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オプティミスト

Summary:

彼が死ぬ前も、死んだ後も、生きることはいつだって容易い事ではなかった。
それでも、生きていくしかない。私も、この人も。少なくとも、その困難に一緒に立ち向かえる伴侶を得て。
「いい男じゃない、あいつよりずっと。」
彼は何も言わずに、ただ微笑んだ。

Notes:

生前のビームのもう一人の恋人、クワン視点のお話です。

かなり杜撰な二股をかけていたビームですが、あまり作為的な印象はなく、基本的にはかなり楽観的で気の良い男だったと思うのです。恐らく厳しい現世を、筋を通して生き抜けない程に。

クワンは精神的にしっかり自立した女性という印象を受け、認識の歪みがあるようには見受けられず、ビームはジムの事を愛していたと言い切る彼女の言動にはそれなりの根拠があると思い、語られた事実を拾って、彼女視点の過去の物語を紡いでみました。

タイ在住の華僑の価値観は、凡ゆるタイドラマを参考になんとなく書いていますが、彼らの文化に特に詳しくはないので、おかしい部分があるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

お楽しみ頂ければ幸いです。

Pixivにも掲載しています。

Work Text:

 その屋台に立ち寄ったのは偶然だった。本土での用事が長引き、ラン島への最終フェリーを逃してしまったので、夫に連絡を入れて近くのホテルをネットで予約し、チェックイン前に適当に夕食を済ませてしまおうと、たまたま通り道に店を構えていたカオマンガイの屋台のテーブルについたのだ。店員を呼び、簡単に注文を通す。

「カオマンガイドム、ルアー無しですね、あ……」

 手元のメモから顔を上げた店員が、何かに気付いたような声を出したので、私も顔を上げて、初めて店員の顔を見る。屋台の店員らしからぬ、随分と垢抜けた印象の青年だ。

「おじさんを呼んできますね、待っててください。」

 おじさんとは店主のことだろうか、そこまで複雑な注文ではなかったはずだが、と問いただす間もなく、彼は別の客に呼ばれて行ってしまった。店は規模の割に繁盛している。

 少しして、節くれ立った長い指が、注文通りの品を私のテーブルに乗せた。

「お待たせしました。」

「ありがとう……」

 後ろに撫で付けた髪、奥まった瞳に、整った鼻筋、記憶よりも少し目尻に皺が増えただろうか、忘れもしないあの男が、緊張した面持ちでそこに立っていた。言葉を失った私の出方を伺うように、口を引き結んでいる。

「ジムさん……あなたのお店だったの。知らずに座ったんです。」

 正直にそう言うと、彼はほっとしたように相好を崩した。

「ああ、偶然でしたか。」

 よかった、とは流石に付け足さなかったが、私が意図して彼を訪ねてきたのなら、一体何の用向きだろうと、構えていたのだろう。無理も無い。

「店員の方、よく私に気付かれましたね。」

 彼は照れくさそうにはにかんで、少し目を泳がせると、先程の店員を手招きした。

「クワンさん、夫のウォンです。つい先日結婚しまして。」

「サワディーカ。」

 育ちの良さそうな青年は、爽やかな笑顔で手を合わせた。自然とこちらも笑顔になり、手を合わせる。

「おめでとう。」

 心から、何の屈託も無く自然と自分から出てきたその一言に気付いて、安堵する。

「実は、二年前にあなたを訪ねて行った時、フェイスブックであなたの居場所を探し出してくれたのはウォンなんです。あの日も一緒に近くまで来て、待っていてくれたんですよ。」

 こちらは見覚えがないのに、彼の方が私を見知っていたのは、そういう理由であった。

「おじさん、座ったら?お店は暫く僕がやっとくから。」

 夫であるという青年にそう促された彼は、いや、と口を開きかけたが、新しい客に呼ばれた青年は「じゃあ、クワンさん、ゆっくりして行って下さい。」と言ってその場を離れてしまった。逃げ場を失った彼が、おずおずと私の前の席に、いつでも立てるような姿勢で、椅子に対して斜めに座る。

「夫夫なのにおじさん(ルン)と呼ばれているの?」

 率直に気になって聞くと、彼は恥ずかしそうに、自分の首の後ろを節くれ立った指で撫でる。

「はは、最初にそう呼ばせてしまったので、今更変えられなくて。彼は僕より十歳程下なんです。まさかこの歳になって恋人ができて結婚するとは——そもそも、自分が生きているうちにできるようになるとも、思ってもみなかったものですから。」

 タイでようやく婚姻平等法案が可決承認されたのは、今年の一月の事だ。

「本当に良かった。法整備は遅すぎたくらいですよ。」

 彼は一瞬驚いたように私と目を合わせ、そしてまたはにかむようにして目を逸らした。

「あなたにそう言われると、もちろん嬉しいですが、何だか妙な気もします。」

 それはそうだろう、と思う。私の言葉に嘘はなく、彼もそれを疑っているわけではないこともわかっているけれど。

「まさかこの歳になって、と今仰ったけれど、私も——ビームが、死んだ時」

 ようやく出されたその名前は、パタヤの夜の湿度に、思いのほか穏やかに響いた。

「当時の私はまだ、それこそ今のウォンさんくらいの歳だったのに、もう自分は新しく恋愛をするには、疲弊して歳をとりすぎてしまって、この先結婚する事も、子供を持つ事もないと、本気で思ってたわ。」

 以前会った時の記憶よりも多く刻まれた、目尻の笑い皺を深くして、彼は頷いた。

「人生、何があるかわからないものですね。僕も、あの後は生活もぎりぎりで、文字通りの貧乏暇なしでしたから、今更わざわざ好き好んで恋愛なんかしなくても、人生は十分以上に面倒だと思っていたのに。」

 十年前、私と彼は、愛した男を水難事故で失った。

 

-

 

「君となら、きっと上手くいくと思えるんだ。」

 親の紹介で出会った、同じ大学に通うビームは、何度目かの食事の後でそう言った。彼も私も華僑の家の子で、親同士の斡旋で付き合うというのは、つまりはそういう事だった。同じ風習の家の者同士、恙無い関係、いずれ恙無く結婚し、恙無く子供を設け、恙無く両親の面倒をみて、いずれ恙無く親と同じような人生を終えてゆく。それでも、厳格な家庭に育った事が信じ難い程に楽観的な彼のその言葉は、悲観的という程でなくとも、彼よりは随分現実的な私に、その恙無い人生を、朗らかに楽しく生きてゆけるだろうと思わせてくれる力があった。

 そうしてはじめから家族ぐるみで始まった関係だったけれど、どこまでも楽観的で朗らかな彼とは対照的な彼の両親の事は、正直言えば少し苦手だった。子供を二人以上産み、少なくとも一人は男の子で、その子には金に糸目をつけず良い教育を施し、いずれは彼らの事業を継いだ私たちからまた、その子に継いでゆくこと、そういう諸々が当然のように私たちの未来には科せられていて、それは私の両親にしても、そうなるべくしてなるだろう、そうして安定した人生を送ってくれるだろうと、穏やかに期待を寄せるものであったけれど、彼の両親にしてみれば、それは穏やかな期待というような生温いものではなく、当然遵守さるべき家訓のような圧力をもって、私にかけられる言葉の端々に滲ませられていた。

 

「昔ながらの街並みの角で、いい物件なんだ。初期費用も手持ちで間に合いそうだし、鶏肉の卸業者も、いい人を紹介して貰えたんだ。」

 一刻も早く親の事業を継ぐ事が期待されていたビームが、パタヤで友人と出資してカオマンガイの大衆食堂を始めると言い出した時、当然のように大反対をした彼の両親を尻目に、彼を後押ししたのは、他でもない私だった。大衆食堂だろうと高級料亭だろうと、上手くいこうがいかまいが、そんなことは正直私は構わなかった。私にとって好ましかったのは、彼と結婚する前に、彼が彼の両親に、完全に従順ではない実績を作っておいてくれる事だった。それが来るべき私の未来の生き難さを、幾分緩和してくれる事を期待しての事だった。例えば、子供が出来なかった時、男の子が産まれなかった時、その子の成績が芳しくなかった時、ビームには私と一緒に、両親に立ち向かう気概を持っていて欲しかった。それは彼よりは現実的な私の打算であったけれど、結局、クワンがそれで良いと言うのなら——つまり、彼が人生の道草を食っている間も、嫁が逃げずに待っているという保証があるのならば、と言う事で、彼の両親も渋々折れたのだった。

 

「一度あなたのカオマンガイ、お店まで食べに行こうと思うんだけど。評判良いんでしょ?」

「大衆食堂だから、わざわざ来る程の店でもないよ。次の休みにまたテイクアウトを持って帰るから。」

 パタヤで一緒に食堂を営んでいるという彼の友人に会わせて貰った事は一度もなかった。一度食堂を見に行きたいと私が言っても、君も忙しいだろう、週末には帰るからと言って、いつもやんわりと拒絶された。気付けば私たちは三十を過ぎていた。当初は結婚前の両親からの圧力の丁度良い緩衝剤になると期待した食堂が、私たちの結婚自体を、もっと正確に言うのであれば、ビームの結婚への意欲そのものを遠ざけていった。流石の私も浮気を疑うには十分で、でも彼のパタヤでの生活を何一つ知らない私には、相手が誰なのか見当もつかなかった。

「一体ビームはいつまで遊んでいるつもりだ。」

「クワン、こういう事は女の人から言って聞かせないとだめですよ、あなたがしっかりしなきゃ。」

 ほとんどラン島にはいない彼の代わりに、いつ結婚するんだと彼の両親から責められるのは私だった。相手も何もわからないままで、浮気の疑いを両親に告げる事もできず、まるで全てはおまえのせいだ、おまえがやるべきことをちゃんとやっていないからだと言われているようで、私の苛立ちは限界に達していた。

 

「コンビニに行ってくるよ。アイス食べるだろ?いつものでいい?」

 週末にはラン島に帰ってくる彼の携帯を盗み見た事など、それまでは一度もなかった。そんな事をする女にはなりたくなかった。でも、どこまでも楽観的な彼が、携帯にロックをかけていない事は知っていて、彼の携帯が鳴る度に私はその事に囚われていった。ロックさえしていてくれれば、こんなに意地汚い衝動に駆られる事はなかったのに、せめて近所に買い物に行く時でもちゃんと身につけていてくれれば、そんな隙はなかったのに、なぜそんなに無防備なんだと、あんなに好ましかった彼の朗らかさがもはや恨めしかった。鳴り止まないバイブ音に追いつめられて、ようやく震えを止めた端末を手に取り、写真アプリのアイコンを震える指でタップしてしまったあの瞬間、私は人生で一番自分の事が嫌いだった。

 その日の昼間に、私と撮った写真の前までスクロールすると、茹で上がった丸鶏をガラスケースに吊るす男の写真があった。彼が共同経営者の友人だろうか。勝手にもっと泥臭い人物を想像していたのだが、写真に写る男は、カオマンガイ屋の亭主にしておくには勿体ないような美丈夫だ。一枚目が女の写真でなかったことに、ほっとするような、生殺しにされるような、不安定な情緒のまま、次の写真へとスワイプした。食べ物や、パタヤの友人知人と思われる、何の変哲もない写真が続く。今のところどの写真にも、それらしい女は映っていない。二日分ほど遡った所で、閉店後と思わしき店の前でビームが例の美丈夫と肩を組み、笑顔で缶ビール傾けている写真があった。背景の景色にはどことなく見覚えがある。昔行った事がある旧市街の一角だろう。店を見つけるのは難しい事じゃない。ビームの不在を狙って、この友人に接触し、探りを入れる事も可能だろう——。詰めていた息を吐く。そんなことを考えている自分に嫌気が差した。ビームに直接問いただせばよいではないか。おそらく彼は認めないだろうけれど、しかしこんな風に彼に隠れてこそこそ嗅ぎ回る前に、まずは本人に問いただすのが道理だ。でも——。堂々巡りの思考を流すように、写真をスワイプした。

「……え?」

 それは件の友人が裸でソファに横になっている写真だった。腰の辺りにはブランケットがかかっているけれど、その下に何もつけていないのは明白で、妙に艶かしい写真だった。胸元に散る鬱血痕に気付くまでもなく、情事後の姿である事は察せられた。なぜこんな写真がビームの携帯にあるのか。動揺した脳が点と点を線で繋ぐ前に、震える指で写真をスワイプする。

 困ったような笑顔で、カメラに向って手を伸ばす男。まるで撮影者と戯れるように。スワイプする。

 裸の肩を寄せ合い、セルフィーを撮るビームの頬に、口付ける男——。

 

「ただいま。いつものなかったから、これでいい?」

 彼から手渡されたアイスの味はよくわからなかった。彼はそんな私の様子を気にする素振りも見せずに、テレビをつけて見るともなしに、私に盗み見られた事にも気づかない携帯をいじり始めた。そして暫くすると一人でシャワーを浴びて、寝る支度を始めた。

「まだ寝ないの?」

「……うん。先寝てて。」

「ん、おやすみ。」

 静かになった部屋に、彼の微かな寝息が響き渡る。

 ビームは、セックスに淡白だった。私も性欲が強い方ではないけれど、私から誘わなければ事は起こらなかった。何年も付き合っていて、家族同然に遠慮のない関係ではあったけれど、セックスは習慣にならなかった。彼が週の大半をパタヤで過ごすようになった今となっては、もはやセックスレスと言って差し支えなかった。私達が最後にセックスしたのはいつだったか、すぐには思い出せない。あの写真は、今週撮られたものだった。ビームは、性欲の薄い人ではなかったのだ——。

 突然、堰を切ったように悲しみが押し寄せた。思考停止に陥っていた脳みそが、再起動したパソコンのように、滞っていた情報の処理をはじめる。

 彼は私のショートヘアを好み、化粧っ気の無さを好み、質素なパンツスタイルを好んだ。社交的な人なのに、交際相手は私が初めてだと言った。流行の化粧をして流行の服を着て、髪をきれいに伸ばした美人に言い寄られた事も何度かあったけれど、彼はまるで見向きもしなかった。それを私は能天気にも、彼の堅実さだと信じきっていたのだ。

「君とならきっと上手くいく。」

 あの日の彼の言葉を、厳格な親に期待をかけられた未来に対しての、楽天的な朗らかさからくるものだと、私は愚かにも勘違いをしていたのだ。この人とだったら、そんな未来にも立ち向かって行けると思ったのに、あれは本当は、彼なりの打算からくる言葉だったのだ。

 一睡もできずに、目を腫らしたままで朝を迎えた。

「じゃあ、また週末には帰って来るから。」

 彼は変わらぬ笑顔でそう言って、私の部屋を出て行った。私の様子は明らかにおかしかった筈なのに、彼は何も気付いていないようだった。ああ、この人はもう、私に興味がないんだ。一人になった部屋で、人知れず涙を流した。

 悲しみがじわりじわりと怒りに変わったのは、その週の半ばを過ぎた頃だった。またビームの両親が訪ねてきて、彼にちゃんと言って聞かせろと詰られたのだ。浮気をしているのは彼の方なのに、なぜ私ばかりが責められなければならないのか。最初から私を騙していたのは、彼の方なのに——。木曜日に病欠を装い、一人パタヤに渡った。地図アプリで、旧市街のカオマンガイ屋を検索すると、角店は一店舗だけで、すぐに特定できた。ムーンライトチキン、深夜までの営業と、厚切りの鶏肉、そして低価格が評判の店だった。

 営業時間前の店が見える位置にカフェがあったので、奥の席に座る。あの男が一人で仕込みをしていた。彼は私の事を知っているのだろうか。今目の前に出て行って、自分はビームの恋人だと言ったら、どんな反応をするだろうか。今にも席を立って出て行こうとしたその時、スクーターに乗ったビームが現れた。買い出しに出ていたようで、買い物袋の中身を慣れた手つきで冷蔵庫にしまってゆく。

「ビーム、配達の分、そこに出してあるから。」

「ん、ありがとう。ついでにホンさんに支払いもしてくるよ。」

 テイクアウトのビニール袋を手に取ったビームが、男の腰を抱き、ホームケムをした。人目を気にしてビームを制した男に、彼は揶揄うように今度は大胆にも頬にキスをする。表は一見人通りが無く、斜向いの店の暗い奥にいる私の存在は、彼らには見えていない。私といる時はさっぱりしたもので、滅多に手も繋がない人だった。あんなにボディタッチをする人だったなんて、何年も付き合っているのに、私は知らなかった。

 

 週末になると、いつものようにビームが帰って来た。実家に泊まるから私に来いという彼に、頑として私の家に来るように言い張った。

「大事な話があるの。あなたのお父さん達には聞かれたくない話が。」

 いつになく頑なな私の態度に、流石のビームも感じる所があったとみえて、硬い表情で私の部屋を訪れた。

「ビーム、あなたが浮気してる事、私知ってるの。」

 ろくに嘘もつけない癖に、誤魔化そうと引き攣った笑顔を作る彼に畳み掛ける。

「相手が誰かも知ってるの。」

 昨日こっそりつけて行った時に撮った、彼があの男の頬に鼻先を寄せている写真を見せる。ビームは黙り込んだ。何か言うかと待ってみたが、ただ沈黙が部屋を支配する。

「わかってるよね、こんな事続けられないって。彼と別れて、お店から手を引いて。」

「……クワン……。」

「一体どういうつもりよ、私が毎週あなたのお父さんとお母さんから何て言われてるか知ってるよね?あなたいずれ私と結婚するんでしょ?こんなこと続かないってわかってたでしょ?」

「クワン、わかってる。なんとかするから。」

「なんとかって、彼と別れる以外に一体どうするつもりなの?」

「…………。」

 ああ、ここで押し黙るんだ。

「ごめんなさいの一言もないの?」

「クワン、僕は……。」

「あの人、私の事は知ってるの?」

 ビームは下唇を結んで小さく首を振る。彼のパタヤの生活に、徹底的に私は存在しない。

「クワン、ちゃんとするから、少しだけ時間がほしい。父さん達の事も、僕がなんとかするから。大丈夫だから。」

 なんとかする、大丈夫、きっと上手くいく、ああまただ。

「大丈夫、大丈夫って、あの人にもそう言ったの?僕達ならきっと上手くいくからって?何も大丈夫なんかじゃないじゃない!」

 彼の口から謝罪の言葉が出てくる事は無かった。なんとかすると言うばかりで、男と別れると約束することもなかった。

 あの男は私の事を知らないと言う。このままずっとビームと二人であの店を続けて行けると信じているのだろうか。ビームの根拠の無いきっと上手くいくを彼も信じて、未だ無知のぬる湯に浸かっているのだろうか。どうして私ばかりこんなに苦しい目にあわなければいけないのか。彼も私の事を知って同じように苦しめば良い。

 それからは、ビームがパタヤに居る平日の間、大した用もないのに昼夜を問わず電話を鳴らした。最初のうちこそ一人の時は電話に出ていたビームも、そのうち私が彼を困らせたくてかけているだけと知って、出なくなった。でも彼が私の着信画面を、未だに二人のツーショットにしている事は知っていた。なんて無防備なんだろうと改めて呆れるが、これだけ電話をかけていればきっと、あの人の目にもその着信画面が止まるはずだ。

 

 そしてあの日。私はパタヤから帰って来る彼を、家で待ち構えていた。

 最初のニュースがSNSのタイムラインに流れてきたのは昼前だった。パタヤからラン島へのフェリー転覆、心肺停止二名、重傷者五名。死傷者の数はタイムラインを更新する毎に増えていった。彼が何時の便に乗って来るかは知らなかった。静かな部屋に、自分の呼吸の音がやけに煩く響く。

『大丈夫だよね?連絡して』

 夜が更けても、ラインに既読はつかなかった。

 本土側に引き上げられた遺体に対面したのは、翌々日の事だった。遺体の身元は既に、パタヤ在住の彼の「友人」によって確認されており、ビームの両親と私は、ビーム本人であると既に確認された遺体との対面であった。彼の母親の泣き叫ぶ声が、霊安室にこだまする。私は彼の亡骸を、なんて青白いんだろう、と思って見下ろしていた。最後に遺体を見たのは祖父の葬式の時だったが、死化粧を施されて花輪に囲まれた遺体よりもずっと、殺風景な霊安室に裸で安置されている遺体は、固く冷たそうに見えた。彼の母親が泣き崩れて遺体に覆い被さる。耳をつんざくような大げさな泣き声が、私にはなぜだか場違いな感覚がして、そんなはずはないのに、なんだか演技じみて見えた。母親が泣いて縋り付いている、灰色の裸体の左肩に、ぽたり、と水滴が垂れて、ああ自分は涙を流しているのか、と気付いた。悲しみも悔しさも、どこか遠くにあるような感覚がした。

 

 葬儀が始まってから、彼の両親はどこか私に対してよそよそしく、苛立ちを隠せないようだった。数日にわたって行われる葬儀のほぼ全日を私は手伝う予定だったが、特に理由も告げられず、この日は来なくて良い、と言われた日があった。ああ、その日に彼が来るのだな、と思った。この人達もようやくあの人の存在を知ったのだ。迷った挙げ句、なぜ私がこの期に及んで、大人しく言う事を聞いて見て見ぬ振りをしなければいけないのか、という気になって、少し遅めに式場に出向いた。

 閉ざされた式場の扉の中から、怒号が漏れ聞こえていた。葬儀の場で、生々しい話が繰り広げられている。何よりも体裁を気にする彼の父が、この修羅場から私を遠ざけようとしたその心理が、いっそ滑稽だった。

「僕もこの口座にお金を入れていた。二人で築き上げたんです。僕らは真剣に交際をしていた。」

「何の証拠も無い、名義はビームのものだ。男同士で、真剣もなにもないだろう。」

 共同口座を持って、同じ家に住み、一緒に事業をして、猫を飼って……聞けば聞く程、彼の生活はラン島ではなく、パタヤにあった。恐らくはただの便宜上ビーム名義で共に築き上げてきたものを、理不尽に取り上げられる悲痛な男の声に、この人がビームと結婚できていたなら、こんな厄介なことにはならなかったのだろうな、と惨めさの底で考える程に、彼は私の知らないビームの生活と共に、既に人生を歩んでいた。

 でも失ったのだ、全てを。より実質的に人生を共にしていた分、今の彼の生活そのものがかかる全てを。そう思うと、ここ数ヶ月の私の孤独が慰められるようだった。この人が生活の糧を失ったように、私は十年間を失った。いつビームと結婚して、彼の両親の事業を継いで、子供が産まれてもいいように生きてきた。こうなると知っていたなら選び得た道への分岐を、自由気ままに生きられるならばやりたかった事を、戻れない過去に置いてきた。

「荷物を取りに行かせるから纏めておいてくれ。猫はいらない。」

 そう男に告げて、斎場から出てきた彼の両親とはち会わせる。ばつが悪そうに「来なくて良いと言っただろう。」と吐き捨てて、二人は去って行った。

 この人達が、嫌いだ。

 そう、ずっと嫌いだったのだ。価値観の違う年代を生きてきたから、背負っている遺産と責任があるから、そんな言い訳で、苦手という生温い言葉の影で自分を誤摩化してきた。だってそうでなければ、そう思わなければ、この先家族として付き合ってゆく人生の不安に飲み込まれてしまうから。

「嫌いだ。」

 震えるように、呟いてみた。

 はじめて会った日、家柄の事ばかり話題にして、私の趣味さえ訪ねなかったあの人達が、会う度に、いつ結婚する気かと、結婚から逃げていたのはビームだったのに、私に非があるのだと信じきっていたあの人達が、私の三十の誕生日に、早くしないと子供が出来ない、高齢出産はリスクが高いと、私の子宮に無遠慮に口を突っ込んできたあの人達が、本当はずっと嫌いだった。

 ビーム、あなたと生きる人生のためなら、耐えられると自分に言い聞かせてきた。少なくともそれほどには、私はあなたを愛していた。でも、肝心のあなたに愛されないのでは、耐えてゆく力など持ち得なかった。

 斎場の扉を少しだけ押し開けて、隙間から中を覗く。僧侶が読経を始め、神妙な空気が戻っていた。遺影は在りし日の彼のまま、相も変わらず楽観的に微笑んでいた。彼は最前列で、頭を垂れていた。惨めだった。私も惨めだった。彼が恨めしかった。でも、ビームの美しい思い出ばかりが語られる夜に、どうしようもなく薄暗い思いを抱える背徳者の、唯一の同士であるような心持ちもした。

「さようなら、ビーム。」

 自分だけに聞こえる声で、そう呟いた。あなたに愛された男の背中を見ながら、私は自分に誓った。あなたに愛されなかった私を、今日からは私が愛してゆこうと。

 

 もう恋愛をすることも、ましてや結婚することもないと思っていた私は、諦めていた栄養学のキャリアを、もう一度追う為にとった生涯学習のコースで、北部の山岳部族にルーツを持つ夫に出会った。華僑ではない彼の事を、私の両親が本音ではどう思っていたのかはわからないが、ビームの事があった手前、面と向かって反対されることはなかった。たとえ反対されても、おいそれと従う気もなかった。

 そして私の実家近くの、ラン島のビーチにカフェを開くと、三十六で妊娠し、比較的安産で娘を出産した。

 

-

 

 カオマンガイは肉厚で柔らかく、ソースもしっかりとコクがあって美味しかった。昔ビームが持って帰って来たテイクアウトも美味しかったけれど、あの頃よりもっと熟れた、老舗の風格のようなものが漂う味になっている。

「美味しい。」

 素直にそう言うと、店主は嬉しそうにはにかむ。

「お口にあってよかった。」

「この味でこの立地なら、もう十五バーツは多くとったっていいのに。」

「いいんですよ、実店舗を構えていた頃と違って、大した賃料はかからないし、ウォンも忙しい夜はこうして手伝ってくれますが、本職は会社勤めで僕よりよっぽど高給取りですし、一昨年まで養っていた甥っ子も手を離れましたから、自分一人がなんとか生きていけるだけ稼げればそれで。」

「欲が無いのね。」

「欲を出せるほどの体力がもう無いんですよ。」

 実際そこまでの歳ではない癖に、何かと年寄りじみた事を言うのは、それだけこの人が苦労をしたからなのだろう。

「おじさん、小銭ある?お釣りが足りない。」

 店主に代わって手際よく店を切り盛りするウォンに、彼はポケットから少額紙幣の束と硬貨を掴んで渡した。彼らの左手薬指に、揃いの指輪が鈍く光っている。

 法整備がなされた今、もしビームが生きていたら、彼と結婚しようとしただろうか。法が認めても彼の両親が認めた筈はない。私と別れ、家族と絶縁してでも、彼との未来を掴み取る事が、ビームにはできただろうか。答えはわからない。だって彼は死んでしまったのだから。

「……僕はずっと、ビームの死に囚われていました。でもウォンが僕に言ったんです、生きる方が難しいって。」

 わからないけれど、ビームはきっと、本当に大切なものの為に、他の何かを捨てなければいけない人生の困難に正面から立ち向かうには、あまりにも楽観的すぎた。

「その通りよ。」

 彼が死ぬ前も、死んだ後も、生きることはいつだって容易い事ではなかった。

「ええ。」

 それでも、生きていくしかない。私も、この人も。少なくとも、その困難に一緒に立ち向かえる伴侶を得て。

「いい男じゃない、あいつよりずっと。」

 彼は何も言わずに、ただ微笑んだ。

「ご馳走様、美味しかった。」

 財布を出そうとする私を、彼はやんわりと大きな手で制した。顔を合わせると、微笑んだまま、ゆっくり首を振る。私は大人しく財布を仕舞った。

「よかったら、パタヤにお越しの時にはまた寄って下さい。」

 席を立つ私に店主が言う。

「ええ、夫と娘を連れてくるわ。あなたも、ラン島に来る時はまたうちに寄って行って。今度は彼も一緒に。」

「是非。」

 屋台を後に、ホテルまでの夜道を歩く。街はまだ、今日の仕事を終えた人々の腹を満たすべく、遅くまで営業している夜店で賑わっている。昼の日差しにすっかり草臥れたようなパタヤの夜の温い空気が、今日もこの街に生きる人達を、労うように包み込んでいた。