Work Text:
アジラフェルの店の前に、夢の王が立ち尽くしていた。
「どうした? 店に入らないのか?」
モルフェウスはしばしば、エンジェルの店に訪れる。それは俺も知っていた。アジラフェルから何度も聞かされていた。20世紀に刊行された本、もしくは誰からも忘れられ、今やアジラフェルの書店にしかない本を読みにくるらしい。本や資料を貸したこともあると。
「クロウリー」
モルフェウスが振り向いた。たった今、俺が来たことに気づいたようだ。いつもの青い瞳で、俺を見据えている。
「アジラフェルに用事か?」
「ランチの約束をな。モルフェウスも?」
顎で店を示すと、モルフェウスは両手をポケットに突っ込んでから俯いた。
「ホブと店で待ち合わせをしていた。だが……アジラフェルと喧嘩をしているらしい」
「喧嘩あ?」
思わず声が上ずった。アジラフェルもホブ・ガドリングも、喧嘩をするタイプには見えない。確かに昔のアジラフェルは剣を振るったし、ホブも昔は傭兵だったと聞いた。けれど、どっちも遠い昔だ。モルフェウスの勘違いじゃないか? この夢の王は時々、人間の感情に鈍感なところがある。
……いや、アジラフェルは人間ではないし、600年生きているホブも普通の人間とは少し違うのは知っているが。
店の窓から中を覗き込んだ。天使とホブが向かいあって座り、真剣な表情で口論している。声は聞こえないが、二人とも必死な形相だ。
「文学談義じゃないか? 様子を見てくる。待ってろ」
モルフェウスを置いて店に入った。
***
「……わたしの番か」
店に入ると、アジラフェルの声が聞こえた。それから店の中央の椅子に座る、ホブとアジラフェルの姿が見えた。 二人とも、俺が入ってきたことに気づいていない。よっぽど話し込んでいるらしい。
「クロウリーは、彼はね」
俺の話? 近づくのに躊躇って、足が止まった
「彼は寝ぼけているとき、シューって音を出すんだ。蛇の名残だね」
なんてことを話しているんだ、天使は。いや、そもそもそんな癖すら気づかなかった。くそ。アジラフェルにだけはそんな醜態を知られたくなかった。悔しさやら恥ずかしさで、床に蹲ろうとした瞬間、別の声が続いた。ホブの声だ。
「モルフェウスも……」
しばし沈黙のあと、どこか自慢げな声が聞こえた。
「人間の姿で猫の鳴き声をうっかり出す」
アジラフェルが息を呑んだ。俺もだ。まじか。どういう時に? 急いで聞こうとした瞬間、アジラフェルが同じ問いを発した。
「……ちなみにどういう時に?」
「先週『おれはそろそろ夕飯の買い出しに行くけど、君はどうする?』と聞いたら『にゃー……いや、わたしはそろそろ帰るとしよう』って。彼は『猫の王』でもあるからな。最近、猫のいるカフェに行ったんだが。猫たちと話している間に言葉が移ったな、あれは」
これは俺が聞いていい内容じゃあない。今すぐ店の外に出よう。というか二人は何を話している? 店の外のモルフェウスは「喧嘩をしている」と言ってたが、これが喧嘩なのか? ぐるぐる考えていると、アジラフェルが咳払いした。
「……この件は引き分けにしよう」
まったくわからない。引き分けって何が? 俺の疑問が解決されないが、ホブは納得したように頷いた。
「そうだな。動物の癖が出るのは二人とも同じだからな、同点ということで」
ホブはテーブルに屈み、何やら書き込んだ。会話の記録か? 書記でもあるまいし。そして姿勢を正し、顎に手をやりながら考え込んだ。
「じゃあ俺の番か……モルフェウスは体が細くて……」
「クロウリーだって細い!」
びりり、と隣の本棚が震えた。アジラフェルがここまで大声を出したのは初めて聞いた。やっぱり喧嘩か? でもなんだって俺やモルフェウスの話題で喧嘩になる?
「すまないホブ。怒鳴ってしまった。でもわたしはどうしても……」
「何やってるんだ、二人とも」
ついに好奇心が抑えられなくなって、アジラフェルの背後から声をかけた。
「クロウリー!?」
振り向いたアジラフェルは途端に立ちあがり、座り、立ちあがった。それからさっとテーブルに置かれていたメモ帳をひったくり、背後に隠した。視線をきょろきょろとさ迷わせ、俺の問いに答えようとはしない。
「文学談義か? エンジェル? 歴史の教授と?」
「文学談義? あーまあ。そんなところだ。今、9対8で、そろそろ決着がつきそうなんだ、マイディア」
「9対8? サッカーでもあるまいし」
やっぱり訳が分からない。勝負ごとか賭け事か? ホブに顔を向けたが、彼も気まずいのか視線を合わせようとしない。アジラフェルと同じように、天井に目を向けた。
俺が黙っていると、アジラフェルが手を振った。
「いや、こっちの話だ。そろそろ終わりそうだから。えっと、ちょっと待っててくれる、クロウリー?」
「分かった」
店のドアに向かった。アジラフェルは「そろそろ終わる」と言ったが、俺は信じなかった。きっと数日はかかるだろう。そうやって何度か約束が延長されたから、慣れてはいる。
アジラフェルがメモを隠す前、少しだけ文字が読めた (悪魔は動体視力が優れている)。メモには「パートナーの好きなところを挙げていく勝負」と書いてあった、意味が分からない。俺の読み間違いか?
***
「二人は何をしていた?」
店から出ると、夢の王が首を傾げた。俺が「様子を見てくる。待ってろ」と言ったのを素直に従ったらしい。悪魔を信じるとは、モルフェウスも変わっている。いいや、その気になれば俺を容易く消せるという余裕かもしれない。
「さあ、何かホブと勝負でもしていたぜ。決闘みたいな勢いだったが」
「決闘? 天使と?」
モルフェウスは眉をしかめた。決闘に嫌な思い出もあるのか? 彼は夢の王だ。大抵の相手は打ち負かせる。決闘なんてしたこともないだろう。
「ホブを助けに行く」
途端、モルフェウスが歩き出した。ドアノブに手を掛けたが、俺が慌てて引き留めた。だめだ、猫の件をモルフェウスが聞いたら厄介なことになる。
「いや、決闘は言い過ぎた。ともかく、二人で何か話し込んでいた。邪魔しないほうがいい」
付け加えると、モルフェウスの眉間から皺が消えた。
「そうか。ホブに危害は及んでいないな?」
そう言って、再びポケットに手を戻した。
「ああ、ないよ。が、アジラフェルに『少し待っていて』と言われたが、あれは何日もかかるな。どうする? モルフェウスもホブと待ち合わせだったんだろ。いったんドリーミングに帰るか?」
「いや。夜までホブと過ごすとルシエンに……司書に宣言してしまった。このまま戻っても……司書になにか言われそうだ。このままここで待とう」
「司書というより、保護者みたいだな。帰りの時間を宣言する相手なんて。それに、ずっと立ち尽くすのも迷惑と思うが」
さっきだって、すれ違う人々に妙な目で見られていた。無言で店の前に立ち尽くす細身の男がいたら、ソーホーじゅうの噂になる。それは避けたい。さてどうするか……と思考を巡らせると、ふと閃いた。
「おれのフラットに来るか?」
「……悪魔の家に?」
「夢の王なのに怖いのか?……おい、睨むなよ。冗談だって」
おどけるように肩をすくめた。 まったく、こういう存在は冗談が通じないから困る。
「他に行くあてもないだろ。それに、俺ならすぐにホブかアジラフェルと連絡が取れる。二人の勝負……談義が終わるまで一緒に行動したほうがいい」
これは建前だった。本音は、俺に構おうとしないアジラフェルへの悪戯心だった。あいつ、ランチの約束をしたくせに俺を放っておくなんて。しかも人間と一緒にいるとは、俺をなんだと思っているのか。たかが600年生きた人間に、アジラフェルとの関係が崩されるなんて考えてもないが「約束をすっぽかされる立場」をあいつも味わえばいい。
アジラフェルがホブと過ごしたいなら仕方がない。だったら俺は、モルフェウスを家に招待してやろうじゃないか。『待っていて』と言われたが、「誰と」「どこで」とは指定されていない。
「あんたと過ごしたあとだと、よく眠れる気がするしさ」
「わたしは安眠剤ではない」
「似たようなもんだろ」
言うと、更にムスっとした顔になった。険しい目つきのままポケットから手を出し、顎にやって考え込んだ。
「君が単に、眠るのが得意なだけだ。悪魔にしては」
「じゃあ、その悪魔の生態を調べるってのはどうだ?」
ぴくり、とモルフェウスの眉が動いた。内心で俺はニヤリとした。これはあと一押しでいける。
「いいぜ、眠る俺を気が済むまで調査してくれても」
「……何が望みだ?」
モルフェウスは相変わらず俺を睨んだが、好奇心は隠せていなかった。身を少しだけ乗り出し、目には輝きが見えた。夢の王も、眠る悪魔の生態は気になるらしい。
「だから何もないって。アジラフェルとのランチまでの暇つぶしだ。罠なんかない。俺があんたに勝てるはずもない」
「いいだろう」
モルフェウスは緊張を解き、ゆっくり歩きだした。俺がベントレーへ案内し、助手席までエスコートすると素直に従った。案内され慣れている様子は、まさしく王の振る舞いだった。
乗り込み、ラジオの音量を合わせる。そうだ、夢の王に教えることはたくさんある。アジラフェルは本だが、俺にだって得意分野はある。
「ついでに俺のコレクションも披露するか。クイーンって聞いたことあるか?」
「王族が歌うのか?」
席からずり落ちるかと思った。夢の王は天使と同等か、それ以上に現代に疎いらしい。
「グループ名だ。本当の女王じゃない。その調子じゃあ、あんたビートルズも知らないだろ」
「甲虫? 虫の音楽?」
「……こりゃあ長くなりそうだな」
悪魔の生態学の調査は諦め、音楽史の授業に切り替えるべきか。まったく、ホブはモルフェウスに何も教えていないのか? そう思いながらハンドルを握った。
「あ、そうそう。眠っている俺がシューって音を出したら、教えてくれ」
「わたしは記録係ではない」
『代わりに、あんたの猫の癖が出たら教えてやるよ』と言おうかと思ったが、やめた。これはいつかの切り札にしておこう。
***
書店の窓から、日が暮れていくのが見えた。
そうか、もう夕方か。酔いのまわった頭でぼんやり思いながら、俺はモルフェウスの姿を思い返した。俺が心配になるほどの細い指と手足。あんな瘦せぎすの体に、王の責務を抱えていると心配になる。
「モルフェウスは……食べないから心配になる。ちょっとでも食事に興味を持ってくれたらいいんだが」
あれ?これは前にも言ったな。と自問自答したが気にしなかった。そして独り言のつもりだった言葉を聞いて、アジラフェルがぱっと顔を上げた。
「わかる! クロウリーも滅多に食べない。そのくせわたしにいつもお土産やお店の情報を……おや、グラスが空だね。要るかい?」
「もらうよ」
アジラフェルが注いだワインを一口飲んだ。それからふと我に返った。そういえば俺、なんでここにいるんだ? いつからアジラフェルとワインを飲んでいる? ワイングラスを置き、店内を見渡した。答えは見つからない。本の背表紙だけだ。
「こないだもね、クロウリーったら『新作のケーキを買ってきた』だなんて……口実が……」
酔いが回ってふわふわと喋り続ける天使は放置した。喋るに任せておけばいい。俺は額に手をやって、店に入ってからのことを思い返した。
そう、モルフェウスと古書店で待ち合わせをした。俺が着いたらモルフェウスはまだ来ていなくて、店内には店主……天使のアジラフェルだけだった。
最初は雑談を交わしていた。それがいつの間にか「クロウリーは格好いいし可愛い」「いや、モルフェウスだって」と、待ち合わせ相手に関する自慢話になった。いまにして思うと、惚気というべきか。
気づくとアジラフェルが「決闘だ!」と紙とペンを持ち出した。「そこに相手の好きなところを書いていこう」と。
「そんなの書ききれないな。でもまあ、モルフェウスが来るまでなら付き合おう」と返事し、その後は……。目を瞑った。ワインのせいで頭がぼんやりする。そう。10点先取だったはずが延長戦に延長戦を重ね、話が盛り上がりすぎて「こんなに自慢できる相手がいるなんて。ワインも飲もう。わたしの奢りだ」と天使が言い出し、いつの間にか勝負じゃなくて単なる談義になって……いまに至る。あれ……そういえばモルフェウスはどこだ? 今日は一度も見かけていない。
「ああ、あとそれからクロウリーはね。蛇の入れ墨があって……あれ? これはさっきも言った?」
入れ墨の話は聞いていられなかった。腕時計を見ると、針は17時を指していた。「もう夕方か」と呑気に思っている場合じゃない。椅子から立ち上がると、ワインと本の山が崩れる音が響いた。
「モルフェウスに会いに行かないと。あんたもクロウリーと約束じゃなかったか?」
そうだ。途中でクロウリーが来た。アジラフェルが「待ってて」と告げたあと、店から出て行ったが。あれはいつだ?
アジラフェルは口を開け、瞬きを繰り返した。
「クロウリーとの約束?」
『クロウリーのことだったらなんだって覚えている』と言ったくせに、この天使ときたら。
……いや、勝負に乗った俺だってアジラフェルを責められない。ただ昼間は、ここまで勝負が長引くとは思っていなかった。
「そういえばすっかりクロ……じゃない。すっかり暗いな。酔いを醒まそう」
アジラフェルは指を弾いた。ワインボトルが満たされると同時に、天使の顔から赤みが消えていく。なんだそれ、と俺が言う暇もなくアジラフェルはソファで姿勢を正した。
ようやく現実に戻ったアジラフェルは、はっきりした声で聞いた。
「……いまは何時だい?」
「17時ですよ」
入口を振り返った。この声は聞き覚えがある。視線の先、本の塔の頂点に、小さな黒い姿がちょこんと佇んでいた。
「お久しぶりです。ホブ、それにアジラフェルも」
「マシュー。いつから」
モルフェウスの臣下のマシュー……大鴉のマシューは羽を広げ、テーブルに着地した。空のワイングラス、本、メモや筆記具の隙間を縫って、絶妙なスペースに身を落ち着けた。
「ついさっきですよ。お二人の様子を見てくるようにと言われましてね。モルフェウス様から」
「あー……モルフェウスは今どこに」
あっという間に酔いが覚めていく。アジラフェルは指で弾けばアルコールが消えるが、それに負けず劣らずの速さだった。俺が約束をすっぽかしてモルフェウスは怒っているに違いない。どうしよう。埋め合わせの手段が思い浮かばない。
「クロウリーのフラットですよ」
「なんでクロウリーのフラットに?」
アジラフェルがゆっくり立ち上がった。声は普段通りだが、目つきは真剣そのものだった。
「クロウリーさんの生態の調査のため。だそうです」
「生態の調査……クロウリーに危害は加えてない?」
アジラフェルの声が低く、暗くなった。まずい。酒場の喧嘩や戦場では、こうした静かに怒るタイプがもっともタチが悪い。何がきっかけで暴走するか分からない。俺は宥めようとしたが、それより先にマシューの答えのほうが早かった。
アジラフェルの変化に気づいたのかいないのか、呑気な声だった。
「危害なんて加えてませんよ。モルフェウス様がクロウリーさんの眠りを調べているだけです。クロウリーとはドリーミングでお会いしましたよ。ドリーミングに向かえば、お会いできるはずです」
「分かった。向かうよ」
もう勝負は忘れたらしい。アジラフェルはスタスタと書店を突っ切り、階段を登り始めた。……階段? 書店のドアではなく?
「フラットに行くんじゃないのか?」
「クロウリーはドリーミングにいるんだろう? いま寝れば、ドリーミングで待ち合わせできるはずだ」
二階から天使が叫び返した。それからバタンと扉の閉まる音が響いた。寝るということは、寝室の扉だろう。書店は静まりかえり、マシューと俺だけが取り残された。
「アジラフェル、『わたしは寝たことはない』って言ってたような……今から寝て間に合うのか?」
「慌てんぼうな天使なんですね……おや」
マシューが羽を膨らませ、天井を凝視した。何か耳をそばだてるような仕草だ (カラスの耳がどこにあるかは知らないが)。そうして嘴を俺に向けた。
「ご主人様から報告です。たった今、クロウリーさんが起きたそうですよ」
「ちょうどアジラフェルとすれ違いになったな」
『寝る』と宣言したばかりなのに。と俺は苦笑するしかなかった。きっと今頃、アジラフェルはドリーミングに向かっているのに、肝心のクロウリーはドリーミングから離れている。はた迷惑な二人組だ。
「ご主人様もフラットにいますよ。ホブ、会いに行きます?」
「そうだな。アジラフェルを起こしてから向かうよ。俺はクロウリーの住所を知らないし、アジラフェルに案内してもらわないとな」
はた迷惑な二人組、と笑っている場合ではなかった。俺だってモルフェウスに謝りにいかないと。「君の好きなところを挙げるのに必死だった」は理由になるだろうか? モルフェウスへの謝罪を考えながら、俺は書店の階段を登った。
その後、フラットで「俺以外の男を家に連れ込みやがって」「君だってそうじゃないか」と双方に譲ろうとしないクロウリーとアジラフェルの争いに巻き込まれるのだが、それはまた別の話だ。
