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ハッピーエンドへの最短ルート
船長室の隅、窓際のボスは九月の向日葵のようにしなだれていた。力無く垂れた左手は、殆ど中身の尽きた酒瓶にかろうじて絡まっている。
「ボス」
俺のブーツが床板を踏み締める重音に、俯いた彼はゆらりと首を起こした。
「イジー、………一人にさせろって言っただろ」
口調こそ荒っぽいが、その響きから黒ひげとしての気迫は大分薄れてしまった。言葉尻の弱さがむしろ縋り付かれているみたいで、腹の奥がムカムカする。子供の面倒は見たことがないが、駄々をこねるガキというのはきっとこういう感じだろう。
「そういうわけにも行きませんよ。一つも指示せず部屋に引きこもってばかりで、何が船長ですか」
腰に手を当てて叱咤する俺はさながら母親といったところか。船長が隠遁生活を始めて以来、リベンジ号の実質的な船長は俺になった。他の船員に「エドワードはどうしたんだ」と尋ねられる度、のらりくらりと虚言を重ねるこっちの身にもなって欲しい。
「あんたが先頭に立って、しっかり船を指揮してください。あんたは船員たちの命を負う責任があるんですよ」
まぁ、あの役立たず共の面倒を見るのが億劫なのは分かるが。
だがボスは己の耳を無視するつもりか、黙って窓外を向いてしまう。「お前の言葉は聞きたくない」とでも言うようだ。外から昼の陽光がちらちらと反射して、彼の銀髪を絹糸のように光らす。不意に彼が、重たい花弁を付けた百合のように揺れた。
「……もう、本当に無理なんだ」
潮騒にかき消されそうなほど小さい本音を、俺は一言一句聞き漏らさなかった。
ボスがこうなってしまった原因は想像に難くない。エドワードはあの男とイギリス海軍に連れられていった後、たった一人で帰ってきた。それからあの男のいた部屋に籠り、あの男の着ていた衣服を纏い、あのもういないクソ男の幻影を追い続けている。
「このままここで、繭にでもなりてぇな」
仮にも最強の海賊たる男がそんな台詞。普段の俺だったら頭の血管を何本かブチ切っていただろう。「お前は黒ひげだ!!」とボスに向かって唾を飛ばしていたかもしれない。だがその時、ふと自分の中に別の感情が湧いた。
「……大切な存在が、突然離れていったのが辛いんですよね」
そこで、エドワードは始めて俺と目を合わせた。驚くほど穏やかな自分の声が、幽体離脱したようにどこか俯瞰的に聞こえる。今のボスは、何とか船長としての外面を保ってはいるが、中身は今にも崩れてしまいそうな砂像なのだ。壊れかけの彼を結合させる素材が必要だろう。
「何か心に、ポッカリ空洞が出来たみたいなんですよね。…分かります」
憧れの海賊黒ひげ。これまでどれだけ懸命に手を伸ばしても、決して届かなかった存在。それが今は翼を失い、俺のすぐ手元にまで落ちてきている。
「俺なら、その穴を埋められますよ」
そのチャンスを、俺は逃さなかった。
以前ファングが言っていたが、ペットロスへの一番の処方箋は新しいペットらしい。
「ここにいたんですね」「……おう」
虫も魚も寝静まった時間。俺のキャプテンは船尾で荒涼とした夜の海を見渡しながら、一人風に吹かれていた。
俺たちはあの日以来、恋人同士のようなことをやり始めた。皆の前でこっそり手を繋いでみたり、朝の挨拶代わりにキスしてみたり。まだどれも俺からだが、エドワードも戸惑いつつ応じてくれる。恋人というより警戒心の強い野良猫を手懐けている気分だ。
「船員たちはどうだ」
「何も。のん気に今日も生きてますよ」
大半の船員たちは俺たちが恋人同士になったことを知らない。言う義理もない。俺たちはつまりは「強い船長とその部下」のままであり、何も変わった点はないのだから。何かを察した一部の船員がごちゃごちゃ訴えてきたりもしたが、腹パン一発で静かになった。
「……ボス」
俺の少し上擦った声色に、月を仰ぎ見ていた人影がゆらりと傾いた。顔まで黒尽くめのボスの、吸い込まれるような眼差しだけが闇夜に浮かぶ。体を向けると彼は黙って大きな背中を折り曲げた。レモンサイダーのような風が吹き、二人の影が重なる。エドワードの唇は酷く乾燥していて、此方がささくれに引っ掛けて出血してしまいそうだ。
「ひげ、なかなか生えてきませんね」
唇が離れ、俺はざりざりと痛々しいキスの感想を述べた。間近で彼の口元のぐちゃぐちゃに炭が塗りたくられた顎に焦点が合う。
「あの頃に戻るには時間がかかる」
黒々とした瞳は何を反射しているのか、エドワードはぶっきらぼうにそれを投げ返した。
失われて初めて、彼のひげが強烈なアイデンティティだったことを俺たちは自他共に認識した。前と同じように接しているつもりでも、あるはずのものがそこにないとどこか違和感が拭いきれない。
「また明日塗り直しましょう」
塗られた炭を落としてしまわないよう、爪の先が掠める程度に彼の黒い顎を撫でる。エドワードは甘えを知らない犬のように、その手つきを呆けて眺めた。
「……そうだな」
そういえば昨日、鏡に向かったエドワードが忌々しげにその生え掛けのひげを撫でているのを見た。一刻も早く生え戻るようにと、念じているようだった。
それからしばらく経ったある日。さんさんと船長室に差し込む朝日に、自然と己の瞼が開いた。どうやらいつもより早い時間に目が覚めたらしい。壁の向こうからは規則的な波音が絶えず響き、船体に直撃しては消えていく。寝心地の良いシーツを捲って、そこで初めてエドワードが横に居ないことに気づいた。
「ボス?」
目やにの付いた瞼を擦りつつ体を起こすと、洗面所から何やら人の気配がする。あぁ、先に小便にでも行っているのか。はだけた寝巻きを直しつつ洗面所へ歩き、上質な真鍮のドアノブを捻る。
そこでは、鏡の前でエドワードがカミソリを顎に当てていた。
「おい、何してんだ?!」
自分でも寝起きかと驚くほどの怒号が吐いて出た。エドワードはビクッと飛び上がってカミソリを落とした。見れば彼の顎ひげは七割ほどが短く刈られて、ジョリジョリとそこに気配だけを残している。ばっくり開かれたその目は、明らかに見られてはいけないものを見られた人間の目だった。
「……今までずっと隠れて剃ってたんですか」
俺の視線から逃げるように、エドワードの黒目は狭い瞳の中を泳ぎ回る。彼はこういう時だけ、嘘をつくのが馬鹿みたいに下手だ。彼の黒ひげという殻がボロボロと崩れ落ち、最後に残ったエドワードは消え入りそうな声を震わせた。
「スティードとのこと、忘れたくないんだ……」
その時、俺の短い夢は終わってしまったんだな、と分かった。
つるりとした口元をなぞる手つきで、その唇にどんな記憶があるのか嫌でも察しが付く。彼の瞳に俺の姿が無いことを改めて自覚し、己の心臓が握り潰される音が聞こえた。
「…今更そんなこと、言わないでくださいよ」
怒りと失望がない混ぜになり、胸内でぐつぐつと泡が生まれては割れる。そうか、尚も俺はアイツに負け続けるのか。
「なぁ、これは夢か?起きたらただ何も考えず、ひたすら船襲って人を殺してたあの頃に戻ってるんじゃねえのか?」
エドワードは顎より少し下、そこに有るはずの無いひげをなぞった。その瞳は透明な蝶でも追いかけるように虚ろだ。
「ずいぶん詩的なことを言いますね。貴方らしくない」
彼がどんな未来を望んでいたかなんて、嫌なほど理解している。何か途中でどうしようもなく間違えたせいで、今やそれが絵空事となってしまったことも。彼の目の前に何が見えているかも、そこにどう足掻いたって俺は居ないことも。
俺はにべもなく彼の腕を引っ掴むと、その手に剥がれ落ちた黒ひげの殻を乗せた。
「分かってるんでしょう?これが現実だって」
彼の指一本一本を操って黒い塊をその中に閉じ込めると、俺の掌を上から重ねる。包み込んだのは木炭の欠片だ。凛と原野に生え立っていた過去など見る影もないそれは、真っ黒に煤けて軽い。
我ながら卑怯極まりないと思うが、彼をこの悪夢から解放する気はない。もっと苦しんで、苦しんで、そうして金輪際どこにも行けなくなってしまえばいい。俺はエドワードの耳元に手を添えて、胸焼けしそうなほど甘い声を注ぎ込んだ。
「あなたはもう、二度と戻れないんです」
