Work Text:
人間の認識できない、連立した時空の何処か、時すら忘却の彼方に置き去りにされた、ただ破滅だけが横たわる慵げな空間があった。
薄暗く光を通さない灰色の霧が立ち込め、空さえも見えなければ、皹割れた大地には草花すらなく、高貴なるものを崇める神殿だったものか、死者を悼み弔ったものか、もうその判別すらつかない、祈りが打ち捨てられた瓦礫たちが破壊の跡として敷き詰められている。
怖気を催す冷たい風が一つ、乾いた砂を舞い上げた。
砕かれた銀の鎧の上を砂塵が滑る、纏った外套は元の色ももう解らぬ程に、黒々とした神の血で汚れていた。その御姿は、人に似るが、人よりも均整が取れた金甌無欠の四肢と相貌を持ち、魂は何処までも高遠なる品格を湛えている。決して手に届かぬ理想を体現した外観は、捧げられた願い祈りのその答えとして、時に導き、鼓舞し、憧憬を集めながら、未だ幼く愚かな生命体が紡ぐ歴史を見つめて来た、高尚なる存在である証左であった。人間の物よりも濃く滑らかな赤い血は、黒金色の稜線を描く頬を、宛転たる額を、豊かな黄金の髪を、柳眉を、冴え冴えとした銀を縁取る睫毛を滴り汚している。
地に倒れ、首を晒し、虚空を見上げても尚高潔なる武神は、殺せ、と狭い視界の中に捉えた、こちらを見下ろす仇敵に対して呟く。
その言葉を合図としたのか、黒々とした影法師そのものだった姿は風を受けて揺めく蝋燭の如くに歪み、幾億の形をとった。子を失った母になり、家族を想う夫となり、男を必要とせぬ娘となり、罪を知らない幼児となり、人類史を遡るような目紛るしい変身は、やがて最後に男の形をとった。瞳は宇宙へと繋がる深淵そのものであり、漆黒の髪をゆるく撫でつけて、浄闇を連想させる清潔な黒衣を纏い膝をつくその姿は、神が好む敬虔な信者を思わす。忌々しい。聖者を気取ったところで、この者の本質は何処までも広がり集束していく混沌だのに。
触れて来ようものなら掴んで引きずり倒してやろうと思ったがさて、右腕は左足の場所に、左腕はあの岩陰に落ちている。答えない事に眦を決して殺せと吠えるが、贋物の聖者は眉一つ動かさず、ただ深く影を落とすばかりであった。
呪いの一つでも言えたならば。開いた唇から冷たい空気が入り込み先程までこの世界を飲み込んでいた畏怖の情景を今一度瞼に蘇らせた。
上天狭しと宇宙を思わす広大無辺の体躯を持つ闇の獅子が、振り上げる銀の戦鎚も夜を焼き尽くす青い炎たちも、凶悪な、悪夢を描く牙と爪で引き裂き喰い散らす。国すら平らげんと、天地を揺るがす貪欲なる飢餓の咆哮に、幾星霜求めた闘争と対峙して、魂の奥底が焦熱の如くに煮え立つ歓喜に震え、そしてまた屈辱と憤怒が塗り潰していく。
この者の前では、所詮すべて、有情非情も有象無象も児戯に過ぎないに違いない。
これは互いの命運を委ね合う勇戦では無い、ただこちらの力が尽きるまで甚振るのみの一方的な、何も残さない亡憂の宴の、ほんの『さわり』でしかないのだ。
それでも。小暇にすらならないと知りながらも全て擲ち、この身が消え失せる迄抗わなくてはならない事を知っている。空虚も疑問すらも追いつかない激情が身を燃やす。
何故、かなわないと知りながら。音にはならず、唇は閉じられた。
―――望むものがいるからだ、と、五感すべてを失いゆく神に、滅亡の体現者は答えた。
人の似姿を取るという事が、どういう事なのか。
それは、矮小未熟愚昧迂拙で、星彩届く頃には灰塵すら残さぬ哀れな命たちの絶叫に、深くその存在を寄り添わすということだ。
その願い、祈り、不遑枚挙の感情信仰たちを蓄えた身の、黄昏に燃える小麦の海が如くの金の髪を、焦がれて止まない霊峰を思わせる銀の瞳を、強靭不屈の鐵に似る体躯を、人の腕の伸ばした先に決して届かない水天一碧の衣を、英姿颯爽に闘志を燃やす魂を、何故お前が持たされるのか。
そうあれかしと、最初に言ったのは神だったのか、それとも。
音も立てずに世界は端から崩れ落ちていく。
人に似せた神の、御姿に似せた千姿万態の化身は、ただただ、自ら作り上げた神の遺骸の贋作を見つめていた。
ふと、祈る声が、重なりゆく次元の向こう側から微かに聞こえる。
大いなる力を求めて、己(おの)が生活(たつき)なす世の康寧を、日々の感謝が、細やかな歌のように編まれて消え入りそうでも多元宇宙のこの果てにまで届く。
―――お前はその呼び声に応えて、玲瓏なる秘色の聖域で目を覚ますだろう。この刹那の争乱の記憶が例え夢の名残に押しやられたとて、憤怒の燃料に埋め火に、花馨しく海を臨む永遠の都の怒りの代務者として。また人間に望まれるままに、その権能を揮うのだ。
…望む通り首を落としてやれば、例えば笑っただろうか、と我にもあらず過ったが、今二人が茫洋と居竦むこの場が、誰が何時何処で、望み望まれた夢なのか、果たして語られず、瞼が落ちるようにして終わりは齎された。
