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鬼の道行き

Summary:

沈垣が沈九に清静峰を追い出された元弟子に出会う話です。
沈九が追い出した弟子たちは洛冰河以前にも体操チームを組める程いたという設定に基づいています。

This is the story of Shen Yuan meeting a former disciple who was kicked out of Qingjing Peak by Shen Jiu.
It is based on the setting that the disciples that Shen Jiu kicked out were enough to form a gymnastics team even before Luo Binghe.

Notes:

(See the end of the work for notes.)

Work Text:

 ただ死んでしまうのではあまりに口惜しい。
未練が残る。
思い残してしまう。
だから何か出来るのではないかと思ったのだ。
死んでも残るものがあるならば。

 

 

鬼はいると思うか。
沈清秋はそう言った。
「何、どうしたの」
軽く笑ってやろうとして、尚清華は口元を引き結んだ。顔を上げた先で見えた沈清秋の表情が存外に神妙なそれだったためである。
尚清華は沈清秋の現在の人間界での住まいである竹林奥の庵にいた。蒼穹山の影響力の及ぶ範囲に懸かるか懸からないかの場所に位置する竹林である。
正確にはその離れに尚清華はいた。客間替わりだと沈清秋は言う。
「詫び住まいだねえ」
沈清秋は肩をすくめた。
「これくらいで丁度いい。この竹林が枯れるくらいまではここにいるつもりだ」
「随分と人間離れした人生計画だことで」
「ここでは十分人間の範囲だろうが」
久々の訪問の用向きを済ませた尚清華はのんびり茶を啜っていた。とりあえず座って向き合ったはいいものの、二人の間には大した話題があるわけでもない。
最近どうだというぼやけた振りに沈清秋の寄越した話題が鬼であった。
鬼、すなわち死人である。
「鬼か」
「鬼だ。いると思うか」
「いないんじゃない?」
「即答だな」
「だって見たことないもん」
窓から午後の光が差し、茶碗に添えられた沈清秋の手を常よりも白く見せている。
「では鬼とは何だと思う」
「そりゃあ死人でしょ」
「そうだが」
沈清秋は視線を彷徨わせた。
「では、人はどうすれば鬼になれると思う」
尚清華は首を傾げた。唐突な問題提起である。人が鬼になる方法と言われても、尚清華には思いつくものがなかった。
尚清華は片肘を突いて菓子を摘まんだ。向日葵の種が練り込まれた焼き菓子は香ばしく、菓子を持った指先まで美味そうな匂いがする。鼻先で嗅いでいると指のあちこちに落ち切らない墨が残っていた。
「見たの?」
鬼というなら目撃談か。どこぞで流行りの怪談か、怪しい事件でも持ち込まれたか。
とにかく死者という存在が介入する余地のある何かが起こったのだろう。いるはずのない者がいたとか、過去の遺恨が祟りを起こしたとか、そういう何かである。
「見たと言えばそうかもしれん。順を追って話す」
沈清秋は秀麗な眉を顰めてそう言った。
鬼の話題は前振りであったらしい。
尚清華はそう了解して机に乗り出すように片肘を突くと、沈清秋の体験談──それとも怪談だろうか──を聞く姿勢を取った。

「先月、村の廃屋敷に鬼が出るのでそれを退治してほしいと頼まれた。で、行ったわけだが」
「一人で行ったの? 洛冰河は?」
「先月はあれだろ。魔界で酋長が集まって何とかかんとか」
「ああ、大王も行ってたわ。あれね」
魔王と北彊の主の伴侶は揃って言葉を濁した。人間界と魔界を行き来しては気ままに暮らす身ではあるが、何の責任があるわけでもない仕事をきちんと把握などしていないのである。
「そう。まあそのそれだ。だから昼間は暇だったんだ」
「キュウリさんって案外出かけるよね」
「現代では部屋にいても退屈しなかったが、ここでは読むものもなくなるとどうしようもない」
「わかる」
「自分で書いてるやつはその限りではないだろうが」
「いや、うん。それはまあ、だから今日も持ってきたんじゃん」
「ありがとう。読んだら感想を添えて返す」
「それなんだけど、あの、これ、版を作ってもらえることになったから、その最初のやつ」
照れくさそうに尚清華は机に置いた本の隅を弄った。未だ流通していない向天打飛機先生の未収録作品である。
春山恨事件から世に出回る娯楽作品が増えた気配はあるものの、書籍は所詮金と教養のある人間の娯楽だった。絶対数には限りがあるのである。
ありとあらゆる書籍を読み漁った沈清秋が向天打飛機の未公開作品があると知り、それを読みたいとしつこく食い下がったのもこういう理由からである。もうキュウリさんったら相変わらず俺のファンなんだから、という戯言は黙殺した。
世の中にはなんという理由はなくとも認められないことというものがあるのだ。
「へえ、よかったじゃないか。おめでとう」
「うん。だから感想だけ送ってもらえたら嬉しいかな」
小さく笑みを浮かべた沈清秋は、改めて口を開いた。

元は豪農の一家の屋敷だったのだそうである。当時のご隠居の代から事業を始め、息子が家を継いだ。そして跡取り息子を先代が支援者に名を連ねたとある宗派に入れることになった。ご隠居からすれば孫である。
よくある流れだ。名のある宗派と繋がりがあれば信用を得やすく、息子まで送ったとあれば名を借りただけと疑われることもない。
それが今やとうに一家も絶えて、当時の栄華を伺わせる大きな屋敷だけが取り残されている。
その屋敷に、女の鬼が出るという。姿を見たという者、女に追いかけられたという者、屋敷で怪しげな人影を見た後に寝込んだという者が次々に現れた。
その女というのが跡取り息子と婚姻するはずだった当時の村長の娘で、一家が絶えたのも彼女の祟りなのだということである。村の者たちはその一家祟り殺しの鬼が戻ってきたと怯えて外にも出られない。
そこで村長がとある竹林の奥に住むという高名な仙師様を頼ってきた、ということだった。
「祟りィ?」
尚清華は胡乱げな表情を隠しもせず聞き返した。
「祟りだ。どうも彼女は宗派へ送られた息子とは大層折り合いが悪かったらしい。息子は数年もしたら帰ってくることになっていた。跡を継がなければならないからな。だが」
「帰ってこなかった?」
「ああ。加えて帰ってくるはずだった年になって村の娘が一人失踪している。これで息子は家を捨てて駆け落ちしたと思われるようになった。許嫁だった娘は捨てられ、息子の方もそもそも本当に宗派に行ったのかどうかすら疑われる始末だ」
「考え得る限りで最大限の最悪だね」
「恥をかかされ居場所を失い、恨みに思った娘は自ら命を絶って以下省略と」
「ありがちと言えばありがち。理不尽と言えば理不尽? 悪いことしたのは息子であって一家じゃないだろうに」
「それでまあ、その娘を何とかしてほしいとそういう依頼だったわけだ」
「なるほど。辻褄合わないところは昔のことで確かめようもなくってか」
「村長はえらく詳しい話をしてはくれたが、正直どこまで本当なのかもわからん」
「ところどころも詳細が抜けてる割りに人間関係だけ繋がってるのがいかにもって感じ」
「だが、その息子が行ったという宗派の名は分かっている」
「へえ。この近くなら幻花宮? 商売関係だし」
いや、と沈清秋は一拍置いた。
「村はここから馬車で三日ほどかかる。幻花宮にはそれほど近くないんだ」
「ん? じゃあ」
「そう、蒼穹山だ」
「うわ」
「で、それが七十年前」
「へえ、俺らが峰主の代じゃん」
沈清秋は頷いた。

馬車を降りると辺りは閑散としていた。
御剣して飛べばあっという間だったのにとは思うが、村長を置いていくわけにもいかない。仕方がなかったのである。
それなりに広い村ではあったと思う。家も多い。道は馬車が擦れ違える程広く、畑も広大と言ってよい。
ただ、人がいない。
閑散としているという印象は人のいない空の風景がそう思わせたのだろう。栄えてはいるのだ。朽ちた様子はどこにもない。馬車が止まったのは村長の屋敷の前である。村の端というわけでもない。
村を見回していると、先に降りていた村長が頭を下げた。
「急な訪問にも関わらず招きに応じていただき誠に感謝いたします。ここが我が村でございます。長旅お疲れ様でございました」
「かまわぬ、ただの隠居だ。そちらこそとんぼ返りで疲れているのではないか」
お気遣い痛み入ります、と初老の男はますます頭を下げた。
「顔を上げてくれ。それよりも、まだ夕暮れ前だが村人の姿が見えぬな」
「それは、はい。先に申し上げました道士様が夕暮れまでには必ず家に入るようにとおっしゃられましたので」
「なるほど」
道士様というのは先だって村に立ち寄った際に、屋敷の鬼に怯える村を憐れんで滞在を決めてくれたという旅の道士であるという。村長が沈清秋の存在を知ったのもこの道士からであるらしい。
曰く、自分の修練は武ではなく、よって竹林の奥に住むという高名な仙師を訪ねよ、その間鬼は必ず自分が抑えていようと言ったのだそうだ。道士様が村を守ってくださっている間にどうか村にお越しください、村をお救いくださいと頭を下げられては、沈清秋も否とは言えなかった。
「ひとまずは我が屋敷へご案内いたします」
「その旅の道士という方もそちらにおられるのか」
「はい、ええ! お二方が揃われるとはなんとも運が良かったとしか申しようがございません」
村長は疲労した中にも感動を滲ませた。
それは果たして村の総意には近かったらしく、村長の隣の沈清秋を見るや泣き崩れる下女までいた始末である。ああよかった、村は大丈夫だと希望を見出す屋敷の中で、沈清秋は視線だけで件の道士を探していた。
何故彼は沈清秋の名を口にしたのか。沈清秋には旅の道士に思い当たる知り合いはいない。
助けを呼ぶにしても、咄嗟に出てくる名にしては沈清秋はいささか世代を過ぎている。人を避けているわけではないにしろ、隠れ住んでいるような引退峰主よりは直接蒼穹山に依頼した方がずっとことはわかりやすい。
自分が呼ばれたことには何か理由があるのかもしれない。
勿論、そうでないかもしれない。
薄暗い廊下を村長に着いて歩きながら沈清秋は目を細めた。

「すぐにお食事をご用意致します」
沈清秋は一つ頷いた。
暫く部屋で待っていると、使いらしき娘が呼びに来た。垢抜けないが、頬を赤く染め緊張した様子が幼気である。
部屋に入ると上座が空いていた。沈清秋の席である。
沈清秋の隣に白衣の男が座り、村長と二名が向かいに並んで座している。立とうとする村長を制し、沈清秋は用意された席に着いた。
「改めてようこそお越しくださいました。心より感謝申し上げます」
「いいや、聞けば古い縁もあるようだ。隠居なりに力を尽くそう」
村長は深々礼をすると、沈清秋の隣の男に目を移して言葉を続けた。
「沈清秋様、こちらが葉湘様でございます」
葉湘は拱手するとじっと沈清秋を見た。どことなく不思議な印象を与える男だった。
「初めてお目にかかる」
「葉湘と申します。こちらこそお目にかかることができて光栄に存じます」
顔を上げ、目が合うとその理由が分かった。男は茶色の瞳をしていた。薄い茶色である。どうやらこの目が不可思議な印象を生むらしい。
その後は村長に並んで座る二人の男がそれぞれ村長の息子、村の古い血筋で交易を担っている家の長男だということだった。
用意された膳を見ればそこそこに品数も揃い、そこそこに美味である。そこそこにというのは、これは普段洛冰河の料理しか口にしない沈清秋の舌が肥えているのが悪いだけである。
三人の村人から事の始まりから現在に至るまでの詳細を聞き、明日は葉湘と沈清秋の二人で屋敷を見に行くということに話がまとまった。部屋から出ようとした沈清秋がふと振り返ると、村長の息子が葉湘に杖を差し出しているところだった。
葉湘はどうやら右足を引きずっているらしい。
杖から視線を上げると葉湘が静かに沈清秋を見ていた。

翌日の夕暮れ、沈清秋は葉湘と共に件の屋敷を訪れていた。朝方は村の周辺を見て回り、鬼が出るという夜に備えて明るいうちに屋敷の探索を済ませている。
沈清秋の隣に立っている葉湘は手に提灯を持っていた。柄の先に灯篭を下げた形のもので、四方に小窓の開いた陶器のそれはほとんど掌に納まる大きさである。
沈清秋が村に入る前に屋敷の瘴気を探っていたところ見つけたという品を入れてあるという。灯が消えれば瘴気の主が消えたことを意味するのだと葉湘は言った。確かに青い炎が灯っているのはそれらしい。
「不審な点はないな」
一通り邸内を歩き回った沈清秋は確認するように言った。
「造りこそ古いですが、それだけですね」
沈清秋は立ち止まると男を振り向いた。
「どうかなさいましたか」
「ああ、いや。この手のものはよく見る造りだと思っていたのだ。今はもう違うのだな」
隠居するとこういうことに疎くなると沈清秋は呟くように言った。
「そんなこともございましょう」
葉湘が軽く頷いて言うと同時、蔦に覆われ煤けて黒ずんだ塀の向こうで日が沈んでいった。

結論から言うと、鬼は沈清秋が扇子の一振りで簡単に倒してしまった。
「あれがそうなのか」
自分に戦う力はないからと後ろに下がっていた葉湘を振り向くと、おそらくはと返ってきた。
だが、沈清秋にはやはりそれが自分たちの目的である女の鬼であるという確信が持てなかった。というよりも、それは女の姿ですらなかったのである。魔族か魔物かと推測を働かせようにも、ただ靄を払っただけでは材料が足りない。
沈清秋は暫く周囲を警戒していたが、何も起こらないことを確認するといっそ呆気に取られた。
「七十年も恨みを残すようなものがこれだけで消えるものか」
「沈仙師のお力が強かったか、辛うじてこの世にしがみついていたかのどちらか、でしょうか。いずれにしても灯は消えております」
葉湘は淡々と提灯を差し出した。確かに先程まで足元を照らすに十分な程明るく燃えていた青い灯は消えている。
「そうだな」
ひとまずは納得するしかないだろう。
村長の屋敷に戻ろうとした沈清秋は、葉湘が着いて来ていないことに気づいて立ち止まった。
「沈仙師、私は」
一丈程離れて立っている葉湘は、躊躇いがちにこう言った。
「私には告白せねばならないことがございます。ゆめゆめ騙していたつもりなどはございませんでした。ただ、申し上げねばならぬことがあるのです」
この村と、鬼と、私のことを。
真っ暗な夜に、男の眼だけが薄っすらと光って見えた。

部屋には沈清秋と葉湘、村の代表者である男たちの三人が揃っている。沈清秋がそれぞれを紹介された時と同じ部屋である。
丁寧な謝罪で村の男たちを慌てさせた葉湘はまず、と口を開いた。
「私と沈仙師が初対面ではない、ということから訂正せねばならないでしょう」
扇子を広げて口元を隠した沈清秋は首を傾げた。
「というと」
「実のところ、私は以前、蒼穹山の弟子だったのです。丁度沈仙師が峰主を務めておられた頃の清静峰の末席を汚しておりました。恐れ多くも師父と呼ばせて頂いたことがあったのです」
沈清秋は思わず目を大きく瞠った。男たちもざわめき顔を見合わせている。
葉湘は恥じ入るように苦笑してこう続けた。
「お忘れになって当然です。師父を失望させてしまった不肖の元弟子のことなどは」
沈清秋を真っ直ぐに見つめる瞳に燭蝋の灯が反射して揺れた。
「そして貴方方のもう誰もご存じないのでしょう。なぜあの屋敷が見捨てられたのか、あの家が本当はどうして滅んだか」
今度は男たちが驚いて顔を見合わせた。
「伝え聞く話は間違っていたということですか」
おずおずと村長がそう問いかけた。
「ええ。私が聞かされた話とはいささか違っております。当時、家中のことは外には漏れなかったようですので、おそらくは村を離れた私の方が正確な事情を知っていると考えてよいと思います」
皮肉なことですが、と葉湘は苦笑した。
「彼女が私に嘘を吐いたとも、思えない」
「彼女とは」
言葉を発したのは沈清秋である。
「あ、ああ、失礼致しました。彼女というのは妻です」
「先程屋敷の内情は外の者には漏れなかったと言ったな。ということは細君は当時あの屋敷におられた。だからあの屋敷に怪ありと聞いて見過ごせなかったというところか」
それもありますが、と葉湘は首を振った。
「本当のことを申し上げますと」
躊躇うように視線を落とす。
件の屋敷怪談の、出奔し戻らなかった跡取りが私であり、鬼になった許嫁こそが妻なのです。
男はそう言った。

開いた口が塞がらない尚清華を見やり、沈清秋は自分の椀に新たな茶を注いだ。
「弟子だったの?」
「さあ」
「さあって」
「わからないんだ。弟子を見送った覚えがないのだから」
尚清華は焦れて無言のまま首を傾げて先を促した。
「俺はない。でも俺の前の“沈清秋”は違うだろ」
「……おお」
「俺の記憶がまだ正しければ、冰河の前にも何人か追い出してたよな」
「うん、うんうん。そうだ、そう。五人、いや四人かな。体操チームを作れるくらい。蒼穹山は大きいとこだし、弟子もそこそこ出たり入ったりするからそこまで記憶には残ってなかったけど」
蒼穹山派の弟子になる方法はいくつかある。一つは洛冰河が受けたような試験を通過するものである。これは家の繋がりや推薦者を持たない者が得られる数少ない機会であり、狭き門である。
一つは沈清秋がそうであったように推薦を得る方法である。推薦者は有力弟子や引退した峰主などが一般的である。
残りが蒼穹山を支援する家の子弟として入るものである。沈清秋の弟子の中なら明帆がこれに当たった。ただし蒼穹山が大きい分、支援者は大商家から蒼穹山の権威を借りたい駆け出しの家門まで多岐に渡る。
「で、その道士は沈清秋に追い出された元弟子の一人だった」
かもしれない、ということだ。
そう言って沈清秋は茶を啜った。
「そこまでならそれでいいんだが」
「え、いいの? 全部おかしくない? なんで蒼穹山にいたのに道士なんだとか、というかどう考えても死ぬほど恨まれてるだろ。刃傷沙汰にでもなった?」
「ならなかった。至極穏便に帰ってきた。山を下りた後はどこぞの道観と縁づいてどうとか言っていたな」
「え、ええ? いや、ううん、そんなことあるかな。いくら老人でも水に流す? 俺結構酷いこと書いた記憶あるぜ。おかしいと思う」
おかしいさ、と沈清秋は言った。
「俺が会った元弟子とやらは三十かそこらの若い男だったんだから」
「聞いてねえけど?」
尚清華は沈清秋の声に被せるように悲鳴を上げた。
「言ってなかったか」
「言ってない!」
確かに沈清秋は男が老人だなどとは一言も言っていない。
しかしそれではおかしいのである。
何がおかしいかと言えば、年老いていないことである。つまり、その元弟子は結丹していることになる。独学で修練を積んだと言えなくもないが、市井で暮らしながら修行だけに身を費やすことができたとはとても思えない。
「なるほど、変だ」
尚清華は机に倒れ込んだ。
「で、元弟子の一大告白はここからが本番だぞ」
「はあ」

男は帰れなかったのだと言った。
ある時、罰を言い渡され、山門の前で跪いていたところを運悪く突然暴れ出した馬に足をやられてしまった。それが山を下りた直接の理由だという。
話を聞きながら沈清秋は居心地の悪い思いをしていた。自分がしたことではないとはいえ、自分がしたことになっている悪行の一部を詳らかにされているのである。七十年も経って濯がれた名も忘れられてきた頃か、などと思っていたところにこの衝撃は眩暈すら覚える程だった。
「沈仙師を責めているわけでは決してありません。罰には理由があるものです。沈仙師の人品が優れていることは見ての通り明らかですから、そのような誤解を心配することもないのでしょうけれど」
右足を軽く擦りながら葉湘は微笑んだ。村人たちは何と言ってよいのかわからず曖昧な表情を浮かべて黙り込み、沈清秋はつい本気で言っているのかと問い詰めてもいいだろうかと考えた。
沈九が弟子を虐待したことに合理的な理由などない。罰には理由など必要なかったし、暴れ馬とやらもおそらくは弟子の誰かがけしかけたのに違いなかった。
洛冰河という魔王の前身に行き当たったが運の尽きではあったが、その洛冰河でさえそれまでに追い出した弟子たちと同じ理由で虐待を受けていたのである。すなわち、沈九にはないものを持っていた、という主観を主観で計るような理由にもならない理由である。
沈清秋は扇子越しに何を考えているのかわからない葉湘をじっと眺めた。
恨み、怒り、憎しみ、復讐への執着、そんなものが隠れていはしないかと注意深く見るものの、薄茶の瞳には相変わらず感情そのものの色が薄い。強いて名を付けるならば興味なのだろうか。
沈清秋は思案を止め、葉湘に続きを促した。
村と、鬼と、この男の話である。
男は再び、私は帰れなかったのですと言った。
「暫くは麓の町で養生していました。身体も弱っておりましたから。足を悪くしては山での修行は最早不可能でございます。無理が祟ったのでしょうね」
そうであったか、と沈清秋は頷いた。足の怪我が虐待によるものである以上言えることも特になかったが、沈清秋が黙ったままというのもおかしな雰囲気になってしまう。
「山を辞す前に穹頂峰から有難くも見舞いをいただきましたので、それで何とかなったのです」
おかげで難儀することもありませんでした。そう笑う男に沈清秋は口元が引き攣りそうになる。掌門師兄は虐待を止めはしないのにそんな尻拭いはしていたのか、という呆れか憤りか区別の付かない思いが胸中を渦巻いた。以前から思っていたことではあるが、そこまで監督する義務があるかと言われると弱いので誰にも言ったことはない。
弟子たちの使う宿で療養した後、男はその間に縁のできた商家に置いてもらえることになったのだという。大きな家ではなかった。だが、大旦那に目を掛けられ跡取りとも目されるようになるうちに、居心地が良くなってしまったのだと男は言った。
「それでもいずれ縁談が持ち上がるようになれば、許嫁への罪悪感を見過ごすことはできなくなりました。それで、やはり一度は村へ帰ろうと決心したのです」
男は苦笑した。
「なんと無責任なと思われるでしょう。跡取りの責任を放り出して他所の家に納まるなどと。思い出したように許嫁に申し訳ないなどと。しかしこれがあの屋敷から人が消えた理由とも関係があったのです」
いつの間にか村の男たちは固唾を飲んで当時の語りに聞き入っていた。沈清秋も同様に相槌すら打たず静かに男の話を聞いていた。
「そもそも、私が家を出されたのは私の命を守る為でした。実のところ私が跡を継ぐことに不満を持つ者が多かったのです。私が家にいなければそれはそれで都合がよく、戻ってきても殺せばいいと強硬な一派はそう考えていた。祖父の一存で私がそうということになってはいても、入り婿だった父の立場は強くはなかったのだそうです。だから焦って許嫁まで用意してわざわざ屋敷に住まわせました」
「それがその、噂の」
「はい。ですが、彼女は一家を祟ってなどおりません」
「し、しかし、では何故あの屋敷には誰もいなくなってしまったのですか」
「馬鹿な話なのです。私を跡目に据えたがる祖父を老衰を装って殺し、後ろ盾の無くなった父を病を装って殺した後に、仲間割れの挙句ある時食事に同じ毒を盛ったのだそうです。真実かどうかはわかりませんが、これで斬り合いに発展した。矜持だけは高い家だったので醜聞を外に漏らすことはありませんでした。しかし、それだけの話です」
馬鹿な話ですと男は悲し気に繰り返した。
「そ、それでは許嫁の方は、どうなったのです」
「彼女は諍いの絶えない家を恐れて実家に相談を持ち掛けました。当時の村長も娘をそんな場所に置いておくわけにはいきません。私が邪魔な者からすれば許嫁がいなくなれば都合がいいのです。彼女はすんなり屋敷を出ることが出来ました。おかげで、彼女は私が帰郷を果たした時も無事に生きていたのです」
驚きの声が上がる。
「許嫁の娘の鬼ではなかったのか」
「じい様が実しやかに話してた鬼の祟りは」
「だが死んでもないんじゃ」
「祟るも祟らないもなあ」
暫くして村の者たちの興奮が収まると、葉湘は再び口を開いた。
「十年ほど前に妻が世を去り、私もこうして旅の身の上になりました。偶然村に立ち寄ったところ古い恨みを残した鬼の噂が聞こえてきたものですから、こうしてつい昔の話をしてしまいました。故郷で鬼になっていたと知れば妻はきっと大笑いするでしょう。そんな女でしたから。それでも誤解されたままでは悔しさも残るだろうと」
青褪め頭を下げる男たちに、葉湘は微笑んで昔の話ですと言った。
翌朝、葉湘はあっさりと村を出ていった。このまま村にお住まいになっては、村の者で屋敷も修繕致しますとまで言って引き留める村長に、妻と暮らした町が今の私にとっては故郷なのだと言った顔に昨夜の憂いはなかった。
それを見送った後、何かあればまた訪ねてくると良いと言い残し、沈清秋も今度こそ御剣して帰路に着いたのだった。

「鬼じゃなくない?」
尚清華は言い放った。
「なんか、こう、鬼の話っていうにはちょっと納得いかなくない?」
「本当のことだぞ」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあなんだ。実は元弟子の方が鬼だったという落ちでも付ければいいか? 大体お前は怪談話を聞く姿勢からしてなっていない。端からどういう仕掛けなのかという種ありきで聞くからそんなにつまらないんだ」
「納得いかない。そっちが先に鬼とは云々とか言うからそういう感じになったんですけど」
沈清秋は鼻で笑って茶を口に含んだ。尚清華は思い切り不満そうな顔をした。
「本気で言ってないよね?」
「さあ」
「ああもう! いい加減にまだるっこしい! どこまでが本当なのって聞いてるんだけど」
容赦のない問いに沈清秋は苦く笑った。
それもそうだ。
洛冰河は例外として、どこかの宗派を破門になった者は別の宗派にそう易々受け入れられはしない。まず破門されるような人間というだけで受け入れる理由はない。ましてそんなことが許されるならば数多くの宗派の教えを手あたり次第身に着けようとするような不埒者も出てくることだろう。
若ければそれは別人である。
金丹を持たぬ身で本人が時を止めたのならば、あるいは。
鬼である。
「まさか信じたわけじゃないんでしょ。その元弟子って自己申告を」
沈清秋は覚めた茶に窓の外が映るのを見ていた。
「それは、まあ」
尚清華は大きなため息を吐く。
「回りくどいんだって。年取るとそうなっちゃうの? 嫌だなあ」
「あ? お前だってジジイだろうが」
「は? 大王の前で言ってみなよそれ」
「なんだ消されるのか?」
「そんなことない、みたいな顔する」
「えっなんだそれ。それは……すごいな」
「でしょ」
「俺にその表情が見分けられるかは知らんが」
それで本当のところは、と尚清華は繰り返した。
本当のところと言われても、沈清秋はとっくに自白したのだ。証拠などない、信じてもいないと口にした。
絶世胡瓜は弟子を虐待してなどいない。
だから、“沈清秋”の元弟子の顔など知るはずもないのだ。
さっさと吐けと責める目つきに沈清秋は口角を上げる。
「話にはまだ続きがあるんだ」
だからそう急かすな。
尚清華は顔をしかめた。

ある日、珍しく一人で外出していた洛冰河がいつになく荒い足取りで帰宅した。
話し声からすると誰かを連れて来たらしい。日の当たる奥の間で最近版を改めた異界譚を読んでいた沈清秋は、物珍しさにいそいそと顔を出した。
「おかえり、冰河」
戸口でこちらに背を向けていた洛冰河は沈清秋の声に勢いよく振り返った。
「ただいま戻りました、師尊」
誰かいるのかと問おうとして、沈清秋は開きかけた口を扇子で隠した。半身になった洛冰河の向こうには、襟ぐりを掴まれて怯えた顔をした葉湘がいたのである。
驚く沈清秋と抵抗もできないらしい葉湘をよそに、洛冰河はにっこりと笑っている。
「師尊、また時間を忘れて本をお読みになっていたのではありませんか。ひとまずお茶をお淹れしますのでお座りください」
なお、葉湘を捕まえた片手はそのままである。それ以上暴力を振るう気配はないことを見て取ると、沈清秋は言われるがままに室内へ戻った。沈清秋を面倒ごとに巻き込む洛冰河ではない。この家に他人を入れることにも渋るような可愛らしい伴侶である。
それがわざわざここまで連れて来たのなら相応の理由があるのだ。どう贔屓目に見ても怒っていると言って差し支えない声と表情であるが、宥めるのは理由を聞いてからでも遅くはないだろう。
そう考えた沈清秋の前に、男は半ば引き摺られるようにして突き出された。
「跪け」
地の底から這い出る炎のような声が低く響くと、男は崩れ落ちるように膝をついた。
哀れにも全身を震わせて顔を上げることすら考えられない様子である。
「それでは師尊、お茶をお淹れしますので」
打って変わって穏やかな声でそう言うと洛冰河は厨に姿を消す。この状態の自分と葉湘を置いていくのかという驚愕の視線で沈清秋はその背を見送った。
「また会ったな」
そう声をかけると、目の前で膝をついたままの男は大きく震えた。
「そう怯ずともよい」
「も、申し訳……」
怯えるなと言っても無理な話だろう。沈清秋は小さく溜息を吐くと、部屋に戻ってきた洛冰河を見やる。
「まずは説明しなさい」
洛冰河は目を細めて微笑んだ。

洛冰河は件の会議の間、沈清秋から引き離されること堪え難く、常に現在地を感じ取る努力をしていたらしい。これでそのために意識の半分を割かれるようならば沈清秋とて叱ったが、洛冰河には手すさびのようなものである。
家にいる沈清秋を確認しては癒されていた洛冰河は、沈清秋が外出したことを知った。その日のうちに密かに護衛と監視を飛ばし、周辺に危険があればそれとなく排除するか、沈清秋に知らせるようにと命じた。
沈清秋が保護を必要とするようなか弱い存在であるとは洛冰河も思ってはいない。しかし、最愛の師ともなれば丁重に扱うことに理由などない。
屋敷を訪れた日には魔族の護衛が遠くから見守っていたということである。そして沈清秋の護衛ともなれば精鋭のみの派遣である。鼠一匹通さぬ監視の目から村を離れる道士を見逃すはずもなく、一人が飼い慣らしている魔物が空から男を追ったのだそうだ。
三日ほどして町に入った男は、そのまま服を着替え、何事もなかったかのように過ごし始めた。見張りの魔族は沈清秋に気取られることのない遠くから見張りを務めていたに過ぎず、沈清秋が無事である以上会話の内容も把握していなかった。
真面目に任務を全うした魔族は他意なく男の素性を探り、君上に報告したのである。そして村で起こったことと併せて、男が自分について語ったことの殆どが偽りであることが簡単に判明してしまった。
師を謀り利用した男を洛冰河が許すはずもなく、こうして首根っこを掴んで師の前に引き擦ってきたというのか事の次第だった。
申し訳ありませんでしたと地面に額づいて繰り返していた男は、洛冰河の凍えるような黙れという一言で沈黙した。かと思えば師尊に全てご説明しろと命じられ、震える声で語り始めたのである。

「結局、そいつは道士でもなかったし結丹もしてなかったし、普通の町人だった。見た目通り年齢も三十代半ばのな」
「こわい」
「なんでだ。大好きな種明かしだぞ」
「洛冰河に決まってんだろ! 聞いてるだけで意味わからんくらい怖いわ!」
「そこは今どうでもいいだろう」
「自分は矛先にならないからってさあ!」
「はいはい。それでだ。そいつは孫だったんだそうだ」
二の腕を擦っていた尚清華は孫? と聞き返した。
「そう。元弟子の孫だ。孫の語ったことは祖父に聞かされたことで、祖母は件の許嫁、商家の育ちで旅商とも繋がりがあるから例の村で起こったことが偶々耳に入って、今回の一件を企てたらしい。魔が差したのだと本人は言っていた」
「魔が差すって、もっと一瞬のものじゃないの」
「上手くいきそうだと考え始めたら止まらなかったということだろう」
「この世界だと普通の人間まで気が長くなっちまうもんなのかね」
「それは知らん。だが沈清秋に山を追い出された祖父は元師父を大層恨んでいたらしい。許嫁を迎えには行ったのだから誠実な人間ではあっただろうが、温厚な祖父が元師父のこととなると別人のような顔つきをしたと。晩年は沈清秋の評判も悪くないものだからそれはもう納得がいかなかったことだろうな。余計に恨みが募っても仕方がない」
「ああ、それはそうだね。気の毒だけど」
「いくら恨み節を聞かされたところで孫自身は沈清秋を知らない。だから俺に会った時も特に何の感慨もなかったらしい。興味はあったがそれだけだ。祖父も数年前に亡くなっているらしい。それでも祖父の恨みも知っていたし、祖母の汚名を濯ぐ舞台に丁度良く説得力を持たせるために呼ばれたのが俺だった」
尚清華は静かに聞き入っている。沈清秋は先を続けた。
「正直なところ、俺が来ることはないと思っていたらしいな。祖父が語る沈清秋が沈清秋だからな。そう思うのも無理はない。俺が行っても行かなくても屋敷の靄は大したものではないと分かっていたし、退治した上で語れば信憑性も増す」
それまで少し面白そうに聞いていた尚清華が待ってと声を上げた。
「なんだ」
「それ、その理由だと別に本人の振りする必要はなくない?」
「ああ」
沈清秋も同意するように頷く。
「意趣返しだそうだ。俺が来れば虐待した元弟子と顔を合わせて気まずかろう、村人にとっては好き放題話していた噂の当事者に訂正されて気まずかろうと」
「合理的で趣味が悪いな。いいじゃん」
「それでだ。それで、鬼は本当に存在しないと思うか」

尚清華は突然話の方向が変わったことに驚いて沈清秋の顔を凝視した。
「いや、いないってば。最初に答えたじゃん」
「ふふん、思い違いをしてもらっては困る。俺は何も本物の鬼にいてほしいと言っているわけじゃない」
怪訝な顔をしている尚清華を置いて沈清秋は高らかに言った。
「人の思いとは素晴らしいものだ」
「なんて?」
「祖母の汚名を濯いでやりたかったのは孫の思いなのだろうが、俺に意趣返しをしてやりたいと思わせたのは祖父の恨みだ。つまり死者の恨みが俺をあの村に呼んで、顔も名前も知らない元弟子の恨みを多少なりとも晴らしたんだよ。これはすごいことじゃないか」
「え、いや、でもそれ、元の世界でも起こることじゃん。鬼って言うから魂がどうのこうのみたいなやつかと思ったんだけど」
尚清華が全く乗ってこないので沈清秋は勢いが削がれたのか椅子の背にもたれかかった。
「そっちも考えた。でも魂ってあるだけで、魂だけで何か出来るわけではないだろ。内臓とかと同じで」
「うん。まあね」
「魂があったって鬼がいたり鬼になったりとは関係ないじゃないか」
「内臓に自我があったら怖すぎるし。気合いでどうにかなるもんでもないし。力のある仙師とか高潔だとか未練があってとかで鬼になれるなら、俺が思いつく中でこの世で一番鬼になりそうな人は蘇夕顔だね」
沈清秋はそれを言うかとでも言いたげな顔をした。
「彼女が鬼になってないならこの世の誰も鬼にはなれない」
「説得力すごいな……。根拠にはなってないが」
絶世胡瓜と向天打飛機の生まれた現代社会では魂の実在は証明されていない。人間の身体は死んだ瞬間に魂の分だけ軽くなるなどと言われてはいても、誰もその為に魂を信じたりはしない。その程度である。
対して、確かにこの世界には魂が存在する。その存在の同一性は身体ではなく魂に拠るのがこの世界のルールである。だから沈清秋の身体でどれだけ生きても沈垣は沈垣でいられる。日月露華芝の身体になっても魂さえ無事ならば自分の存在が不確かなものになりはしなかった。
しかし、魂はそれだけで何かを為したりはしない。これは心臓や脳、切り落とされた身体の一部が勝手に動いたりしないことと同じである。手に取ることができないだけで、魂もまた身体という器があって初めて意味のある部位に過ぎないのだ。
魂とは目に見えない臓器である。これはこの世界では結構な市民権を得た認識であると言ってよい。魂が存在することは誰でも知っている。そうでなければ魂を呼び戻すための道具や手法が確立しているはずもない。また、魂がそれだけでは何もできないこともまた、誰もが知る事実である。
誰もが、と言ってもこれは飽くまでごく一部の知識層を指す。魂について思いを巡らせることなど生涯ないような、世界の殆どを占める人間を除けば、知る者達にとっては当然の認識ということである。
魂は人のかけがえのない一部でありこそすれ、それだけで動いたりはしない。
魂があるからと言ってそれは鬼が存在することを意味しない。不思議なことは起こっても、それは人か魔族か何らかの理が為すことであって、本当に摩訶不思議なことなどありはしないのである。
全てのことには理屈がある。
その理屈のどれもが鬼はいないと言っている。
理屈無しで存在するものはない。
だって、理屈がないと、そう、困るではないか。

「とにかく、魂をどうにかして鬼になるのは無理だろう? だから俺は今回のことに感銘を受けたわけだ。特別な力や法器なんてなくても人は鬼を作り出すことができるじゃないかと」
尚清華ははあ、ともうん、ともつかない返事をした。話の要点を掴みかねているのである。
「この間な、家に帰ってきた冰河が会えなくて寂しい、師尊がいないと生きていけませんと言うから、そう言われてみればこの子は俺が死んだ後どうするんだろうと思ったんだ」
「ごめん俺帰るわ」
「だめだ帰さん。ここまで聞いたんだから最後まで聞いて行け」
「やだあ」
尚清華は机の上に溶けるように倒れて片手で菓子を貪り始めた。
「俺達はあと生きても四百年が精々ちょっとだろう。だからこう、死んだ後になんとか化けて出てやれないものかと思って、いや、この言い方は正しくない。ほら、よくあるだろ、死んだ妻から毎年手紙が届くとか、置いていく方が生前何か仕掛けを施している系のやつ。今回の孫は完全に自発的で偶然の結果だったが何か遺してやることなら俺にも出来ると思うんだ」
よくあるだろうと言われても、と尚清華は思い切り嫌な顔をした。そんなことはしない方が良いと言うべきかを一瞬躊躇った。
「絶対にやめた方が良いと思う」
そして言った。言ってやった。目を輝かせている沈清秋には悪いがそれが良いアイデアであるとは微塵も思わなかった。
「絶対?」
「洛冰河の為を思うならやめな」
断言した尚清華を一瞬睨むと、細く深い息を吐いて沈清秋はこめかみを軽く揉んだ。
正直に言って、尚清華は洛冰河が天魔の血相応の長さの生涯を送るとは思っていない。沈清秋の寿命が洛冰河の寿命だろうと確信している。これでも三界融合未遂事件に居合わせているのである。洛冰河が価値を置いているのは沈清秋のいる世界であり、沈清秋のいない世界に生きる意味を感じるかは甚だ疑問である。
もっともこれはあの時見たものからそう思っているというだけであり、いかな向天打飛機であろうとも原作者の手を離れたこの世界で生きる一人の人間を理解しているという意味ではない。だからカマを掛けたのである。強い否定に何故そこまでと聞き返さなかった時点で沈清秋も薄々わかってはいるのだ。つまり洛冰河に師のいない世界を生きる意志は今尚おそらくないのだろう。
師を看取った洛冰河が毎年何処かから届けられる沈清秋からの手紙を受け取るなど、拷問を受けているようなものである。これではあまりに哀れだろう。
洛冰河と尚清華は沈清秋か漠北君に偶然同席しない限り顔を合わせることもないような仲である。だからこれは偏見に過ぎないのだが、洛冰河は思い出を抱えて生きていける人間ではないように思う。沈清秋の生きた世界を愛するのではない。逆である。沈清秋がいるから世界に価値を見出すのだ。
自分が死んだ後どうするなど考えるくらいである。沈清秋とてそのことをわかってはいるのだろう。その上で目を逸らしているのだ。
「じゃあ、お前はどうするんだ」
肩を丸めて哀れな様子の沈清秋は、床のどこかを見つめながらそう言った。
「俺? どうって?」
「漠北君。同じだろう。いつか置いていく」
「大王は」
漠北君は、どうするのだろう。
尚清華は考えたことがなかった。
自分が死んでも漠北君は後を追ったりはしないだろう。愛されていないと思っているわけではない。だが、漠北君は尚清華を生きる理由にはしない。尚清華がそうであるのと同じようにである。
世界を敵に回しても漠北君は尚清華の味方をしてくれるだろうとは思う。おそらく。客観的事実が八割、希望的観測が二割ではあるが、そう思っている。だがそれでも、自分が死んでも漠北君は生きていてくれるだろうと尚清華は考えている。
「大王は大丈夫だよ。心配いらない。連れ合いに死なれてもその後長生きしてくれるタイプ」
「ふうん」
「というかそこまで不安なら話し合えばいいのに」
「いや、それはちょっと気が早くないか」
「この話題の大体全部が気が早いと思う」
「仕方がないじゃないか。思い付きなんだから」
「知ってた。とにかく拗れる前に話し合いは大事だって」
「終活には早い……。まだ百年も経ってないんだぞ……」
とうとう頭を抱えた始めた沈清秋を、机に溶けたままの尚清華は無気力に見上げる。
「ところでさあ、その孫とやらは無事に帰ったの」
「ん、ああ。普通に帰って行ったぞ。俺ではないとはいえ沈清秋の悪行が発端だしな。可愛らしい仕返しくらいで血の霧になるのは割に合わないだろう」
「血?」
「連行した時に冰河が蟲を入れたらしい」
「うわ、か、かわいそう……」
「そのな、そのことなんだが」
「え、何、何かあったの」
沈清秋が周囲を窺いながら小声になる。思わず尚清華も身を起こして辺りを窺ったが、部屋は相変わらず静かに日が差し込んでいるだけである。
「原作の冰河は結構天魔血をばら撒いていたが、今は俺だけだと思ってたんだ」
「うん」
「なのにだぞ、こう、無造作じゃないか? そんな簡単に飲ませるか? 俺だけで良くないか?」
「うん?」
「便利なのはわかってる。でも他の人間になんだ、マーキング? みたいなことをするのはどうなんだ? どう思う?」
「ど、どう? ごめん、何がどう?」
神妙な顔でどうやら文句を言っているらしい沈清秋の言葉の意味が理解できない。尚清華が混乱していると、沈清秋は机の上で重ねた指先をもじもじと組み直して躊躇いがちに口を開いた。
「だから、嫌なんだ」
消え入るような声だった。
「え?」
「クソ、二度も言えるか」
「い、いい、言わなくて。言うな。は? 嫉妬?」
「誰にも言うなよ。こんなこと冰河に聞かれたら折角無事に帰したあの孫が今度こそ死ぬ」
自分は今何を聞かされているのだろうと尚清華は自問した。この世の無常さなどが頭を駆け巡っては消えていった。何を言っているのだろう、目の前でもじもじしている見た目が美しいだけの阿呆は。なんと返すべきなのか悩んだ尚清華は数秒で決断した。
「いかれてるの?」
不本意そうな沈清秋が反論する前に尚清華は訴えた。
「そんなヤバい血だってわかってて出てくる感想が他の人には飲ませないでとか、ちょっとレベルが高すぎてついて行けないです」
「敬語やめろ」
「すみませんが本日はこれで失礼しますね」
「おい」
沈清秋を無視して尚清華は荷を片付け始めた。

 

 

沈清秋は葉湘ではなかった男を見送りに、一人竹林まで出て来ていた。未だ怒りの冷めやらぬ洛冰河は室内に留まらせている。
「まことにご無礼を致しました。寛大なご処置を下さりありがとうございます」
「よい。送っては行かぬが気を付けて帰りなさい」
着の身着のまま連れて来られたらしい男は、生きて帰れることを喜びこそすれ沈清秋を逆恨みする様子はない。深々と頭を下げている。
「目的は果たしたのだな」
「はい」
「あの村は鬼の噂に必要以上に怯えていただけだ。いずれ詐欺に遭った可能性もあった。ことは解決したのだから、もう手を触れぬことだ。よいな」
「はい。そのようにします」
沈清秋が洛冰河の怒りから男を庇ったのは、男が村から金品を巻き上げたり、必要以上の恐怖を煽る真似をしなかったからである。実を言えばほぼ最初から男の言葉が全て真実だとは思っていなかった。村に貼ったという札も道士の使うものではなく、元弟子と名乗ったにも拘らず村長に文の一つも託さなかったことからして怪しかったのだ。
村に着いてから沈清秋が見ていたのは男に悪意があるか否か、その一点である。
「結局私は、祖父の話す師父と私のお会いした貴方を一致させることができませんでした」
男はぽつりとそう言った。
「まるで、別人のような。私が薄情だからそう思うのでしょうか」
別人なのだとも言えず、沈清秋は押し黙る。
暫くの沈黙の後、男はふと笑った。
「そんなことも、あるのでしょう」
それから、男は背を向けて歩き出した。

Notes:

涯の国を読んでもらえて嬉しかったのでao3にも投稿してみることにしました。