Chapter Text
リールが巻かれるような、耳にいやらしく残る音が響いた。いや違う、リールは巻き戻ったのだ。正しい位置へと。ヌードルスは「以前」のように起こされる形でなく、静かに自ら起き上がった。東洋風の神秘的な音楽、すっかり腑抜けた客、あるいは睦み合う男女。すべては、ここに来たばかりのときと、「以前」と、何も変わらない。見た通りの光景だ。
ヌードルスは阿片特有の離脱症状も見せず、冷静に辺りを俯瞰する。そんな彼に対し、そばにいた中国系の従業員は、逆に心配するかのような目つきで覗いていた。
「大丈夫だ」
そう、まったく以て問題がない。「以前」も目覚めは最悪だったが、何とかまともに動けるまで回復するのに時間はかからなかった。今回はスムーズに起きられたため、動ける時間が長そうだ。しかし、早く出ればむしろ追手と鉢合わせる危険がある。ヌードルスは腕時計を確認し、入口と裏口、両方の様子を見た。あそこに行くのはまだ早いが、他にできることはある。
時を見計らい、チャンに礼を言って阿片窟を出た彼は、先日の禁酒法撤廃で行われた、祝賀の残骸が残る街へと足を進めた。そこらに広がる火薬と、吐瀉物のにおい。放置された色とりどりのテープを、くしゃりと踏んだ。
電話のベルは、もう響かない。
十一月、もう冬の本番が始まったかと錯覚するほど、ニューヨークは冷え込んでいた。政治の意味でも同じだった。今やこの街に限らず、アメリカ中を賑わしているベイリー疑惑。日毎に様々な事件を生み、真実を藪に隠す。渦中のクリストファー・ベイリー商務長官はロングアイランドの屋敷に籠りきりで、ここ一週間は姿を見せていない。一方、そんな政治の駆け引きと何の縁も無さそうな一人の男が、ニューヨーク、故郷であるロワーイーストサイドに帰ってきた。実に三十五年ぶりの帰還だった。
男の名はデイビッド・アーロンソン。かつては「ヌードルス」と呼ばれていた。現在はその名を捨て、ロバート・ウィリアムズと名乗っている。とはいえこの街で本名を名乗ったところで、命が狙われることはないだろう。「以前」はそれを恐れていた。しかし受け取った手紙の真意はとっくに知っている。もしかしたら、何もかも彼の妄想かもしれない。それでもヌードルスは確信していた。すべては夢の通りに進行している。そして夢の指し示す運命は、己の意志で変えられる。
この月ニューヨークのそれなりに大きな劇場で、クレオパトラを題材にした舞台が催されていた。ヌードルスは十五日の公演にいた。別段、彼は舞台にも、エジプトに君臨した女王の悲劇にも強い関心はない。演者の中に知り合いがいた。それだけだ。
知り合いは女優だった。ハリウッドでそれなりの成功をおさめたが、ヌードルスと同じく、今は老いさらばえていくのみだ。かつての大女優でも、歳を重ねれば一舞台の主役を張ることすら難しくなる。役は、女王の付き人の一人。はした役だが、クライマックスを飾る重要な要素として組み込まれている。
「瞼は閉じておきましょう」
老いを考慮せずとも、彼女の声は美しく劇場に響き渡った。女王の死を嘆き、いつくしむ付き人。その演技は、まるで演者自身の人生を訴えかけるようで、満員の客席の中、ヌードルスの息を呑ませた。
金曜の公演も無事終わり、デボラは一人、楽屋で化粧直しの準備をしていた。大した役ではないが、今日まで積み重ねたものによって一人分の楽屋が与えられるのは助かった。世話役であるマルゴが言うに、知人が尋ねてきたらしい。根拠もないのにその人物が誰なのか、デボラはわかる気がして、彼を通すことにした。
「立派になったな」
現れた彼は、扉の近くに佇んだままデボラに語りかけた。
「皮肉のつもりかしら」
来客に対し、デボラはその男の顔も見ずに言い放つ。いや、顔はしかと見ていた。鏡越しに。お互い、顔は伏せていた。
「もっと言うことはないのか」
「なんて言えばいいの、こんなとき」
「久しぶり、とか会いたくなかった、とかさ」
「…………」
正直、会いたくはなかった。むかし、己を酷く傷つけた相手だから、というのはたしかにある。だがかつて自分を好いて、自身も好いていた男に今の姿を見られたくなかったという気持ちもまた、デボラの本音だった。
「何か飲む?」立ち上がり、ようやく振り向いたデボラに対し、ヌードルスは黙って首を振った。「そう。私は飲むわ」
デボラは紅茶を淹れながら、邪魔をしないよう衝立の影で待機していたマルゴに、
「もういいわマルゴ。帰って大丈夫よ」と声をかけた。
はいミスデボラ、と答えマルゴは部屋をあとにしていく。デボラは再び腰を下ろし、本格的に化粧を落とし始めた。ドーランが剥げていき、しわがあらわになっていった。
「今までどこに?」
「街を離れてた」
「戻って長いの?」
「二、三日ほど前に戻ったばかりさ。……いや、そうじゃない」
同じように顔のしわを増やした彼は、少し息を吸って一瞬だけ考え込み、ようやくデボラをまっすぐと見た。
「デボラ、すまなかった。あのときのことだけじゃない。今まで、本当に」
「…………」
内心、デボラはかなり驚いていた。賢い男だったが、人とのかかわりについては不器用で、自分からは謝らない人間だった。
「君は、俺と別れて女優になることを選んだ。正解だ。俺は、大事な人を傷つけることしかできないような人間だから」
ヌードルスはポスターの方を見上げる。「今回」見るポスターに、あの文句はない。
「『年にも萎れぬ花』、君にぴったりの芝居だった」と告げた。
「ひどい冗談。つまらないわよ」
「本心から言ってる」
「こんなものよ。ファンが愛していたのはしわもなく、動きも軽やかだったころの私。あなたもそうでしょう」
三十を超え、四十にもなると仕事はみるみるうちに無くなっていった。わかりきっていたが稽古やトレーニングは続け、必死でこの業界にしがみついてきた。もうデボラは主役級の仕事を望める立場ではない。それでも何かに報いるかのごとく、動けなくなるまで続ける覚悟は秘めていた。
「いいや、君は今が一番綺麗だ」
「…………」
「あの日、君を傷つけたことを肯定しているわけじゃない。笑って送り出してやれなくて、すまなかった」
「そう言えば、すべて許されるとでも」
「わかってる。これは俺の自己満足でしかない。でも何もかも事実だ。……後悔していた」
やはり、デボラの知っている男ではなかった。過去にすがりつき、もろく儚い思い出を糧に生きるような人だったはずだ。三十五年という月日が、彼を変えたのか。
「……わざわざ謝りに来ただけなの? ヌードルス」
「そうだな。それも大事な用だったが、もう一つある。単刀直入に行こう」
ヌードルスが懐から取り出したのは長封筒だった。鏡越しでも、上流階級が好んで使う調相のものだとわかった。
「ベイリー長官……最近新聞やらテレビやら騒がしている政治家だ。彼から明日行われるパーティに招待された」
「……!」
息を呑んだ。デボラは、ベイリーをよく知っていた。正確には彼の正体を。ヌードルスはこの街に戻ったのではない。呼ばれたのだ、彼に。なぜ呼んだのか、理由はわからない。だがこのままヌードルスをパーティに行かせて、万事平穏に済むとはとても思えなかった。
デボラの化粧を直す手が一瞬焦ると、ちょうど舞台裏に続く扉からノックの音が響いた。
「誰なの?」
「デイビッドだよ!」
その声にデボラはさらに動揺した。取り乱した彼女は、
「デイビッド! 待って! そこにいて頂戴!」と叫んだ。
待ってるよ、と少年の声が返された。デボラの手は、もはや震えている。
「デボラ」できる限り、ヌードルスはおだやかに彼女に語りかけた。「デボラ、あの扉の向こうにいる彼が誰なのか、俺は知ってる」
デボラの手、いや彼女の表情、動きのすべてが静止した。
「何より、彼の父親が誰なのかも」
「全部調べた上で、ここに来たって言うの」
「そうだ。あの扉の向こうを見ても、俺は塩の柱になったりしない」
彼は何もかも知っている。ベイリーのことだけではない。デボラ自身が、今どのような立場にいるのかもお見通しなのだろう。
「知っていたなら、なぜ来たの……」
本当は声を上げて責め立てたかった。だが、大声を出せば扉の向こうにいるデイビッドに聞こえてしまう。あの男の息子とはいえ、あの少年は自分たちと違い、何の罪も犯していない。だからこそ、自分たちの罪を知ってほしくない。感づいてほしくもないのだ。
「もう一つの件ってのも、結局は謝罪だ」
ヌードルスの視線は、もう決して逸れなかった。
「俺は明日、君やあの子を含む、大勢の人に迷惑をかけることになる。本当に、洒落にならないくらいのだ」
「…………」
「だから君だけには、事前に謝っておきたかった。もう君には何の迷惑もかけたくないと心から思っていたのに、すまない」
「…………やめて」
すでにデボラの頭には、彼の言う「迷惑をかける」という意味が出来上がっていた。それは、想像し得るに最悪の未来。絶対に見たくない未来だった。
「君が何と言おうと、俺は行かなくちゃいけない」
「何があなたを、そこまで駆り立てるの。そんな人じゃなかった……」
違う。ヌードルスを駆り立てるものの正体なんて、デボラはよく知っている。ただ、認めたくない。ずっとずっと、少女だった頃からそうだった。
問いに答えるべきか、そうでないか。ヌードルスは迷いすら顔に出さない。出す資格すらないと思っているのか。結局、
「もう、行くよ」それだけ言って、彼は舞台裏への扉を開けた。
扉の向こうには、舞台に使われた豪勢な椅子に腰かける少年がいた。反射的に、かつてオフィスに教皇の椅子だとかを入れた親友の姿を思い出した。何よりその少年の顔は、彼が子どもだった頃と生き写しだった。
当然、少年と目が合った。デボラの楽屋から出てきたことがわかると、彼はヌードルスに話しかけてきた。
「こんにちは。……デボラのお知り合いですか?」
「……ああ、古い馴染みでね。君は?」
「僕の父が、彼女と懇意で。僕もよくしてもらっているんです」
ヌードルスは少年の顔をじっと見た。見れば見るほど、本当によく似ている。
「あの、すみません。何か?」
初めて会った男に顔を凝視され、少年は怪訝な顔をした。
「すまない。むかしの親友に、よく似ていたもので」
「そうですか……」
本当に、この子供には何の罪もない。だがここで見知らぬ男が謝ったところで、意味はない。ヌードルスは心の中で、静かに彼に謝罪した。
「デボラを、よくしてやってくれ。デイビッド君」
己と同じ名を与えられた、親友の息子に手向ける言葉は、それくらいしか思いつかなかった。扉のそばに、化粧を落としきっていないデボラがいた。おそらく、今生の別れだ。だからこそ、二度と振り向くことはなかった
