Work Text:
「……めい、孔明先生」
軽く体を揺すられて目を覚ますと、私の鼻先に迫る勢いで我が君の顔があった。
「起きたか、孔明」
「はい、起きました……」
私の間抜けな返事をきいて、我が君はゆっくりと私の体を起こした。どうやら、今まで私は我が君の懐に抱えられていたらしい。意識がないときでよかった。意識があったら耐えられなかった。
「先生に問う。ここは何処であろうか?」
「……私にも、測りかねます」
一面どこを見ても白、白、白。まるで白紙のなかに迷い込んだかのように、私と我が君の二人だけがぽつんと存在している。
「目覚めたら、この有様で……ああ、そうだ」
このようなものが落ちていたのだが、何か参考にならないか。
そういって手渡された巻物を広げると、そこにはただ一言こう書かれていた。
『情を交わさないと出られない部屋』
情を交わす、なさけをかわす、思いを伝えあう、愛し合う……。
一連の単語の連なりが頭をよぎる。おもわず我が君と目を見合わすと、我が君は困ったように微笑んでおられた。
「この内容は、事実だろうか?」
「事実ならば悪趣味な」
羽扇の影で溜息をつくと、私はおもわず呟いていた。
「これは、自棄酒のひとつも許されるのではありませんか」
刹那、音もなく酒杯があらわれる。反射的に辺りを見回しても、誰もいないし何もない。杯を手にした我が君が、かるく匂いを嗅いでいる。
「酒だ……しかも、なかなかの代物ではないか」
お止めする間もなく、我が君は杯に口をつけてぐっと飲み干してしまった。
「我が君、毒が入っていたならどうするおつもりですか!」
「そうだな、これが毒なら甕一つでも……」
飲み干せる、と言い切らぬ間に巨大な酒甕がひとつ現れる。きょとんと目を瞬かせたあと、ふいに笑いだした我が君に、私は脱力してしまった。
「もう酔いがまわっておられるのですか」
「いやいや、甕を丸ごとひとつとはなかなか豪気だな」
「ええ、まことに」
私の不貞腐れたような返事に、我が君はますます笑いが止まらないらしい。そう怒るなと肩を叩かれたが、怒っているわけではない。本当に怒ってなどいない。ただ、私の選んだ主君はまったくもって世話が焼けると思っただけだ。
「甕ごと寄越すとは、まったく風情のない」
自分で口にしておきながら、言葉に微かな引っかかりを覚える。その引っかかりは頭の片隅に置いておくことにして、私は少しばかり打ってでることにした。
「どうせ一献傾けるなら、花でも愛でながら楽しみたいもの」
私が言い切るが早いか、突如として風景が一変した。今を盛りと咲き乱れる桃の花に、高く青い空。鳥の囀ずりまで聞こえてくるとは、完璧な仕事ぶりだ。
「これは、美しい……」
「予想以上ですね、まさしく絶景です」
冬至の迫るこの時期に、桃など咲くはずもない。一体どんな術を使ったものか、あるはずのない風景を正確に再現している。桃林の果てはおぼろで、歩けば迷うことは必定に思えた。
「しかし、酒なら月見酒も捨てがたいのですが」
私の言葉に従って、また景色がねじれ、書き換わる。辺りは満点の星空、そこに身一つで投げ出され、身体は宙に浮いて、丸々とした月が手に届くところまで来ていた。
「孔明、これはっ!」
「空の上というのも落ち着きませんな、やはり酒は自分の部屋でこっそり飲むのが一番美味い」
そして、我々は見慣れた場所にふわりと着地した。扉こそ閉めてあるが、紛うことなき私の部屋だ。ちらりと書卓を見れば置いたままの書き付けは記憶と同じもので、本当に私室にいるのだと思わせてくる。私は悠々と部屋の扉に近づくと、ゆっくりと手をかけた。
「残念、出られませんか」
扉がないと部屋から出られないのだから、扉を作ってしまえばいいと思ったのだ。ふざけて肩を落としてみせる私に、我が君の向ける眼差しはひどく優しい。その優しさが、今はしみる。
「何を始められたのかと思ったが……ようやく、理解しました」
私は思いつきもしなかった。そう言って、我が君は私を軽く抱き寄せる。さりげなく辺りを見回したあと、そっと私に耳打ちする。
「いざというときは、これに従おう」
懐にしまったままの巻物を軽く叩くと、我が君は軽く微笑んでみせる。
――ああ、この方は。
このような窮屈な場所に閉じ込められたままでいい方ではない。やがては天下をその手に治める方、このような場所で足止めを食らっている場合ではないのだ――出られなければ、いつまでも二人きりのままなどと、私のように愚かしい考えは露ほども浮かびはしないのだろう。
是が非でも、ここから出なければ。
うんともすんとも言わない扉を前に、私は暫し考え込む。いざというときなどという言葉は、私にはない。そして、少し手段を変えることにした。
勝手知ったる自室をみまわして、目当てのものを引っ張りだす。手に馴染んだそれをなでながら、私は呟いた。
「もうひとつあればよいのですが」
私の言葉に応えて、もうひとつそれが現れる。一連を眺めていた我が君が顎に手をやりつつ、私に尋ねた。
「琴など用意して、次は何をするおつもりですか?」
「情を交わすのです」
琴の前に座り、たわむれに弦を弾いた。ビィン……と幽かな音が鳴り、調律に狂いがないことを確かめる。
「情けとは、人と人との間に芽生える情ばかりを指すのではありません。情趣を解し風雅を愛する心も、また〈情け〉と申せましょう」
つまびいてみせた音色が、余韻嫋嫋として空中に漂っている。
「さあ、我が君もどうぞ」
促されるままに座った我が君が、困ったようにこちらを見た。
「曲は何を?」
「お好きなものを。合わせますから」
「先生は琴も名手であるとみえる。なら、好きにさせてもらうぞ」
くすりと笑ったあとに、我が君が真剣な表情をつくる。
奏でるのは、素朴な心和む旋律。
初めて会ったとき、我が君が口ずさんでおられた歌だった。
「出られた、な」
「出られましたね……策を立てた私が言うのもなんですが、まるで嘘のように」
一曲演奏し終わったあと、辺りに注意を向けると、かすかに扉がひらいていた。そっと扉を押すと、外には見慣れた風景が広がっている。無事、元の場所に帰ってこられたようだ。
安堵から我が君を見つめると、当の本人は少し物言いたげな表情で腕を組んでいた。
「我が君、いかがなさいました?」
「孔明先生、これは無事に出られたから言うのだが」
「はい、なんでしょう」
「私に抱かれるのはそんなに嫌か?」
予想外のことに私が絶句していると、「孔明が嫌なら少し考えなければならない」と付け加えられる。我が君はいたって真剣なようで、私は思わぬ誤解をとくために渋々口をひらいた。
「その……それが、嫌なのではございません。脅迫に屈するような真似が嫌なのです」
あのような、誰が見ているとも知れぬ場所では事に及べません。きっぱり断言すると、なぜか我が君は笑っている。
「なるほど、いっそ見せつけてやろうかとも思いましたが、先生の嫌がることをせずに済みました」
さらりと恐ろしいことを言いながら、我が君は私の髪を弄んでいる。
「つまり、二人きりならいいのですね」
「そう受け取ってくださっても」
かまいませんが、と言いきる前に唇が塞がれた。開いたはずの扉は我が君の手によって閉めきられ、二人が外に出るにはもう少し時間がかかりそうだった。
