Chapter Text
目の前の窓に、一瞬だけ黒い影が映った。
書き物机で調べごとをしていた天使は、ぱっと顔を輝かせた後に急いで椅子から立ち上がった。黒い影はほんの一瞬だったが、アジラフェルは確信していた。あの気配、あの黒いシルエット、きっとクロウリーだ。いまにも古書店のドアを開けて、いつも通りの声で「アジラフェル!」と呼びかけてくれるに違いない。
ドアの前まで来て、アジラフェルは思った。クロウリーを店内で待ち構えるのは恋人らしくない。クロウリーを真正面から出迎えるだなんて、主人を待つ執事でもあるまいし。
では、アジラフェルが自ら迎え入れるのはどうだろうか。クロウリーが扉を開けようとしたら、アジラフェルが突然に扉を開ける。そしてアジラフェルが「やあ、そろそろ君が来る頃かなと思って」といいながら外に出る。「きっと私たち、心が通じ合っているね」と続けると、クロウリーがこう返す「6000年の付き合いだから」だなんて。よし、開けるぞ。
「クロウリー! そろそろ君が来る頃かと思っ……て……」
アジラフェルは歓迎の言葉を最後まで言うことができなかった。それもそのはず、目の前に立っていたのはクロウリーでなかったからだ。
夢の王、モルフェウスが古書店の入り口に立っていた。突然に開かれた扉に目をきょとんと開いている。
「ロンドンに来る用事があったから、ついでに立ち寄ったのだが。邪魔だったか」
「いいえ、とんでもない。わたしが勘違いしただけです」
モルフェウスのカップに紅茶を注ぎながら、アジラフェルは答えた。クロウリーでなかったのは残念だったが、これはこれで店を閉める言い訳になる。
反対側の椅子に腰かけ、アジラフェルは眼の前の王を観察した。モルフェウスと会うのはこれで二度目になる。一度目は猫の姿だったが、今は人間の姿だ。細い体格、黒い服を身にまとっており、髪の色と目の色を除けばクロウリーに似ていなくもない。テーブルの茶菓子に手を付けずに紅茶だけに口をつけているのも、食べ物をほとんど摂らないクロウリーを連想させた。
クロウリーかと思った窓の影は、モルフェウスだったのかと数秒遅れで納得した。クロウリーは眠るのが好きで夢の国に入り浸っているそうだから、夢の王と雰囲気が似ているのかもしれない。
そんなことを天使が考えていると、紅茶を一口飲んだ夢の王が口を開いた。
「悪魔の……クロウリーとは長い付き合いなのか?」
「ええ?」
まさにクロウリーのことを考えていただけに、クロウリーのことを聞かれてアジラフェルは咳き込んだ。危うくケーキを詰まらせるところだったが、なんとか飲み込み、質問に答えた。
「そうですね、始まりはエデンの園で……今から6000年ほど前からです」
正確に言えば「始まりの前」にも会っているが、あのときの星造りの天使の名前は「クロウリー」ではなかった。「クロウリー」は堕天後の名前だからだ。それになにより、クロウリーにあの時の記憶があるかは分からない。だからアジラフェルとしては、クロウリーとの初対面は「エデンの園」にしておいた。
「わたしは炎の剣を失ったばかりで……そしたら彼が隣に来て、少し話している間に雨が降ってきたので翼を広げて彼を下に……」
「天使が悪魔を羽の下に?」
静かな声で王が尋ねた。馬鹿にしたような響きは一片もなく、純粋な質問だった。今までそんなことを聞いたことがない、というふうな。
「ええ、彼にも言われましたよ『変な天使だ』なんて」
アジラフェルにとって懐かしい記憶だった。そのときのクロウリーの表情を、今でも思い出すことができる。黄色い目をぱっちりと開き(羽の下に入れてやって初めて、アジラフェルは美しい黄金色の瞳をまじまじと見た)、「なんで?」と言いたげな表情を。そんなクロウリーにアジラフェルはこう返したのだった。
「こうしないと、君が濡れてしまうじゃないか。目の前でびしょ濡れになってしまう君の姿を見たくない」
「変なヤツだな、お前、面白そうだ」
クロウリーはそう言って、目を輝かせて笑った。いまにして思うと「面白そうだ」という理由なのか、彼はアジラフェルのところに現れ、長い長い付き合いが始まった。そして当時は気がつかなかったが、あの時、そしてそれからのクロウリーの笑顔には僅かながらも「愛」の匂いがした。つまりエデンの「面白そうだ」は悪魔の無意識の ”I love you”だったのでは……。
「アジラフェル?」
モルフェウスに呼びかけられ、アジラフェルはふっと我に返った。
「申し訳ない、少し思い出に浸っていたようで……」
頬が熱くなってきたのを誤魔化して、アジラフェルは話を続けた。
「『変な天使だ』とは言われましたよ。でも、目の前で濡れる彼を見たくなかったですからね」
「そういうものか」
「そういうものです」
ふむ。とモルフェウス卿は考え込んだ。顎に手をあてて、遠くのほうを見つめている。
考え込んでしまった王を見て、「もしかして、夢の王はこうした行為を受け取るのが少ないかも」とふと天使は思った。誰かの翼の下に入れてもらう、贈り物を貰う、牢屋にまで来て脱出を手伝ってくれる、お気に入りの本を守ってもらう……誰かから無償の好意を受けることが少なかったのではと。
ものすごく「孤独」だ、とアジラフェルは思った。それが「王」であることの責任かもしれないが。
「ええっと、それで、書店にはなにか御用で?」
沈黙が気まずくなって、カップを弄びなからアジラフェルは聞いた。まさか、天使と悪魔の馴れ初めを聞きに来たはずはあるまい。
「ああ、20世紀のシェイクスピア受容について知りたい。資料があれば教えてくれると助かるのだが」
「ええ、ありますよ。少々お待ちください」
アジラフェルはソファから立ちあがりつつ、頭の中でシェイクスピア研究書の表紙を思い浮かべた。
「そろそろ時間だ」
柱時計が5回鳴ったころ、書店内で王の声が響いた。アジラフェルが書き物机から振り返るとモルフェウスが学術書を本の山に戻したところだった。
「もしよろしければ、借りていきます?」
客には(よほどのお得意様でない限り)貸し出しの提案をしない天使だったが、思わず声をかけた。モルフェウスとの空間が少し気に入っていたのも理由かもしれない。アジラフェルはアジラフェルで本を読み、モルフェウスはモルフェウスで別の本を読み、互いに黙ったままでも落ち着いた空間はクロウリーが書店にいるときの雰囲気と似ていた。
やはり、このクロウリーとモルフェウスは似ているところがあるのかもしれない。まったく正反対のようにも見えるのに、不思議だけれど。アジラフェルは改めて思った。
「では、この映像資料を借りていこう」
モルフェウスが手に取ったのは、シェイクスピア劇が収録されたブルーレイボックスだった。BBCで放送された歴史劇のテレビ映画シリーズだ。学術書ではなく、映像作品に興味を持ったのは意外だったが、アジラフェルは深くは聞かないことにした。
「何か紙袋でも……」
「いいや、不要だ」
モルフェウスはコートの裾を掴み、少しだけ広げた。内側がきらりと輝き、「銀河が広がっている」とアジラフェルが思った瞬間、モルフェウスはボックスをコートの中に押し込んだ。途端にボックスは銀河に飲み込まれ、コートは閉じられた。
「すごい、マジックですね!」
「ああ、魔法だ」
頷き、モルフェウスは書店の扉を開けた。
「さらばだ。アジラフェル」
モルフェウスを見送ってから数十分後、アジラフェルはキッチンにいた。紅茶を沸かすため、そして少しだけ考えにふけるためだ。
モルフェウスに貸した映像作品は、いつかクロウリーが「面白そうだからやる」とアジラフェルに渡されたものだ。そのときのアジラフェルは何も考えずに受け取ったが、今になって「クロウリーなりのプレゼントだったのでは?」とようやく気がついた。
焼けた教会から本を拾い上げたのと同じくらいの気軽さだったけれど、今のアジラフェルなら分かる。あのとき、クロウリーは「面白そう」と言った。その言葉にも”I love you”の響きが伴っていたように感じる。天使でなければ気がつかない、とても僅かで分かりにくい旋律の”I love you”という響きが。
「なんだ? このシェイクスピアの山は?」
かつての愛の響きに浸っていると、書店からクロウリーの声が響いた。
「クロウリー!」
紅茶のことはすっかり忘れ、アジラフェルは現在に引き戻された。本の山をしげしげと見ている悪魔に駆け寄り、悪魔の手を取った。
「ちょうど君のことを考えていたんだ。ああ、なんて偶然だろう。来てくれて嬉しいよ」
「どうだかな、そろそろ腹が減ったタイミングなだけじゃないか?」
ニッと悪魔が笑った。クロウリーとモルフェウスが似ているかもしれないと言っても、この笑顔だけは違う、とアジラフェルは心の底から思った。アジラフェルを笑顔にさせる表情を作ることができるのは、目の前のクロウリーだけだ。
「もう、君はそう言って。ちょっと待ってくれ、支度するから。ディナーに行こう。……あ」「どうした? エンジェル?」
動きを止めたアジラフェルに、クロウリーが聞いた。扉を開けようとした姿勢のままだ。
「夢の国に、映像作品の再生機ってあると思う?」
「はあ?」
サングラスがずり落ちそうなくらい、クロウリーが素っ頓狂な声をあげた。
「いいや、先ほどモルフェウスにブルーレイボックスを貸したけど、再生機を持っているのかなって……ちょっとクロウリー、なに笑っているの」
アジラフェルが見やると、クロウリーは体を折り曲げんばかりに笑っていた。アジラフェルがモルフェウスを心配しているというのに、この悪魔ときたら笑い転げている。
なにも失態を笑わなくてもいいのに。とアジラフェルは思ったが、エデンのときだってアジラフェルの行為がクロウリーを引き寄せた、と考えなおした。今だってアジラフェルを馬鹿にして笑っているわけではない、悪魔なりの愛情表現かもしれないと。
「いいや、夢の王にブルーレイボックスを渡すって図がシュールで」
一通り笑い終わったあと、クロウリーは続けた。
「やっぱアジラフェル、お前は面白いよ」
