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氷室は田村とビルの中で合流できなかった。建物の中で一通り探したが見当たらず、ヒントになったものは、床に点々と散らばっている暗い血痕だけだった。氷室はその血の跡を追い、ついビルを出ていった。そして、外の道を少し進んだあと、ようやく地面に倒れている田村を見つけた。
「悠人、悠人!」
冰室は彼の名前を呼びながら、急いで駆け寄る。しかし、田村はとっくに意識を失っていて、ぴくっともしない。ただ拗ねっている子どものように、体を丸く小さくして、地面に横たわっている。
氷室は田村の肩を抱いて体を起こすと、その顔が血まみれになって、サングラスも壊れていたことがすぐわかった。息遣いはほとんど感じられないほど浅かった。が、田村の眉間のしわはまだいつものように深く刻んでいる──まだ何か心残りがあるのだろう。だったらよかった。心残りがあれば、死ぬわけにはいかないよな。氷室はそう思いながら、少しほっとした。
氷室は自分のコートを脱いで、それを使って田村の頭と体をしっかり包み込んだ。田村の状態が見られないことを確認してから、彼は子分たちと連絡を取った。さすがに、今の田村を子分たちに見せられない。さっきまで、結構な労力をかけてやっとこの一件を片付けた。もしやつらがーー特に虎が、今の悠人を見かけたら、また暴走しかねない。新たな問題を引き起こしたらそれはそれで大変。
彼の前で一番に現れたのはやはり虎だった。無我夢中に走ってきたから、一瞬転んでしまいそうになった。しかし、泣きながら抱きついてくるという氷室の予想に反して、トラは二人と少し離れた場所で急に立ち止まった。声も出せなくなったのか、ただ息を切らしながら冰室を見て、また彼が抱えている田村を見つめる。充血している目だ。まるで「オヤジはどうした?」と聞いているのように、悲しそうな垂れ目が氷室に向いている。
「……」
冰室はその目線に答えることばがない。情けないカシラだ、と氷室が心の中で自分を嘲笑いた。幸い、すぐに後ろから川上が車で迎えに来た。冰室は軽やかに田村を抱き上げ、「もう、行こう。」と車に乗り込んだ。
病院でいろいろな手続きを済ませたあと、氷室はようやく再び口を開いた。いつもの淡々とした口調でこう言った。
「心配はいらない。悠人がどれほど強いか、お前たちだってよく分かっているだろう。」
ここまで言われると、他の者たちはもう暗い顔をしていられず、頷くしかなかった。
中島は若い衆を廊下に追い出し、それから氷室に近寄って小声で言った。
「カシラ、ここは俺たちに任せてください。カシラも少し休んでください。」
氷室は中島を見て、優しいため息をついた。
「お前は自分の顔を見てみろ。お前たちこそ休むべきだ。俺は、何ともないじゃないか。」
それを聞いて、中島は気まずそうに笑った。彼と川上の顔はすっかり腫れ上がり、それぞれいくつかのガーゼを貼っている。川上も少し笑ってみせたが、傷口に触れてしまい、表情がおもしろく歪んだ。
虎は足を怪我したらしく、少しアンバランスな姿勢で壁際に立っていた。氷室の視線が自分に向けられると、急に真剣な顔になった。
「カシラ、どうかここに留まってください!親父が目を覚ましたら絶対に怒りますよ。それはもう、めちゃくちゃ怒って、めちゃくちゃ怖いの……」
「ああ……せいや」
中島はハッとして、何か恐ろしいことを思い出したようで、顔をしかめながら身震いした。
氷室は虎の言葉を聞いて、思わず笑みを浮かべた。
「やっぱり虎は悠人のことをわかってるな。お前らは早く帰れ。悠人が目を覚ますまで俺がここで見てる。あ、それと、俺たちの上着を洗濯に出してくれ。悠人はこのコート結構好きだからな。」
こうして最後には二人だけが残った。二人になるとたんに、氷室は完全に力を抜き、長く息を吐きながらリラックスな姿勢をとった。腕時計とネクタイを外しながら、ふと考えた。こうして田村と二人きりで静かに過ごすのは、随分久しぶりのことのように思える。
いつからか、自分と田村の日常は、いつも大勢の仲間たちに囲まれるようになっていた。田村はよく「蓮司の事務所はお前らの溜まり場じゃねえ!」と子分たちを叱っていたが、もし長い間顔を出さないやつがいると、今度はまるで野球部の監督みたいに電話で「なんで来ないんだ!」と怒鳴る。
氷室は、田村が自分の前で一門のやつらと一緒にバカ話をしたり、大声を出して笑ったりする姿を見るのが好きだった。いつも賑やかで、楽しかった。
田村は人との絆を大切にする人間だ。バイオレンス上等のヤクザ幹部であると同時に、彼は心が熱く、情が深い男でもあった。それを氷室は知っている。
静かな病室の中で、氷室はふとため息をつき、目を閉じた。
ーーさて、悠人が目を覚ましたら、何を言えばいいだろう。
答えは出なかった。もどかしい気持ちと喧嘩の後の疲労が、氷室の体の中でどんよりと湧き上がってきた。彼は病床のそばにある椅子に座りながら、ついそのまま眠り込んでしまった。しばらく眠った後、不意に低いうめき声が耳に入った。それは痛みと怒りが混じったような声で、氷室はハッとして目を覚ました。
目を開けると、ベッドに横たわっていた田村は意識が戻ったようで、瞬きをしているところだった。
「いてぇな……」田村は声を引きずって言いだした。元から重い声がさらに低くなり、まるで地獄から戻ってきた鬼のようだ。
冰室は反射的に聞いた。「どこが痛い?」
「ああ……」田村はまたまばたきをしながら考えた。「全部。」
氷室は笑った。「そうだな。」
「バカ、笑ってんじゃ、ねえよ!」田村はそう言いながら、自分も少し笑いだした。
「バカはお前だろ、こんなボロボロになりやがって。」
「……チッ、こんなの大したことねえよ。」田村は不満そうに言った。「明日、退院するからな。」
「ダメだ。」氷室は即座に否定した。「今回で新しい傷も古い傷もまとめて治せ。ここでおとなしくしてろ。」
「……氷室さん、俺たしかにおっさんになったけど、そんなにやわじゃねえよ?」
「田村さん、それは自信過剰ですね。明日一歩でも病院を出たら、会長に頼んでお前を謹慎にしますからな。」
「はぁ?お前!卑怯じゃねえか?」
「ヤクザだからな。」
二人が互いの顔を見て、一緒に笑いだして、また静かになった。病室の外、廊下を誰かが通る足音が聞こえた。患者と看護師の話し声。そして部屋の中にある時計の秒針、一秒一秒進む音までもはっきり聞こえる。
だが、二人はただ黙っている。何を話せばいいのか、しばらくの間誰も思いつかなかった。
「蓮司。」田村が突然氷室を呼んだ。
「もし……仮に、俺たちが一緒に出かける約束をして、でも俺が遅刻してさ……」
「……」
「お前、どれくらい待つ?」
「……」
「一時間?まぁ、せいぜい二時間くらいだろう……で、お前、きっとめちゃくちゃ怒るんだろ?」
「悠人……」
「きっと怒るよな……」田村は天井を見上げながら、独り言のように続けた。「誰だって怒るさ。俺だって怒る……」
「悠人。」
「蓮司、俺……今日どれくらい遅刻したんだ?」
この男の心にはいつも、柔らかくて、純真無垢な一部が残っている。昔から今まで、そこは全く変わっていない。そして、田村がそのせいでたまに傷つくことも、ずっと彼の隣にいる氷室は長い間見てきた。
氷室はただ、田村が無意識に握りしめた拳の上に、自分の手を重ねた。田村の心にある砕けた痛みを少しでも分け合えたらと願うだけだった……ほんのわずかでもいいから。
田村の拳が氷室の手の中で少し動き、そしてゆっくり開いて、優しく氷室の手を握り返した。その親密さは少し信じられないほどだったが、氷室は拒むことなく、そのまま手を預けた。
田村は少し笑みを浮かべながら言う。
「俺、この前ゆいと手を繋いで……あの子がいきなり聞いたんだよ。『おじさんの手のひらに傷があるよ、どうしたの?』って。『これは、大事な友達のためにできた傷だよ。蓮司のために』と言ったけど……」
何かを思い出したのだろう、田村は一瞬言葉を切ってから、また続けた。
「ゆいにちゃんとお前のことを紹介すべきだったな。俺せっかく新しい友達ができたんだし。」
氷室は別のことを急に思い出した。元妻がかつて彼の手を握りながら占いの本を見て、こんなことを言い出した。
「この傷、ちょうど感情線を切ってたらしいよ。なんだか縁起が悪いわ……」
田村の傷も同じ場所にあるのだろうか。
「この傷、俺たちがヤクザになるって決めたあの日にできたものだ……何十年経っても消えないな。一生忘れるなって言われてるみたいだ。」氷室はこう言った。
「そうだな……まるで戒めだな。」田村は苦笑しながらため息をついた。「俺たちはさ、もうこの手で、ほかの誰かを掴むのはやめた方がいいかもな。そうだろう?」
その言葉に、氷室の胸の中の苛立ちは限界に達した。何に苛立っているのか分からないまま、氷室は田村の手を強く握りしめて、唐突に言った。
「悠人。少なくとも、俺にはお前が必要だ。」
「……ああ。」田村は素直に頷きながら答えた。「俺もだ。俺にはお前しかいないよ。」
そう言った後、田村は少し気恥ずかしくなったのか笑い出した。しかし、笑い声が二回ほど続いたところで、急に痛そうに声を上げた。
「痛っ!体がめちゃくちゃ痛ぇ!」
「本当にバカ。」氷室は言った。「一生バカでいい。」
田村悠人という存在。それは氷室がどうしてもなれない憧れそのものだった。情熱的で、生き生きとしていて、愛らしい。だからこそ、氷室はどんな手を使っても田村を守ろうとする。これからもずっと。
田村には変わってほしくない。触れると火傷になりそうなくらい燃え上がる田村こそが、氷室が最後まで信じられる唯一の存在なのだから——最後まで、そうであってほしい。氷室はその手を握りしめながら、強く願っている。
