Work Text:
「きみが眠れるように、色々と調べたんだよ」
悪魔に告げた天使は、古書店の二階、クロウリーの寝室へと変えた部屋へと案内した。
それが騒動の始まりだった。
アジラフェルは不眠に悩むクロウリーを、それはそれは心配した。
アルマゲドン騒動から数年後、疫病によるロックダウンも解除され、ようやく日常が戻ってきた時期になって、クロウリーは「なんとなく眠れない」日が続いていると天使に相談した。眠ることはできる。だが目覚めてもすっきりとしない。クロウリーによれば何日も「浅い眠り」が続き、あまりに眠れないのでメイフェアのベッドでの寝心地 ― シーツの皺だとか枕の膨らみーに違和感を覚えるようになってきたと告げた。
「ロックダウンで寝すぎたとかではなくて?」
アジラフェルが聞くと、クロウリーは首を振った。
「一世紀近く眠ったときだって、その後も普通に眠れた。たった数か月眠っただけで、不眠になるとは思えない。分かりやすく例えるなら、一流レストランの食事をしてもまったく満たされないようなもんだ」
それから大きな溜息をついた。
食事を例に出されて、アジラフェルもようやくクロウリーの境遇に共感できた。幸せなはずなのに満たされないとは、なんと痛ましいことか。そしてクロウリーの神経質で疲れた様子に心を痛めた。
「地獄の嫌がらせかストレスか。原因が分かれば解決できるが、それすらも分からないから困る。不眠症に悩まされる悪魔に効く薬なんてないし」
呟くクロウリーを見て、なにか手を打とうとアジラフェルは決意した。困っているクロウリーを見るのが、アジラフェルにとって最も苦痛だった。
数週間、アジラフェルは自分のコレクションの文献を漁り続け、ついに一つの解決策を導き出した。
「…それがこの魔法陣とベッドか」
アジラフェルの説明を受けたクロウリーは、床とベッド(ベッドはアジラフェルが用意した新品のキングサイズ)を交互に眺めた。古書店に到着して早々に部屋に連れてこられたので、土産のお菓子(アジラフェルお気に入りの店の新作)の袋を抱えたままだ。
「どうかな?眠れそうかな?」
アジラフェルは聞いた。「ずいぶん古い本に書かれていた魔法陣を床に書き写したんだ。安眠をもたらす魔法だそうだよ。うち…天国の仕事ではないから、きみに害はないと思う」
ベッドを囲むように床一面に描かれた模様を指す。昨日、一晩かけてチョークで書き写した成果だ。
「何もここまでしてもらわなくとも」悪魔は一歩下がった。「まだ朝だし」
「きみの幸せがわたしの幸せでもあるんだ。でもほら、さっそく効果が出たみたいだ」
連日の寝不足も加わったのか、クロウリーは欠伸をしていた。
「ではお言葉に甘えて。ベッドを借りるぜ」土産の袋をアジラフェルに渡して、指を弾いて寝間着に着替えてからクロウリーはベッドに近づいた。
「おやすみ、クロウリー。よい夢を」
クロウリーが枕に頭を乗せたのを見届けて、天使はドアをそっと閉めた。
昼頃、階下の書店で本を読むアジラフェルの傍に小さな姿が近づいた。アジラフェルが足元を見ると、黒猫がアジラフェルの周りを嗅ぎまわっていた。
「おや、クロウリー。どうしたんだい。そんな姿で」
アジラフェルはクロウリーが黒猫の姿を選ぶことも知っている。だから声をかけたのだが、猫が振り返った瞬間、人違い、悪魔違い、いや猫違いに気がついた。猫は青色の瞳をしていた。クロウリーは猫の姿でも黄色の瞳だから、この猫はクロウリーではない。
「すまないね、クロウリー…悪魔と間違えた。どこから入って来たのかな?」
店は今朝から閉店したままだから、入り口ということはありえない。
黒猫はアジラフェルに構わず、天井を見つめ始めた。
次いでアジラフェルは「黒猫だから、クロウリーの友人か使い魔かい?」と尋ねた。猫が返事をするとは思わなかったが、念のため聞いた。もしもクロウリーの使い魔や知り合いだとしたら、クロウリーが眠っている間はアジラフェルが面倒をみなければならない。
アジラフェルは猫の目をもう一度見た。うまくは説明できないが、普通の猫とは違うと思った。少なくとも天国からの使者ではない。かといって地獄の匂いもしない。
「きみはだれだい?」
問いかけに猫は答えず、アジラフェルから離れてとことこ歩き始めた。階段のふもとに着くと、ひょいひょいと登り始めていく。アジラフェルはゆっくりと後を追った。危険な生き物には思えないが、クロウリーの安眠を妨げては困る。
「部屋に入りたいかい?」
アジラフェルが追いつくと、猫はクロウリーの眠る部屋のドアの前で佇み、ドアノブを見上げていた。その部屋の中はアジラフェルの宝ものがあるだけだ。
「ほら、かわいいだろう」
ドアを開けると同時に、アジラフェルは猫に話した。わたしの自慢の悪魔、とはさすがに口に出しては言わなかったが、やはり相手が猫であろうと自慢したいのは確かだった。
「きみがクロウリーの使い魔か知り合いなら、クロウリーと一緒に眠ったかもしれないけど…」猫はクロウリーのほうをちらりと見ただけで、近寄ることもなかった。
「この魔法陣にさえ気を付けてくれれば、きみは自由に出入りしていいよ」
猫に声をかけた。もし魔法陣を傷つけてしまったら、クロウリーの安眠の魔法は解けてしまう。
「ずっと、クロウリーはここにいて欲しいな…」
今度は猫に対してではなく、独り言だった。
クロウリーはときどきアジラフェルから距離をとってしまうときがある。数か月前はどこかへ出かけていたらしく、アジラフェルに連絡やランチの誘いも寄越さなかった。その間、ずっとアジラフェルはやきもきしており、やっとクロウリーと再会したときには嬉しすぎて発光したほどだ。
ハルマゲドンとロックダウン後、ふたりが会う頻度は増えたとはいえ、アジラフェルとしてはもっとクロウリーと過ごしたいのが正直な心情だった。クロウリーの寝室を作ったのは「クロウリーに傍にいてほしい」という独占欲から生まれたものだと、アジラフェルは心の底ではわかっている。クロウリーが傍にいれば、アジラフェルに連絡が来ないという事態にはならない。
「昔のように百年に一度とかではないし、わたしが望みすぎなだけかな」
これは猫に対して言った。しかし、猫は本の塔を見上げ、天使には何も答えない。
「本が気になる?」クロウリーを起こさないように、小声で猫に話しかけた。本の塔に登られたら困る、と思い至った。塔が崩れて、クロウリーに当たってしまうかもしれないからだ。焦ったアジラフェルは「下に戻ろう」と黒猫を抱きかかえて連れて行った。
抱きかかえられた黒猫が、窓を見つめていたことに天使は気がつかなかった。
そうこうするうちに日が暮れた。猫に首輪はないが、毛並みは綺麗に整えられているから飼い主がいるに違いない。善行を行うチャンスを逃すわけにはいかないアジラフェルはペンを手に取った。
『黒猫を預かっています。青い瞳です。首輪はありません。 A.Z.フェル書店』
包装紙の裏に書いて、書店の扉に貼った。
「これで見つけてくれるといいんだが」クロウリーだったら効率的な手段で飼い主を探したろうが、今は眠っているからそうもいかない。
「飼い主が来るかもしれないから、明日は店を開けるよ」それから黒猫に「夜に眠る場所はどこがいい?」と声をかけた。
相変わらず黒猫はアジラフェルには返事せず、ただ紙を見つめていた。
その夜、ホブ・ガドリングは奇妙な夢を見た。
場所はNew Inn、モルフェウスと133年ぶりの再会を果たした場所だが、ホブ以外に誰もいない。見下ろすと、自分は1889年にモルフェウスと喧嘩別れをしたときの服装をしていた。
「…ブ、ホブ…」
聞き覚えのある声を耳にしてカウンターに目をやると、何か黒い生き物が弱弱しい声でホブの名前を呼んでいた。
「ドン…書店…たすけ…」
「…モルフェウス?」いつもの黒コート姿ではないが、まぎれもなくその声はモルフェウスだった。ホブがカウンターに近づくと、その黒い物体はちらちらと点滅を始めた。
「どうした?なぜそんな姿に?」ホブは慌てて聞く。もしかして、これは1889年の再来なのではないか?ホブと別れた数十年後、モルフェウスは人間に囚われたが、それがもう一度起こったのか?背中に冷たい風が通り抜けるのをホブは感じた。
「A…Z…ソーホー…書店…」
黒い生き物はそれだけ言い残し、音もなく消えた。同時に、ホブは目を覚ました。
黒猫の次は、黒い鳥だった。
黒猫来訪の翌朝、アジラフェルの書き物机の傍の窓にカラスが現れた。書店を覗き込み、姿を消したかと思いきや、気がつくと同じ場所に戻ってくる。古書店にカラスが好きそうな光りものや餌はないし、普通のカラスには思えなかった。だが黒猫と同じく地獄と天国の匂いは感じなかったので、アジラフェルは無害と判断して特に何もしなかった。
カラスが何度目かに姿を現したとき、「実は普通のカラスではなくて、粉ひき小屋の見習いだったりしない?」と窓越しにアジラフェルは聞いた。天使の声が聞こえたのか分からないが、カラスはカーとだけ鳴き、窓から飛び去った。
その数時間後、黒猫がカラスと窓越しに向かいあっていた。猫は置物のようにおとなしかったが、カラスは時おり羽根を広げ、足を動かした。最初はカラスの威嚇かと思ったが、喧嘩をしているようにはアジラフェルは見えなかった。
同じ黒い生き物どうし、何か気が合うのだろうか。黒色からクロウリーの服装を連想し、アジラフェルは階段を上り始めた。まだ眠っているかもしれないが顔だけでも見たい。そういえば、あの猫が鳴くところをみたことがない。黒い鳥も誰かのペットなら貼り紙が必要だろうか、と考えながらアジラフェルはドアを開けた。
クロウリーは前日と同じく、すやすやと眠っていた。眉間にしわひとつなく、目元の隈も昨日より薄くなったように見える。眠るクロウリーを見てアジラフェルは自分の胸に、あたたかいものが広がるのを感じた。天国からも地獄からも解放され、ふたりきりで過ごす。アジラフェルがこれまで想像していたが無理だと諦めていた夢が、こうして叶ってしまうとはアジラフェルには信じられなかった。ずっとこんな日が続けばいいが、誰にも邪魔されずに、と考えて昨日と今朝の来訪者を思い出した。
「黒い猫とカラスが来たよ。君の友達かい?」と聞くが、答えはない。
「誰かのペットかな。目が覚めたら、飼い主探しを手伝ってほしいな。ああでも、眠ければまだ寝てていいよ」クロウリーが眠っているのは幾らでも眺めていられるが、返事がなくて寂しくて、少しだけ溜息をついた。
魔法陣を踏まないようにアジラフェルは窓に向かった。部屋の換気をしないと、クロウリーの眠りに影響が出るかもしれない。ベッドから離れた小窓を開けると、階下の入り口のベルが聞こえた。
「★☆☆☆☆ 値段を聞いたら非売品と言われた。書店なのに!」
「★★★★★ 卒論で探していた本が見つかりました。店主はいい人です。閲覧させてくださり感謝しています」
「★★☆☆☆ いい雰囲気のお店ですが、開店時間が不定期なので注意。あと、店主の友人?が来たからと言ってすぐに閉めるのはやめてほしい」
モルフェウスが夢の中で言い残した書店はすぐに見つかった。「A.Z.書店」と確かに看板にある。検索結果の住所と同じだったのは安心した。朝早くでは開いてないかもしれないので大学の昼休みに訪れたのも正解だった。どうやら店は開いているようだった。
見た目は普通の古書店だが、何が潜んでいるか分からない。ホブは拳を握りしめた。
もちろん不安はあるが、「たすけて」だなんてモルフェウスに言われたら、ホブとしては向かわざるをえなかった。
扉を開けるとき、貼紙が目に付いた。いまどき珍しい書体のメモだ。
「黒猫?」
そういえば夢の中のモルフェウスも、黒い生き物の姿だった。では、この貼り紙の黒猫はモルフェウスのだろうか。しかし、閉じ込めている張本人が黒猫の飼い主を探す貼り紙をわざわざ作るだろうか。頭の中は疑問符でいっぱいだったが、ともかく行動あるのみ。と決意して書店に足を踏み入れた。頭上でチリン、とベルの音が響いた。
目立つ場所に置かれている「シェイクスピア全集」を眺めているふりをしつつ、店を探った。客はいない。モルフェウスが閉じ込められているとしたら、どこだろうか。地下か、屋根裏か。ほかに入口となりそうな場所は。窓の外に黒い鳥が映ったと思った瞬間、ホブは店主と思われる男性に声をかけられた。
「ご用件は?」
「その…」
あんたがモルフェウスを閉じ込めた張本人か。あの貼り紙は。と問い詰めたい気持ちに駆られたが、いきなり切り出すのは躊躇われた。目の前の人物は、いかにも古書店の店主といった穏やかな雰囲気の男性で、モルフェウスを閉じ込める黒魔術に手を出している人間には見えなかった。
いいや、こうした人間が実は裏で悪魔と取引をしているかもしれない。まずは当たり障りのない話題を考えたところで、声が響いた。
にゃーん
黒猫が大時計の傍で鳴いた。
「あ!」声を出したのは店主と同時だった。
「モルフェウス!」
呼びかけると、ホブに近寄るどころか猫は大時計からダッシュし、階段を登り始めた。
「待ってください、その先は」
店主の声は無視して、ホブは猫を追って二階に辿り着いた。黒猫は廊下の真ん中で座り込み、おそらくは店主の私室のドアを見つめていた。
間違いない、この目の色はモルフェウスだし、先ほどの鳴き声だって夢の中の声と似ていた。じゃあ、貼り紙の猫とはモルフェウスだったのか。なんで二階に逃げたのか。という質問は後にして、今は無事を確認しなければ「モルフェウス、モルフェウス。無事か?怪我はないか?助けに来たからな。てっきり…」
閉じ込められたのかと思った、という言葉をホブは飲み込んだ。後ろから店主が追い付いてきたからだ。
「飼い主さんでしたか。なるほど、あの貼り紙を見たんですね」
「まあ、そうです」
ホブは曖昧に答えた。実は猫ではなくて夢の王です。百年に一度会っていたが、最近は会う頻度が増えて、昨日の夢にも現れて…という話をするわけにもいかない。
「ひとまず抱き上げていいか?」
ホブはしゃがんだが、モルフェウス(黒猫の姿)はドアをまだ見つめていた。
「なにか部屋の中に?」
店主に尋ねた。モルフェウスが気になる何かがあるのか。餌に釣られるとは思えなかったが、モルフェウスが猫の姿になった原因があるかもしれない。
なるほど、この男性は猫の飼い主だったのか。
「モルフェウス」と呼びかけるのを聞いてアジラフェルは内心で納得した。モルフェウスとは確か眠りの神の名前だったと思ったとたん、「なにか部屋の中に?」と聞かれてしまった。
『その部屋には悪魔が眠っているので』とは答えられない。さて、どうするか。いっそのこと指を弾いて記憶を飛ばして…とアジラフェルが思った瞬間
がっしゃーん
部屋の中から、何かが崩れた音が聞こえた。猫とその飼い主はもちろん、アジラフェルも飛び上がった(おそらく、数インチは中に浮いた)。
「クロウリー!?」
アジラフェルは迷わずドアを開けた。もしかして魔法陣に不具合が出て、クロウリーに何か起こったのかもしれない。
「あっ。ご主人さま?ねえ、ご主人さまが言っていた部屋ってここです?…あっやべ」
アジラフェルが目にしたのは、部屋の中で最も低かった本の塔(アジラフェルのふくらはぎ程度)が崩れたのと、大きく開かれた窓、床で立ちすくんでいるカラス(立ちすくむという言葉がカラスにふさわしければだが)、そして眠り続けているクロウリーだった。
「…口をきいたのは君かい?カラスくん?」
やはり、普通のカラスではなかったのか。クロウリーの姿は先ほどアジラフェルが見たときと何も変わっていないから無事だ。しかしカラスに暴れられては困る。窓と崩れた本を交互に見て、アジラフェルはカラスに近づいた。
カラスは床から跳ね、そのまま窓へと飛んだ。アジラフェルも追って窓へと近づいた。
「ホブ、部屋に入ってくれ。マシュー、逃げろ」
「モルフェウス?」
ホブは耳を疑った。足元のモルフェウスは猫の鳴き声ではなく、間違いなく人間の言葉をはっきりと発した。
「ホブ、魔法陣だ。あれがわたしを閉じ込めている。消してくれ」
中を覗き込むと、中央のベッドの周りに白い円で何かが書かれていた。ホブは魔法陣に近づいた。
カラスが窓枠に乗ったために店主は窓を見上げていて、こちらに背中を向けている。ホブは線を踏み、それから足を少し引きずって線を擦った。
瞬間、停電したように暗闇が訪れた。窓の外から差していた日の光も、太陽が急に雲に隠れたかのように途切れた。その場にいた人間と天使、カラスが暗闇に慣れるより早く、次の瞬間には全てが元通りとなり、そしてクロウリーの声が静寂を破った。
「何の騒ぎだ?」
「つまり整理すると、あんたは眠りの神のモルフェウスで、夢の王で、エンジェルが魔法陣を描いたから召喚されたと」
「神ではない。正確には夢の擬人化概念体だ」モルフェウスがぶすっとした声で訂正した。
「…擬”人”化ではなくて、今は猫だけど」
ホブは膝の上のモルフェウスを撫でながら言葉を挟んだ。
冷静さを装いつつ、内心は混乱していて今の状況にとてもついていけなかった。テーブルを挟んだ向かいのソファには天使と悪魔が並んで腰かけ、自分の膝には猫のモルフェウスがいて、お茶とお菓子をごちそうになっている。
古書店の店主はアジラフェルと名乗り、今は天国から距離をとった天使だと告げた。二階のベッドで眠っていたのはクロウリーで、同じく地獄から距離を置いた悪魔だと聞いた。ネットのレビューで書かれていた「店主の知り合い」とはおそらく彼だろうとホブは納得した。
モルフェウスが話を続けた。
「…猫の姿でこの辺りの猫たちの夢を探っていたら、天使の魔法に巻き込まれた。魔法そのものは単純な安眠作用をもたらすものだったが」しっぽを揺らした。
「魔法をかけたのが天使だったのが問題だった。天使の羽根はわたしの移動範囲を縛りつける要素があるから、わたしは書店から離れることができず、魔法陣を解けなかった」
「薬の飲み合わせが悪かった、みたいなものか。でもさすが眠りの概念擬人化体?のおかげか、よく眠れた。礼を言う」クロウリーは告げた。
「…あのカラスは?」
アジラフェルがカップを置きながら尋ねた。クロウリーが目を覚ました後、カラスはどこかへと姿を消していた。
「彼はわたしの使いだ。名前はマシュー。夢の国へ帰った。今頃はわたしの無事が王国にも伝わっているだろう。」
それからモルフェウスはクロウリーに目を向けた。
「わたしこそクロウリーに礼を言うべきだ。きみがよく眠っていたからこそ、わたしは夢を通じてマシューと連絡を取り、ホブに来てもらって魔法陣を解いてもらった。マシューとわたしだけでは魔法陣を消すことはできなかっただろう。ホブ、突然だったのに来てくれてありがとう」猫の瞳で膝から見上げられてホブは動転した。
「え?ああ、いいんだよ。きみの助けになれてよかった」
急な礼にとまどったが、笑みを返した。
マシューが窓から部屋に入り、天使を引きつけている間に魔法陣の線を消す計画がうまくいかなければ、前世紀のようにモルフェウスは書店から出られなかったかもしれない。いち早くSOSを自分に送ってくれてよかった、とホブは身震いして紅茶を啜った。
「元はと言えばわたしのせいです。申し訳ありませんでした」
アジラフェルがうつむいた。
「エンジェル、前にも言っただろう。お前は悪気があったわけじゃないし、そもそも天使が悪いことできるはずがない。おれのためにしてくれたことだし」クロウリーがアジラフェルの目線に合わせて屈みこんだ。
アジラフェルは両手を揉み合わせた。
「でも、わたしはきみを無理やりベッドに連れて行った。きみは『まだ朝だし』と一度は断ったのに。もっとわたしが呪文に気をつけていれば。一日とはいえ、わたしはきみを夢の中に閉じ込めたようなものだ。もし魔法が解けないままだったら、きみは」
「ずっと眠っていただろうな」モルフェウスが無慈悲にも付け加えた。
モルフェウス、と窘めるホブの声を無視して猫は喋り続けた。
「いくら愛する相手といえど、愛するあまりに一か所に縛り付けてしまうのは褒められた行いではないと思うが。愛する相手を自由にするのも愛ではないのか」
まあ、わたしは偉そうに言える立場ではない、との小さな言葉はホブの耳にしか届かなかった。
「そうですね。ずっと相手にいて欲しいと願うのは愛とは違いますね。愛って難しいですね」苦笑し、アジラフェルはクロウリーに向き直った。
「マイディア、きみには申し訳ないことをしてしまった。きみの悩みを取り除きたくて、きみと一緒に過ごしたい欲が暴走した結果がこれだ。どうかわたしを許してほしい。いいや、無理強いはしない。きみは自由だ。でも、ときどきでいい。許されるならきみと一緒に過ごしたい。きみを愛し続けてもいいかい」
「…アジラフェル」
「…あのう、そろそろ、俺は次の授業があるので」
ふたりの世界に落ち着かなくなってきたホブは口を挟んだ。
「えっ、ああ。そういえば大学教授でしたね。引き留めてしまって申し訳ない」
アジラフェルは見送りのため腰を上げ、ホブはモルフェウスを抱いたままソファから立ち上がった。書店の入り口を開け、ベルを鳴らした。
「紅茶とお菓子、ありがとうございました」
「授業で必要な資料があればいつでもお立ち寄りください。閲覧は可能ですので」
「アジラフェル、羽の管理と魔術書の使い方にはこれから気をつけてくれ。それから、クロウリー」
モルフェウスがホブの腕の中から声をかけた。
「きみが見た夢を伝えてみるといい。夢を見る悪魔、希望を信じる悪魔は珍しい。その能力を存分にいかしてくれ。ではまた夢で会おう」そして抱えられたままホブと去っていった。
教授と猫が店から去った後、クロウリーは溢した。
「あいつ、捕まっていたときはともかく、最後まで猫の姿だったのは理由でもあるのか」
「さあ、抱っこされるのが気に入ったんじゃないかな」
気に入ったどころではなく、夢の王は彼に抱きかかえられるのが好きなのだろうとアジラフェルは思った。クロウリーと自分ほどではないにしろ、あのふたりからは間違いなく長い年月で培われた愛と優しさを感じた。ガドリング氏が夢の王を撫でる仕草、夢の王がかける声の優しさからは間違いなく愛の匂いがした。ただし、あのふたりから感じるのは縛りつける愛ではなく、適切に相手と距離をとって尊重し合う愛なのかもしれない。
「ところで」
アジラフェルは夢の王の言葉を思い出しながら聞いた。「…きみが見た夢を聞いてもいいかい。マイディア」
そうして昨日と今日のクロウリーの安らかな寝顔を思い浮かべた。クロウリーにとっての幸せな夢とはなんだったのだろうか。夢の王は愛する相手を自由にすることも愛だと言った。クロウリーが天使から離れたいというのなら、アジラフェルはクロウリーから離れる覚悟がある。先ほど決めた。唇をかみしめて、悪魔の言葉を待った。
クロウリーは首の後ろに手をやりながら答えた。
「…あー。海辺のコテージで、エンジェルと一緒に住んでいる夢で…」
「…コテージ」
一緒に、とはどういう意味だろう。アジラフェルはクロウリーの表情をうかがった。
「数か月前にロンドンから離れていたのも、その下見というか。ほら、ロックダウンで離れて過ごしたのは不便だっただろう。だから一緒に過ごすのもいいかと思い付いて、だけどふたり暮らしのコテージ、思ったより数があって、不眠症も重なって、連絡するのも忘れて。くそ、ほんとうは驚かせる予定だったし、きちんとエンジェルの許可も取るつもりだったのに、あの王ときたら」
「クロウリー」アジラフェルはクロウリーの腕をとった。
クロウリーの答えはしどろもどろだったが、クロウリーの愛情と優しさがまっすぐにアジラフェルの心に突き刺さった。そして先ほど、教授と猫の前で発した言葉をもう一度繰り返した。
「きみがよければ、きみと一緒に過ごしたい。きみの見つけたコテージで、これからもきみを愛し続けてもいいかい」
「イエス」クロウリーはアジラフェルのいちばん大好きな笑みー口角を上げてサングラス越しでも目をきらきらとさせる笑みーを浮かべながら言った。
そうだ、わたしはこの笑顔を見たかった、とアジラフェルは気づいた。眠っているときに見れない、このクロウリーの笑顔を。
「ただ、魔法を使うときは事前に相談してくれ、エンジェル」
アジラフェルは「もちろん」とクロウリーの手を握った。
「あの悪魔が、ジョアンナ・コンスタンティンと遭遇しなければよいが」
店から出た直後、ホブに抱きかかえられたままモルフェウスは呟いた。
「そうだな、悪魔がロンドンにいるなんて知られたら大変なことに…って。ジョアンナ・コンスタンティン!?まだ生きているのか?」
ジョアンナ・コンスタンティンは、1789年の邂逅に乱入した女性だ。まるでその場に彼女が現れたかのように見渡した後、慌てて咳払いでごまかした。慌てふためくホブに対し、モルフェウスは冷静に答えた。
「いいや、彼女は亡くなった。同姓同名の子孫がエクソシストをしている。わたしも世話になった。瓜二つとはあのようなことを言うのだろう」
モルフェウスはあっけらかんと言ったが、ホブは「世話になった」という言葉がどうにも気に食わなかった。そんな話は、前回に再会したときには聞いていなかったからだ。
モルフェウスの耳の後ろを掻いてやりながら「その話、もっと詳しく聞きたいな。できればすぐにでも、そうだ。今から俺の家でも…」と周りから怪しまれないように小声で囁いた。
「…ホブ、授業があると言ってなかったか?」
モルフェウスがホブのことを気にかけてくれるのが、ホブにはとても喜ばしい。ささやかな幸せと言われるかもしれないが、ホブにはこれで充分すぎるくらいだった。腕の中のモルフェウスをさらに強く抱きしめそうになるほどだった。
「次の授業はzoom授業だ。だから心配しなくていい」
「ズーム…?」
「体験したほうが早い。人間の技術の進歩にきみも驚くよ」
「それは楽しみだ。みせてもらおう」
モルフェウスが賛成したのが嬉しくて、笑みを浮かべたままホブは駆け出しそうになった。だが抱いたまま走るのは危ないと、再び歩みを緩める。モルフェウスを自宅に招く考えに夢中になったホブは、猫が喉を鳴らし始めたことに気がつかなかった。
