Work Text:
グレースが一番最初に言った〝生活上の要望〟あるいは〝極めて個人的な我儘〟は、「きみが船で使っていたボールが欲しい」というものだった。
エリドに辿り着き、様々な身体上の問題を乗り越えて、これなら医療エリディアンのチームやラボから離れても大丈夫だろうとドームの中の家に案内された数日後のことだった。
グレースはその時点で充分すぎるほどのものを貰っていることをよく分かっていた。自分が息をすることのできる大気だけでもありがたいものだったのに、その上で家を、砂浜を、海を、なんと空まで! 貰ってしまっている。物語の中のどんなおひめさまよりも貰いすぎてるんじゃと思ってしまうぐらいのものを与えられて、初めの頃は「ひょっとしてこれって夢だったりする?」「ちょっと頬を抓ってもらえない?」なんて言ってロッキーを困らせてしまっていた。
もちろん、ものすごく嬉しい。彼が――彼らが自分ひとりのためだけに時間をかけて用意してくれた何もかもが嬉しくて堪らなかったし、うっかり自分には過ぎたものなんじゃ、なんて言ってしまった日には丸一日掛けてロッキーにこれだけではまだ足りないということを言い聞かされていたから、今ではまっすぐに享受することだって出来ている。まったくわかってないな、とでも言いたげなロッキーの〝言い聞かせ〟はほとんど講義のようだった。
ロッキー先生の授業はまた聞いてみたいなと思ったのはグレースだけの秘密である。なんせあの時のロッキーは見たこともないぐらいに憤慨していた。どうやらロッキーは、どうしてかグレースの自分自身への扱いを快く思わないらしかった。
それに関しては彼が高く見積もりすぎてるような気がするけど、と思いながら、彼が譲ってくれたキセノナイト・ボールを見つめる。かつてヘイル・メアリー号の中でごとごとと音を立てていた透明のボールは、今はグレースのベッドのそばにぽつんと置かれていた。
わけもなく郷愁に駆られて、ボールに手のひらを押し当てる。空っぽのボールは、彼と過ごした長い時間と同時にひとりきりで麦の穂の映像を眺めた時間を思わせた。熱を感じないキセノナイトに小さく笑う。何も無い空間が彼が生きていて良かったという当たり前のことを改めて思い知らせてくれていた。
小さく息を零して手を離す。彼が来るよりも先に朝食を済ませてしまおうと振り向きかけて、かたんと揺れたボールに視線を戻した。
手を離す時に動いてしまったらしいボールを元に戻そうと両手で触れる。なんとはなしに膝をついて、ふと中から見た景色が気になって顔を寄せた。
グレースの部屋にボールがやってきた時、中にはスーツを着たロッキーが入っていた。どんどんとノックされた大きな音と『やあ』と肢を上げた彼を思い出してつい笑ってしまう。メアリー号にやってきた時と同じ調子でボールを転がした彼は、がたごとと音を立ててベッドルームにやって来ると『ぼくのベッドは?』と尋ねた。
本当にあれば良かったのにと思いながら、開きっぱなしになった出入り口の中を覗き込む。いくつも繋げられた三角形に目を細めて身を乗り出した。外からはいくらか小さく見えたボールは、身体を曲げてしまえばなんとかグレースでも入ることが出来そうだった。
入ったら身動きは取れなくなりそうだな、と思いながら、そのままそっと体重を掛ける。ロッキーの作ったものだから壊れることは心配していなかった。身体を傾け、脚を折り曲げて、膝を抱えるように小さくなってボールの中に入り込む。凭れたキセノナイトに頭を預けて小さく息を吐いた。ロッキーのいたボールの中は、不思議とグレースを落ち着かせてくれていた。
ぶつかってずれた眼鏡にもかまわず、ゆっくりと瞬きをして欠伸を零す。ロッキーが来る前に朝食を済ませてしまいたかったのに、とてつもない眠気に襲われていた。少しだけ、十秒だけ目を閉じよう、と自分に言い聞かせて身体の力を抜く。ロッキーに囲まれたようなボールの中は、やっぱり居心地が良かった。
グレースが目を開いたのは、たぶん、それからすぐ――ではなかった。
瞬きをした瞬間に目に飛び込んできたブラウンの身体に「わあ!?」と悲鳴をあげる。
いつの間にかやってきていたロッキーは、甲羅の一面をグレースの鼻の先に寄せて座っていた。
『グレース!』
ごつ、とぶつかった頭に、すぐ目の前にいたロッキーが驚いたように飛び上がる。「ごめん」「大丈夫」と涙の滲んだ目で彼を見ると、ロッキーは宙で肢をさまよわせてそっとボール越しに額に触れた。
「ロッキー?」
『すまない。驚かせるつもりはなかった』
「あー……いいよ。確かにちょっとびっくりしたけど。見守ってくれてたんだろ?」
『…………』
「ロッキー?」
『それも、ある』
「それ以外にあんなに近くで見てた理由が……?」
グレースが目を覚ました時、ロッキーは本当に、それはもう、ものすごく近くにいた。ボールやスーツが無ければ彼の甲羅に額が触れそうだったぐらい、もっと言えば、キセノナイト同士がくっついていたぐらいに。
ボールの中で丸くなったまま、彼を見つめてぱちぱちと瞬く。片手で落ちかけていた眼鏡を戻して上目に覗き込んだ。
ロッキーはどこか気まずげに甲羅を逸らしていた。ちら、とこちらに向けてはグレースの顔のそばに上げられていた鉤爪の開閉が繰り返される。なにか言いたげであるようにも見えたし、ひどく大きな、堪えきれない衝動をやり過ごそうとしているようにも見えた。
「もしかして、勝手に入ったらまずかった? 悪かったよ。たぶん寝過ごしてるよな。それもごめん。こう、なんて言うか……居心地がよくて。つい」
『……居心地が良かった?』
「あ、ああ。きみの作ったものはやっぱりすごいな。揺り籠みたいだ」
飛び上がって高い音を零した彼が、興奮したように激しく甲羅を鳴らす。開かれた鉤爪がキセノナイトの壁越しにグレースの頬をなぞった。「うん?」と首を傾げて、自分からも彼の肢へと顔を寄せる。ぺっとりと預けられた頬が透明の壁に押し潰された。
何度か繰り返しボールの表面をなぞった彼が、ほうと息をこぼしたように甲羅を鳴らす。ロッキーの鉤爪がぶつかる度にかつかつと音が聞こえた。やっぱり相当まずかったのかと眉を下げる。怒っているようではなかったけれど、彼らの文化からすると気分を害するようなことをしてしまったのかもしれなかった。
「ごめん、すぐに出て――」
『グレース! もう少しいてほしい!』
「わ、分かった」
『……ここを閉めてもかまわない?』
「ああ」
『酸素は充分に……グレース、話を聞いてから決めるべきだ』
「でもきみが言うことだろ。大丈夫だって」
『……きみの身体や文化について充分な知識が無い可能性がある』
「あー……そうか、それもそうだな。気をつけるよ」
こつこつと肢を鳴らして言った彼に、でもきみが言うことだしなあ、と思いながら頷く。グレースの考えていたことなんてお見通しだったらしく、ロッキーは何か言いたげに肢を揺らしてから甲羅を下げた。あえて言葉にするのなら、〝まったく〟〝この人間は〟とでもいうようだった。
「それで? 閉めるって?」
『ボールの出入り口を……少しの間だけ。酸素は充分にあるはず』
「ああ、大丈夫だと思う。足もはみ出してないみたいだし」
どうしてそんなことをするのだろうと思いながらもこくこくと頷く。膝を抱えて身体を丸め、いっそう小さくなって「どうぞ」と囁くと、ロッキーは痺れたように身体を震わせてボールに触れた。
ぱちんと閉じられたボールの中で彼を見つめる。
じっと見つめ返すように甲羅を傾けていたロッキーは、やがて大きく身体を揺らすとボールの上へと這い登った。
ボールごとグレースの身体を包み込むように囲った肢を見上げて、小さくなったまま欠伸を零す。「ごめん、やっぱり居心地がよくって」と眠気の言い訳をして凭れると、グレースの上に覆い被さった彼がたまらないような音を漏らした。
『グレース、きみは……そういう、きみは……!』
「え、う、うん……? まずいことを言った?」
『非常にまずいことを言った』
「ごめん! もしかしてものすごく悪い意味だったりする?」
『……ある意味では』
「つまり?」
『……きみはぼくの作ったものの中で眠った。この巣の居心地が良いと……すべてを預けるように』
「あー、どう言えば良いか……安心感がものすごくて。きみが作ったものだと思うとなあ」
『それがまずい! 絶対に他のエリディアンには言わないでほしい』
「……そんなに?」
『そんなに。きみたちの文化で言うのなら、〝わたしを食べて♡〟』
「どこで覚えたんだそんな表現!」
『五百四時間前に観た映画』
「あ、ああ〜っ! ムービー・ナイトで連続再生した映画……! そんな台詞あったか!?」
『あった。非常にロマンチック』
「ろ、ろまんちっく……」
『懇願、性的表現、産卵の了承、おねだり』
「本当にごめん! もう絶対にしない!」
『よい。ぼく以外の前では絶対にしないで』
「……うん?」
『ぼくの作ったものならよい』
はっきりと言い切ったロッキーが、ボールを囲む肢に力を込める。僅かに軋んだ音にぞくぞくとしたものを感じて甲羅を見つめた。
いくつかの聞き取れない音を零した彼が、『きみがぼくのものであるように感じる』と声を震わせる。今の状況は、彼らにとって――もしくは、彼にとって、とくべつ興奮するものであるらしかった。
失礼なことでなかったのなら良かったよと透明の壁に頭を預ける。キセノナイト越しに見える肢をこつこつとつつくと、ロッキーは激しく甲羅を鳴らしてからそっとつつき返してくれた。
しばらくの間そうして凭れて、ボール越しにつつきあってじゃれあう。立場自体は反対だったけれど、些細なやりとりはなんだか船の中みたいだった。
懐かしさを抱きながら欠伸を零す。
ボールの上で伸び上がったロッキーが、転がるように降りて出入り口を開けてくれた。〝居心地が良い〟よりも、実際に眠ってしまう方がもっとまずいらしかった。
縮めていた身体を伸ばすようにボールの外に這い出る。
しばらくの間触れ合えていなかった熱がなんだか寂しくて、ハグがしたいと両手を広げた。
グレースの膝の間へとやってきた彼を強く抱き締める。どれだけ力を込めたところで、キセノナイトのスーツはちっとも軋みもしなかった。
『グレース、どうして中に?』
「……それはまあ、良いんじゃないか?」
『よくない。ぼくは知りたい』
「…………」
『グレース? そもそもきみはどうしてボールを?』
「…………あー……うん……まあ……その……」
『グレース?』
「寂しかったんだよ!」
ワ、と叫んで、熱くなった顔を伏せる。黙っていることだって出来たはずなのに、ハグをしたまま不思議そうに甲羅を傾けた彼の前ではどんな誤魔化しも思い浮かばなかった。
せめて顔だけでも隠せるようにと頬をスーツに押し付けて逸らす。もちろん彼の前では全く意味がないことは分かっていた。ぽかぽかと伝わる熱を感じながら、逸らした視線の先のボールを見つめる。言うつもりなんてなかったのに、一度零してしまったらもう止まらなかった。
初めの夜はなんともなかったこと。
ひとりになるのは随分久しぶりだな、なんて思って、自分の為だけに作られた家に満足していたはずだったこと。
それなのにたった数日で落ち着かなくなったこと。
船にいた頃は眠る時にずっと彼が見守ってくれていたからだと気付いたこと。
眠れなくなったこと。
せめてあの頃ロッキーが使っていたボールがあれば多少は紛れるんじゃないかと思ったこと。
そのはずなのに、見ているうちに寂しさが込み上げてきて、触れずにはいられなかったこと。
彼のつくったものの中にいれば寂しさが紛れたこと。
そんな、みっともない我儘のようなことを喚いてから唇を閉ざした。
恥ずかしくてたまらなかった。
頬をくっつけたまま待ってみても、ロッキーは何も言わなかった。つい焦れてしまって唇を尖らせる。言い訳のように「だから、まあ、ボールがあれば大丈夫だ」と続けると、ロッキーは慌てたように身体を揺らしてグレースの肩を掴んだ。
顔を確認するように引き剥がされてぽかんと目を丸くする。そんな必要もないのに、ロッキーはグレースに合わせたように甲羅を傾けた。きみなら表情だって聞こえてただろと首を傾げる。そのはずなのに、どうしてかロッキーはグレースの方へと甲羅を寄せたかったらしかった。
『きみは、寂しかった?』
「あー……うん、まあ……そういうことになる」
『どうしてぼくに言わない!』
「きみにだって生活があるだろ!」
『きみはぼくの生活の一部!』
「それは……っ、え? そうなの?」
『そう。当然、そう。きみはぼくの生活の一部。知らない事があるのは嫌だ』
「うーん……? そういうものなのか……?」
『そういうもの。きみに分かりやすく、ものすごく分かりやすく言うのなら、ぼくはきみの不調を絶対に聴き逃したくない。きみがひとりで苦しむのが嫌だ』
「ええと……もしかして僕の管理ってきみの仕事の一部だったりする?」
『……ぼくは愚か。これ以上分かりやすく言う必要があるとは思わなかった』
「きみは充分わかりやすく言ってくれたと思うけど」
首を傾げたグレースに、もどかしげに彼が肢を鳴らす。どうも言いたいことが上手く伝えられずにいるようだった。
『……よい。少しずつ分からせる。きみに伝える』
「お、おお、うん、わかった。教えてくれよ」
『ぼくに任せて。どれだけ時間をかけてでも、やる』
なにかものすごく大変な一大プロジェクトを抱えたような彼が決意の声をあげる。きみでもそんなに難しいことがあるんだな、と思いながら、つられて真剣な顔で頷いた。ロッキーの甲羅がかぽこぽと激しく音を響かせる。ため息のような音を零した彼は、もどかしげに甲羅を上下させてからグレースの背を強く抱いた。
『きみが眠るのを見守りに来る。可能な限り毎日』
「嬉しいけど、大変だろ」
『全く大変ではない。全然。これっぽっちも』
「そういうもの?」
『そういうもの』
へえ、と頷いて、あたたかなスーツに凭れる。
とんとんと優しくグレースの背をなぞった彼は、ベッドの横に転がったままだったボールを指して鉤爪を開いた。
『ボールを改良する。閉めてしまってもきみが息を出来るように』
「……中に入るのはまずいんじゃ?」
『ぼくの作ったものならよいと言った。ぼくは嬉しい。きみにしてほしい』
「……〝わたしを食べて♡〟?」
つまりこれのことだよな、と思いながら囁いた言葉に、ロッキーがこっくりとわざとらしく大仰に甲羅を揺らす。随分慣れたらしい彼のジョークに声を上げて笑った。
くすくすと丸めた背中を彼の肢が支える。
ああもう、と涙を拭ってから親指を立てて、下向きに立てられた鉤爪に目を細めた。
そもそもこの家自体がきみの作ったものだろ、と胸の内で呟く。初めからグレースは彼の作ったものの中に居たけれど、ロッキーは未だそれには気付いていないようだった。
彼が気付くまで何回でもどれほどこの家の住み心地が良いか伝えてやろうと悪戯を企んで頬を緩める。
それがどれほど〝まずい〟ことなのか全く気付かずに、グレースは大きく欠伸を零した。
胸の上に手を乗せて眠った、あの夜のさみしさはもう感じずに済みそうだった。
