Chapter Text
「もう一人は?」とレイチェルは意外そうに言った。
ブロンコは指定の時刻ちょうどに彼女のオフィスに到着したところだった。
「まだ来てないんですか」と彼は聞き返した。
「まだよ」と彼女は言い、オフィスの奥まった一角にブロンコを通した。
彼はいつも座っている側の椅子に腰を下ろし、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。シドからの新着メッセージは届いていなかった。
やがてコーヒーの香りが漂ってきた。手ずからコーヒーを淹れるのが彼のボスの趣味なのだ。レイチェルはブロンコの向かいのソファに腰掛けると、両手に持ったカップのうち一つを彼に差し出した。彼は深く沈ませすぎていた身体をいくらか起こしてそれを受け取った。
「結婚しないの?」と突然彼女が言った。
「は?」と彼は言った。
「結婚しないの?」と彼女は繰り返した。
ブロンコは無意識にオフィス中央のテーブルを囲む、合法的な仕事に従事する者たちを見やった。その手の質問は彼らにこそ相応しいと思ったからだ。
しかしレイチェルは鋭い視線を彼の上に据え続けた。納得する答えが得られるまでそれが逸らされることはないと、ブロンコは短くはない付き合いから知っていた。
「生憎ですがボス、俺にはそんな相手を見つける暇など――」
「あなたたちよ」彼女はぴしゃりと言った。「わたしが言っているのは、あなたとシドニーのこと」
「ははあ」と彼は言い、無駄と知りつつ「どうして俺たちが?」と訊いた。
「ニューヨークで同性婚が可能となったのはもう十五年も前の話だけれど?」
彼は長い睫毛を瞬かせた。彼女は艶のある黒髪を揺らして続けた。
「ちなみにイギリスで可能となったのは二〇一四年。いずれにしても十年は経っている」
ブロンコは努力してため息をこらえながら、まだ熱いコーヒーを口に含んだ。実のところ、彼がシドのことを冗談交じりに〝夫〟と呼び出したのはその頃からだった。
「簡単なことでしょ」と彼女は言って赤い唇の両端を引き上げた。「身分証明書を持って役所に行く。婚姻許可証を申請する。証人を一人調達する。執行人の元にいく。婚姻証明書を受け取る。相手が外国人であっても同じ、それで全てが終わる。面倒がっている時間の方がよっぽど長い」
「そういうのはボスの業務の範囲外じゃないですか?」
「シドを愛しているんじゃないの?」
「トップシークレットですよ」と彼は雇い主に微笑みかけた。しかし彼女がさっと笑みを引っ込めたので、やり方を変えることにした。「俺たちが婚姻関係を結んだら、いったいどんなメリットがあるんでしょうか」
「そうねえ」彼女は初めてコーヒーに口を付けた。「まず第一に、あなたたちが家族として扱われるようになる」
「それは例えば、病院とかそういうところで? あいつが大怪我をしたときとかに?」
「イエス」と彼女は言った。「あるいは認知能力に問題が出てきたときとかね」
彼は少し考えてから、「最高の医療にアクセスしてもダメなら、俺の出る幕なんてないんじゃないかな」と答えた。「他には?」
「あとはもちろん相続」
「お互い金には困っていない身ですよ、ボスのおかげで」
「シドは資産を運用して随分増やしたと聞いたけど?」
「だからあいつは金のために結婚する必要なんてないんです」と彼は吐き捨てるように言った。資産運用会社が世界を牛耳って作り出した富の一部は、間違いなくシドのポートフォリオにも流れ込んでいて、シドはそれを悪いとも思っていない。
「あなたはもらえばいいじゃない。増えて困ることもないんだから」
彼は脚を組み替え、華奢なカップの中で黒い液体が波打つのを見た。それから視線を上げてレイチェルと目を合わせた。
「あいつ亡き後、金だけもらって何をしろと言うんです?」
すると彼女の眉間にくっきりと深い皺が一本刻まれた。滅多に見ない表情に、感傷的なことを言われるのではないかとブロンコは一瞬身構えた。しかし彼のボスは徹底してプラクティカルで手続き型の人間だった。
「葬儀でしょうね」
彼の脳裏にアメリカ海軍時代に参列した葬儀の光景が蘇った。
「興味がありません」と本心から彼は言った。「あいつの金にも亡骸にも、俺はまったく興味がないんだ」
「先に逝くのがあなただったら?」
今度は、喪服に身を包んだシドが深い墓穴のそばに立っている姿が浮かんだ。
ブロンコは頭を振ってその妄想をかき消した。まったく冗談ではない。
「面白くないですよ」と彼は実際に口にした。「もうやめてくれませんか、ボス?」
「ねえブロンコ」と彼女は言った。「あなたって本当に――」
そこでようやく現実のシドが姿を現した。やけに明るい色合いのジャケットを羽織っていた。彼は場の空気から何かを察したのか、ブロンコの隣に腰掛けながら「何の話ですか?」とレイチェルに問いかけた。
彼女は感情のこもらない笑みを浮かべた。
「つまらない書類仕事(ペーパーワーク)よ」
「話す相手を間違えていませんか」とシドは笑い、馬鹿にしたような視線をブロンコに向けた。「この男にそんなことができるとは思えないな」
「俺にはできねえよ」とブロンコは素直に認めた。彼には決してできないし、シドにやらせるつもりもなかった。
