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あ、出る、と思った瞬間、俺の口からは茶色に濁った液体が噴出した。少しは鼻からも出た。最悪だ。
勝負前に摂ったものは主にスポドリとスナック菓子だったから固形物は少なかったが、それでも粉砕されたカリ梅の赤がシーツに広がった染みの所々に見える。堪えようとする余裕もなかった。最悪だ。
「大丈夫か」
即座に腰を引いた伽羅が、俺を仰向けに回転させる。唇の端を親指で拭いながら、気遣わしげに眉を寄せて俺を覗きこんだ。
勝負場所になにか罠が仕掛けられていないか、賭けの前に辺りを警戒する時と同じ顔で素早く俺の様子を検分している。鋭く美しい額の真ん中までくっきりと縦に皺が寄っていて、何度見ても最高にかっこいい男の顔にズクッと腹の奥に震えが走った。
「気持ち悪いの見せてごめんゴメンね…────まだイッてなかったでしょ?」
だから脚を開きながらそんなことを口走ったわけだけど、実際のところ一回吐いたら寧ろスッキリしたし、俺も伽羅さんもあと数秒のストロークで頂に登りつめるところだったし、瞬時に作った笑顔も別に嘘じゃない。嘘じゃないのに、伽羅はかすかに眼を瞠って、ドン引いた顔をした。あ、失敗した。ピキッと音がしそうなほど、伽羅の怒りが瞬間的に沸騰するのが目に見えてわかった。
「笨蛋ッ」
短く悪態を吐いて、俺が伸ばした手は払い落とされる。そのまま掬い上げるように伽羅は俺を抱きかかえて、ベッドから飛びおりた。行き先はバスルームか。
険しい横顔を見上げながら、いい、やっぱりいい、と密かに思う。俺は伽羅さんが殺気を放っている姿に一番欲情してしまうから救いようがない。苛立ちを堪えた顔の凶悪さに反して、バスタブに俺をおろす手付きは優しくて、そういうところも好きだな、と再確認してしまう。シャワーのコックを捻るにあたって、最初の冷たい方は俺に当たらないようにして、温かくなってからシャワーフックにかけるとか、そういう細かな気遣いをしてくれるところも好きだ。
開けた口にシャワーを当てて、大雑把にゆすぐ。酸味と苦味と生臭さで最悪だった口の中がマシになり、冷えた手足にじんわりと熱が伝わっていく。その感覚でその時はじめて、自分の身体が少し冷えていたことに気づいた。
「ほら」
「ン……ありがと」
こんな状況で、パッケージを破ったばかりの歯ブラシを差し出してくれるのは、単に気が利くとかそれ以上のなにかじゃないか?
俺が歯を磨いている間も、たっぷりと泡立てたソープで手早く身体を洗われた。吐き慣れている身としては、今回はタイミングが最悪だっただけで、嘔吐自体のダメージは少ないからここまでされると決まりが悪い。今回のは水分が多くて吐きやすいタイプだったし、四つ這いの格好で髪に飛び散ったりしなかったのもだいぶマシなのだ。てゆうかシンプルに、下から内臓を突かれて上から出ただけだし。
しかしそういうことを話しても、伽羅にはあまり伝わらなさそうで…────そもそも下から突かなければいい、という話になっても困るので、むくれつつも何も言えない。ずっと出しっぱなしのシャワーがバスタブに当たって飛沫を散らし、広い浴室には暖かな湯気が満ちてくる。
ついでに自分の身体を簡単に流した伽羅が股間につけたままだったゴムに気づき、剥くように外してゴミ箱へと放った。それを見たら、急になんだか悔しい。自分の脆弱な肉体が悔しい。セックスさえ満足に出来ないのが悔しい。今夜は伽羅もとても乗り気だったのに、そのチャンスをみすみす逃してしまったのも、悔しい。
「……ッ、」
太い首に飛びつくように腕をまわし、筋肉で隆起した身体に皮膚をくっつける。くったりと萎えていても存在感のあるそれを、太腿で2、3度なぞるのも忘れずに。
下りた前髪の間から、大型の肉食獣を思わせる切長の眼が覗いている。高い鼻梁と肉厚の唇は荒々しい野生みがありながら、顔立ち自体は端正に整っていて、やっぱり惚れ惚れするほどかっこよかった。
「続きは…?」
まだ言うか、とでも言うように、一瞬キュッと細い眉が顰められる。
「また今度だ」
が、その唇から悪態が出ることはなく、毅然とした口調で宥められた。不満が苛立ちへとじわじわと変わっていく。
「いつ?」
「……お前が元気になったら」
常にうっすら体調が悪い人間にとっては、嗤いだしそうになる言葉だが、ここで嗤うと更にオアズケにされそうなので黙る。代わりに涙が少し出た。伽羅からしたら、泣くほどこいつはヤりてぇのかと、またしてもドン引き案件だろうが、幸いにも涙の形になる前に、降り注ぐシャワーが排水口へと流していった。
熱い湯にのぼせて、俺の胸にはうっすらと桃色の筋が一条浮かび上がっている。今は特にそれを見られたくなくて、顎を上げてキスをせがんだ。
「────…」
セックスできない分、せめて窒息しそうなほどキスしてほしいのに、唇を合わせるだけの優しいキスしかしてくれない。舌先で唇を開くよう促すが、伽羅は唇を当てる角度を変えてくるだけで、もどかしさが募った。いっそ怒らせようと、かぷりと唇に噛みついても素知らぬ顔だから、子供がむずかる時のような声をついあげてしまう。
勝負は手持ちのカードで最善を尽くすしかないが、俺は自分の体調だけは万全を期すことが出来ない。だから勝負は興奮するし、楽しいが、それは結局負け惜しみの虚勢ではないのか。その可能性を思うと、俺の心は一瞬で冷える。心を守るために、心は無意識に嘘をつく。誰もがそうだ───…きっと俺さえも。
───俺は、心臓を奪われた屈辱を、ギリギリのギャンブルの快楽で誤魔化しているだけじゃないのか?
そうやって己の心にも嘘を疑ってしまうから、伽羅から俺に向けられる優しさを好ましく思う一方で、その優しさを時々激しく憎んでしまう。伽羅が思う存分やりたいようにやっても大丈夫なくらい強い心臓の、強い肉体でいたかった。それか、伽羅が、自分の欲を満たすためなら相手を道具のように扱うタイプのクズならよかった。
────八つ当たりだ。わかってる。
伽羅の唇が俺の頬に触れ、伽羅の濃い睫毛がさりさりと俺のこめかみを優しくくすぐった。いやだ、やめて。そんなことしないで。そう思っているのに、言葉が出ない。言葉にならない。苦しくて、伽羅の身体にますます強くしがみつく。伽羅もまた、力強く俺を支えて、俺はこの腕の中から逃れたいのか留まりたいのかわからなくなってくる。
噎せかえりそうな蒸気の中で、絡みあう一塊の樹のような俺達に、降り注ぐ熱い雫の細流が絶え間なく伝い落ちていった。
