Work Text:
オンボロ寮の一室にペンを走らせる音だけが響く。さりさり。さらさら。かつかつ。かりかり。時折ページをめくる音、それ以外は誰もが無言。騒々しくしているのはストーブの上に置いたポットだけ。しゅんしゅんと音を立てては部屋のなかに白い蒸気を噴き出している。エースは万年筆を動かす手をとめると、そっと顔をあげる。薄暗い静かな部屋で、綿入りの上着を着こみ、厚手の毛布とヒーターが合体したテーブルに肩まで潜り込んでいると、ついうとうととまどろんでしまいそうになる。
ハッとして、自分の髪の毛をぎゅっと掴むと力いっぱい引っ張った。やりすぎだと分っているのに、とめられない。髪が抜けるいやな感触がする。このまま頭の皮ごと引きちぎってしまうんじゃないか。いっそ、そうなればいいのに――。
「エース、どうしたんだ?」
デュースが顔を上げていた。ユウもグリムも不思議そうにエースを見ている。エースは髪を掴む手をパッと放した。指にまとわりついた抜け毛を何気ない風を装ってふりはらう。
「あ――いや、別に。寝ぐせが気になっただけ」
「朝からずっとついてるんだゾ?」
「うっせ」
ユウがもぞもぞと毛布から出て立ち上がった。
「ちょっと休憩しよっか。お茶淹れてくるよ」
「手伝うよ」と、デュース。
「オレさまがお菓子を選ぶゾ! 子分、連れてけー!」
グリムがユウの上着の胸元に潜り込む。三人がキッチンへと向かうと、エースはひとり、そっとため息をつく。
バレなかっただろうか。誰にもバレていないはず。
毛布の下でギュッと手の甲をつねった。
二年生に進級できるかどうかは二月下旬の期末試験の成績にかかっている。それで、ユウが「試験にむけて勉強会をやろう」と言い出したのである。一年A組でいつも赤点ギリギリなのはデュースとユウ&グリムの三人。エースの成績はさすがにそれよりちょっとマシだが油断はできない。『いつもの面子』が揃って進級するために、授業終わりにオンボロ寮に集まって勉強会をする運びとなったのだ。
テスト範囲のおさらいと授業の予習をなんとか終えて、オンボロ寮の外にでると、空はすっかり暗くなっていた。冷気がマフラーや手袋の隙間からはいりこんでくる。風は上着やズボン越しに刺し貫いてくるほどに凍えている。天気予報によると、今夜はこの冬一番の冷え込みになるという。深夜に雪が降り始めると、明日の朝には賢者の島の全域で積雪が見込まれるとのことだった。
「うー、さみー」
「もうすぐ寮の門限だ。急いで帰るぞ」
「わーってるし」
それっきり、デュースは無言だ。エースは両手をこすりあわせて後を追う。デュースは歩くのが速いので、一緒に歩くとほとんど走るような速度になる。問題集と教科書でずっしり重たい鞄を肩にぶらさげているせいか、鏡舎までの道がやけに遠い。空の高いところで風が渦巻くように鳴る。靴が土を踏んでざりざり、ざくざく、ノイズをたてる。そのくせ、あたりは部屋の中にいたときよりも静けさは増したようで、耳に痛いほどだった。ただひたすら足を前に出していると、今こうして動いているのは、この景色を見ている者は一体『誰』なのか分からなくなりそうだ。
まるで、夢の中を歩くような。
突然、デュースが立ち止まって振りむいた。
「荷物、僕が持ってやる」
「は? なんで?」
「だって、調子悪いんだろ」
「いや、別にフツーですけど」
「いいから」
デュースはエースのカバンを奪い取るように掴むと、自分の肩に下げて、先ほどまでと変わらないペースでのしのしと歩き出した。これだから、体力オバケは。今日は午後に飛行術と体力育成の合同授業があったし、さっきまでずっと座って勉強していたのだから、体力も気力もヘロヘロなのはお互い様だっていうのに――まあ、いいや。持ってくれるっていうんだからラクさせてもらおう。エースは頭の後ろで手を組む。それでも、鏡舎につづく坂道に差し掛かったころには、心なしかデュースの呼吸も荒くなっている。あーあ、だからいわんこっちゃない。もういいから返せよ、と言おうとしたら、デュースが先に口を開いた。
「悩み事なら言えよ、水臭いな」
「だーから、そんなんじゃねーっつの」
「嘘つけ、今日もずっと暗い顔してたくせに。ユウも心配していたぞ。エースが元気ないけどどうしたんだろう、って」
「フツーだって。試験勉強をニコニコしながらやれっての?」
「そうじゃなくて――エース、変なこと考えていたんだだろ」
「は? 変なコトって?」
「だから、たとえば」
デュースがふうっ、と息を吐く。マフラーの隙間から白い呼気が流れていく。
「『全部夢だったらどうしよう』とか」
エースは立ち止まる。デュースのやつ、普段はニブくてバカなのに、なんでこういう時だけ鋭いのだろう。
楽しいとき、気分がいいとき、こんな時間がずっと続けばいいと思うとき、エースの胸には一つの疑念が忍び込んでくるのだった。もしかしたら、これも全部夢かもしれない。昔、流行ったSF映画みたいに、自分の本体は眠ったまま巨大な培養槽の中にプカプカ浮いていて、ずっと本物そっくりな夢を見せられているんじゃないのか。手に触れるもの、目に見えるもの、聞こえるもの、全部ニセモノではないか。肌を刺す風の冷たさも、毛羽だったマフラーのちくちくも、指の変な場所にできたペンダコも、なにもかも。
――マレウス・ドラコニアの夢から醒めて、ずっと。
目の前のデュースは、足元にふたつの鞄をどさっと置くと、妙に真剣な面持ちでエースの側に近づいてきた。コイツはオレにどんなことばをささやくのだろう。自分で作りだした都合の良い夢。弱った心に忍び込んで、いま一番欲しいことばをかけてくれる、便利でバカで素直でかわいいニセモノのデュース。だって、本物のデュースがこんなに察しが良いハズないのだし。
すると、デュースはおもむろに、エースの頬をバチーンと両手で挟んだ。
「ぶ!」
と、エースは言った、というか唇が鳴った。結構派手な音がしたわりに痛くない。痛くはないが、持ち前の馬鹿力でがっちりとホールドされているから下手に首を動かせないし、デュースの手は氷のように冷えきって、背筋がぞくぞくしてきた。もしかして、ニセモノじゃなくてゴーストか?
「んにふんだ!」
なにすんだ、と言ったつもりである。
「落ち着いたか?」
「……あ?」
「昔、怖い夢を見て夜中に目が覚めたとき、母さんがよくこうしてくれた」
「……ああ」
「僕も、時々考えるから、分かるんだ。毎日ちゃんと学校に通って、制服を破いたり無くしたりしねえで、毎日食堂で一緒になるダチもいて、まるで夢みてえだな、もしかしたら本当は夢をみてるのかも――って」
エースはデュースのいる方向に目を向ける。街灯の明かりがデュースの輪郭と横顔を照らしている。ならば、デュースも考えたことがあるのだろう。夢ならいつか醒めて、なにもかも幻だったと思い知る瞬間が来るはずだと。楽しい記憶も、嬉しい思い出も、誰かの笑顔も、泣き顔も、全部なくなって、ひとりぼっちになる日がくる。覚えているのは自分だけ。その記憶すらいつか薄れていくだろう。何度振り払っても、別のことを考えようとしてみても、うっすらとしたむなしさが、ずっとまとわりついてくる。
そうか。
エースはズズッと鼻をすする。
じゃあ、自分だけじゃなかったのだ。
頬に置かれた手がだんだんと温まってきた。どうやらこいつはゴーストではなさそうだ。そして、ニセモノでもないのだろう。エースの夢に出てきたニセモノのデュースは、バカで要領悪くてテストも赤点スレスレだったけど、ここまでバカじゃなかったから。
エースの想像を軽々と越えてくる、バカみたいな方法で励まそうとしてくる奴は、本物のデュースだけだ。
デュースは真顔でエースの頬を潰したり伸ばしたりしたあと、いきなりパッと両手を離した。
「ちなみに、僕の夢に出てきたエースは、僕に『行くぜ、相棒!』とか『オレが背中を預けられるのはお前だけだ』とか言ってたぞ」
「……ナニソレ。キモチワル」
「そうだろ。だから目が覚めた」
「は?」
「僕の夢に出てきたエースは優しすぎたし、素直すぎたし、すごく気持ち悪いことばかり言ってきた。お前はそんな奴じゃないと思って、それで僕は目が覚めた」
「それ、オレは素直じゃないし優しくないってこと? 喧嘩売ってる?」
「だって、僕が喜びそうなことを言うなんて、エースらしくないだろ」
そう言うと、デュースは今度はエースのマフラーの隙間にがぼっと手を突っ込んだ。氷みたいな手を首筋に当てられて、エースは「ぎゃあ!」と叫び声をあげる。首筋の手を振り払うと、デュースは不服そうな顔をした。
「なんだよ、せっかく温まってきたのに」
「ヒトの顔で暖を取るんじゃねーわ!」
デュースは両手を上着のポケットに突っ込むと、弾むような足取りで走り出して、地面に放り出したふたつの鞄を通り過ぎ、鏡舎のある坂道の上へとむかう。
「おいコラ、鞄は?!」
「あとはエースに任せた!」
「自分から言い出したクセにサボってんじゃねーよ!!」
叫んでも、デュースが戻ってくる気配はない。あーもう、しゃーないな。エースはずっしりと重たい鞄をふたつ、肩にかけると、坂道をえっちらおっちら歩き始める。
「ほら、行くぞ、泣き虫エース」
「ウルセー、サボり魔デュース」
坂道が終わって、鏡舎の明かりが近づいてきた頃、空からチラリと白いものが舞い始める。予報通りの雪だ。きっと、明日の朝は学園中が白く染まって、夢みたいにキレイな景色があらわれる。
テストは来週。今度は夢で終わらせるものか。
春はまだ少し遠い。
