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いまや、沈清秋は死体だった。長きに渡る拷問で衰弱した体は、つい先ほど、最後の息をため息のように吐いて動きを止めた。地下牢には、変わらない闇と沈黙だけが広がっている。 沈清秋には嫌いな人や嫌いなものが多すぎた。小畜生からの拷問の果てに死んだところで、嫌なものばかりの人生から解放されるにすぎないはずだったのに。これでようやく全てが終わると安堵できるはずだったのに。
沈清秋の網膜には、玄粛の欠片の輝きが焼きついていた。
剣は折れ、主は死んでしまった。
岳清源は迎えに来ないはずだった。こんな末路を迎えるはずじゃなかったのに。
沈清秋の人生の最期には、泣きたくなるほどの後悔があった。
こんなはずじゃなかったのに。
沈清秋の魂が、ただの肉の塊となった体から離れていく。沈清秋は、最後まで嫌な結末ばかりを突きつける世界から目を背けるように、瞼をおろした。
次に目を開けた時、沈清秋が目にするのはあの世なのだと思っていた。
だが、目の前に広がっていたのは黄泉路や冥府とは程遠い、あまりに見覚えがある光景だった。
蒼穹山派、清静峰だ。
自分が峰主をつとめていた場所を間違えるはずがない。
沈清秋は顔をあげ、周りを見回した。
…何故だか、まるで体が縮んでしまったかのように視線が妙に低い。
清浄な空気が辺りに漂い、周囲を囲む竹林からは竹の葉がそよぐ音がさやさやと伝わってきた。幻覚というには現実感がありすぎる。それに沈清秋はもう死んだのだから、夢境に囚われることもないはずだった。
ごおっ、と音を立てて風が吹き、清静峰の竹林を揺らした。春の強い風とともに、ふわふわした植物の綿毛が飛んでいく。風を受けた沈清秋の体はふわりと浮き、驚く間もなく吹き飛ばされた。そして、綿毛の仲間になったみたいにコロコロと転がり、何かにぶつかって止まった。沈清秋が慌てて立ち上がると同時に、先ほどぶつかった相手の影がぬっとこちらを覗き込んだ。
「子猫だ〜!」
それは沈清秋と全く同じ顔をした何かだった。だが、自分では絶対にやらないような形に表情を崩し、沈清秋をひょいと抱き上げた。
自分のものと全く同じ形をした瞳に、今の沈清秋の姿が写っている。
それは、目をまんまるに見開いた白い子猫だった。
「かわいいな、どっから入ってきたんだ?」
訳が分からなかった。なぜ自分が猫になっているのか?どうして別の沈清秋がいるのか?なぜこの沈清秋はまるで別人のように様子が違うのか?自分の顔が、猫相手にでれでれと笑いかけている姿はあまりに不気味だった。
「キシャアアアア!」
沈清秋は耳をペタリと伏せ、全力で威嚇した。
威嚇だけにとどまらず、爪を立ててその顔をバリバリと引っ掻いた。うわやめて下ろすから、という声に、化け猫のような鳴き声が重なり合う。
「師尊、なにかあったんですか…師尊から離れろ!」
沈清秋は首根っこをつかまれた姿勢のまま凍りついた。それは聞き覚えのある、二度と耳にしたくない声だった。岳清源を殺し、沈清秋の四肢をもぎ舌を抜き目を潰し最後には殺した畜生が目の前にいる!さらに悪いことに、今の沈清秋は仙師よりもはるかに無力なただの子猫だった。
「ギャアアーー!」
沈清秋は全身の毛をボワりと逆立てた。そして子猫として最大限凶暴な叫び声を上げ、首をつかむ手に噛みついて逃げ出した。
「よくも師尊に怪我を…生きて帰れると思うなよ」
「冰河!師は大丈夫だから、そんな禍々しい魔気を出すでない!冰河!」
背後から洛冰河の怒りの声と、「沈清秋」の必死に止める声が近づいてくる。沈清秋は耳をぺしゃりと伏せて、脇目もふらずに清静峰を走り抜けた。だが、山門の外へと逃れるために長い階段を下りようとして、足を踏み外し、宙を舞って転がり落ちてしまった。
「わぶっ」
石段に叩きつけられると覚悟したのに、沈清秋を受け止める手があった。その人は急に飛び込んできた猫に驚きの声をあげたが、取り落とさずに抱え直した。沈清秋を抱きしめる誰かからは、ひどく懐かしい匂いがした。
「猫…?」
沈清秋は耳をぴくりと動かして、その男を見上げた。そして、まるで時が止まったように目を離せなくなった。驚きで見開かれた瞳、形の良い眉、優しげで落ち着きのある声、その全てが——もう二度と目にできないはずのものだった。
どこまでも遠く離れたところに行って…生きていてほしかった。それなのに、けっきょく沈清秋のせいで死なせてしまった人がここにいる。その穏やかな瞳と見つめあうだけで、心臓が締めつけられた。
(…岳清源)
つぶやいた言葉は、にゃうぅ、という情けない鳴き声に変わった。
「掌門師兄」
岳清源はまばたきを一つして、石段の上へと視線を向けた。
「清秋師弟」
先ほどの「沈清秋」に追いつかれた。沈清秋は身を硬くして岳清源にしがみついた。だが沈清秋の恐怖に反して、岳清源は階段をすたすたと登って「沈清秋」へと近づいた。
「久しぶりだね。今日魔界から帰ってくると、手紙に書いてあっただろう。顔を見に寄ったんだ」
「わざわざすみません。せっかく来ていただいたのに恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」
「沈清秋」の髪は乱れ、顔には引っ掻き傷がついていた。背後には洛冰河が控えていて、低い声でウゥとうなる沈清秋と、それを抱える岳清源を不機嫌そうな顔でにらみつけている。
「すごい顔だね…この子にやられたのかい?」
岳清源は傷に触れようと手を伸ばしたが、それよりも早く洛冰河が割り込んだ。
「私が、治します」
洛冰河は「沈清秋」の顔の傷に、そっと親指を滑らせた。すると猫につけられた引っ掻き傷は跡形もなく消え去った。間違いなく天魔血の力だ。それを蒼穹山派の掌門の前で隠しもしていないとはどういうことだろう。
「やはりその毛玉は殺します。師尊のお顔に傷をつけた」
「やめなさい。ただの子猫がやったことだ。それにもう治った」
物騒な会話をしている二人に、岳清源が声をかけた。
「師弟、私はこの子がほしい。この猫は君のなのかい?」
「沈清秋」はぱちくりとまばたきをした。
「いえ、清静峰に迷い込んでいたのをさっき見つけたところです。珍しいですね、師兄がそんなことを言うのは」
岳清源はふ、と口の端に笑みを浮かべた。
「そうかもしれないね」
「じゃあ師兄に差し上げます。私も飼いたくはあるんですけど、うちにはもうでかいのがいますからね」
「沈清秋」はちらりと洛冰河を見上げ、洛冰河はその通りと言いたげにうなずいた。
明らかに自分とは違う「沈清秋」は、修真界を焼き滅ぼした天魔といやに親しげだ。やはりこの体は魔族に奪舎されているのではないか?こうして蒼穹山派の内部に巣食って、一体何を企んでいるのだろう?沈清秋は白い毛並みを逆立ててフーッとうなった。
猫の耳が緊張でぴくぴくと動く。岳清源はなだめるように、指先でそっと沈清秋の耳裏を撫でた。
この世界は、沈清秋が知っている世界とはかけ離れている。だが別の世界で起こったことを知っているのだから、ここにいる者たちも、この世界もみな危険に見えた。どんな奇跡かはわからないが、もう一度会うことができた岳清源には…今度こそ絶対に、生きていてほしかった。この世界で岳清源を一人にしたくはない。沈清秋は子猫を抱く温かな腕に、爪を立ててしがみついた。
岳清源に連れられてやってきた穹頂峰は、記憶にある通りの姿をしていた。焼き払われる前と変わらない、天下第一の宗門にふさわしい威厳のある建物が並んでいる。岳清源は穹頂峰の一室へと沈清秋を抱えて行き、そっと床におろした。 沈清秋はヒゲをピクつかせ、部屋の中をぐるりと一周した。素朴な内装の室内には執務机と書棚、床榻があり、岳清源の匂いがほのかに漂っている。どうやらここは彼の私室のようだった。満足するまで部屋を検分すると、沈清秋は岳清源の足もとに戻り、じっと見上げて「にゃん」と鳴いた。岳清源はしゃがんで沈清秋と視線を合わせた。
「君の名前を決めなきゃね」
落ち着いた深みのある声が、心地よく響いた。岳清源の姿は私室にいるせいか随分とくつろいで見えた。元の世界で最後に見た哀れな姿とは随分ちがっている。沈清秋は自分を救いに戻ってこなかった岳清源を長い間恨んでいた。だが今となっては、本当に彼の哀れな姿が見たかったのか、堂々と掌門をつとめる姿を見ていたかったのか、もうよく分からなくなってしまった。
「名前…そうだな。猫には九条の命があるというから…九条、はどうだろう?」
岳清源はゆっくりと指を伸ばし、沈清秋のあごの下をふわふわとくすぐった。目を細めたその表情は、目の前にいる猫ではなくどこか遠くを見ているようだった
「にゃー」
沈清秋は猫らしく鳴き声をあげて答えた。その名は、くしくも沈清秋のかつての名前と同じ数字をもっていた。どのみちこの世界では、あの偽物が沈清秋なのだ。こうして沈清秋、もとい沈九は、再び「九」の名で呼ばれることになった。
「九条」という新しい名をもらってから、沈九は思い出したかのようにいつもの調子を取り戻して、ふいと岳清源の側から離れた。そして書棚のてっぺんに陣取り、名前を呼ばれても降りていくことはなかった。
岳清源が困ったように眉をさげ、「名前が気に入らなかった?」と尋ねたときにだけは、小さく「うにゃん」と鳴いてしっぽを振り、そんなことはないと返事をした。ただ、いまさらどんな顔をして岳清源の側にいればいいのか分からなかった。
岳清源を遠ざけて逃したかったのに、わざわざ死にに戻ってきたことに怒っていた。でも結局は——岳清源が死んだのは沈九のせいだった。その事実を思うたびに、石でも飲み込んだみたいに胸が塞がり、息ができなくなる。 それなのに、岳清源が沈九のために帰ってきてくれたこと…かつて果たせなかった約束を守ってくれたこと、ただそれだけで、凝り固まった恨みがほどけて心が柔らかく溶けてしまう。 ちぐはぐな感情が胸の奥でぐるぐると渦を巻いて、この小さな子猫の体からあふれてしまいそうだった。沈九が岳清源に向き合えるようになるには、まだ時間が必要だった。それに沈九には、この世界が一体なんなのか考える時間も必要だった。燃え落ちていない蒼穹山派、清静峰にいた洛冰河、自分とは似ても似つかない沈清秋——本当に奇妙な世界だ。
だから翌日、岳清源が「九条、峰主会議に行ってくるから留守番していてね」と声をかけたときに、これはいい機会だと思った。 沈九は指の一本一本を広げて腕をつっぱり、背中をそらして思い切り伸びをした。敵情視察の時間だ。沈九は言いつけを無視して書棚から飛び降りた。そして尻尾を立てて岳清源の足もとにまとわりつき、「連れてけ!」と言わんばかりに、ねうねうと鳴いた。
沈九はか弱くて可愛いふりをして同情を引くのが得意だった…といっても、これをやるのはずいぶんと久しぶりだったが。岳清源はもちろん、九条を峰主会議に連れていくことにした。
穹頂峰の扁殿へと向かうあいだ、沈九は岳清源のふところに潜りこんでいた。背中に岳清源の体温がうつり、ふたりの温度が混じりあっていく。もう忘れてしまった遠い昔にも、こんなことがあったような気がした。
峰主会議の会場に到着するなり、沈九は岳清源の服の中から抜け出して肩の上に飛びのった。扁殿には峰主たちが集まっている。よく見知った面々をながめ回していると、魏清巍と目があった。魏清巍は子猫に気づくなり、目を輝かせて近づいてきた。
「おや掌門師兄、子猫と一緒なんですか?」
無遠慮に触ろうとする手に向かって、沈九はシャーッ!と威勢よく叫んだ。子猫の口を裂けんばかりに大きく開き、鋭い歯を見せつけてやる。同門の兄弟弟子だろうと、男に触られるなんてぞっとする。「子猫」という言葉を聞きつけて、斉清萋もそばに寄ってきた。
「本当だ、子猫だ。こんなに小さいのに一人前に威嚇して可愛いね」
斉清萋が沈九をつつこうと指を伸ばすので、はたき落としてフシャーッと抗議した。綿毛のように可愛らしい子猫になったからといって、威厳と尊厳まで失うつもりはない。気安く触れると思ったら大間違いだ。沈九にはいつだってとびかかる用意があった。喧嘩腰でうなっていると、岳清源が沈九を肩の上からすくい上げ、腕の中に抱えなおしてあやした。
「寂しがっていたから連れてきたけど、まだ人に慣れてないみたいだ。怖がらせないように」
「そうだぞ師妹、気をつけよ。そやつは見かけによらず凶暴だ。私はもう引っかかれたぞ」
声のほうに目を向けると、優雅に扇をゆらす沈清秋がいた。自分のものだった声が他人から聞こえてくるのは本当に気味が悪い。
「沈師兄が?大丈夫ですか?」
「木師弟。大事ない、すぐ治った」
木清芳が沈清秋に、気遣わしげに話しかけた。峰主たちはみな、当たり前のように彼の存在を受け入れている。天下第一の宗門の峰主たちの誰にも疑われずに奪舎したとは、この中に入っている者は相当な強者に違いなかった。沈九はこの偽物の化けの皮を剥ぐために、こいつのことを調べる必要があった。
「せっかくだから、木師弟にこの子を診てもらいたい」
岳清源が沈九を木清芳に引き渡そうとしたので、沈九は「ニャアアアアッ!」と怒りの声をあげた。
「…岳師兄が抱いていた方がいいかと」
「九条、大丈夫だよ。この人は医師だから。少し触らせてくれるかい?」
沈九は岳清源の服にしがみつき、ウーと不満げに低くうなった。掌門の外衣が爪でほつれたが構うものか。だが木清芳が今の沈九を診察して、何と言うのか少し興味があった。千草峰の峰主から見ても、沈九はただの猫なのだろうか?
「九条、ですか。九つの命、というのは良い名前ですね」
そう言って木清芳は沈九の手首をとり、脈を調べた。猫に対してもそうやって診察するのか?沈九は疑わしげな目つきで千草峰主をじとりと見上げた。
「生まれて4ヶ月くらいの子猫ですね。いたって健康です。とはいえまだ小さいですから…もし体調を崩したら、いつでも面倒を見ますよ。九つ命があるくらい長生きさせてみせます」
「…ああ。頼りにしているよ」
岳清源はうなずいたが、沈九は猫の口元をゆがめて鼻をならした。絶対にごめんだった。沈九は人間だった頃も、猫になった後も医者が嫌いだった。
峰主たちはみな岳掌門が突然つれてきた子猫に興味津々だったが、その中にひとり、騒ぎから一歩引いた場所にいる男がいた。その白い衣を着た姿にはよく見覚えがあった——柳清歌だ。生きているのか、こいつも。柳清歌が死んだ時のことを、沈九は今でも昨日のことのように覚えていた。この傲慢で不愉快な男が嫌いだった。いずれ殺してやると言っていたのに、いざ目の前で彼が死にかけた時に、とっさに体が動いて助けようとしてしまった。あのとき余計な手出しをしなければ、沈九は黄河に飛び込んでも洗い落とせない同門殺しの疑いうけずに済んだのに。
…いや、霊力の不安定な自分が下手に手を出してしまったせいで、柳清歌の死期を早めてしまったのではないかと、心のどこかでは気づいていた。こいつを助けるたびにいつも、手を出さないほうがマシだったという結果になってしまう。
沈九ではない沈清秋がいる世界では、岳清源も柳清歌も生きている。それは喜ぶべきことのはずなのに、沈九の気持ちはますます沈んでいった。沈九のいた世界よりも、こちらのほうがずっといい世界だ。沈清秋はほんとうに上手くやっていた。沈九とちがい、峰主たちの中で孤立したり疎外感を味わったりしていない。沈九は自分が嫌われていると知っていた。だから、峰主たちは沈清秋が奪舎されたことを気にしていないのかもしれない。やがて岳清源は「そろそろ始めようか」と声をかけ、峰主たちは各々の席についた。
「見ての通り、清秋師弟が魔界から戻ってきた。師弟、蒼穹山派から離れていた間に何か変わったことはあったかい?」
沈清秋は扇をパチリと閉じて口を開いた。
そして、魔界の様子を視察してきたこと。地方を放浪して目にした人々の暮らしぶりのこと。洛冰河が南疆を平定して以降、魔物の被害が減ってきていることなどをつらつらと述べた。沈九は翡翠色の瞳で沈清秋をじっと見つめ、彼の話を聞いていた。つまり、この沈清秋は間者として魔界に潜り込んでいるということだろうか?それは峰主のふりをした魔族にとっては、実に都合の良い立場に聞こえた。
「––––旅の途中で尚師弟に会ったのだが、帰りづらそうにしていたので連れてきたぞ」
沈清秋はそう言って、気配を消すように小さくなって座っていた峰主を扇で指さした。話を向けられた男は、気まずそうな笑みを浮かべた。
「いやあ皆さん、お久しぶりですね」
その男の顔を見て沈九の瞳孔が収縮した。尚清華?尚清華だと?!
「掌門師兄が許しても妾はまだ許しておらぬ。一度裏切ったものは何度だって同じことをする」
「蒼穹山派には安定峰が必要だし、安定峰には尚師弟が必要だろう」
斉清萋が嫌そうに顔をしかめて文句を言うのを、沈清秋がたしなめている。沈九の心臓はばくばくと激しく鼓動し、全身が太鼓になってしまったかのように震えた。沈九はこいつがネズミだと知っていた。こいつが仙盟大会に魔物を放ったせいで、洛冰河が天魔の力に目覚めたことも。漠北君の手先となって蒼穹山派を滅ぼす手引きをしたことも。愚かな裏切り者の末路にふさわしく、結局はこいつ自身も漠北君に裏切られ殺されたことも!沈清秋が尚清華と通じているということは、ますますこの二人は宗派に害なす者に違いない!
沈九は身をよじらせ、液体のようにするりと岳清源の腕から滑り落ちた。そして爪をむき出して、衝動的に尚清華へと飛びかかった。怒りに燃える子猫は机の上を飛ぶように走り、勢いよく尚清華を引っ掻いた。
「うぎゃ、何、痛い痛い!」
安定峰主は椅子を倒して立ち上がり、子猫を振り払おうと部屋中を逃げ回った。沈九は、ネズミを追う猫さながらにしつこく追いかけ、恨みをこめて引っかいた。
「…実写版トムとジェリー?」
「言ってる場合か?!助けてよ!」
沈清秋がぼそっと何か呟き、尚清華が金切り声でさけんだ。沈清秋。沈九は振り向き、糸のように細く縮んだ瞳孔で沈清秋に狙いを定めた。こいつも爪の錆にしてやる。沈九はしなやかな筋肉に力を込めて、翼の生えた虎のように向かっていった。だがその鉤爪が沈清秋に届く前に、沈九は乱暴に首根っこをつかまれ止められた。沈九は虎拳のように拳を繰り出して手を離させようとしたが、どれも軽くいなされてしまった。それもそのはず、沈九を捕まえたのは柳清歌だった。百戦峰主が子猫に後れをとるわけがない。柳清歌は沈九をぷらんと吊り上げて視線を合わせ、仏頂面で脅した。
「掌門師兄の猫だろうと、度が過ぎると毛皮にするぞ」
「シャー」
沈九は魔物のようなしかめっ面で不満の声を上げた。やっぱりこいつが嫌いだった。二人が睨み合っていると、岳清源が横からひょいと手をのばして沈九を捕まえた。
「師弟、すまないね」
沈九は岳清源を見上げてアオアオと鳴き、「邪魔するな」と文句を言った。岳清源は沈九を見下ろし、小さな子猫と目があって、思わずといったように笑みを浮かべた。
「見た目に似合わずやんちゃなようだ」
(やんちゃどころじゃないだろう?!)
その場にいる峰主たちはみな、そろって心の中でつっこんだ。
「霊剣みたいに鋭い爪でしたよ。安定峰から猫用の爪切りを送るから切ってください」
尚清華が哀れっぽい声で頼んだ。安定峰主は、いまでは引っかかれた顔を手巾で抑えていた。沈九はボロボロになった裏切り者を誇らしげに見やった。
「まさか結丹した仙師が猫にやられるなんてことはないだろう?」
岳清源はそう言ってとりあわず、大事そうに子猫を懐にしまった。少なくとも、ここでは岳清源は沈九の味方だった。沈九はにやりと笑い、岳清源のあごの下にすり、と頭をすりつけて、懐の中にひっこんだ。
こうして、岳掌門の元には、気難しくてとても気性が激しい猫がいること、それが彼にとってはかわいくてしょうがないらしいということは、蒼穹山派の皆が知ることになった。穹頂峰で暮らす人たちは、九条とはよくつけた名前だと言っている。まるで命が九つあるかのように、命知らずでしぶとくて態度が大きい、と。 実際、沈九はふてぶてしい猫だった。元はと言えば峰主だったのだから、何を遠慮する必要がある?
ある時は、穹頂峰の弟子たちが絵や書を練習しているところにふらりと現れて、下手くそな書画だと硯をたたき落としたり(教育的指導だ)。 ある時は池の鯉を獲り、ぴちぴちと抵抗する魚を得意げにくわえて持ち帰ったり(夜狩の練習と言ってもらいたい)。 ある時は、掌門の部屋の壁を爪でボロボロにしたり(爪を修雅剣のように鋭く保つためだ)。
この猫のやることに腹を立てたり、仕返しをしようとした者は、容赦なく鋭い爪の餌食になっただろう。もっとも、そんな命知らずな弟子は蒼穹山派にはいなかったが。そして九条の悪行を岳掌門に言いつけても、決まってこう返されるのだ。「まあ、いいじゃないか」と。掌門に文字通り猫っかわいがりされている九条は、自由きままに振る舞いながらすくすくと育っていった。だから沈九は、猫としての自分の境遇をなかなかに悪くないと評価していた。沈九がそんなもの思いに耽りながら毛づくろいをしていると、穹頂峰の首席弟子に邪魔された。
「九条、九条、それは師尊の外衣だから座布団にしないでください。下りてください、師尊に怒られちゃう」
穹頂峰の弟子は必死な声で頼みながら、猫の足元から衣を引き抜こうとした。九条をどかせたくとも、抱き上げたり追い払おうとしたりする勇気はないようだった。実際、彼が九条に触ろうとして引っかかれたのは、一度や二度どころではない。この弟子は岳清源の身の回りの世話をしているので、いつもこの猫に困らされていた。沈九はつんとあごを上げ、傲岸不遜な目で小弟子を見下ろして、何事もなかったかのように毛づくろいを再開した。洗濯したての黒い外衣が、雪のように白い毛にまみれていく。
岳清源が今日着る服を受け取りに来た時に目にしたのは、服を引っ張る弟子と、橇のようにすべる服に乗って堂々と毛並みを整える九条の姿だった。岳清源に気がついた弟子は、慌てて頭を下げた。
「師尊、申し訳ありません。服をお届けするのが遅くなってしまいました」
岳清源は沈九と弟子を順番に見やり、ああ、と頷いた。
「九条から服を取り返せなくて…」
「まあ、いいじゃないか」
ほら。いつもと変わらず、岳清源は沈九に甘かった。岳清源は、今では成猫と変わらない大きさに成長した九条を抱き上げた。
「服なら毛を落として持ってきてくれればいい。この子の好きにさせておやりよ」
岳清源の大きな手に頭を撫でられて、沈九は目をつぶってフンと鼻を鳴らした。岳清源は沈九を連れて自室に戻り、弟子が服を届けに来るのを待った。九条が来て以来、穹頂峰の首席弟子にとっての一番重要な任務は、安定峰から送られてきた『ころころ』とかいう掃除道具で掌門の服から猫の毛を取り除くことになってしまった。
弟子が洗いたてのように綺麗にした服を持ってやってきたとき、岳清源は執務机に座って仕事を始めていた。そして九条は膝の上に陣取り、服にぐりぐりと頭を押しつけて毛だらけにするのに精をだしていた。
また綺麗にしなくてはならない服が増えた。
岳清源の弟子はこっそりとため息をついた。
着替えが終わった後で、弟子は服をうけとって下がって行った。穹頂峰の首席弟子は次期掌門なだけあって、師に文句を言うような無礼はしない。だが不満が顔に書いているかのようにありありと読み取れた。「どうしてそんなにその猫に甘いんですか?」と。
岳清源もその不満に気づいてはいるようだが、改める気はないらしかった。沈九はすっかり定位置となった掌門の膝のうえにおさまり、前足で岳清源をちょいちょいとつついた。そして「にゃあ」と鳴いて、弟子の代わりに「どうしてだ?」と問いかけた。
岳清源と暮らしているうちに、こいつは猫相手だと意外とよくしゃべることに気がついた。人は猫が相手だとなんでも話してしまうし、嘘もつけなくなる。そういうものなのだ。岳清源は沈九を見つめ、すこし寂しげな顔で笑った。
「君が…なんだか私の大切な人に似てる気がするからだよ。近くにいるはずなのに、もう永遠に会えない、そんな気がする人なんだ。猫にこんなことを言うのも変だけどね」
温かい手がゆっくりと沈九の毛並みを撫でた。沈九はその言葉を聞いて、ひくりと耳を動かした。大切な人? いったい誰の話をしているんだろう? なぜだかわからないが、酢を飲んだように胸がむかついた。岳清源のくせにそんな相手がいるだなんて!沈九はふてくされ、前足をそろえてその間にきゅっと顔を埋めて、寝たふりをした。
思い返してみれば、沈九は岳清源を遠ざけて、彼のことを知ろうとしなかった。沈九が知らなかっただけで、岳清源には大切に思う人がいたのかもしれない。沈九は本当に、岳清源のことを分かっていなかった。洛冰河に脅されて血書を書いた時にも、岳清源が沈九のために帰ってくるわけがないと腹の中では笑っていた。それなのに、帰ってきてほしい時に来てくれなかった男は、帰ってきてほしくない時に来てしまった。沈九はずっと、岳清源が掌門の地位を得るために過去を捨てたかったから、沈九を裏切り戻ってこなかったのだと思っていた。だが、戻れば全てを失うとわかっているときに岳清源が帰ってきたのだと知って…もしかしたら、本当はそうではなかったのかもしれない、という思いが芽生えていた。
沈九の日課は沈清秋を見張ることだった。峰主会議での一件以来、この偽物を怪しいと思う気持ちは強まるばかりだった。沈九は清静峰に通い、遠くから竹舎の様子をこっそりうかがっていた。だがある日、ついに沈清秋に見つかってしまった。
沈清秋と目があった沈九は、耳を伏せて背を丸め、毛を逆立てて慎重にあとずさりした。沈清秋は猫を見つめ、にこりと微笑んで声をかけた。
「この前はびっくりさせて悪かったな。ここが縄張りだったんなら好きなだけいていいよ」
沈九はまん丸な目でぱちりと瞬きをした。以前引っかかれたことを根に持っていないなんて、本当に沈清秋らしくない。だが沈九にとっては好都合だった。
それ以来沈九は隠れるのをやめ、洛冰河のいない隙に竹舎に忍び込んだり、沈清秋が弟子たちに稽古をつけるのを観察したりした。沈清秋は竹舎の窓を開けておいたり、猫用の餌を置いておいたりと、まるでこの侵入者を歓迎しているようだった。
沈九の予想通り、尚清華は清静峰によく現れた。そして、沈清秋に頼まれた荷物を届けにきただの何だのと口実をつけ、二人きりで話をしていた。沈九にとって、彼らの会合に忍び込むのは訳のないことだった。何と言っても沈九は猫なのだから!ただそこに入って行って、借りてきた猫のように大人しく座っていればいい。九条が可愛くてか弱いふりをして「うにゃん」と鳴くと、二人は九条が人慣れしていない子猫だった頃の蛮行をすっかり水に流して、猫の毛並みをわしゃわしゃと撫でた。
今月も、ひと月分の物資が安定峰から送られてくる日がやってきた。沈九が清静峰主だった頃にはいつも、弟子の指導に使う大量の紙やら墨やらを受け取って、注文と納品に差がないかを確認していた。大宗派の峰主の仕事には案外、地味で面倒で面白くないものが多い。沈九は自分でも意外なほどに、峰主だった頃の暮らしを恋しく思っていなかった。それよりも猫でいるほうがずっと自由だ。
竹舎を訪れると、思った通り、沈清秋の私室から清静峰主と安定峰主の話す声がぼそぼそと聞こえた。沈九は彫刻が施された木の引き戸に前足をかけ、すっと開いた。静かに室内へとすべり込むと、尚清華が気配に気づいて振り向いた。
「きゅうり兄、また九条が来たよ」
「ああ。また遊びに来てくれたんだな」
沈清秋は九条を見つめ、おいでと言わんばかりに机を叩いた。沈九は優美な足取りで近づき、茶器とお茶請けの龍骨香瓜子が乗った皿の間に飛びのった。尚清華は部屋の戸を閉めに立ち、席に戻るや、猫をなでまわす沈清秋を見ておかしそうに笑った。
「あんまりその子に構いすぎて冰哥が拗ねないようにね!この前『あの畜生は師尊を傷つけたのに竹舎に出入りして、その上師尊に撫でてもらってるなんて…!』って愚痴ってたよ」
「はは、他の猫の匂いをつけて帰ったら怒る家猫みたいだな。そんなに焼き餅焼くことはないのに…俺のいちばんは冰河だけだよ」
沈九は猫なのに狗粮 (のろけばなし)を食わされた気分になって、沈清秋の手を肉球で払いのけた。この世界では、沈清秋は洛冰河の道侶であり、彼が魔界と人界を行き来しているのは間者をするためではなく伴侶と一緒にすごすためである、と知った時には、さすがの沈九も毛玉を吐いて卒倒しそうになった。元はと言えば沈九が竹舎の主だったのに。いまや小畜生がここの主の道侶になり、沈九はねうねうと鳴く小畜生になってしまった。これではあべこべだ。沈九は不満をこめて撫でられたところをぺろぺろと舐め、乱れた毛並みを整えた。
二人きりで会っている時の沈清秋と尚清華は変なあだ名で呼び合い、以前から知り合いだったように気やすい口調で話している。二人は蒼穹山派をどう陥れるか、という話をするわけでもなく、ただ世間話をしているようだった。…だが話の中では沈九の全く知らない言葉が飛び交い、聞いたこともないような世界の話が飛び出した。一度死ぬ前の沈九ならば、彼らの話を狂人のたわ言だと無視しただろう。だが、沈九は別の世界からやってきた魂だった。沈九が猫にとりついたように、もしかしするとこの二人にもまた、別の世界からやってきた魂がとりついているのかもしれない。
「猫ね、懐かしいな。むかし小区に住み着いた野良猫がいたから可愛がってたよ」
尚清華が目を細め、懐かしげに言った。
「小説を書いてる時にさ。行き詰まったら餌をもって下に降りてって、餌づけしながら撫でてたんだ。そしたらまた書く気力が湧いてくるんだよね。野良猫がこの世界を書くインスピレーションをくれたってわけ。だから猫は好きだよ。初対面でひっかくような子でもさ」
尚清華の言葉を聞いて、沈九は尻尾の先を震わせた。「この世界を書く」?なぜだか今日はいつもと違って、核心に迫る話が聞けるような予感がした。
沈清秋が「元の世界といえば」と話を続けた。
「前に会った時に話してたろ、元の世界に戻れるとしたらどうするかって話。元の世界に帰る選択肢は今でも見えてるのか?」
「もう見えないよ。選択肢があったとしても戻らない。俺は自分が書いたこの世界が割と気に入ってるんだ。きゅうり兄はどうなのさ、帰れるんなら帰りたい?」
「自分が書いた?」
沈清秋が鼻で笑った。
「飛行機兄、あんたが書いた小説のなかじゃ、沈清秋は冰河に殺されてるし、尚清華は漠北君に殺されてるだろ」
沈九はぴくりと耳を震わせた。それは…沈九の生きた世界での結末だった。
「今の俺たちの世界は…あんたが書いた穴だらけの小説を、俺とあんたの行動と選択で変えたから生まれた世界だ。ここはもう俺たちの世界なんだよ。それに、俺だって…この世界が好きだ。帰る気なんてない」
尚清華はちょっと笑って肩をすくめた。
「俺たちの世界、ね。確かに、沈清秋が洛冰河と道侶になって、尚清華が漠北君と道侶になるなんて、元のキャラクターのままなら絶対にあり得ない展開だったよ。原作キャラクターがこの世界を見たらひっくり返るだろうね」
「そうだろ。だから、元の世界も何も…。この世界こそが、俺たちの作った世界なんだ。他の誰のものでもない、俺たちの帰るところだ」
尚清華は「ふん…そうだね」と相槌をうち、沈清秋の言葉を噛み締めるように黙り込んだ。沈清秋は彼の沈黙を尊重するかのように、静かに茶を飲んだ。
それを横目に、沈九はまるで三観が崩れ落ちるような衝撃を受けていた。まさかこの、飛行機兄と呼ばれている人間が書いた小説が、沈九の生きたあの世界だったとでも言うのか!?そして、その小説の読者と作者がこの世界にやってきて、沈清秋と尚清華に成り代わったと?
この世界が沈九の知る世界とあまりに違っているのは、全く違うだれかの行動と選択が世界を変えたからだ、ということなのか。…荒唐無稽な話だが、これで様々なことの辻褄が合う。この世界では、蒼穹山派の峰主は誰一人欠けることなく生きていた。そして、清静峰主の道侶が天魔の洛冰河だということは、公然と世間に知れ渡っていた。蒼穹山派は、いまでは四大宗派の中で並ぶもののない力をもっていた。なかなかに上出来だ。この現状を作り上げたのが、この様子がおかしい沈清秋と尚清華なのだとしたら、彼らは蒼穹山派の敵ではなさそうだ。
だが、沈九が生きた世界はこの飛行機兄の書いた小説にすぎない、というのは到底受け入れられなかった。あの何一つとして救いのない人生は、誰かに定められた筋書きに過ぎなかったと?沈九はそれが真実であると認めるよりも、己の行動と選択が己の運命を決めたのだと信じていたかった。
沈九はせめてもの抵抗のつもりで、この作者とやらに向かって茶杯をはたき落とした。ガチャン、と音が鳴った。白磁の茶杯が机から転がり落ち、ぬるくなった茶が尚清華にかかる。尚清華は「あぶなっ」と小さく悲鳴をあげて、茶杯が床に落ちる前になんとか受け止めた。
「あっ!こら九条!」
沈清秋の叱る声を無視し、沈九はそしらぬ顔で肉球を舐めた。沈清秋は仕方なさげにため息をついて首を振った。
「猫だからいたずら好きなのは仕方ないにしても、九条はちょっと甘やかされすぎな気がするよ。特に岳師兄はこの猫に異様に甘いし。何をしでかしても怒ってるところなんか見たことがない」
尚清華は空になった茶杯を机に戻し、肩をすくめた。
「九条は…似てるからさ、原作キャラクターの沈清秋に。だから岳師兄はとくべつ好きなんじゃない?」
沈九は肉球を舐めるのを止め、顔を上げた。まさか猫の姿になっているのに、似ていると言い当てられるとは思わなかった。この男が作者だという話が、ますます真実味を帯びてしまう。一方で、沈清秋は「どこが?」と首をかしげた。
「猫にはユーモアのセンスがない。あるのは極端に驕慢なエゴと過敏な神経だけ、ってやつだよ。そういうところが似てる」
「そういうところが似てるってのは分からなくもないけど。だから好きだって?猫のいちばん厄介なところじゃないか」
沈清秋と沈九は、そろって「ぴんと来ない」と言うように首をひねった。尚清華はわかってないな、と言いたげに笑みを浮かべた。
「厄介だから好きなんだろうさ」
しばらく、二人のあいだに沈黙が流れた。沈清秋は瓜子の殻をつまみ、中身の無くなったそれを指先でいじった。
「…ずっと聞きたかったんだけどさ。あの二人が和解するルートはなかったわけ?データを飛ばしちゃったプロットにも?」
「考えてもみなよきゅうり兄。『狂傲仙魔途』は洛冰河のためのハーレムエロ小説なんだ
から。敵役の二人はどのみち死ぬんだよ。そんなの読みたいと思う?」
尚清華はどこか諦めた顔で肩をすくめた。
「まあ…コメ欄が荒れそうだな」
沈清秋は、予想通りの返事を聞いたかのように感慨なくつぶやいて、ため息をついた。
「岳清源がひたすらクズ悪役を庇う謎行動をとってた理由を、あんたは結局書かなかったけど。埋骨嶺で岳師兄から聞いたよ。…でも俺は、本当は聞くべきじゃなかったんだと思う。他人のドラマを特等席で覗き見ちゃった気分だ。あの話を、元の沈清秋が聞いてくれればどれほど良かったかと思ったよ」
いったい何の話だ?沈九の肉球にじわりと汗がにじんだ。続きを聞きたいような、聞くのが恐ろしいような気持ちで板挟みになり、その場から動けなかった。
「あの時、結局何を話してたの?おれは大王を助けに行ってたから、あの後のこと知らないんだよね」
沈清秋は考えこむように茶杯の中の茶を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺を助けるために玄粛を抜いて、死にかけたんだよ…。だから何でこんなことになってるのか聞いたら、沈九を助けるために秋府に戻ったけど間に合わなかったことも、早く助けようと焦ったせいで走火入魔して、霊犀洞に閉じ込められて全身の筋骨霊脈を繋ぎなおしたことも、命が玄粛に結びついてしまったことも、話してくれた。もう原作キャラクターの沈清秋はどこにもいないから、どれだけこの話を知ってほしいと思ってもどうしようもないんだけどね」
沈清秋は、ため息をひとつ吐いて茶を飲んだ。
沈九はだらりと尻尾を下げ、いま聞いた言葉を頭の中で反芻した。岳清源は、本当は秋府に帰ってきていたのか。沈九を迎えに行くために…。
「結局…沈清秋がどれだけ嫌われ者のクズ悪役だったとしても、岳師兄はあの人を大切に思ってたんだ。だから俺がどれだけ勝手なことをしても、いつも尻拭いしてくれたんだと思うと申し訳なくて。せめて、元の沈清秋とはできるだけ区別をつけて、峰主として師兄のためにできる限りのことをしようと思ってるよ。岳師兄のことを尊敬しているから」
痺れるようにぼんやりした頭の中を、沈清秋の言葉が通り過ぎて行った。この男が岳師兄を尊敬していると言うのなら、この世界ではきっともう、岳清源は以前のような死に方はしないだろう。
霊犀洞で筋骨霊脈を繋ぎなおした…その言葉で、まるで雷に打たれたかのように鮮やかに沈九の記憶が蘇った。結丹しようと焦って霊犀洞で閉関していた時のことだ。調息を手伝いに来た岳清源。洞窟の壁に幾重にも重なった傷の跡。消えることのない濃く、赤い血痕…
––––行かなければ。
霊犀洞に行き、あの跡をもう一度確かめなければ。沈九は勢いよく机から飛び降り、霊犀洞へと走った。
霊犀洞の洞内は、古代からの霊気に満ちていた。その気配を禍々しいと感じたことはなかった。だがここは、沈九が柳清歌を救おうとして、逆に死なせてしまった場所だった。岳清源が沈九を救おうとして、逆に手遅れになってしまった場所だった。全く、何が「霊犀」洞だ。霊犀とは心と心が通じ合うという意味のはずなのに、ここでは想いと真逆の禍々しい事件ばかり起こってしまう。そう考えると、洞窟のひんやりした空気がまるで死人の冷たい温度のように思われて、沈九は尻尾を逆立てた。
沈九は恐怖を振り払い、影のように静かに洞窟内を進んだ。その洞穴は、記憶の通りの場所にあった。ごつごつした岩肌が剥き出しになった壁には、あの時と変わらず赤黒い血の跡が染み付いている。体に刃を突き刺して血が飛び散ったような跡。頭を打ちつけたような跡。哀願するように何度も、何度も拳を叩きつけたような跡。ここから出ようと何度も、何度も必死に岩壁を切りつけた跡——
沈九は目を閉じて、かつてここにいた岳七を想像した。沈九を助けるために強大な力を持つ剣を手に入れ、あと一歩のところで失敗してどれほど悔しかっただろう。体中の筋骨と霊脈を繋ぎなおされ、どれほど痛かっただろう。暗い洞窟に閉じ込められて、声が枯れるまで叫んでも出してもらえず、どれほど恐ろしかっただろう。そうして時ばかりが無情に過ぎて、沈九を迎えに行く時期はどんどん遅くなっていく。岳七はどれほど焦っただろう。全身から血が流れるのにも構わず岩壁を切りつけ、叩き、ただここから出ることは叶わないと知るだけに終わって、どれほど無力感を噛み締めたことだろう。
沈九は覚えていた。閉関する沈九のもとに岳清源がやってきた時、沈九の肩にあてた手は震えていた。沈九の知る限り、岳清源は霊犀洞に入って閉関したことはなかった。こんな目にあった場所なんだ。ここに来るのはきっと怖かっただろう。それでも、突破を焦る沈九がかつての岳七のように走火入魔しないか心配だったから来たんだ。でも、あのお人好しで世話焼きの強がりは、自分の弱さと恐怖を人に見せるなんてできっこなかったに違いない。だからあの時、岳清源はいつになく口数が少なかったのか。
「この人は本当に外に出たいと思っていたんだな」
沈九はあの時と同じことを思って、壁に張りつく血痕を見た。すっかり乾いてしまった赤黒い血痕は、子供の拳の形をしている。沈九は桃色の鼻先でその拳にちょんと触れた。これは七哥の手だった。
「馬鹿だなあ、岳清源。どうして話してくれなかったんだ。馬鹿だなあ、俺は…恨みに目を曇らせて、二度も七哥を俺のせいで台無しにした…」
沈九は地面に崩れ落ちて笑いたいような、声をあげて泣きたいような、大声で叫びたいような衝動にかられた。沈九の一生唯一の義侠心が何の価値もなく裏切られたと知ったその日から、沈九の欲しかったものは永遠に失われたと信じていた。七哥が沈九を想っていてくれさえすれば。かつてのように、互いが互いにとっての唯一の存在でありさえすれば。それだけでよかったのに。永遠に失ったと信じていたそれは、初めからずっと変わらずそこにあった。
沈九は、無性に岳清源に会いたくなった。沈清秋が沈九でなくなった世界で、岳清源は沈清秋から解放されて無事に生きている。それさえあれば、この世界は沈九にとって意味を持つ。たとえ沈清秋の存在そのものが、別の魂にとって変わられていたとしても。
沈九は岳清源の執務室に帰った。岳清源はたいていいつも執務机の前に座り、宗派のために働いていた。他宗派の宗主と書簡を交わしたり、各峰からの報告書を確認したり、蒼穹山派に寄せられた任務の依頼を確認し、どの峰が担当するか割り振ったりと、掌門の仕事は尽きることなくあるらしい。もちろん、そんなことよりも猫に構う方が大事だろう?
沈九は執務机に飛び乗り、岳清源をじっと見つめた。岳七が大人になったらこんな顔になるんだな、とようやく納得できた。この世界では、岳清源はなに一つ失うことなく掌門を務めている。だが何故かこの世界の岳清源は、沈九が知る世界の岳清源よりも歳をとっているように感じた。もちろん、結丹した仙師の見た目が歳を取ることはない。だが彼の瞳には、どこか長く生きすぎた老人のように疲れた光が宿っていた。
沈九は瞬きをして、あたりをぐるりと見回した。執務室の壁には、沈九が修雅のように鋭い爪を研いだ跡がのこっていた。掌門の身につけている衣には、沈九が爪を立ててほつれた箇所を繕った跡がいくつもあった。沈九は少し気まずくなって尻尾をひと振りした。たかが猫ごときのせいで岳掌門が疲れるはずはないだろう。だが、この爪研ぎされてボロボロになった壁は、どこか斬りつけられた跡の残る霊犀洞の壁と重なって見えた。思えば前世でも、沈九は怒りのままに悪辣な言葉を吐いて、岳清源の心をぼろぼろにしていたのかもしれない。真実を伝えても無意味だと思わせるほどに。
沈九は少し考えて、安定峰から送られて来たきりそのままになっている爪切りの存在を思い出した。峰主会議で引っ掻かれた後に、尚清華が送って寄越したものだ。沈九は鋭く研いだ武器を手放す気なんてなかったし、岳清源に沈九の嫌がることをする気もなかったので、爪切りは使われることなく、雑多なものが置かれた棚の中で埃をかぶっていた。沈九は棚に飛び移り、銀色の金属でできた爪切りをくわえて執務机の上へと戻った。
「にゃあう」
沈九が鳴き声をあげると、岳清源は読んでいた書類を置いて、ぱちりとまばたきした。
「九条?」
沈九は口から爪切りをぽとりと落とし、ふかふかした手で岳清源の方へと押しやった。
「爪切り…切ってほしいの?どういう風の吹き回しだい?」
岳清源は爪切りを手に取り、沈九の顔と交互に見つめた。この矜持が高くて誰の言うことも聞かない猫が、爪を切らせるなんて信じられないと言いたげな顔だった。沈九は岳清源に背中をあずけて座り、その腕をたしたしと叩いて催促した。この世界はきっともう安全だ。この鉤爪を手放してただ穏やかに岳清源と過ごしてもいいのだと、ようやく思えるようになった。岳清源は沈九を抱き込み、壊れ物を扱うような手つきで白い手をとった。
「本当にいいの?」
岳清源はふにふにと肉球を揉みながらたずねた。沈九は顔をあげ、吸い込まれそうなほどに透明な翡翠色の瞳で岳清源を見つめた。
「ぅみゃう」
沈九の柔らかな鳴き声を聞いて、岳清源はわかった、とうなずいた。太い指が、ぎゅっと桃色の肉球を押す。半月形の爪がにゅっと飛び出した。金属の刃が爪にあたると、その冷たさに反射的に逃げたくなった。でも彼は岳清源なのだから。きっと沈九を傷つけるようなことはしない。
––––パチン
硬い音を立てて、爪が切られた。
ビクリと身じろぐと岳清源は手を止め、心配そうに眉を下げて沈九の様子をのぞき込んだ。
「ごめんなさい、痛かったかい?」
岳清源の硬い指先が爪の切り口をなぞり、血が出ていないか確かめた。実際、慣れない行為に驚いただけで、痛い思いはしていなかった。神経の通っている末端は敏感で、そこを優しく撫でられるとぞくぞくする。沈九はしなやかな肢体から力を抜いて、岳清源に体をあずけた。結局のところ、沈九は七哥にならば傷つけられても構わなかった。七哥が沈九を大事にしようとしていたと知ってさえいれば。
沈九が大人しくしているのを見て、岳清源は次の爪にとりかかった。小気味良い硬質な音が響く。沈九は岳清源の腕にしっかりと抱かれて、尻尾をゆったりとゆらめかせた。慎重に少しずつ切り落とされた爪が、執務机の上に散らばっていく。
古い爪は輝きを失い、白く濁った色をしていた。沈九から切り離されて、別のものとして存在している。まるで「沈清秋」のようだ、と思った。沈九の魂から切り離された「沈清秋」は、ただ他者としてこの世界に存在していた。あの沈清秋はもはや、沈九とは何の関係もない別の人間だった。切り落とされたこの爪のように、あの古い体にももう未練はなかった。この世界で沈清秋となった別の魂に––––きゅうり兄とやらにくれてやる。それで七哥が死なない未来が手に入るというのなら、安いものだった。
やがて爪を全て切り終わると、沈九は体の向きをかえて岳清源に向き合った。そして真剣そのものの顔で、岳清源の大胸筋をふみふみと揉んだ。よく育った筋肉は柔らかくて踏み心地がいい。沈九は子猫の頃からよくこうして、岳清源の存在を確かめていた。爪が短くなったおかげで、こうしてももう服をほつれさせることはないし、布越しに爪を立ててしまうこともない。沈九は低い音を立てて喉を鳴らし、面包パン職人のように無心でこねた。岳清源は微笑み、沈九の頭を撫でた。
「九条、君は長生きしてね。九つ命があるくらいに」
岳清源が急にしんみりしたことを言い出すものだから、沈九は手を止め、じとりとした目でにらんだ。
「うん…その目、やっぱり似てるね」
岳清源は感慨深そうにため息をついた。沈九は続きを促すように、にゃんと鳴いた。人は猫を前にすると嘘がつけなくなるし、なんでも喋ってしまう。そういうものだから。
「君の名前を九条にしたのは…九つの命という意味もあるけれど。九の名を持つ私の大切な人に、なんだか似てると思ったからなんだ…はは、猫に似てるなんて言ったら、きっと彼は怒るだろうね」
九の名を持つ。そんな知り合いは一人しか心当たりがなかった。沈九はまん丸に開いた瞳孔で岳清源を見つめた。岳清源は、はんぶん独り言のように続けた。
「君にははじめて会った時にも、なんだか似てると思ったんだ。今の清静峰主の姿からは想像もつかないだろうけど…あの子も昔は、あの時の君みたいに、絶対に勝てない相手だろうと向かって行っては、後から必死で逃げていたなと思って」
沈九はゆっくりと瞬きし、かつて岳清源とともに過ごした路上での日々を思い出した。あの頃は生きるのに必死で、そのためなら勝てるはずのない相手にだって向かっていった。奴婢の暮らしから抜け出すためならなんだってやるつもりだったのに、振り返ってみれば、路上で暮らしていた頃が、沈九の人生でいちばん幸福な時期だった。なんという皮肉だろう。岳清源が覚えているほうが不思議なくらいの、前世よりも遠い昔の話だ。
「あの子は相手が誰だろうと、腹が立つことがあれば絶対にやり返すんだ。それこそ、沈清秋が昔のままだったら、ただの猫にひっかかれたって、簡単には許さず怒ってたろうね」
岳清源は苦笑した。あの偽物のことを思い浮かべているのだろう。沈九はフンと鼻を鳴らした。誰もがそんな今の沈清秋の方を好いていると、とっくに気づいていた。峰主会議での様子や、今の清静峰の様子を見れば、嫌でもわかる。それは岳清源にしても同じだろう?
「清秋師弟は昔、ひどい熱病を患って記憶をなくしてしまったんだ。記憶をなくしてしまえば、ああも性格が変わるものなんだね…。清秋師弟は記憶を取り戻したいと望んでいないし、彼は昔、私が迎えに行けなかったせいでたくさん辛い目にあったんだ。そんな過去を思い出してほしいなんて願えないだろう?清秋師弟が離れて行ってしまうのは構わないんだよ。彼のことは、束縛できないほどに大切に思っているから。でも…私が愛して、失ってしまった彼を知る者は、もう私しかいないと思うと…なんだか寂しくて、どこかが…痛む」
沈九を撫でる手がぱたりと止まった。沈九は「みゃあ」と小さな声で鳴いた。この世界の岳清源にだって、失っているものはある。もう取り返しのつかないそれを岳清源が惜しんでいることに…沈九は残酷な満足感を抱いた。
「清秋師弟の子供の頃の名は、沈九というんだ。そこから君の名をとったんだよ…もう会えない、私が心から愛している人だよ」
この言葉を聞くことができれば、沈九はそれで良かった。もしももっと早く聞くことができれば、手遅れになる前に岳清源を許すことができたかもしれないのに。だが、ありもしないもしもを考えたって、なんの役にも立たない。ただ全てを失った後で、奇跡のように与えられた生で、この言葉を聞くことができてよかった。沈九は物言わぬ畜生の身で、伝えることのできない全ての想いを込めて、ざらざらした舌で岳清源の手を舐めた。
辺りには春の夜の匂いが漂い、岳清源の心臓の音だけがゆっくりと響いていた。人として生きている間に、こんなに穏やかな気持ちになったことはなかった。ぐるるるる、という低い声が喉の奥からひとりでにこぼれる。沈九は岳清源の体温を感じながら目を閉じた。どんな形であろうと、岳清源に再び巡り会うことができた。この世界では今度こそ、最後まで共にあることができるだろう。この猫の命が尽きるまで。
沈九は自分がただの猫であるとよくわかっていた。どれほど長く生きたところで、十数年が関の山だろう。それでも構わない。一度は自分のせいで岳清源を死なせてしまったのだから、もう沈清秋として、沈九として、岳清源に関わりたいとは思えなかった。沈九は猫になりたい。ただの猫として、ずっと岳清源のそばにいたい。
だが世界はいつも、沈九の望みとは逆の結果を与えるようだった。沈九が岳清源に拾われて、いつしか二十年余りの歳月がすぎた。沈九の視界の端で、白い猫の尻尾が揺れている。一本、また一本、そしてもう一本…合わせて九本の尻尾が、苛立たしげにパタパタと動いている。
蒼穹山は仙山である。宗派第一の峰である穹頂峰も、当然霊力に満ちあふれていた。その土地の気を無意識のうちに吸い込みながら長い年月を生きた沈九は、やがて猫妖へと姿を変えてしまった。
一度目の人生で、早く霊力を高めて境界を上げたいと願っていたときには、どれほど焦り怒ったところで成果が上がらなかったのに。ただの猫として、修仙とは無縁の生活を送ろうと決めたとたんにこれだ。沈九はそういう星のもとに生まれついてしまったのだろうか?猫妖になった沈九は、人の姿をとれるようになった。普段は尻尾を隠し、ただの猫のふりをすることができても、霊力が高まる満月の夜には、勝手に人型に変化してしまう。その姿は、かつての清静峰主沈清秋の姿そのものだった––––と言いたいところだが、猫妖の性なのか、猫の耳と尻尾は隠すことができなかった。
この姿を見られてしまったら、いったいなんと言い訳すればいいのだろう?穹頂峰を離れたくはなかったが、このままでは見つかってしまうのも時間の問題だった。沈九はいくつかの満月の夜を乗り越えた後で、ついにここから出ていく決心をした。
どこまでも遠くへ行くのなら、一番霊力が高まる時に出発するのがいいだろう。次の満月の夜、沈九は猫の姿で岳清源の布団の上に漬物石のように乗り上げ、最後の寝顔を見つめていた。この規則正しい呼吸の音を、いつまでだって聞いていたかったのに。
月が中空へとさしかかる。月光を浴びた沈九の影は歪み、猫から人間へと姿を変えた。
「お別れだな…七哥」
沈九は岳清源に顔を寄せ、猫だった時にやっていたように、すり、と額をこすりつけた。そして顔を離す前に、ちょんと触れるだけの口づけをした。もうこの顔を見ることもないのだから、これくらいいいだろう?
静かな衣擦れの音とともに床榻から降りた。そのまま気配を殺して部屋から出ようとしたところで、背後から腕をつかまれた。沈九の尻尾がびくりと逆立つ。
「…清秋師弟?なぜここに…その耳は?」
ぎこちない動きでゆっくりと振り返った。岳清源は、まだ夢から醒めたばかりのような顔で沈九を見つめている。沈九は口をはくはくと動かして言葉を探した。今夜は本当に月が綺麗な夜だった。窓を透かして室内へと注ぎ込む月明かりが辺りを照らし、この姿を誤魔化すこともできない。沈九の耳と尻尾が神経質にぴくぴくと動いた。岳清源の視線が沈九の耳へ、尻尾へと注がれ、信じられないようにつぶやいた。
「君は…まさか…九条?」
「私…私は」
岳清源は、口ごもる沈九の腕を引いて床榻に座らせた。そして沈九が逃げ出さないように、その手をぎゅっとにぎった。
「怖がらなくていい。実は以前から、何度かその姿を見かけていた。いるはずのない場所で清秋師弟に似た影がちらりと見える。とうとうおかしくなってしまったのかと思っていたけど、君だったのか」
沈九はぎゅっと眉根を寄せた。もう見られていたのか。だが、あれと間違えられていたと思うと腹が立つ。同じ姿をしているのだから、仕方のないことだが。
「私はあいつなんかじゃありません」
沈九は唇をツンととがらせた。だが、それならどうしてこんな姿をしているのか。あの沈清秋とは区別をつけて、この沈九の存在を納得させられる説明はないものか。沈九は眉間にしわを寄せて知恵をしぼった。
「…以前、私が熱を出して倒れた時のことを覚えていますか」
以前聞かされた、沈清秋の性格が変わったといういきさつを思い出して言った。岳清源は、ああ、と神妙にうなずいた。
「あの熱病を境に、魂の一部が記憶とともに欠け落ちてしまったのです。私はそれ以降のことを知りません。砕け落ちた魂は清静峰をさまよい、気づけば猫に取りついて、このような姿に」
苦し紛れの言葉だったが、これでなんとか筋は通るはずだ。
「じゃあ今の清秋師弟は…?」
「さあ。あれは、過去を捨てて別の人生を歩むと決めたのでしょう。もはや私とは別物です」
沈九は言い捨てた。岳清源は、まさかそんなことが、とぶつぶつ呟いていたが、やがて納得したように顔を上げた。九条は沈九に似ていると言っていたのだから、その謎が解けたとでも思っているのだろう。
「君は、全部覚えているんだね。なら小九は、ずっと私のそばにいてくれたのかい…?」
岳清源の瞳がまるで少年のように輝いた。沈九が今まで見ていた、まるで老人のように凪いだ、全てを諦めた瞳はなんだったんだ。岳清源は本当に…沈九にそばにいいて欲しいと思っているのだと、改めて突きつけられたような気がした。二度の人生を生きて、ようやく理解できたことだ。沈九はバツが悪くなり、もごもごと言い返した。
「いちゃ悪いんですか」
そんなはずはないとわかっていた。岳清源は沈九がどんな姿になっていようと…例え四肢を切断された姿になっていようと、猫になっていようと、同じように愛しただろう。
「まさか。でも君は私を恨んでいたから」
岳清源は気まずげにほほ笑んだ。沈九は押し黙った。もちろん、沈九は岳清源を深く恨んでいた。恨みに目が曇り、岳清源は沈九を裏切ったのだと信じていた。その恨みを八つ当たりのように、この世の全てにぶつけていたら、最後には報いをうけて死んでしまった…岳清源を道連れにして。
「…当たり前だ。あんたは帰ってこなかった。言い訳すらもしてはくれなかった」
抱き続けた恨みを覚えている。そのざらりとした手触りは、あまりに長く沈九のそばにあった。だが、恨む必要なんてなかったのだと、沈九はもうよく分かっていた。昔を思い出したかのように辛辣な言葉を口にしようとして、沈九は自分にため息をついた。言葉を話せない猫だった時の方が、ずっと素直に心を伝えられた。
「でも、猫になったからといって、ただ寝て過ごしていたわけではありません。…もう知っています。あなたが本当は帰ってきていたことも、なんで帰ってこれなかったのかも」
別の世界で岳清源が、沈九を助けに戻ろうとして死んではじめて、沈九はようやく自分の考えを疑った。岳清源は、本当は最初から、沈九を見捨てたことはなかったのかもしれないと。だが別の世界で何があったのかなんて、この岳清源は知らなくていいことだ。
「小九、私は…」
岳清源は悲しげに顔をゆがめた。
「本当は、君に話さなくてはいけなかったのに」
「…その通りだな」
沈九は低い声でつぶやいた。そう。その言葉を聞くべきだったのは沈九なのに。だが新たな恨みが顔を出す前に、岳清源が沈九の手をぎゅっと握りしめた。
「本当は、ずっと君に会いたかった。沈清秋が元に戻れるものならば戻ってほしいと…。私にとって大切なのは、あの時に一生唯一の義を捧げてくれた君だから」
沈九は張りつめていたものが緩んだかのように息を吐き、微かな笑みを浮かべた。
「なら…聞かせてくれよ。穹頂峰の首席弟子になったのに、なぜ俺を探しに戻ってこなかった?」
沈九はその答えをもう知っていた。だが、それでも岳清源の口から直接聞きたかった。それさえ聞ければ、もうそれでよかった。
さて、それからのことは二人きりの間のことである。ただひとつ、蒼穹山派の峰主が世代交代してからも語り継がれていることがある。清の世代の峰主には変わり者が多く、魔族やら猫妖やらを道侶にしていたそうである。
