Work Text:
「モルフェウス! 助けてくれ!」
週末、モルフェウスとNew Innで過ごしていたときのこと。注文したコーヒーが届けられた直後、赤毛の男性が駆け込んできた。いいや、人間の姿をしているが、モルフェウスと同じように人間ではない。地上に暮らす悪魔だ。名前は確か……。
「クロウリーか。目覚めの世界では久しぶりだ」
俺が口を開く前にモルフェウスが答えた。急に話しかけられるのに慣れている素振りだった。
クロウリーは走ってきたのか顔が赤く、髪の毛も乱れていた。何度か後ろを見やって、追っ手が来ていないか確かめていた。
「挨拶はいい。逃げてるんだ。助けてくれ」
「分かった」
モルフェウスは椅子から立ちあがり、コートのボタンを全て外した。だが脱ぎはしなかった。腕を広げ、コートをばさりと広げた様子は、水浴びするカラスを思い起こさせた。一方、クロウリーはモルフェウスの正面に回り込み、モルフェウスに近づいた。体がぶつかるくらいまで来ても、クロウリーは歩みを止めなかった。
「いつもの場所に頼む」
クロウリーは躊躇せずにコートの中に潜り込んだ。モルフェウスは更にコートを広げた。ハグというより抱き込む形に近い。待ってくれ、俺が知らない間に、二人はそんな仲に?
「え?? おい!」
いつの間にか立ち上がりかけたが、二人は俺を見ない。モルフェウスの広げたコートにクロウリーがすっぽり覆われた……途端、クロウリーのシルエットが消え、モルフェウスだけが立っていた。さっき来たはずのクロウリーの影も形も見えない。
「……あれ?」
モルフェウスはゆっくりコートの前を閉め、席についた。どこからどう見ても普通のコートだ。クロウリーが隠れているようには見えない。
モルフェウスはマグカップを持ち上げ、コーヒーを一口啜った。
「苦いな。コーヒーとはこういう飲み物か?」
「昔に比べれば今の味がましだ。そのうちに慣れる……じゃなくて、クロウリーはどこに?」
「ああ、彼ならドリーミングに移動した。わたしのコートから」
「うん??」
詳しく話を聞くとこうだった。コートはモルフェウス自身で、ドリーミングもモルフェウス自身だ。だからコートの中に入ればドリーミングに瞬間移動できる。
普通の生き物の場合、生身のままドリーミングに行くことは不可能だ。ドリーミングに行くためには眠る必要があるからだ。
だが地上の制約に縛られない超自然的存在 (悪魔や天使をそう呼ぶらしい)は、モルフェウスのコートからドリーミングに直接行くことができる。
「クロウリーはドリーミングの……そうだな『常連客』だ。人間よりも長く眠れるせいか、よく入り浸っている」
「ああ、だからさっき『目覚めの世界では久しぶり』って言ったんだな」
「今頃、ドリーミングを歩いているだろう。また図書館でルシエンに迷惑をかけてなければいいが……」
じゃあ、コートの裏地にはクロウリーの足跡が残っているのだろうか? 机の下に屈みこんで、コートの裾を見たい誘惑に駆られたが抑えた。いくら好奇心が強い俺でも、コートに吸い込まれるのは怖い。
俺の考えを読みとったのか、モルフェウスはふっと笑って付け加えた。
「安心しろ。わたしがドリーミングと繋げようと意識しない限り、このコートは普通のコートだ。目覚めの世界の物体や人間を勝手に取り込むことはない」
「そういうものか……」
理解できたかどうかわからないが、ともかく頷いた。よかった。俺に危害はないわけだ。
そういえば、クロウリーがコートに吸い込まれる光景は見覚えがあった。似たコートを見たわけではない。一見、ごく普通の何かが別世界への入口で、入った先は広大な場所に繋がる、という状況にデジャヴがあった。それに、クロウリーも誰かを思い出させた。どこで見たんだったか……。
「コーヒーには慣れそうにもない。苦い」
二口目を飲んだモルフェウスの感想に、はっと現実に引き戻された。マグカップを置いたモルフェウスは顔を歪ませていた。
「砂糖を入れるか?」
砂糖壺から角砂糖を取り出した。
「お二人ともすみません、先ほどクロウリーがここに来ませんでしたか?」
モルフェウスに角砂糖を手渡した途端、声が聞こえた。ふと視線を上げると、穏やかな男性が俺たちの傍に立っていた。この男性も見覚えがある……確か。
「アジラフェル、久しぶりだな。ああ、今度本を返しに行くよ。授業で役立った」
今度はモルフェウスより俺の方が早かった。そう、この男性も人間ではない。クロウリーが悪魔なのと同様、アジラフェルも地上に暮らす天使だ。
「それはどうも、ガドリング先生。それで、クロウリーを見かけませんでした? 彼の匂いを追ったらここに着きました。来ませんでした?」
俺はモルフェウスを見やった。どうする? アジラフェルに話すか?
クロウリーは「逃げてるんだ」と言った。もし追っ手がアジラフェルだったらどうする? クロウリーの願いを無下にすることになる。正直に言うか?
……と、視線で聞くつもりだったが、モルフェウスは渡された角砂糖の包みに夢中だった。眼の前に角砂糖を持っていき、何度かひっくり返し、大きさを確かめている。
おいまじかよ。そんな角砂糖が珍しいのか?
しょうがない、俺が代わりに言おう。ただし嘘は言いたくないから、質問で誤魔化すけれど。
「クロウリーと何かあったのか? 喧嘩か?」
「いえ喧嘩というか……」
天使は何度か言いよどみ、視線をさ迷わせた。よかった。質問を誤魔化されたことには気づいていないらしい。
「わたしが急に、彼にキスしたのが怒らせたようです」
「へ?」
さっきのモルフェウスのコートといい、今日は素っ頓狂な声ばかりが出る。とはいえ、異次元に繋がるコートよりかこっちの方が、まだ理解はできそうだ。ドリーミングの原理より、色恋沙汰の相談のほうがまだ慣れている。
アジラフェルは更に視線をさ迷わせた。耳が赤くなっているのが俺からも分かった。
「来たのが嬉しくて、抱きついてキスしたんです。彼に。そうしたらクロウリー、顔を真っ赤にして駆け出してしまって。ベントレーは置きっぱなしだから、そこまで遠くには行っていないと思うのですが」
うつむき、指を組み合わせながら天使は息を吐いた。
「わたしは愛を伝えるのが下手で、今回も彼を怒らせるつもりはなかったんです。嬉しくて……そう、抑えきれなくて。でも逃げ出したということは、やっぱり怒らせてしまったんでしょうか。」
「……いやそれ、照れているだけじゃないか?」
「え?」
さっきのクロウリー、やけに顔が赤かったのは走ってきたせいかと思っていた。だが、照れて顔が真っ赤になった結果だとしたら?
……と言いたかったが、言ってしまうとさっきクロウリーと会ったことがバレる。
「あんたら、まだ想いを伝えあって長くないんだろ。急にキスされたらびっくりするよ。それにクロウリーが『怒っている』とか『嫌だ』って言ったわけじゃないんだろ。彼が怒っていると決めつけるのはまだ早いんじゃないかな」
同意を求めてモルフェウスを見やった。モルフェウスもこくりと頷いてくれた。よかった。なぜかコートのボタンを触っているが、クロウリーを逃がしたことを少し気にしているのかもしれない。
「ひとまず、ちゃんと話し合ってみたらどうかな。俺たちも、見かけたら伝えておくよ」
「……そうですね。まずは彼の言葉を待ちます。ありがとうございました」
天使は店から出て行った。去っていく背中を見て、俺は自分のコーヒーに口をつけた。妙に疲れたせいか、コーヒーの味が染みわたった。
「……なんだか慌ただしいな、今日は。ところでモルフェウス、さっきからなんでボタンを触って」
「ホブ、少し待ってくれ」
俺の質問に手で制し、モルフェウスは再び立ち上がった。俺の眼の前でボタンを全て外し、コートを勢いよく脱ぎ捨てた。コートの下は長袖のシャツで、予想通り黒色だった。
両腕も胴体も細く引き締まっているのが服の上からでも分かる。思わず見とれそうになったのを理性で押し留め、視線を逸らした。
急に脱ぎだすなんて、やけに慌ただしくてモルフェウスらしくない。火傷をしたか暑くなったみたいな素振りだった。
どうした? と俺が聞く前に、モルフェウスは床にしゃがみ込み、落ちたコートの内側を表に向けた。
途端、クロウリーが立っていた。店に駆け込んできたのとまったく同じ姿だ。モルフェウスのコートの上に立って、アジラフェルの出て行った方角を見つめていた。
「アジラフェルの話を聞いていただろう? 今なら追いつくと思うが」
「……そうする。世話になった」
それからクロウリーはあっという間に駆け出していった。行先はもちろん、アジラフェルのところだろう。
「……クロウリーはドリーミングに行ったんじゃなかったのか?」
「そう思っていたが、アジラフェルの気配に気づいて引き返したようだ。アジラフェルのことが心配になったらしい。天使が話している間、コート中から様子を伺っていた。おかげでコートが窮屈だった」
モルフェウスはため息をつきながらコートを拾い上げ、羽織ってから再び座った。それから角砂糖の包みを手に取った。
「それでホブ、この角砂糖の包みはどう開ける? このままコーヒーに入れるのか?」
「ああ、その切れ目をピッと破ればいい」
そうか、コーヒーを飲むのが初めてなら砂糖を入れるのも初めてだったな、と思い直した。道理でさっき、角砂糖の包みをまじまじと見ていたわけだ。ついでにかき混ぜることも教えてやった。
やや冷めかけた砂糖入りコーヒーを飲んだモルフェウスは、一口目と同じく顔をしかめた。
「やはり苦いな。わたしには向いていないようだ」
「そうか? 今度はカフェオレを頼むか? ここのコーヒー、美味いんだが」
そこで一つの考えに行き当たった。そうだ。モルフェウスがコーヒーを飲めないのは当然だ。
「もしかすると……カフェインは眠気を醒ます効果があるから、君とは相性がよくないかもしれない。よく考えずに注文してすまない」
「そうか」
そう言ったモルフェウスは少し残念そうだった。俺にはわかる。これはやや落ち込んでいるときのモルフェウスだ。
「せっかくなら、君の薦めてくれたメニューを飲んでみたかったが。残念だ」
心臓が早鐘を打ちはじめた。モルフェウスは本音を口にすることが少ない。普段は言わないような本音を、ここで、こんな形で聞けるとは思わなかった。
コーヒーを飲んでいる最中に言われなくてよかった。飲んでいるときだったらきっと、あまりの不意打ちでコーヒーを溢したはずだ。
なんとか咳払いして、ようやく言葉をひねり出した。
「あー……嬉しいが、その、無理に飲まなくても大丈夫だ。体質に合わないなら仕方がない。その、コーヒーを飲まなかったからって、えー……君を嫌いにならないよ」
「それはよかった」
モルフェウスは少しだけ笑い、マグカップを置いた。
俺はもう自分のコーヒーなんて気にしていなかった。頬が緩みそうなのを堪えるのに必死だった。ともかく、話題を変えて誤魔化すことにした。
「えーと。そうだな。これからどうする? 俺の家で映画でも見るか?……あっ!」
頭の中で点と点が繋がった感覚がした。そうか。さっきのデジャヴに思い至った。
「どうした? ホブ」
モルフェウスが首を傾げて俺を見ている。急に言葉が途切れたのを不審に思ったらしい。
「思い出した! 『ドクター・フー』のターディスだ! さっきの君のコート、何か似ていると思ったんだ。それにクロウリーもドクターだよドクター! 声がそっくりだ。誰かに似ていると思っていたんだ。あーすっきりした」
「なんのことだ? 医者の話か?」
モルフェウスの眉が一層深められた。俺の話を理解できない、という顔だ。当然だ。モルフェウスの知らないテレビドラマの話なんだから。
「『ドクター・フー』っていうドラマの中でな、外側より内側が大きなポリスボックスがあるんだ。君のコート、ドリーミングに繋がるだろう。普通のコートなのに別次元に繋がるって、何かを思い出させると思っていたが、ターディスに似ているんだ。それにクロウリーもドクター役の俳優にそっくりだ」
「詳しいな、ホブ」
いつの間にか早口になっていた俺に、モルフェウスが呟いた。
「国民的ドラマだしな、俺の教え子にもファンがいるよ。SFドラマだから未来に行く話もあるが、過去に行く話もある。まあ当時を知る俺からしたら、懐かしいやらちょっと違う箇所もあるが。きっと君も楽しめるんじゃないか? よし、今日は『ドクター・フー』を見るか」
「そうしよう」
俺とモルフェウスは立ち上がり、New Innを後にした。さっきクロウリーとアジラフェルは互いの後を追い廻していたが、今の俺とモルフェウスは並んで歩ける。そのことの幸せを噛みしめながら、軽口を叩いた。
「今日は忙しかったな、天使と悪魔の鬼ごっこに付き合わされて」
「わたしからすると、かくれんぼだな」
モルフェウスが答え、コートのボタンに触れた。俺は笑うしかなかった。
