Work Text:
舞台上の椅子に腰掛ける水木は、同じく舞台中央に立つ相手を見つめる。始めはスポットライトの明るさに目が眩んだが、二曲を弾き終えるころには慣れた。
夕べに催されるコンサートのために、小さな教会の聖堂前方の舞台には今日に限った照明が設置されていた。壁の高い位置に嵌め込まれたステンドグラスが、下からの明かりに照らされてほのかな色味を浮かび上がらせている。
水木はチェロを抱えてひと呼吸を吐いた。向かいで白銀の髪のおとこ——ゲゲ郎が、ヴァイオリンを構え直す。片側の前髪を上げたゲゲ郎は、普段隠れがちな柘榴の実に似た瞳を星のようにきらめかせている。過ぎる刹那への喜びと楽しさを滲ませて。
そうだな。楽しまないと。水木は微笑む。残すところ、あと一曲なのだから。
教会の聖堂を借りた格式張らないコンサートには座席の指定はおろか、チケットすらない。だがふたりの順番が来るころには客席は満席、立ち見も出ているようだ。
心地好い緊張感が身体を包む。弓を構え、水木はゲゲ郎と視線を交わす。鋭い呼吸(ブレス)を吸う。閃光が弾ける音の始まり。
二重奏のパッサカリアはふたつの楽器のフォルテッシモで始まる。
Largamente(幅広くゆったりと)。その指示の通り、ゲゲ郎は速度を自由自在に操っていく。espressivo(感情豊かに)とdolce(甘く)のフレーズは、クレッシェンドとデクレッシェンドの心地好い波を描く。ヴァイオリンとチェロの交互に寄せては引く波は繰り返し、情感を高め合う。
Agilità(軽快に)の軽やかに跳ねるスタッカート、Andante(歩くように)は夜の散歩のような運弓(ボーイング)。ヴァイオリンの誘いに、チェロが応えては問い返す。
速度の緩急とともに派手な技巧が目立つ曲だが、ゲゲ郎の余裕のある音色には自然な情景が映る。
相棒、か。水木は思う。確かにこいつの気ままさに付き合いきれるのは俺くらいかもしれない。今だってゲゲ郎の考えていることが手に取るようにわかる。徐々に速度を落としていくリトルダンドの調子も、弦を弾くピチカートの感触も。
それにゲゲ郎のやつ、練習ではしなかった揺れ方をするつもりだ。まったく、油断も隙もない。
高められたボルテージはフォルティッシッシモのラストで頂点に達する。そして最後の二小節と一拍のAdagio(ゆるやかに)。
力強く降りていった弓が弦から離れた瞬間。
ブラボー! 歓声とともに客席から万雷の拍手が沸き起こる。鳴り止まない拍手の中、ふたりは立ち上がる。正面に向き直り、一礼で応えた。
「——で、俺としてはひと仕事終わったばかりなんだがなあ……」
薄雲が欠けた月を覆う。夜風を受けながら、足元をぐんぐん流れていく夜の街並みを眺めて水木はぼやいた。地上から高さがあることを今さら思い出して、相棒のヴァイオリンケースと荷物を胸に抱き直す。
建物の屋根伝いに上空を跳躍していくゲゲ郎に、水木は横抱きにされていた。ちなみに水木のチェロはゲゲ郎が背負っている。水木が楽器を背にしたまま、ゲゲ郎にしがみつくのは不安定極まりなかったからだ。
「盛況の裡に終わって良かったのう」
「本当にな。そもそも、新参者の俺らにトリを任せてよかったのか」
「頼まれれば断れぬ。演奏家冥利に尽きるというものじゃよ」
水木とゲゲ郎がボランティアのオーケストラに参加するようになったのはこの前の夏から。日が浅いのにふたりの腕前が噂になってしまい、メンバーで行う室内楽コンサートの最終盤を任されてしまった。
「それなのに打ち上げは乾杯だけで抜けてきちまった」
「しかし次の件も断れまいよ。連日連夜、家にまで来て熱心に誘われたらのう」
「俺は根負けしただけだ。代わる代わる真夜中に訪ねて来られちゃ、肝がいくつあっても足りない」
「西洋妖怪は見慣れぬか」
「そういう問題じゃねえ」
ケタケタとおもちゃのような笑い声が風に乗って響く。夜闇を疾走するゲゲ郎を先導していた、ほのかな灯りがくるりと振り向いた。灯りはかぼちゃの形をしていた——オレンジ色の実に幾何学模様の形にくり抜かれた、目鼻口。その奥に炎が灯っている。橙色の光が揺らめく顔がニタニタと歪む。
「ほれ、かぼちゃの灯りも喜んでおる」
時刻はすでに午後十時過ぎ。けれど今宵のふたりにはまだ赴かねばならぬ場所がある。
「……ハロウィンコンサート、ねえ」
今日は十月三十一日。本邦におけるその名のイベントはどうにも騒がしい印象が強い。水木の感慨を見通したのか、ゲゲ郎は呑気に言う。
「人間を驚かせるのを好む者たちは早々に町に繰り出しておるからの。墓地の方は夏の盆に似て、しっぽりしたものじゃよ」
とん、とゲゲ郎は下駄を踏み込んで高いビルの屋上の縁を跳躍する。靴下と革靴は荷物の中だ。舞台衣装の指定がカジュアルな黒の上下だったので出番後の着替えは省いていたものの、洋装に下駄は違和感が強い。ゲゲ郎いわく、速く走るにはやはり下駄なのだという。
「一日二公演とは、わしも人気者になったものじゃのお。水木も一曲と言わず、もっと弾けばよいのに」
「あんまり妖怪の中で目立ちたくないんだよ」
「わしがおる。悪さする輩はこてんぱんじゃ」
「そうは言ってもな」
ゲゲ郎との再会から前世の記憶を徐々に取り戻すにつれて、水木はこの世に生きる者とは異なる存在が時折視えるようになっている。
かつて——、一度幕引きをした人生では違った。ゲゲ郎と鬼太郎の幽霊族の親子と過ごした時間の分だけ、しっかりと『それら』を視認できた。そのころのように、すっかり視えてしまえば心構えができるだろう。けれど中途半端に視える現状は心臓に悪いし、なにより危険を察知できない。
「そら、着いたぞ」
ゲゲ郎は鬱蒼と木々に囲まれた墓地に降り立った。腕から降ろされた水木は、チェロケースを背負い直して辺りを見回す。灯りのない暗闇に、先導していたジャック・オ・ランタンが地面を跳ねる。着いて来いということか。
「待て、水木よ」
一歩目を踏み出す前にゲゲ郎に制止される。
「手を出せ」
告げながらゲゲ郎は自らの髪を一本抜くと、水木の右手に近づける。細い髪の毛は光の筋となって水木の小指に巻き付いた。それから何事か呟いた後、人差し指と中指で水木の眉間に触れる。
「……なんだ?」
「まじないじゃ。魔除けと、一時的に見た目を変えた。はろうぃーんなら仮装はいるじゃろ」
「ふうん」
かぼちゃの案内に着いてゲゲ郎と連れ立って数分歩いたところで、りぃん、と澄んだベルの音を耳が捉えた。途端、ぐわんと一度大きな耳鳴りが響く。
「うわっ」
「ここからはあやかしの領域じゃな」
さらに歩くと、木々が開けた墓地に出る。芝生の合間、等間隔に並ぶ西洋式の墓石の先に、ぼんやりとした光に包まれた屋根が闇の中に浮かんでいた。
「あそこがステージか」
多角形状の大きな屋根を持った高さのある西洋式の東屋は、まるで野外音楽堂だ。軒下には無数の青白い燐光と、円状に並べられた炎の燈るかぼちゃが空間全体を照らしている。
すでにコンサートは始まっているようだった。賑やかな音楽が奏でられている。用意されたベンチの客席で聴き入る尖り帽を被った者や、ワルツに合わせて踊る透けた人々が途切れ途切れに水木の目に映る。
「父さん。と……水木さん? ああ、父さんの術でしたか」
「おお、鬼太郎。来ておったか」
「はい。ねこ娘たちもあっちにいます」
からころと下駄を鳴らす鬼太郎はいつもと変わらない出立ちだ。周りの西洋妖怪やゴーストたちと雰囲気の違いが目立つが、ドレスコードはないらしい。
「コンサートはどうでしたか?」
「上々だ」
ニッと笑う水木に、鬼太郎は「よかった」と口元を緩める。
「本当は、ぼくも聴きに行かったんですが……」
「気にすんな。ポストの依頼を優先したんだろ? ゲゲ郎から聞いた」
「……はい。無事に解決できました」
「いい子だ。お疲れさん」
水木は鬼太郎の栗色の髪を雑にくしゃりとかき混ぜる。照れくさそうに俯いた鬼太郎だったが、その手を拒むことはなかった。
「それじゃ、今度は一等席で聴いとけよ」
跳ね回るランタンに急かされながら、ふたりはステージの袖に設けられた天幕へ通された。
「なあ……ゲゲ郎」
「なんじゃ? 言われずとも靴に履き替えるぞ。窮屈じゃがのう」
「それはそうしてくれ。ええと、言いたかったのはだな、今からでも俺が出る曲数を増やせるか?」
「おや。気が変わったか」
「ああ。二曲増やして、さっきのコンサートと同じ曲順にしたい。……鬼太郎が、前々から俺たちの演奏を聴くのを楽しみだと言ってくれていただろう」
ここで一肌脱がなくては、頑張りを見せた息子の前で格好がつかない。
「演奏家冥利に尽きるってやつだ。俺もひと踏ん張りしないとな」
ゲゲ郎が施した仮装のまじないが効いている。少しばかり目立っても素性はごまかせるはずだ。意気込む水木に、ゲゲ郎は目を細めて頷いた。
「わしから彼らに伝えよう。夜は長い。問題はなかろうよ」
特別ゲストという触れ込みで紹介されたゲゲ郎と水木の演奏は、妖怪たちからも喝采を受けた。
「幽霊族の殿方のデュオ、ほんとうに素晴らしかったわ」
「まさか故郷から遠く離れたこの地で、これほどの演奏を聴けるとはのう」
「さすが人間とは違う、透明感のある一心一体の音色ですこと」
耳の奥に直接響く紳士淑女のゴーストたちの賞賛を聞きながら、水木は笑顔を引き攣らせた。ちらりと横目で見たゲゲ郎は平然と手を振っている。
「ゲゲ郎」
演奏が終わり、舞台を降りた先の袖の天幕で水木はおそるおそる聞いてみる。
「おまえ、俺にどんな仮装をさせているんだ」
「ふふ、よく似合うとるよ」
「……後で詳しく聞かせてもらうからな」
舞台上から客席の鬼太郎が頬を緩ませて拍手しているのが見えた。問い詰めたいところだが、一旦後回しにしてやろう。それに、ゲゲ郎はこの後一曲を残している。
ステージの中央にはピアノが忽然と現れていた。再び舞台に上ったゲゲ郎は、ピアノに合わせて楽器を調弦する。弾き手がいないのに鍵盤が勝手に動いていることから察するに、付喪か精霊かが憑いているのだろう。
楽器を置いて客席に降りた水木は、手近な席に腰を落ち着けた。
ゲゲ郎がヴァイオリンを構える。解放弦のボーイングと同時にピチカートを十二回奏でる。始まりの十二時の鐘。
ピアノの前奏を裂くように、ゲゲ郎のヴァイオリンが死神のダンスを奏でる。怪しげな暗い旋律の三拍子。
『死の舞踏』。題名を思い浮かべて、水木は口の端を持ち上げる。そう、まさに今日に相応しい選曲だ。
ヴァイオリンとピアノが跳ね飛ぶワルツを刻み始める。豊かなスタッカートとピチカートは踊る骸の骨が当たる音。自由気ままなステップでくるくると墓場で踊る。
ピチカートと短音階のスケールに乗って、気怠げにドレスの裾が引かれる。けれど優雅に回る令嬢の身体は朽ちている——水木が曲のイメージを思い描くうちに、ふわり、と透けた青白いサテン地が目端に映った。見上げると、燐光が人の輪郭を結んでワルツを踏んでいる。
曲は加速しながら激しさを増していく。そして行き着く先は、朝告げの雄鶏の鳴き声を模したヴァイオリンの音。唐突なワルツの終焉とともに、霊たちは墓場へ帰ってゆくのだ。
淡い残光に似た最後のピチカートが弾かれる。一拍の間を置いて、客席から先立つ二重奏の後に引けを取らない拍手の渦が湧き起こった。
「どうじゃった?」
舞台から降りて来たゲゲ郎は、まっすぐに水木の元へとやって来た。
「よかったよ。自由気ままで、掴みどころないのがおまえらしい。終わるのが惜しかった」
すでに舞台上では、舞い戻ったオーケストラのゴーストたちが『死の舞踏』をアレンジして演奏している。脚色されたワルツは途切れることなく繰り返され、舞手たちは踊り続ける。彼らの演奏では、実際の朝日が昇るまで雄鶏が鳴くことはないだろう。
「——水木」
ゲゲ郎の呼び止めに、水木は楽器を片付けようと天幕に向けていた脚を留めた。振り返ると、ゲゲ郎は眩しいものを愛でるようにこちらを見つめていた。
「……おまえ、やっぱり仮装って言いながら、俺に変な格好をさせているんだろ」
「そんなことはない、似合うとる。本心じゃ」
ゲゲ郎は言ったきり、また黙りこくってしまう。その顔がひどく思い詰めていて、水木の気に掛かった。
「ゲゲ郎? どうしたんだ」
近づく水木から、ゲゲ郎は俯いて視線を外す。それから自嘲気味に表情を歪めた。
「わしは愚かじゃなあ。自らの術に嵌ってしまうとは」
「……術?」
わしの欲気じゃ、と小さな声が告白する。
「むかし、お主に……こいねがった。そして断られた」
むかし。水木はゲゲ郎の言葉を口のなかに転がしてみる。今の肉体を得る前の、一度閉じた人生のこと。
水木が持つ記憶は完全ではない。折に触れて取り戻す思い出は、糸の切れた真珠玉のようだ。元々のすべての数を思い出せず、ばらけて暗闇に散乱している。
ゲゲ郎が語り出した話は、今の水木が知らない——未だ思い出していないことだ。
「しかし、もう、わしは耐えられぬ」
ゲゲ郎は痛々しく微笑んだ。
「お主がいない間……音楽を識り、身につけ、知への欲で己を欺き耐えてきた。いつと知れぬ再会を願い、正気を保った。……けれど、次こそは待てる自信がない」
狂いそうじゃ。ぽつりと落ちたゲゲ郎の言葉が、燐光の照らす明るい闇夜に溶けていく。
なあ、水木よ。もう一度告げさせておくれ。
「どうか——三千世界の夜を、ともに生きてはくれぬか」
あ、と水木は合点がいった。ゲゲ郎が施した、まじない。仮装の正体。
雲間が切れた空から月光が零れ落ちる。近くの磨き抜かれた黒い御影石の墓標に、水木の纏う仮初の姿を映り込む。白銀色の、長い長い髪の影。
「……ゲゲ郎」
「っ、すまぬ。忘れてくれ……魔が差した」
「ゲゲ郎」
踵を返したゲゲ郎の背を、水木は抱きしめる。
「ずっと待たせて、ごめん。ごめんな。待っていてくれたこと、俺はすごく……嬉しかった」
「……水木」
抱きしめる腕に力を込める。自分より大きな背は小さく震えていた。
「お前のねがいを受け入れるかどうか、踏ん切りは……すぐにはつけられない。中途半端な気持ちで応えて、ゲゲ郎を恨みたくないんだ。……でも」
水木はゲゲ郎を振り返らせた。教会でのコンサートの前に耳にかけるようにセットしてやった前髪は、墓地まで駆けてくる間に崩れてしまっていた。長い前髪を掻き上げて、隠れている瞳を覗く。
「でもな、ゲゲ郎。俺、思ったんだ。おまえとなら……この世の曲を弾き尽くすのも、悪くないって」
「みずき」
途端にゲゲ郎の瞳が水気を帯びる。ああもう、泣き虫め。
「わし今、楽器で手が塞がっていて、お主を抱きしめられん」
へにゃりと眉を下げて、情けなく泣き笑いするおとこが愛おしくて。水木はふ、と表情を和ませた。
それから爪先立ちをして、無防備な口元に唇の先で触れてやる。
「心配すんな。好きだよ」
「……みずき」
大胆なことをした、と水木は後から気づいた。ぼっと頬に熱が上る。照れ隠しに、ぐいぐいゲゲ郎の腕を引く。
「ほら! 鬼太郎が待ってるんだろ。早く片付けて帰るぞ」
ゲゲ郎の音色は星みたいだ、と水木は思う。自由気ままで、きらきらしていて。どこか遠く、冷たくて。果てのない静謐な悠久の夜に、ひとり光を受けて輝いている。
「なあ、ゲゲ郎」
永遠を言葉にするには、あと少し勇気が要るのだけれど。水木は口元を綻ばす。心はすでに決まっている。
——俺だって、人生ふたつ目で知ったんだ。お前への気持ちは、時を経てもなにひとつ変わらなかったこと。
「次は、何を弾こうか」
【劇中曲】
Johan Halvorsen / ヨハン・ハルヴォセン
Passacaglia for Violin and Cello
(ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲『ヘンデルの主題によるパッサカリアとサラバンド』 ヴァイオリン・チェロ編曲版)
Camille Saint-Saëns / サン=サーンス
Danse Macabre for Violin and Piano
(交響詩『死の舞踏』 ヴァイオリン・ピアノ編曲版)
