Work Text:
吉田ヒロフミは東山コベニに興味があった。
気弱そうな彼女はいつも何かに怯えており、人馴れしない仔猫のように萎縮して、その小さな口から発せられる言葉は常に吃っている。
世間では変わった子と分類されている彼女にヒロフミが興味を持ったのは只その姿が珍しかったからだけではない。彼女が公安所属のデビルハンターだからである。
十分な栄養が行き渡っていない痩せた身体に合わないスーツを着用し、死と隣り合わせの悪魔討伐に駆り出されている姿は涙ぐましいものであり、大抵の場合彼女は怯えて隠れているだけにすぎない。然し稀に、目を疑うような身のこなしで悪魔を討伐した。その小柄な身体で、いつもの萎縮した態度で、そこからは想像がつかない程の俊敏な戦闘を見せるのだ。そんなコベニの姿を見て以来、ヒロフミは彼女を目で追うようになった。
コベニと親しくなるには一筋縄ではいかなかった。彼女は家庭の事情で忙しく、デートに誘うと断られ、一緒に帰ろうと声を掛けても断られ、茨の道かと思われた。仲良くなるどころかまともに話すこともできず困り果てたヒロフミだったが、彼女を観察していて閃いた事がある。彼女が何故忙しいのか、それは生活が厳しいからだ。ならば、その問題を解決してあげれば良い。
「あの……ご飯を奢ってくれるって……」
コベニを連れ出すことができる簡単な方法――ご飯を与えれば良いのである。
「うん。でもその前に、東山さんのこともっと知りたいな」
人気の無い裏路地へ誘ったヒロフミは、細い路地のもっと奥、雑居ビルの壁際にコベニを囲いこんだ。硬いコンクリートと背の高いヒロフミに挟まれる形となったコベニは、狼狽する黒目を泳がせて「あ、あ、」と怯えた声を漏らすしかなかった。
「別に……私のことなんて……」
「誕生日はいつ?生年月日は?」
「え、えっと……」
「二十歳って本当?こんなに小さくて、お酒は飲めるのかな」
「あ、……あ…………」
ヒロフミの大きな手がコベニの小さな頭を撫で、ゆっくりと髪を梳く。コベニは瞳を泳がせながら、震える唇で吃った音を吐いた。
「ひ、秘密…………」
「ふぅん?ここに来る前は何してたの?」
「そ、それも…………」
微かに首を横に振るコベニにヒロフミは双眸を細めた。彼の指先が細い髪を弄び、キューティクルを撫でるたびにコベニの肩がびくびく震える。
「東山さん、強いよね。前一人で大型悪魔倒してたの見たよ」
「そ、そんな……私は……」
「俺もデビルハンターは沢山見てきたけど、あんなに動ける人は滅多に居ない。どんな訓練を受けて来たんだろう」
ヒロフミの指が髪を流し、そのまま耳の輪郭に触れる。ひっ、と息を飲むコベニの反応に口角を上げながら、小さな耳輪をそっとなぞる。
「ねぇ、俺にだけ教えて」
「な、何…………」
小動物のように震える頭に近付いて、赤く染まった耳元へ唇を寄せる。
「契約悪魔は何?」
夕陽が落ち、近くの窓硝子に反射して強く光った。目を眇めた瞬間コベニの姿は忽然と消え、無機質な雑居ビルの壁だけがヒロフミの前に聳え立っている。
「ご、ごめんなさい…………私、妹のお迎えに行かなくちゃ…………」
顔を上げると、少し距離の離れた場所にコベニは立っていた。
ビルの間から射し込む眩しい夕陽を背に浴びながら、ぺこりと頭を下げると小走りで遠ざかって行ってしまう。小さくなっていくコベニの背中を、ヒロフミは真っ黒の瞳で見詰めていた。
「……逃げられちゃった」
ぱち、と瞬きをする。一瞬だった。陽射しが強まった一瞬の隙にコベニはヒロフミの前から逃れ、遠く離れた場所に避難していた。民間デビルハンターでも公安から認められる程の能力を持つヒロフミでさえ捉えられなかった動き。
悔しい――素直にそう思うと同時に、酔狂な興味が膨れ上がった。あんなに震えて、怯えて、脆弱に見えたのに、一体どうやって?いつどのようにしてヒロフミの前から逃れたのか?小さな少女への興味関心が尽きない。少女――否、ヒロフミより年上らしいのだが。
「好きな食べ物、聞きそびれちゃったな」
ふぅ、と息を吐いて誰も居ない路地を歩き出した。次会った時はどのように誘おうか、楽しさで心を躍らせながら。
「うぇ…………」
胃の中の物が逆流してくる感覚にヒロフミは眉を顰めた。咄嗟に道脇に蹲ると、排水溝の上に内容物を吐き出した。
「あ……!大丈夫……?」
気付いたコベニが駆け寄って、そうっと背中をさする。苦しげに揺れるその上を小さな手のひらが往復し、びくびくと身体が震える度に胃の中の物が地面へ吐き出されていく。
「っは…………はぁ…………っ」
「息、できる……?あ、私……水、持ってるから……」
ヒロフミが荒い呼吸を繰り返している間にコベニは鞄を漁って水の入ったペットボトルを引っ張り出した。項垂れるヒロフミは依然微かに震え、ぽたりと涎が落ちるのを宵闇の瞳に映した。
「はぁ……酷い目に遭った……」
「と、特異課の飲み会は派手だから……姫野先輩、今日はすごく楽しかったみたい」
「そう……次があったら、あの人には近付かないようにしないと、ッ……う…………」
再び肩を震わせて嘔吐するヒロフミに、コベニは慌てて背中を撫でる。
「む、無理しないで……」
「っ……ごめんね、こんな所見せて……」
「ううん……あっ、待って……」
汚れた口を手で拭おうとしたヒロフミを制して、コベニは自身のハンカチを手に持った。
「私、兄弟の体調が悪い時によく看病してたの。……だから、慣れてるんだ」
ヒロフミは瞠目した。ハンカチを持ったコベニの手が躊躇なく近付いて、ヒロフミの口元を優しく拭き取ったからだ。唇に当たる柔らかな布の感触とほのかな柔軟剤の香りが鼻先を擽る。
「なっ、何して、っ……」
「あ、まだ喋らないで……!口を閉じて……」
言われるがまま口を噤むとコベニはハンカチで汚れた箇所を丁寧に拭い、それから水の入ったペットボトルを差し出した。
「これで口濯いで」
躊躇いつつも、ヒロフミは徐にそれを受け取って水を口に含んだ。不快感が充満していた口内が綺麗な水によって濯がれ、気分が幾分かましになる。
「はぁ……ありがとう……」
「ううん…………落ち着くまで、ここで休んでようか」
近くのベンチにヒロフミを座らせながら、優しい声色でそんなことを言うコベニがヒロフミには新鮮だった。いつもはおどおどしていて、怯えていて、小動物みたいに震えている、あのコベニが――どこかお姉さんのようだからだ。
ふと、数時間前の居酒屋での光景を思い出した。コベニも何杯か飲んでいた筈だが、酔っているようにも気分が悪くなっているようにも見えなかった。
「東山さんは……平気……?」
「私?うん……平気だよ」
「君も飲んでたのに……」
「あれぐらいじゃ酔わないよ」
――あ、この子、お姉さんなんだ。
……ヒロフミは初めて、ここでコベニとの年齢差を感じた。自分は一介の高校生で、対してコベニは二十歳の公務員だ。あんな飲み会にも沢山参加して、鍛えられてきた社会人なんだ。そう思うと、背筋がゾクゾクした。これは吐き気を催すものではなく、肯定的な高揚だった。
「可愛い」
「へ……?」
「東山さん、俺よりお姉さんだね」
「そ、そう?……あっ、そうだね……貴方、私の弟と同じぐらい……」
私の弟、という言葉にヒロフミは少々不満を持った。小さなコベニが自分より年上なのは可愛いが、弟扱いされるのは違う。彼女が弟と自分を重ねてしまわないように、間髪入れずに声を発した。
「俺が二十歳になったら、最初に君とお酒を飲んでみたい」
「へ……?」
「大人の男はお酒を飲みながら女性を口説くんだよね?俺もするよ、東山さんに」
「へぇ……、…………え…………?」
「……だから、俺を子供だと思わないでね」
へ?ふぇ!?え!?!?と狼狽えながら真っ赤になるコベニを見て、ヒロフミは良い気分に浸れた。
「ハンバーグ……セット、で……」
「俺も同じもので、ドリンクバーも二つお願いします」
穏やかな談笑と流行りのポップスが流れるファミリーレストランで、ヒロフミはコベニと同じ席で食事することに成功していた。
前回飲み会で弱った姿を見せたのが効いたのか、はたまたタイミングが良かったのか……食事に誘うと素直に応じてくれ、漸くプライベートな時間を設けることができた。
コベニはというとほんの少し打ち解けた様子で、警戒心は薄まり今は恥ずかしそうにこちらを窺っている。
「あの、吉田君……ドリンクバー……いいの?」
「うん?いいよ。取ってきてあげる」
「まっ、待って!あの、あの……」
コベニは両手を合わせてもじもじと口篭っている。ヒロフミが不思議に思っていると、言いづらそうにしながらもおずおずと口を開けた。
「ドリンクバー……頼んだことないの。だから、……一緒に…………」
――一緒に行きたい、という事だ。
ヒロフミは優しく微笑んだ。年上の女性に抱く感想として間違っているかもしれないが、やはり可愛い。「いいよ、一緒に行こう」と言うと、コベニは顔を赤らめながらも嬉しそうに駆け寄った。
食事をしながら色々なことを話した。コベニの家族のこと、学生時代のこと、仕事のこと。家庭環境は複雑そうだが今のチームに入ってからは仕事の評価が上がっているようで、彼女は人の巡り合わせが良い方だと感じる。デビルハンターは大変な仕事だけど先輩や同僚は皆良い人だと、頬を綻ばせながら話す姿が好印象だった。
「あ……あの……、ご馳走様です。……ごめんね、私が年上なのに……」
「最初に奢るって言って誘ったのは俺だから。気にしないで」
店を出て、コベニが申し訳なさそうに頭を下げるのをヒロフミは穏やかに宥めた。女性を誘って会計をするのは男の役割で違いないし、ドリンクバーすら今日が初めてだと言う彼女に払わせる気は毛頭無いからだ。
とはいえ、多少罪悪感がありそうなこの瞬間はチャンスだと思った。こちらの都合良く誘導できるかもしれないし、彼女の罪悪感も払拭させられる。駅の方向を探すコベニの思考を遮るようにして提案した。
「今から少し時間ある?」
「ふぇ?……えっと……」
「門限には間に合わせるからさ、少し寄り道して行こうよ。……デザート代も兼ねて」
そう言うと、コベニは頬を赤らめて暫し躊躇ったあと間もなく頷いた。ハンバーグセットを間食した後、ちゃっかりデザートまで頼んでいたからだ。……勿論、ヒロフミの提案があったからだが。
夜の遊び方なんて言っても、ヒロフミは高校生なので年相応の知識しかない。カラオケか、ボウリングか、映画か…………素早く頭を巡らせたヒロフミは、何でも置いてあるゲームセンターに向かうことにした。
「東山さんこれ知ってる?」
「し……知らない。たぬき……?」
「これは?」
「なんだろう……」
そしてまた苦戦した。有名なキャラクターを知らないコベニはクレーンゲームの中にあるぬいぐるみを見て欲しがることはなく、可愛い、と喜ぶもののそれ止まりだった。東山家のテレビの有無を疑っていると、コベニが「あ!」と声を上げる。
「吉田君、これ知ってるよ!」
「これ何?」
「小型ゲームなんだけど……学校で流行ってるみたいで、妹が好きなの」
「東山さんは好き?」
「私も……可愛いと思う」
「どの子が可愛いの?」
「えっと、あの子が……」
硝子板の向こうを整えられた桜色の爪が指差す。コベニの視線の先には黄色い兎のようなぬいぐるみがあり、ヒロフミはそれを確認した後再びコベニの元に視線を戻した。
「あの子が好き?」
「あっ……う、うん。好き……」
そう言いながら視線を上げたコベニは、思いのほか至近距離でこちらを見ていたヒロフミに盛大に赤面した。ヒロフミはというとそんなコベニの反応に満足して微笑んだ。途中からコベニに「好き」と言わせたくて尋問した成果が出たからだった。
「取ってあげるよ。今日付き合ってくれたお礼」
「えっ!?わ、悪いよ。だってこれ凄く難しそう……」
慌てるコベニを無視して小銭を入れるヒロフミに、コベニは更に狼狽した。ご飯を奢ってくれて、ドリンクバーも付けてくれて、デザートも追加させてくれて、さらにぬいぐるみまで?焦りで手のひらに薄く汗が滲んだ。
「どうしよう、私が何かお返しできるものがあるかな……」
箱の中のクレーンは兎の耳を掠って何も掴むことなく戻って来たが、ヒロフミは顔色を変えずに返事した。
「これ取れたら、下の名前で呼んでいい?」
「え?」
「東山さんじゃなくて」
クレーンは兎の足を掠って、また空気を掴む。
「コベニちゃん、袋持ってきたよ」
「あ、ありがとう……」
小さな顔を赤らめて兎のぬいぐるみを抱くコベニにヒロフミは景品を持ち帰る用の袋を差し出した。結局――あれからヒロフミは取ることができず、二十回目でコベニに操縦を任せるとあっさり獲得に成功した。自分で取った訳じゃないけど、"俺が"取ったらとは言っていないし良いか。コベニはそれよりもぬいぐるみを獲得できた高揚感でいっぱいのようだった。
「あ、ありがとう……こんな大きなぬいぐるみ、初めてで……」
「取ったのはコベニちゃんだからね。俺は何もしてないよ」
コベニは大きな目を恥ずかしそうに伏せ、小さな唇に弧を描いて控えめに頷いた。……可愛い。この程度ならゲームに使った二千円は端金に過ぎない。駅まで送って、改札で別れる前にコベニがおずおずと言葉を繰り出した。
「あの……ありがとう。今日……こんなに楽しい日、初めてで……」
「俺も楽しかったよ。同じ気持ちで良かった」
……あ、帰したくない。
そう思った。しかし思い留まった。いくら脈が期待できそうでも、彼女は小動物だ。しかもただの小動物じゃない、逃げ足が尋常ではない位速い身体能力の秀でた小動物だ。「俺の家猫飼ってるんだよね」と言うか「気を付けて帰ってね」と言うか、真剣に悩んで選択した。
「……コベニちゃん」
「うん?」
「…………また、誘ってもいい?」
低く静かな声で訊ねられた言葉に、コベニは一度瞬きをして、頬を赤らめて、それから恥ずかしそうに頷いた。
「……うん」
ヒロフミは微笑んで手を振った。コベニは何度もお辞儀をして、小走りで改札を通ろうとして切符を弾かれて、慌てて再投入してホームへ走って行った。
暫しの間、ヒロフミは一般的な高校生の日常に戻っていた。大きな悪魔の出現が無いとデビルハンターとして呼ばれることも無いため、勉強したりサボったり、特に面白味のない平凡な日々を過ごしていたのだった。
教師の声をBGMにしながら、ふとコベニは今何しているのかと考える瞬間があった。悪魔が出ないということは特異課も平和である。また小さいミスで慌ててないといいけど……。眠気を噛み殺しながらそんなことを考えた。勉強は要点を抑えれば点数を落とすことは無いので、授業は適当に出席していれば十分だった。
そんな平凡な時には平凡なイベントが起こるものだ。公安が講習会を開くという通達が、各民間組織へ届いたのだ。内容は悪魔討伐の基礎知識みたいなもので、ただでさえ日中は学校に監禁されているのに放課後も机に向かうのは億劫だったが、公安に行けばコベニに会えると思いヒロフミは渋々参加する事にした。
東京本部の立派なビルには複数の部署と機関が入り組むように存在している。
厳重なセキュリティを抜け長い廊下を歩き、指定された一室に入ったヒロフミは、やがてホワイトボードの前で新人と思しき青年が講習を始めるのをぼんやりと眺めた。
「えー……悪魔とは、人間の恐怖を起点としています。恐怖が強いほど、悪魔の力も比例して強くなる……」
青年がホワイトボードにさらさらと文字を書き込んでいく。真新しいスーツの袖からOMEGAの時計が覗き、短く整えられた黒髪はそのまま就活の冊子に載れそうなほど模範的だ。
外見から推測するに年齢は二十代前半、大学を出てから就職したのだろうか。それとも民間からの引き抜きで?……そんなことを考える内に、ヒロフミは自分自身の将来について想像するに至った。
進路希望は白紙で出した。とりあえず大学に行って、卒業したらその後は?……何も想像出来なかった。デビルハンターを長く続ける気は無いけれど、一般企業に就職する気も起きない。今目の前で国が保証する大企業に勤めている正社員を見ても、将来自分がその枠に収まるなんて考えられなかった。
この男性はどんな気持ちでここに立っているんだろう?親を安心させたい、結婚して家族を持ちたい、そんな夢を抱いて職務に就いているのだろうか?ヒロフミは夢を抱いた事がなかった。夢を抱くには信仰力が必要で、さらにそれは生きている者だけの特権だ。
ヒロフミがデビルハンターを続けている理由は、いつ死んでも良かったからだった。
完全撤収は21時を過ぎた。晴れて自由の身となったヒロフミは、帰路に向かう他の参加者とは真逆の方向へ進み、対魔特異課のフロアへ向かった。
もう帰っていてもおかしくない時間帯だ。でも、もしかしたら残業しているかもしれないし……。淡い期待を込めて蛍光灯が照らす夜の廊下を進み、"4課"のプレートが掲げられたドアノブを捻る。
扉を開けると無人だった。
各々のデスクには書類が積まれていて、デスクによっては空のペットボトルやコーヒーの空き缶がゴミ箱に捨てられず置き去りにされている。ファイルが詰め込まれた棚の隣にはパトロール区域が書き込まれたホワイトボードがあり、まるでついさっきまで人が居たような痕跡があった。
「……誰かいますか?」
ヒロフミが声を掛けると、反応は早かった。奥の方でバタバタと慌てる物音がして、少ししてからそうっと声が返ってくる。
「よ、吉田君……?」
物陰に隠れて見えなかったが、おずおずと出てきたのはコベニだった。こんな夜遅くでも相変わらず可愛いと感心しながら、事務室に一人でいる状況に疑問を抱く。
「何してるの?」
「わ、私は、仕事……だけど、吉田君は……」
コベニ一人なのを良いことにヒロフミは遠慮なく中へ入り、椅子を引いてコベニの隣に腰を下ろした。コベニはデスクに印刷した報告書を広げていて、隣に座ったヒロフミへ驚いたように双眸を開けた。
「講習があったんだ。最近大きな悪魔が出ないからだね」
「あ、あ……そうだったんだ。確かに……掲示板で見たかも……」
「うん。こんなに遅くなるとは思わなかったけど……コベニちゃんに会えたから良かったかな」
コベニは一瞬固まった。疲労の溜まった黒い瞳がぽかんとヒロフミを見ていて、何拍か無言の時間が過ぎ、それからゆっくりと白い頬が赤く染まり始めた。
「え……?……え……?」
「講習会なんて建前で、本当はコベニちゃんに会いに来たんだ。ここの所公安に来る予定がなかったし」
「あ、会いに……!?」
「遊びたい盛りの高校生が、こんな真面目な会に正当な理由で参加するわけないでしょ」
夜に蔭って生気のなかった白い頬が赤く色付き火照っていく。林檎のようになりながら、「あ、あの」「えっと……」を口先で繰り返している。
ヒロフミはその様子が好ましかった。以前と比べて避けられなくなったし、明確に距離が縮まっている。嬉しさに微笑しながら密やかに椅子を近付けた。
「手伝うよ」
「ひぇ!?」
「俺ができる範疇のものがあれば」
先程までは恥じらいで慌てていたコベニが、今は違う種類の慌てふためきに変わった。もしかして社外秘文書?そう聞くと、コベニは大きな黒目をおろおろと泳がせながら首を左右に振った。
「ち……ちが、違うの……」
「触ると不味いなら、飲み物でも買ってこようかな」
「あっ……ま、待って!」
ヒロフミを引き止めてからも、コベニはばつが悪いように口篭った。「これは違くて……」「手伝わなくても……」等等、もごもごと転がした後ぽつりと呟く。
「これ……これ、本当は今やらなくてもいいの。本当は……帰れるの……」
躊躇いがちに押し出される言葉を聞いて、ヒロフミはコベニのデスクにある書類を見遣った。印刷された報告書には所々に鉛筆で書き込んだ跡があり、それも何度も書いては消してを繰り返していたようだった。
「……帰らないの?」
コベニは口を引き結んだ。長い睫毛が伏せられ、両手が僅かに震えている。
「……帰りたくないの?」
冷たい事務室に静寂が流れる。物音は無く、窓の外から遠くでバイクが走り去る音が微かに聞こえていた。
帰宅したヒロフミは制服の上着を脱いでハンガーに掛けると、手を洗ってキッチンに入り棚からマグカップとドリップバッグを取り出した。ポットから湯を注いで簡易的なコーヒーを作り、テーブルに置いて鞄を開ける。中から課題のプリントを取り出すと、ペンを持って取り掛かり始めた。
ヒロフミの自宅は都内にあるマンションの一室で、デビルハンターで稼げるようになってからその命と引き換えに得たのがこの自由だった。
築5年の1LDK、駅徒歩十分の好立地。一人で住むには有り余る広さの家だった。もう一人ここに居たって不便でない程の。
「あ……あの……吉田君…………」
ふわりとシャンプーの匂いが漂い、温かな湯気を纏ったコベニがおずおずとリビングに現れた。
寝間着用に貸したヒロフミの服が小柄な身体を大きく覆い、服に着られているような姿になっている。
「お風呂、ありがとう……。あ、あの、服、裾がすっちゃって……」
「大きいよね。下折るね」
コベニの前まで歩み寄ったヒロフミは屈んで膝をつくと、細い足首を覆うズボンの裾を丁寧に折り上げた。
立ち上がって見下ろすと、髪をおろした珍しい姿のコベニが、恥ずかしそうに見上げてきたり目を逸らしたりしている。
……可愛い。
胸中の声が表に出そうになって、耐えて、微笑む程度に留めておいた。
コベニがヒロフミ宅に居る理由は明白で、彼女が家に帰りたくないためだけに余計な残業をしていたからである。
毎日こうではないらしいが、帰りたくない日があるとわざと深夜まで残って、家族が寝静まった頃合に帰ると言う。
ヒロフミは難色を示した。いくらデビルハンターといえど二十歳の女性がそんな時間まで外に居るのは問題があるし、悪魔じゃなくても変質者に襲われるかもしれない。
様子を見るにコベニは会社に拘って居るわけではなく家に帰らない口実があれば何でもいいようだったので、それならちょうど一人暮らししてる俺の家で寝て行けばいいよ。……そんな経緯だった。
自分とコベニの衣服を洗濯乾燥機に回して、シャワーを終えてリビングに戻るとコベニは最後に見た位置と全く同じ場所で立ち竦んでいた。
「座らないの?」
「へっ!?いいの……!?」
「お客さん招いて、座らせないほど極悪人じゃないよ、俺は」
右手を差し出すと不安そうな表情で疑問符を浮かべるだけなので、軽く笑って左手を取った。緊張しているのかうっすらと手のひらに汗が滲んでいた。
「ひゃあ!?」
「ソファへどうぞ」
優しくファブリックソファへ誘導して座らせると、コベニは小さな身体をさらに縮こませて遠慮がちに座っていた。隣に座るとさらに縮こまって、極力自分の面積を狭めようとしているようだった。
「あ、お、お気遣いなく……わ、私、床で寝ますから…………」
「床?なんで?」
「悪いので…………」
ヒロフミは無言で観察した。ほのかに頬を赤らめながらも気まずさが全面に出ている顔だった。びくびくと肩を強ばらせているコベニに対して、穏やかに声を掛ける。
「駄目」
「えっ!?」
「女の子を床に放置するなんて、酷いことはできないよ」
コベニは困ったように眉を下げながら、「わ、私、大丈夫だから……」と呟いている。君が大丈夫でも俺が大丈夫じゃないんだけど……と思いながらヒロフミはコベニを見つめた。小さく震える睫毛の先がそっと持ち上がった。
「俺を酷い男にするつもり?」
そう言ってみると、コベニは酷く狼狽えた。
「ち、ちが……!でも、吉田君は寝ないと……」
「コベニちゃんも寝ないといけないよ。俺がここで寝るから、君はベッドで寝て」
「だ、駄目だよ、そんなの!」
ヒロフミとコベニはお互い譲らなかった。お互いが相手にベッドを使って欲しいと主張し、押し問答が続き、考えあぐねたヒロフミがぽつりと呟いた。
「じゃあ、一緒に寝る?」
「……へっ?」
コベニは大きな目を開けたまま今聞こえた言葉の処理を脳内で必死に行った。いっしょに……何?いっしょに、ねる?どういう意味だろう?……聞こえているのは日本語の筈なのに意味が理解できず呆然としているコベニにヒロフミは優しく笑い掛ける。
「俺のベッド広いから、コベニちゃんのサイズだったら大丈夫だと思うよ」
「えっ、えっ!?」
立ち上がったヒロフミがコベニの手を取ってついて来るように促した。廊下を通って寝室に向かう間、コベニの小さな手が汗ばんでいくのが触れた手のひらから伝わってくる。落ち着いた間接照明が仄かに照らす寝室にコベニを案内すると、ダブルサイズ程あるベッドの縁に彼女をそっと座らせた。
「君はここで寝てもらう」
「えっ、あっ、でも……」
「俺は床でもいいし、コベニちゃんが望むならここで寝てもいいよ」
萎縮して小さくなっているコベニの肩へ手を添える。押し倒すと簡単に倒れてしまう小さな身体にヒロフミは笑みを零した。
「無防備だね」
「っ、あ…………」
「新人と言えど、市民を守る公安職員なのに」
指先で肩をなぞってみるとびくりと震えて、繊細な仔猫のような瞳には涙が滲んだ。……なんだろう。この子を気遣ってあげたいのに、虐めてみたい気分になる。ヒロフミは自分に呆れると、ベッドから降りてクローゼットを開けた。未だに戸惑った様子のコベニに笑い掛けると、手に持ったネクタイを渡す。
「怖がらせてごめんね」
「これは……?」
「これで俺の両手を縛って」
コベニは驚いて飛び起きた。「ええええ!?」と叫ぶ彼女にヒロフミは穏やかな表情を変えず続ける。
「君の安全は保証したいから」
「でも……」
「縛らないなら俺はここから出て行って床で寝ることになる。君が選んで」
コベニは暫く悩んでいた。「でも、こんなこと」と迷うコベニに「俺は男だよ」と返すと申し訳なさそうに口を噤んだ。そうして考え抜いた後、コベニはおずおずと顔を上げた。
「じゃ……じゃあ、吉田君…………手を後ろにして、背中を向けて」
言う通りに従うヒロフミにコベニの震える手が触れた。合わさった手首へ黒いネクタイを巻いて、痛くないように緩く結ぶ。
「で……できたよ」
「ありがとう」
ベッドに入ると、コベニは今の状況の全てに罪悪感が押し寄せて来た。そもそも、どうして吉田君の家に来ちゃったんだろう?私の都合に付き合わせて、優しさに甘えて、凄い迷惑を掛けているんじゃないかな?私が床で寝るべきなのに、でも床で寝たら吉田君が気を使うし、不便な思いまでさせて……。
背を向け合って寝ているためお互い表情は分からなかったが、コベニは何度目かの謝罪をした。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの?」
「吉田君に、迷惑を掛けてるから……」
しんとした静寂が室内に流れ込んだ。静かな暗闇にコベニが身を小さくしていると、背後から穏やかな低音が聞こえてくる。
「コベニちゃんは、嫌だった?」
「い、嫌、じゃないけど…………」
「嬉しかった?」
「………………」
コベニは黙った。嫌か嬉しいか、正直な気持ちは後者だ。でも罪悪感が勝ってしまう。私が快適になるために他人を犠牲にするのは悪いことだ。悪いことをしているから謝らないといけない。そんな思考がぐるぐる巡った。再びヒロフミが声を掛けた。
「もし嬉しいと思ってくれてるなら、一度ありがとうって言ってみて」
「……あ、…………ありがとう…………」
素直に口に出すと、くすくすと柔らかな笑い声が聞こえた。恐る恐る振り向いてみると、ヒロフミの笑う横顔が見えた。コベニが振り向いたのに気付いて、穏やかに視線を向ける。
「俺が提案したんだから、君は謝る必要ないんだよ」
「そ、そうかな…………」
「本当はありがとうが聞きたかったんだ。結果的に言わせる形になっちゃったね」
それを聞いた瞬間、コベニは違う種類の焦りが押し寄せて来た。選択を間違えた。吉田君が求めてた言葉はありがとうだったのに、間違えてごめんなさいと言っていたんだ……。慌てて「ごめんなさい」と口に出した。癖になった謝罪を自分の声で自覚して、またパニックに陥った。
「あ、私、その…………慣れてなくて…………」
「うん?」
「親切にされることに、慣れてなくて…………どうすればいいか分からないの。私、何も持ってないから、返せるものがないし…………申し訳なく思っちゃって…………」
コベニはしてもらったことに対するお礼を一生懸命考えてみたが、お金も無く特技もない自分にできることは何一つ思い付かなかった。ヒロフミは思考を巡らせるように天井を見上げた後、コベニの方を見て穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、また俺とデートして」
「え?」
思いもよらぬ言葉が飛んできてきょとんとするコベニに、ヒロフミは楽しげに続ける。
「コベニちゃんとデートした時、楽しかったから。また遊びたいな」
「え、……あ…………」
「叶えられるのはコベニちゃんだけだよ。……俺のお願い、叶えてくれる?」
コベニは白い頬を赤く染めながら、小さく頷いた。正直な所、自分と居て楽しいなんて信じられなかったし、本当にそれがお礼になるのか、与えて貰った施しに見合うお返しなのかは定かではなかったが、自分にできることは何でもするつもりで頷いた。承諾を確認したヒロフミは綺麗な双眸を細めて優しく微笑んだ。
「約束」
コベニはその晩、珍しく安心して眠れたような気がした。無限にまとわりつく罪悪感が不思議と軽くなり、優しさを享受してもいいような気持ちになれたからだった。
暗闇の中、眠りに落ちた小さな姿を暫く眺めていたヒロフミは、自身もやおらに目を閉じた。
悪魔の出ない静かな夜だった。
