Work Text:
『クリス、君が救いたい方をどちらか選べ』
「あぁ…そんな…待って、待ってくれよ」
「いや! 死になくない…っ、死にたくないよクリス!! 助けて…」
「クリス! 確かに俺はおかしかったかもしれない、でも今は治ったんだ! 本当だ! 俺達親友だろ!?」
金髪の若者は、金網の隙間から伺える状況と非情なアナウンスに、頭を抱えて狼狽した。不可思議で暴力的な出来事から身体はアドレナリンが駆け巡り熱いはずなのに、血の気が引いて顔は紙のように白くなっている。
人質として掲げられている彼女彼らよりも、種類の違う狂気に陥っていた。
クリスはこのデスゲームを回避するための存在しない希望を求めて、激しく肺を動かす。それはただ頭をより漂白し、視界を回転刃とレバーのシルエットで激しく明滅させた。
大切な人達からの恐怖に怯えた叫び声。それらが自分に向けられているのを聞き取ることが出来ない。
何とかしたい。何故自分なんかに託されるのか。何も考えられない。
彼は、この状況から知らぬ間に後退りをしていたが、せめて誰かを救うために行動しなければと、己の震える腕を抱え込んでレバーに歩み寄った。
「…くそっ! くそ…っっ!!」
レバーに手をかけ…強く握り……。
「「クリス――!!」」
…その時彼は自分の呼吸音さえも消えたと思った。
何かしら判断を下さなければならない、誰かを救うために。
しかし視線は二人の顔に届くことなく、人質同士の間を激しく彷徨った。あまりにも自分の名前が思考を、意思をどれだけ組み立てようとしても、打ち砕いていたのだ。
…っは――っ、はっっ……ッはぁっ―――。
レバーは動かされず、彼の膝を折った。なけなしの勇気と理性が何とかレバーまで脚を導いていたが、それまでだった。
下を向いて激しく喘ぎ、息がまともに吸えず、むせる。
「クリスっ!」
「無理だ…」
息苦しさも上乗せされた、涙で濡れた顔面をクリスは上げる。
「お願いだ…自分が代わりに死ぬから、二人を助けて」
レバーに祈るように跪いたまま、言った。
信者が神に己の罪を告白するような、願いを込めた、状況に合わないくらいしっかりとしたトーンだった。
それは、金網の奥で捕まっていた彼女たちを驚愕により鎮まらせた。
アシュリーは己の命の危機で本当にパニックになっていた…先程までは。
その状況に合っていないような彼の声に、たとえ結果が彼女自身の命を救うものであったとしてもそれに賛同することも出来ず、ただただ予想外の願いに思考が真っ白になった。
「何を言っているんだ、クリス!?」
隣で縛られているジョッシュが叫ぶ。
不意を突かれて僅かに冷静になったアシュリーは、逆にもう何を望んだら良いのか分からなかった。
クリスはもう“人質”を見ていない。
縛られたアシュリーとジョッシュの間にまるで誰かが居るかのように、頼む…と懇願した。
『――やれやれ。クリス、君の真摯な願いに応えて第三の選択肢だ』
アナウンスが呆れたように、でも愉快そうに謳う。
『レバーの台の裏に銃がある。その銃で君が死ぬならば、二人を解放しよう』
……何?
ほとんど息のような疑問符は、放ったジョッシュ自身の耳にさえ届かないぐらい小さなものだった。
『弾は一発しか無い。ちゃんと撃ち抜けるかな?』
アナウンスは煽って愉快そうに鳴った。
相対する部屋でクリスが屈み込み、銃を拾ったことが分かる。
――俺は、そんな所に銃を置いていない。
ジョッシュは目を見開いた。
親友は拳銃を希望への鍵のように、手で撫でていた。
――あんなセリフを吹き込んだ覚えはない。
壮大な計画と演技からの高揚感が一気に冷め、ジョッシュは身震いした。
ゲームを操っていたはずなのに、自分の手をいつの間にか離れている。なんだこれは。今後どうなるのか急に全てが分からなくなり、自分が用意したはずの舞台であるのに全てが見知らぬ物に見えてきた。
「くそっ! 何なんだよこれは!!」
思わず吼える。
その圧によりハッと気が戻ったのか、アシュリーも続いて叫んだ。
「待って! 待ってよクリス!」
だが、呼びかけられている本人は一瞥もくれなかった。熱心に手の中の銃へ視線は注がれていた。
別のパニックに陥ったジョッシュと違い、アシュリーは必死でクリスに呼びかけ続ける。ジョッシュは「おい…こんなバカげた事があるか?」と状況が理解できないというように口を歪める。
先程までは二人共――アシュリーは命懸けで、ジョッシュは計画のために、回転刃から逃げるよう腕や頭を振っていた。
今やクリスに向かってアシュリーは藻掻いていた。ジョッシュは予想もしない混乱で、“色々なこと”から抜け出す事が出来なくなっていた。計画していた舞台の仕掛けの間で、状況もクリスもどう動くかが想像できず、掌は戦慄く。
アシュリーの叫びに関係なく、特に何の兆候も無く…急にぴたりとクリスが手元から目を離して顔を上げた。ジョッシュに向かって。
そしてシンプルに
「アシュリーを山から降ろしてあげて」
と、静かに囁いた。
その音はかき消えることなく、たしかにジョッシュの耳に届いた。聞かなかったことにしたかった。
クリスはジョッシュに僅かに微笑んだ。そのまま顔を少し左に向けて一方的に、勝手に安心させるようアシュリーを見た後、すぐにまたジョッシュに視線を戻した。
ジョッシュは固まって動けなかった。拘束は演技であるのに。口は塞がれていないのにポカンと開かれたまま、言葉を失っていた。
ゆっくりと拳銃を彼は右顎下に当てる。
「だめだ、だめだだめだだめだ…これは何かの間違いだ。やめろやめろッ!!」
クリスはその時葛藤する様子もなく、しかしその手は死への恐怖で少し震えを見せつつ、人生を終わらせた。
親友と好きな女の子を救うために…彼の中で。
彼らの間を隔てていた金網を貫通し、その銃声はダイレクトに頭と身体に響いた。
ジョッシュは吠え喚き、アシュリーは悲鳴を上げた。彼ら彼女が受けた仕打ちかのように。空気の振動による“音”では最早異なる。
クリスは衝撃で左後方へと倒れ、存在理由の失せた頭蓋が床へと叩きつけられてゴッと音をたてた。
そして連動していたかのように小屋の電気が落とされ、暗闇となった。
「…クリスクリス――ねぇクリス、こんなの嘘だよね? お願い、もう…もう――返事をして。クリス、お願いだから」
真っ暗闇の中でもアシュリーはクリスの名を呼び続けていた。
クリスとジョッシュは静かだった。ジョッシュの中では自身の息切れしたような呼吸音と銃声の残響が、すぐ隣からの叫び声よりも遥かに煩く感じた。
彼は相変わらず想定外の状況に身を縮こませ、動くことが出来ない。しかし、舌を噛みそうなぐらい顎は震え続ける。
一年前の最悪の朝よりもそれは酷い。あの時、彼に限らず“彼ら”は目覚めてすぐに周りからの説明を受けたが、ちっとも理解できなかった。…しかしこれは?
親友の声、拳銃を大切そうに撫でている手、銃声、ロッジの前で久々の再会に笑顔を見せるクリス、脳天から赤色を飛び散らせた…彼が心を許せる最後の人。
同じくちっとも理解できない。しかし結果だけは目の当たりにしてしまった。全てを“解らない”で逃げることが許されなくなった。ジョッシュはクリスの死を実際に見たのだから。
再び、前触れもなく電気がついた。
アシュリーは変わらず吊られたまま泣き崩れていた。
ジョッシュはいつの間にか静かに、仕掛け装置である顔出しパネルから頭を抜いていた。気がついたらパネルの表側まで来て突っ立っていた。明るくなった時ギョッとしたように、その経緯は記憶にない。
頭を振り乱し嘆く彼女はあまりにも取り乱していて、“偽の人質”に気がついていない様子だった。
よろよろとアシュリーに歩み寄り、機能している手枷をゆっくりと解く。
「あぁ…クリス……」
縄が落ちた時、泣き腫らすアシュリーがジョッシュに倒れ込む。
ジョッシュは虚ろな目をアシュリーに向けることなく、ぼんやりと正面を映していた。また、アシュリーを慰めるために腕を上げることもなく、そのまま立ち続ける。
カシャリ、と彼らを隔てていた扉の鍵の切り替る音が後方から聞こえた。
その時静かに、設定していたタイマーは予定通り働いたのだなとジョッシュは思った。
やがてその場に手をついたアシュリーは震えた声で泣きながら、這うようにして扉へと向かっていく。クリス…クリスと。
ジョッシュは全てを恐れて、彼女の後をなんとか続く。
目の端で、さっきまで彼が演じていた場所に違和感を覚えた。
何もない。そう、豚で構成された人形も顔を出していたパネルの穴も見当たらなかった。
本当に、自分でさえも知らない誰かが居るのではないかと震える。全てが計画通りではないのに、これで合っているかのように仕組みを隠す第三者。
ジョッシュはクリスが居た部屋を覗きたくなかった。
這うようなアシュリーが…それでもクリスがまだそこにいると信じて進むのならジョッシュは親友として恥だったとしても、クリスがここに居たこと自体を否定したかった。彼の愚かな優しさでさえ無に帰すことになろうとも、ボロボロの小屋の床に爪を引っ掛け、ただ彼の悪夢の夜明けまでしがみつき、動きたくなかった。
クリスの声をジョッシュは思い出す。
彼女は遂に、閉じ込められていた空間から脱し、現実を見て息を呑んだ。今までのあまりにも遅い歩みが嘘のように、想い人だった彼に飛び寄った。
ジョッシュはとっくに自身の心は死んでいると思っていた。親友を殺した時、一緒に。
アシュリーに続いて部屋を出、レバーを設置していた場所を見た時に、彼は死の底がまだまだ深いことを知った。
クリスは目を見開いて死んでいた。撃ち抜く最期に口元を優しく歪めていたはずだが、それは斃れた時の衝撃で虚しさを感じさせる表情に変わっていた。彼が希望のように縋りついた拳銃は、反動で大きく投げ出された右手にまだ絡みついていた。身体の下の血は、一部僅かに擦ったような跡があった。脳を破壊したことにより、最後の血が巡っていた身体は激しく痙攣したのであろう。彼の心臓は早すぎる永遠の静止を得、今は新たな血を溢さず、静かに冷めつつあった。
アシュリーはクリスの静かな胸元に顔を埋めた。彼女のぐっしょりとした涙が服に染みを作るが、それは想い人よりも遥かに温かいものだった。
アシュリーの背後で目を見開いて過呼吸気味に立ち尽くしていたジョッシュも、遂に傍らに跪き親友の頬に恐る恐る触れた。
彼は衣服を着込み過ぎていると周りから指摘されるほど、寒がりだった。ひょっとしたら体温が高めだからなのかも知れなかった。しかしそんなことは最早欠片も推測がつかないほど、彼の頬は無機質に冷たかった。
そう…まるでジョッシュが本来使う予定であった、偽の身体のように。
頬に指先を当てる度、よりこれはかの親友ではないと思う気持ちが強くなる。その方がいっそ幸せだった。
だが、自分に言い聞かせるようなその想いが強くなるほど、クリスの最期の言葉が耳にこだまする。
『アシュリーを…』
ジョッシュの計画では、去年妹が味わった死ぬ前の屈辱を晴らすために――センスのないイタズラをした者に仕返しを。そしてただ実行するだけでは去年の彼らをなぞるだけになるので、イタズラに関わっていなかった…自身の親友をヒーローとしてアシュリーとのロマンスにも繋げ、ちゃんと“幸福”のあるエンターテインメントにするはずだった。そう、サムだってクリスとアシュリーはお似合いなのにと言っていた。サムはイタズラを止めようとしてくれたが、彼女はハンナとベスを行かせマイクを追わせなかった。自分がサムにどういう想いがあるのかは分からないが、似ていると感じていた。妹達への悲しさだけでなく、クリス達の事を考える思考も同じだった。だから多少ハプニング演出に利用させてもらっても、彼女はみごとカップルとなったクリス達を見て苦笑し許してくれるはずだった。
『…山から下ろしてあげて』
…で? 親友は確かに想い人のヒーローになったかもしれない。忘れられない人になったかもしれない。
でもクリスは何処に?
言い訳のような、振り返って自身を責める思考が、真理を持った疑問定義で止まった。
『君の計画は果たして、君の大切な人に何をもたらしたのかな? また君自ら何を棄てたのかな?』
クリスの最期の言葉を掻き消すように抗えない痛みを持つ答えを、かのドクターの声が脳内に突き刺す。
これ以上優しすぎた親友を傷つけたくないのに、激しく震える強張った指が彼の頬を強く押す。撫でるというよりは刺すように…。血が通っていれば、擦ったように皮膚を赤くしたかもしれないほどだ。
ジョッシュのもう一方の指は、クリスの投げ出された腕が握る拳銃へと伸びた。
本当に…自分が存在を知らなかった拳銃。
しかしこの場にいる全員が聞いた、幻聴ならざる悪魔の提案の持ち掛けがあったとして…手段を持ち得ていたのは自分だけだ。
本当に記憶にない。
しかし親友を殺した自分の何を信じられるというのだろうか? 死んだ原因が完全に自分であることを否定することは出来ない。
アシュリーはクリスの胸に泣き続けていたが、そばにいたジョッシュが大きく腕を伸ばした気配にハッと頭を上げた。赤く腫れ上がった目は痛々しいという印象を強くし、驚きや批難といった感情は逆に判断がし難いものだった。
彼女はしゃくり上げながら問うた。
「…ジョッシュ? 何をするの?」
親友の指に絡んだ銃は、片手ではなかなか外しにくかった。その今も続く決意の堅さに、ジョッシュは息を震わしこじ開けようとする。
「やめてジョッシュ! お願い…。殺人鬼がいて危ないのは解るけど、もうこれ以上…。ごめんなさい、あなたは銃を持たないで」
声を引きつらせながら、クリスの傍らに座り込んだままアシュリーは、お願い…と繰り返した。
ジョッシュは、その時アシュリーと目を合わせた。見た目の情報だけの先程とは違う、ばっちりと互いの瞳の奥に何かを見たような感覚。
『アシュリーを山から下ろしてあげて』
そう、親友の願った事をこなさなければならない。最早親友でも友達としても人としても許されない狂った人間まがいな自分だが。それでも何の足しにもならないけど今は。
そっと手に取ろうとした拳銃をクリスの腕ごと静かに離し、ジョッシュは静かに呟いた。
「クリス、アシュリー…すまない」
アシュリーは、取り乱したジョッシュが己の行動を非難した謝罪かもしれないと思い、何も言わなかった。再び、クリスの亡骸にアシュリーは頭をうずめた。
ジョッシュは天井を仰ぎ、息を切らしたように呼吸を数回繰り返す。
狂気を置いて、ひたすら自分の頭と身体に親友の最期の言葉のみを染み渡らせる。
後悔を超えた痛みが胸を穿き続けているが、静かにアシュリーを立たせて小屋の出口へと促す。
不思議と妹たちからの怨嗟の声は消えていた。ただクリスの声質だけが…静かな願いがジョッシュの背を撫ぜた。
雪を再び踏みしめる時、己こそが脅威でありそれ以外には何もあるはず無いのだが。
…ジョッシュは本当に山から彼女を無事降ろせるのか不安を覚えた。
でも、それはやらねばならない事である。
