋ぎ止めてくれたように、支えとなる約束がほしい。なによりそれを、今度こそ叶えてみたい。
「それは、恋人になってほしいってことか」
「ンー、正直わかんない」
 今だって十分それに近い距離にいる。ほとんど毎日顔を合わせていて身体の関係もとっくにあり、なんでもない日にも一緒に飯を食べて会話を楽しむ。はたから見れば付き合っていると言っても不自然ではない距離だろう。ただ決定的な言葉を交わしてこなかっただけだ。
「なんつうかさァ、俺らそういうの全部ぶっちぎってここまで来ちゃったじゃん」
 相澤の手を引いて、隣に座らせる。シーツに投げ出された手に指を絡めた。
「俺は恋人って名前がついてなくてもいい。ただ一緒に生きるって約束がしたいだけ」
 でも、相澤が他のやつと付き合うのは嫌だな。最後にそう軽いひとことを付け加えて、重たくなってしまった懇願をごまかす。それに気づいているのかいないのか、相澤が微かに笑った。
「もし、相澤が約束してもいいって思ったら教えてくれる?」
 やさしいこの男は、山田が縋って乞えば約束をすることに頷いてくれるだろう。けれど、山田はそれにつけこみたくなかった。相澤自身の意思で頷いてほしい。自らと同じ覚悟をもって約束してほしいと望むのは、山田の我が儘だ。
「……わかった。少し考えてみる」
 握る手に力を込めて相澤が答えた。いつもは山田より筋肉質な相澤の手の方が熱いが、今日は逆だった。山田も一度握り返して手を離す。名残惜しい気持ちを抑えてゆっくりと立ち上がった。
「おやすみ、相澤」
 ああ、と笑みとともに短く返される。山田はそのまま相澤の部屋を出て、叫びだしたい気持ちでまっすぐに自室へ戻った。

 

***

 

「もっとスピード出せないのか」
「うるせーな落ち着けよ」
 山田の愛車の助手席に座った相澤が、落ち着きなくしきりに貧乏揺すりをしている。このときばかりは山田も語気が荒くなった。

 一月の初旬、山田と相澤のもとに俄かには信じがたい知らせが舞い込んだ。
 相澤と山田のかつての同級生で、高校二年生にして命を落とした白雲朧。火葬されたはずのその遺体が、敵連合の脳無として利用されている。塚内たちから告げられたのは平たく言えばそんな内容だった。ふたりにとってまさしく悪夢のような話だ。相澤の顔はいつにもまして青白くなり、目は痛々しく充血していた。平静を装おうとしていた山田自身も、手の震えが抑えられなかった。

 黒霧と呼ばれる、一見脳無だとは思い至らない姿の敵。相澤の呼びかけでその姿の中に一瞬だけ白雲が浮かび上がった。十数年前に、ふたりの前からいなくなったときの姿のまま。目も合わず、生きているのか死んでいるかもわからない朧げな姿で、それでも白雲は何かに抗うようにして言葉を発した。
 泣き腫らした相澤を助手席に乗せて、どうやって雄英に帰ったのかも覚えていない。吐きそうに気分が悪かった山田は、共有スペースのソファに横になった。

 

***

 

 相澤はずっと考えていた。約束をするということ。三人の約束を永遠に果たせないまま置き去りにされて初めて気がついたのは、自分にはきっと約束をする能力が備わっていないということだった。
 ヒーローであることを諦められない。自分のヒーローとしての在り方を捨てることもできない。相澤とてその実力を認められたプロヒーローであるが、死の気配はいつでも相澤の背中にぴったりと張り付いて離れなかった。
 自分の生徒たちには命を捨てないよう指導してきた。相澤自身だって、無駄に命を捨てる気はさらさらない。けれどどこかで、自分は自己犠牲のために死ぬだろうという確信もあった。相手を助けて自分も助かる、そんな恵まれた選択ができるヒーローではない。かといって、自己犠牲を一瞬でも躊躇できる人間でもなかった。そんな人間が、無責任に放り出すことを理解していてなお、どうして誰かと約束を結べよう。
 白雲との約束が放り出されてからずっと、相澤は約束をしないように生きてきた。隣に立つ山田の苦々しい表情にも気がつかないふりをして。

 踏み込んでこない男だと思っていた。あるいは、自分と同じように約束を置き去られたからこそ、自分と同じ結論に至っているのだと。実際山田からは相澤のほかに恋人らしき人物がいる気配を感じたことはなかった。だから相澤はそれで満足だった。身体に触れ合うだけで約束はしない、すなわち将来を誓い合うこともしない。
 けれど満足していたのは相澤だけだったらしい。今となっては自分が本当に満足していたのかも相澤にはわからない。
 いつの間に覚悟を決めたのか、山田は『相澤と約束がしたい』と言い出した。約束の意味を知らない男ではない。自分と全く同じ経験をしてきたのだから。それでも山田は、相澤と約束がしたいと告げた。
 それからずっと、考えている。自分は果たして本当に、誰かと約束をしてもいいのだろうか。

「おまえが行くなら俺も行くよ」
 山田にそう告げながら、相澤は頭の隅の靄がかった何かが晴れていくのを感じた。
 おまえが行くなら俺も。山田はきっと、相澤の微かな甘えに一生気がつかないだろう。山田はいつだって差し出された手を相澤がただ握ればいいだけにしてくれる。握らなくたって怒りも悲しみもせず、差し出した手を引っ込めてしまうんだろう。むしろ山田は、自分が相澤の手を強引に引いてきたのだと負い目を感じているきらいがある。相澤には一生その誤解を解いてやる気はなかった。
 山田と約束をしてもいいのかどうか。答えはとうに一つしかなかった。

 あの悪夢のような出来事から数日後。相澤は仕事をなにもかも終えて後は寝るだけになったところで自分の部屋を出て、コンコンと山田の個室の扉をノックする。気の抜けた返事とともに扉を開けた山田は、相澤の表情に唇を引き結んだ。
「約束の件、返事しに来た」
 そう告げると重々しく頷かれて、部屋の中へ通される。相澤の居室に比べて生活感のある洒落た部屋だ。ソファに腰を沈めて、相澤は息を吐いた。
「ずっと考えてたんだ」
 隣に座った山田が息を詰める。その髪を撫でて緊張をほどいてやりたいような気もしたが、今すべきことはそんなことじゃない。
「もうとっくに失ったと思ってた約束が、こんな形で目の前にまた現れて」
 訳が分からない、と呟くと山田が共感するように俯く。
「あんな悪夢みたいなもんを見せられて」
 山田の眼鏡の奥の瞳が揺らいだ。
「それでも、気づいたことがある」
 相澤の言葉に、山田が顔を上げる。視線を返してやりながら、やっとの思いで笑いかけた。
「約束は死んだって損なわれるもんじゃないらしい」
 おまえだってそう思うだろう。三人の約束は、白雲がいなくなってからもふたりの間で生きていた。そして白雲があんな風に踏み躙られたさまを見てもなお、揺らぐことはない。俺たちと生きていた白雲朧という存在だって、絶対に汚されてなんかいないはずだ。いつもは過剰なほど口数の多い山田が、今日は相澤の言葉に黙って耳を傾けている。
「この間、おまえが行くなら行くって言っただろ」
 山田も覚えているらしくしっかりと首肯される。
「たぶん、それと一緒だ」
「……どういうこと?」
 意味を掴みかねて戸惑う山田の手を握る。
「おまえが腹を括った。それなら、俺も腹を括る」
 山田の手にぐっと力がこもった。それだけで相澤は自らの意が正しく伝わったのだと安心できる。
「念のため伝えとくが、俺は生徒たちもエリちゃんのことも、放り出して死ぬつもりは微塵もない」
 相澤の目がひかりを持つ。ヒーローとして魂を燃やす相澤消太の、なによりも大切な場所。
「その上で、俺は死なないとも言えない。おまえに死ぬなとも言えない。そういう仕事だ、避けようとして避けられるもんじゃない」
 山田は力強く頷く。そんなこと、とうの昔に覚悟は決まっている。だからこそふたりはずっと約束を結べなかった。
「でも、約束を果たす努力はするよ。俺はおまえと一緒に生きたい」
 それが、俺の答え。相澤はそう言い切って山田を見上げる。山田の喉奥は熱くなって、それから鮮緑の瞳が揺れた。相澤が自ら山田の手を取ってくれた。ふたり一緒に生きるという約束を、受け入れてくれるという。たったそれだけのことがどうしようもなく山田のこころを震わせる。
「何かあったとき、俺はおまえを最優先に扱うことはできないと思う」
「うん。わかってるよ」
 ただ、と言って苦々しく続けられて、即座に肯定する。相澤の生き方の枷になることだけはしたくなかった。
「相澤はそれでいい。そういうトコが好きなの」
 俺はどうしたって相澤が最優先だし、生徒たちと相澤を比べたら相澤の方が大事だって即答しちまう。教師としちゃ最低だよ。でも、相澤はたぶんそんなことに答えを出せないデショ。黒髪を撫ぜながら山田が言えば、相澤は目を伏して不満げに呟く。
「……生徒とおまえを比べたりしない」
「わかってるって」
 それでもなお納得しないように、相澤が山田の腰に向かい合って乗り上げた。セックスをするとき、あるいは恋人同士であるみたいに。両手で山田の頬を捉えて、相澤は触れるだけのキスを落とした。
「キスもセックスもおまえとしかしない。おまえに守られるつもりもないし、守ってやらなきゃいけないほどおまえが弱いとも思ってない」
 傾けられた全幅の信頼に、胸が浸されていく。山田は今度こそ、心の底から頷いた。
「うん。ありがとね」
 相澤を泣かせた奴をぶん殴ってやりたい衝動を、山田は胸の内にそっとしまい込んでいる。知られなくていいことだ。相澤が一生気づかなくたって、山田にとって相澤がいちばん大切であることに変わりはない。ちっとも自分を大切に扱わない相澤のことを、山田は一生かけて誰よりも大切にしてやるつもりだった。
 相澤とともにベッドに寝転ぶ。シーツに沈み込んで息を吐いた相澤が囁きを落とす。
「おまえは優しいよ」
「俺ェ?優しくねーよ。相澤にまた守れるかも分かんねー約束させて」
「やさしいよ」
 思いがけず言い切られて視線を向ける。それはがっちりと相澤の瞳にぶつかった。
「おまえは、やさしい」
 だって、俺に賭けてくれるんだろう。死にかけた回数で言ったらずっと俺の方が多い。命を捨てたいわけじゃないが、ただ事実として、俺は何度も死にかけて、そのたびに誰かに生かされた。俺はこれからもそういう仕事をするし、だからきっと、俺はおまえより先に死ぬ。でも、おまえはそれでも俺と一緒に生きるほうに賭けてくれるんだろう。約束ってのは、賭けみたいなもんなんだろうな。相澤は訥々と言葉を紡いで、瞼を閉じたまま笑った。
「おまえが賭けるんなら、俺も賭けるよ。おまえに」
 シーツの上に散らばった黒髪が、夜の闇を吸って光った。相澤のやわらかな声がすっと胸に染み込んで山田を震わせる。
 約束は賭けだ。ふたりはそれを知っている。互いの信頼や覚悟だけが、その中にある死だとかそういう不確定なものを包み隠せる。
「もし俺が相澤より先に死んだら?」
「さあ。そうだな、先生やって、ヒーローやって」
「いつも通りジャン」
 隣に寝転んだままくすくすと笑い合う。相澤は山田が死んでもなんら変わりなく生きていく。それは強がりとか心休めから出た言葉ではなく、きっと事実なんだろう。それでこそ、山田がずっと隣に立ってきた、きれいで、やわらかで、したたかな魂のひとだ。目を細める山田の隣で、ああでも、と相澤が続けた。
「セックスは、しないかもな」
 そのにやりとした笑みに、かっと喉元が熱を持った。相澤の手首を掴んで性急に息を奪う。
「ン、……っは、ぁ」
 いくら個室といえどもここは学校の寮だ。これ以上の触れ合いをするわけにもいかないのは、お互いにわかっていた。唇を離して相澤のそれを拭いながら、山田は宣言する。
「さっきも言ってくれたけど、俺は相澤が生きるほうに賭けるよ」
 脳無の製造元もきっと近々割れる。敵連合と正面からぶつかる日だって、確実に訪れる未来だ。そうなったとき前線に立たないという選択肢は、お互い頭の片隅にすらなかった。
「負ける可能性があるってのも分かってるけどさァ、でも、賭けって勝つつもりでするもんだから」
 息を吸った。不確定さも無責任さも、お互い同じ分だけ背負っている。だからこそ相手に賭けられる。約束できる。その約束が何よりも己を勇気づけてくれる気がして、山田の顔には不敵な笑みが浮かぶ。
「生きてやろう。絶対に」
 山田を見上げた相澤が、ああ、と頷く。覚悟を決めた瞳が笑い返した。