Chapter Text
「もう大丈夫かな……」
星造りの天使はそう呟くと、ゆっくりと翼を動かした。頭上にかざされていた羽根はゆっくりと位置を変え、彼の背後へと移った。
「ありがとう……その、羽根の下に入れてくれて」
彼が羽根をかざしたときは驚いた。今までこんなこと……誰かに守ってもらうなんて、なかったからだ。
羽根が頭上に被さったとき、なんて優しい天使だろう、とわたしは胸がいっぱいになった。天使は普通、自律を求められる。自分で飛べない、動けない天使は見下される(もちろん天使は愛情深き存在だから、見下す態度を表には出さないが。わたしの上司たちのように)。
わたしを庇ってくれる天使がいるなんて驚きだった。自然と頬が緩み、胸に暖かいものが流れ、何かがドクドクと鳴っているのを感じた。これはなんだろうか? 身体の不調か?
わたしは改めて彼の横顔を見た。星造りの天使の瞳は輝き、星たちに向けられていた。出会ったときと変わらない。
「よかった。お前たち、怪我はしていないな」
呼びかけはわたしではなく、星たちへ向けられたものだった。
耳をすませたが、わたしには星たちの返事は聞こえなかった。そもそも、星には話す機能なんてないはずだ。それでも、彼はひとりで勝手に頷いている。星たちが返事をしているかのように。
「ねえ、どうして星に話しかけるの?」
「どうしてって……どうして?」
赤毛の天使は―そういえばまだ名前も聞いていなかった―はわたしをぽかんと見つめ、首を傾げた。目は真ん丸で、わたしの質問の意図が分からない……いや、わたしがどうして質問したのかが分からない、と目は告げていた。
わたしはピンクの星雲たちを指さした。
「星たちに話しかけたって、反応しないよ。だって星には耳もないし、わたしたちの声も聞こえないよ。意味がないのでは?」
「そんなことない!」
彼の声が宇宙に響き渡った。思わずわたしは翼を震わせ、後ずさった。
「俺は……信じてる。確かにあいつらには俺の声は聞こえないかもしれないけど、俺が作った子たちだ。だから俺の愛情はきっと星たちに伝わるはずだ。意味がないって言うなよ」
「それは……ごめん」
わたしは謝ったが、赤毛の天使は俯き、顔を歪めた。どうしよう。機嫌を損ねたらしいが、どうやったら彼を慰められるかわからない。彼の笑顔が見たいのに、悲しませるつもりなんてなかったのに、何もできなくてわたしは手を揉んだ。
「その、そういえばミーティングがあったんだった。今思い出したよ。それじゃあね」
ミーティングの件は本当だった。だが本音は、彼の悲しそうな表情を見ていたくなくて「逃げ出した」に近い。罪悪感を覚えながら、わたしは去った。
***
それから少し後のことだった。上長から呼び出しを受けた。あの赤毛の天使に関する話だろうか。彼と会って、話をしたのが他の天使にもバレたのだろうか。内心ヒヤヒヤしながら向かったが、わたしの予想は外れた。
上長が話したのは、新たに備え付けられた臓器に関する件だった。
「心臓?」
わたしの問いに、上長は翼を揺らしながら答えた。
「あの方が『人間』を作っているのは知っているだろう。人間の中心となる臓器だそうだ」
当時、あの方……神は「人間」の試作をあれこれ改良している最中だった。
「なるほど。ひとつの体にひとつの臓器ですか? それとも二つや三つ?」
「いいや、ひとつだけだ。この辺りに作るらしい」
上長は体の中心の少し上……後に「胸」と名付けられる場所を叩いた。なるほど、翼の根のあたりか。
「それで、わたしに何か関係が? 人間の臓器でしょう?」
上長は眉をしかめた。
「実は……こちらの伝達ミスでな。申し訳ない、アジラフェル。既に君は心臓を備え付けられている」
「え?」
神はわたしたち天使をよく改良した。わたしたちが気づかない間に、神しか知らない理由によって。当時はそうした神の介入がよくあり、天使たちは喜んで従った。
上長はわたしの体を眺め、やがて言い訳のように早口でまくし立てた。
「『人間のテスト: 新たな臓器の知らせ』の告知が出ていたらしいが、君には伝わってなかったらしいな。ほら、こないだのミーティングに君は遅れただろう。実はミーティングの初めに心臓の告知があったんだ」
「ええ、ちょっと手伝いを急に頼まれたので、遅れました」
星雲作りを手伝ったとは言わなかった。あの件はわたしだけの秘密にしておきたかった。
「そうか。急な手伝いに駆り出されたなら仕方ない。遅くなったが、この場で心臓の確認をしたい。心臓の様子はどうだ? なにか不具合や体がおかしい箇所はないか?」
「そういえば……確かに最近は体がうるさいなと思っていました。ずっとドクドクと音を立てていますね。これが心臓ですか」
「そうだ。それが『鼓動』らしい。血流……と呼ぶものを送り出している。人間の場合、その鼓動が消えたら死ぬそうだ」
「死」。それは人間の……いや生命の終わりだった。どんなものも避けられない。「星が滅びる」と伝えた際の、赤毛の天使の表情がよぎった。
上長はふっと笑って付け加えた。
「もちろん。我々は天使だから、心臓が止まっても死ぬことはない。別の肉体を申請すればいい。まあ、人間の真似事だと思ってくれ」
「はあ……」
わたしは自分の心臓の音に耳をすませた。これからずっと、この音と一緒に過ごさなければならないのか。慣れる日は来るのだろうか。
「そうそう、その心臓とかいう機能は感情にも反応するそうだ」
「感情に反応?」
上長はきまり悪そうに咳払いをした。
「わたしはよく分からないが、感情が高ぶると心臓の鼓動が早まるらしい」
「鼓動は一定ではないのですね」
上長は頷いた。
「だから、人間の感情を検知するためには、心臓の音を聞くといい。例えば人間が恋に落ちた瞬間の鼓動は早くなるし、愛する人と過ごす場合には落ち着くそうだ。もっとも、我々天使は愛を検知する機能が備わっているから、わざわざ耳をすませる必要はないが」
以降の上長の話は聞いていなかった。わたしの頭の中は、あの赤毛の天使の姿でいっぱいだった。
あのとき、彼が星雲たちに向ける眼差しは間違いなく愛に溢れていた。そんな彼を見たとき、確かにわたしの心臓はうるさかった。あのときは心臓のことを知らなかったから、肉体の不調だと思い込んでいたが、なるほどあれが「恋に落ちた瞬間」か。
もう一度、彼が笑顔を向けてくれないだろうか。「彼の名前を知りたい」「名前を呼びたい」、そんなそわそわした感情が生まれた。これも恋だろうか。
今でも彼のことを思い出すと、心臓の鼓動が早くなる。だが、この件は上長には報告しないでおこう。言うなら、赤毛の彼に最初に伝えようと決めた。
君といると、鼓動が早くなる。どうやら恋らしい。ねえ、君はどう? こんな感じでさり気なく聞いてみようか。
ふと視線を上げると、上長の話が終わったところだった。
「……次回からはミーティングに遅れないようにな。他部署の業務を手伝うのもほどほどにしておけ」
「はい」
上長は話を終えると、さっさと飛び去った。わたしも持ち場に戻った。
***
それから少し経ったあと、わたしは再び星造りの天使を見かけた。
「いいか。おまえたち。しっかり育てよ。他の星たちとは仲良くな」
彼は前と同じ場所にいた。以前のような巻物や道具は持っておらず、手ぶらだった。手を振り回し、遠く離れたわたしにも聞こえるくらい、大きな声で星たちに喋っていた。
わたしは彼から気づかれない距離で、こっそり様子を伺った。
星は返事をしないのに、話しかけるなんて。やっぱり変な天使だ。だが彼が話す姿は微笑ましかった。手を振り回す仕草は元気いっぱいで、こちらも活力が満ちてくる。
「いい子だ。お前たちは俺の誇りだ。きっと素晴らしい星になるぞ」
彼の笑顔はまぶしく、わたしの心臓がうるさくなった。さっき飛行していたときは平常だったのに、いまはテンポが速い。ずっとドクドク鳴っている。この音が彼にも聞こえるのではと不安だったが、彼は気づいていない。変わらず、星たちに何かを語り掛けていた。
「お前たち星雲は綺麗だなあ。大好きだ。ずっといてほしい」
わたしの感情に暗い影が差した気がした。彼がこちらを見ないからだ。
わたしにも「大好きだ」と言ってほしい。彼の笑顔をずっと見たい。また翼の下に入れてくれないだろうか。翼の下で彼と一緒にいる安心感を味わいたい……ぼんやり考え始めたころ、ふとミーティングの時間が迫っていることに気づいた。
遅れたら、また上長に小言を言われる。わたしは翼を広げ、飛び立った。彼の名前を聞くのは次にしよう。
彼の名前はとうとう分からなかった。だが、わたしは彼と再会した。正確には堕天した彼と、だが。エデンで出会った彼は天使時代のことを覚えていなかった。
雨が降り始めるとわたしは翼を広げ、彼を守った。あのときの礼のつもりだった。しかし彼は何も言わなかった。やはり、何も覚えていないようだ。
がっかりしなかったと言えば噓になる。再会を喜びたかったのに、彼が覚えていないことに落胆した。心臓が痛むものなんて、このときはじめて気がついた。妙な機能を神は作ったものだ。
だがとある考えがよぎった。彼はイヴに話しかけ、それからわたしにも話しかけた。彼は話しかけるのが好きだ。好奇心が旺盛なのか、相手が必ず答えてくれると信じているのか。
もしかしたら、星たちに話しかけたときの名残りがあるのでは?
それに彼には愛の香りがまだ漂っていた。上長は「悪魔は硫黄の匂いがひどい」と言っていたが、彼には硫黄の匂いがなかった。もしかしたら、彼はまだ堕ちきっていないのでは?
彼が天使に戻ったら、わたしを思い出してくれるだろうか? そんな思いを胸に抱きつつ、わたしは雨を眺めつづけた。
それから6000年後、クロウリーは悪魔のままだった。
壁の上で「彼が天使に戻ったら、わたしを思い出してくれるだろうか?」と夢想したことについては、すっかり忘れていた。長い年月を共に過ごしたからだ。ローマ時代に「まだ悪魔?」と聞いて彼が不機嫌になったのもある。
だが彼がちょっとした優しさを見せてくれたとき……例えば染みを取ってくれるとか、おいしいココアを用意してくれたときなど、わたしは彼を悪魔ではなく天使ではと何度も思った。彼は「優しくない」と何度も言うが、それだって悪魔の建前が邪魔しているだけで、本当は……。
そしてよく晴れた日のこと。クロウリーは観葉植物を持って書店に現れた。
「こいつはどうも不調らしい。お前のところで療養させてほしい」
つまり、わたしに預かっていてほしいという依頼だった。わたしはクロウリーに抱えられた観葉植物を眺めた。美しく、どこも枯れているようには見えない。
それにしても観葉植物を抱えるクロウリーの腕は優しく、力強い……とクロウリーの腕へと視線を移しかけたが、慌てて抑えて問いかけた。
「どうすればいいの?」
悪魔から哀れな生き物を守るのも天使の仕事だ。そう言い聞かせ、植木鉢を受けとった。決して贈り物ではないと言い聞かせながら。
テーブルに置かれた観葉植物は、クロウリーが抱えたときよりも少し大きくなった気がする。植物も天使と同じように「羽を広げる」のかもしれない。
「別に。ただ水をやって、日光に気をつければいい」
「そのくらいはわたしも知っているよ。君のこだわりはないの? 肥料とか」
悪魔は首を傾げた。サングラスがずり落ちそうだ。
「強いて言えば……」
クロウリーはわたしに向かって手招きした。仕草の意味が分からず、わたしは瞬きを繰り返した。とりあえずクロウリーの方へ近寄り、顔を見つめた。これで正解?
「違う違う。お前じゃない。その植物を手渡してくれ」
なんだ。わたしじゃなかった。テーブルに置いたばかりの植木鉢を渡すと、クロウリーは目の高さまで持ち上げ、口を大きく開けた。
クロウリーは滅多に食事をしない。だから普段は隠された赤い舌と細く尖った牙に、思わず見とれた。さっきは腕、今度は口の中。我ながら変かもしれないが、どうしても彼の一挙一動が気になってしまうのだ。
「いいか! しっかり育てよお前! じゃないと友達と会えないぞ!」
飛び出したのは脅し文句だった。空気は震え、植物も震え、わたしも震えた。だが、植物の震えとわたしの震えは、理由がまったく異なった。
わたしは胸元を抑え、呼吸を整えた。脅し文句ではないが、6000年前に遡るデジャヴ、始まりよりもずっと前の似た光景がフラッシュバックし、眩暈がした。
あのとき、クロウリーは「クロウリー」ではなく、悪魔でもなく、場所は地球でもなかった。話しかけるのは植物ではなく星で、脅し文句ではなかった。
でも返事をしない相手に話しかけるのは同じだった。
「……俺はいつもこうやって話しかける。そうすればすぐにこいつらも……どうしたエンジェル?」
「え? ああ、うん。いやその。わかった。大丈夫だ」
クロウリーは眉をしかめた。
「どうした? 様子が変だぞ。まさか俺が何かしたか? やっぱり、こいつが気に入らないとか?」
クロウリーは植木鉢を見下ろした。脅されたばかりの植物は再び震えだし、ますます哀れだった。クロウリーに話しかけられて初めて、命が宿ったかのような活発な動きだ。
「いいや。違う。そのちょっと思い出して」
「思い出す?」
クロウリーのキョトンとした表情を見て、わたしの心臓が早鐘を打った。あのときの彼の服装は今のような黒ずくめではないし、髪型だって違う。だけどやはり「星造りの天使」の無垢さが残っていた。
「ちなみに、どうして植物に話しかけるのか聞いてもいい?」
クロウリーは肩をすくめた。
「ラジオ番組で聞いたんだよ。1970年代の初期だったな。『植物には話しかけるのがいい』って。それからずっと話しかけてる。そりゃあ、植物には耳はないけど。俺の言いたいことは伝わるはずだ。このやり方がしっくりくるんだ」
『ねえ、どうして星に話しかけるの?』
『どうしてって……どうして?』
今のクロウリーがサングラスを外したら、目の色は違えどあのときの彼と同じ目つきをしているはずだ。純粋に、こちらを問いかける目をしている。そんな確信がわたしを貫いた。
「アジラフェル? どうした? 調子が悪いのか?」
クロウリーが尋ねた。わたしはクロウリーの背後に白い翼が見えた気がしたが、錯覚だったようだ。慌てて頭の中のイメージを振り払った。違う。ここは地球だ。思い出と混ざってはいけない。
咳払いをし、誤魔化した。
「その、実は今すぐ店を開けないといけないことを思い出してね。植物は預かるよ。じゃあ、開店準備をするから」
酷い言い訳だが、なんとかクロウリーを店の外に追い出した。クロウリーは不思議そうに眉を上げていたが、その視線にも耐えきれなかった。「あの天使」の純真な瞳で見つめないでくれ。そう叫びたかった。
ドアを閉めたあと、ズルズルと床にへたり込んだ。ゆっくり考えをまとめようとしたが、うまくいかなかった。
彼は天使時代を覚えていない。6000年間、わたしはそう信じてきた。じゃあなぜ、星に話しかけたように植物にも話しかけている? そもそも、どうして彼は植物を育てている? 星を造っていた天使時代の名残? だとしたら……。
「残酷すぎる」
空っぽの書店に、わたしの虚ろな声が響いた。
記憶は失ったのに、彼の性質や性格……「何かを育てたい」「話しかけたい」という欲求は消え去らなかったのか。記憶だけ取り上げて、けれど彼の優しさは残して地獄に堕とすとは、神も酷いことをする……いや。
そこまで考えが及び、わたしは首を振った。
神の決断に、理由のないものはない。きっとこれも神の試練の一つだ。だとしたら……わたしはこくりと頷いた。そうだ。彼に天使時代の名残があるなら、彼が天使に戻れるチャンスが残っているのでは?
きっと。きっと何かのきっかけで天使に戻れるとか、記憶を取り戻すかもしれない。植物じゃなくて、星を育てる生活に戻れるかもしれない。じゃあそれまでに、わたしはわたしのできることをしなければ。知らず知らずのうちに、わたしは拳を握った。
数週間後にアンチキリストの誕生の知らせが舞い込み、その件は頭の片隅に追いやられた。だが、消え去ってはいなかった。天使は忘れないからだ。
