Chapter Text
その日、沈清秋がとある城邑で尚清華を見つけたのは全くの偶然からであった。勿論、魔界ではなく人間界でのことである。沈清秋は洛冰河と共に既に何度目かになるバカンスの途中でこの城邑に立ち寄ったのだった。
白く霞む遥か遠くに山々を臨む開けた土地である。水源の豊かなこの場所は農耕には向かないものの昔から染物で栄えていた。整備された石造りの水路では染布が透明に光を跳ねる水中をはためくように泳ぐ様が目に美しい。視線を上げると水から上げられた布がパンと張って干してある。
色とりどりのそれらがまるで帳かそうでなければ幟のように町中で一斉に風に踊る様は壮観である。遠くから見るとそれは華やかな祭りのようにも見えた。
一種のパフォーマンスでもあるその染物づくりの光景は当然ながら外から城邑を訪れる人々の邪魔にならないように配置されている。町を歩き回るうちにそのことに気づいた時、沈清秋は感嘆と共にここの采配を振るった者は余程頭が良いか、試行錯誤の歴史があったのだろうと考えたものだ。
城邑中に点在する染屋の一角を少し外れると、立ち並ぶ人家の中に反物屋がちらほらと暖簾を出している。更に少し歩くと飯屋があり、宿屋がある。商品があり、外部からやってくる人間がある。もの、人、貨幣が淀みなく流れるここは実に立派な交易都市なのだった。
既に宿は抑えてある。なにしろ沈清秋がこの町に滞在して既に一週間は過ぎようとしていたところだった。数日前までは洛冰河もいたのだが現在は魔界で仕事中の身である。
掌握しきれていない南部の一族が魔王の不在を嗅ぎつけたのだそうである。新たに南部に築いた拠点を攻められているということだった。紗華鈴の指揮下で籠城戦をしている間に背後に漠北君が陣を敷き、砦から出てきた戦力と挟撃したはいいものの統率の取れない魔族や魔物がわらわらと湧いて出て収拾がつかない、のだそうだった。
南部は元々魔物が多いとはいえここまでは南部の版図を左右する拠点を襲った魔族も考えていなかったらしい。さっさと引き上げるかと思いきや更に北上する気配もあるという。そこでとうとう苦渋の決断を下した魔王軍の幹部たちは主君に助けを求めたのであった。
冰河はこれを大層嫌がった。バカンスの最中だったのである。勿論仕事は全て片付けた。暫くの間はどこの魔族も反乱など起こす気配はなく、一月は残した部下だけで恙なく魔界の統治は回っているはずだったのだ。一応一対で居場所の分かる法器を持ち歩いている律儀な魔王とはいえ、洛冰河の最優先は己の師と師との時間である。連名の要請を受けて魔王を呼び戻しに来た哀れな魔族とて当然それを知っており、洛冰河の足元で叩頭して震えていた。
可哀想だなあと思った沈清秋はバカンスを邪魔された怒りにか、魔界に帰れば師と離れねばならない悲しみにかこちらも震えている洛冰河に向って頷いて見せた。
「…………先に戻れ。俺もすぐに戻る」
長い沈黙の後、洛冰河は短く告げた。殆ど丸くなっていた魔族が転がるように走り去る。
「師尊、申し訳ありません。すぐに片を付けて見せますから一度魔界に戻りましょう」
そう言って洛冰河は手を差し伸べた。沈清秋がふっと笑ってその手に自分の左手を重ねて握ると、洛冰河は頬を染めてはにかんだ。どんな花よりもまろやかで蕩けるような桃色の頬に手を滑らせて沈清秋はこう言った。
「私はこの町に留まるから、出来るだけ早く戻っておいで」
洛冰河は泣いた。
当然のことだった。わかり切っていた。しかし沈清秋にもやむに已まれぬ切実な事情が存在するのである。
「なぜですか、師尊……」
「ああ、泣くんじゃない。そんな顔をするな、師は困ってしまう」
「で、ですが……」
魔族の公務員D(名誉ある公務員Aは勿論紗華鈴である)の伝達を受け取った直後で辛うじて人目に付かない路地であったことに沈清秋はほんの少し安心した。洛冰河が人目のある場所で恥も外聞もなく泣くことはない。二人きりでもなければせいぜいが師のみに向って可愛らしくお願いしてくるだけであると知ってはいても、この涙を余人に見られることを沈清秋は密かに嫌だと思っていた。
絹のようななめらかな頬を撫で、ほろほろと落ちる真珠のような涙を指で何度も拭ってやる。洛冰河はその手を握って頬を寄せると、潤んだ瞳で沈清秋を上目遣いで見つめた。いつもならこれで沈清秋はころっと陥落した。しかし今回ばかりは上手くいかなかった。
「悪いな。しかし」
洛冰河の美しい師尊は一旦言葉を切ると、自分の手を握っていた洛冰河の手を自分の方に引き寄せて掌に口づけた。柔らかな感触に息を飲んだ洛冰河を視線を流し、師はそのまま掌の中に言葉を吹き込むかのようにこう言った。
「絶対に、あの反物でお前に一着仕立てる。他の誰にも譲ってなるものか」
固い決意の滲む低い声だった。洛冰河の顔に複雑な色が浮かんだ。洛冰河にはあの黒い布の何がそんなに師尊の琴線に触れたのかわからなかった。だが師尊が一目見てどうしても洛冰河の着物をこれで仕立てると言ったのは聞いていた。二日前のことである。取り置きはしない、と融通の利かない店主に、ならば仕入れたその日に買いに来ると宣言したところも見た。同じ日である。
あれを着たそなたが見たい、とうっとりした顔で言われると洛冰河はそれ以上何も言えなくなった。嬉しいが寂しい。洛冰河はまた少し泣いた。
「夢で逢いに来ます」
沈清秋は涙で濡れた少し塩辛い唇に己のそれを触れ合わせ、睫毛の触れ合う距離で「うん。待っている」と囁いた。
そういうわけで沈清秋は一人この町でお目当ての反物が染め上げられて店先に並ぶまでぶらぶらと暇を持て余していた。そしてそこに涼やかな風にはためく色とりどりの織物を掻き分けてのこのこ登場したのが尚清華というわけである。
「あれはここ数年で開かれた魔界とのまだ希少な通商ルートから運び込まれた染料が使われている。数が限られているどころではない。流通しているとは言ってもまだ試験段階なのだ。一年に一度売られればいいところで昨年まではほら、あそこだ、あの鐘楼の隣の宿に泊まっている男が全て買い付けて自分の店の目玉にしているそうだ。なら今年は俺に譲ってくれてもよくないか!? 洛冰河の外袍に使うんだぞ! 店に飾っておくよりも余程宣伝になるに決まっている! あいつに着せて大通りを歩かせればそれだけで向こう百年は予約が埋まることが分かり切っているのに何故あの男はそうしない? 商人としてこの一反を俺に快く譲ることがどれほどの投資になるのか本当に理解できないのか?」
口角泡飛ばす勢いで──当然外見相応の品格は保たれている──熱弁する沈清秋の前に座った尚清華の目は少し死んでいた。
尚清華がこの城邑を訪れたのは勿論沈清秋に会うためなどではなかった。この町の有力者との面会の為である。本来であれば四台宗派の一つである蒼穹山の峰主である尚清華の元へ相手が訪れるのが普通だ。それが通年商品を取引する大口の顧客になるだろう相手ともなればなおさらのことである。しかし今回安定峰峰主自らがこの町にやってきたのにも、当然理由があった。
ここの有力者、元々はこの町を縦断する川沿いにこの町を開いた商家の娘が暫くの間蒼穹山に身を置いて修行を積んでいた。両家の娘らしく物持ちで、仙姝峰に持ち込まれた荷の中には当然実家の取り扱う反物があった。
それを彼女は惜しげもなく師姉たちの好きに見せ、気に入れば譲ることもあった。そのうちに、仙姝峰の他の峰でも精緻に織り込まれた控えめな柄に見事に染め抜かれた織物が見られるようになったのである。
彼女の実家から取り寄せたものを扱ってほしいと安定峰に申請が来たのも順当な結果と言えた。当の彼女は控えめながら現状に驚いたような表情を可愛らしい貌に浮かべていたが、尚清華を始め安定峰の何名かは上手いことやったものだと感心していた。販路開拓の手段としては珍しくもないがなかなか気骨のある娘である。
申請を検討するにあたって現物を見分してみた所、取り寄せたうち数点の品の材料に魔界の物が使用されていることが明らかとなった。その材料が人間界にとって有害でないことは前提であったが、これは少なからず驚くべきことである。
魔界への恐れを捨て去って貿易をしていることもまず一つであるが、最も重視すべきなのは蒼穹山が四大宗派の中でもとりわけ魔界と魔族の一部への融和的な姿勢を示していることを正確に把握しているということを意味する点だった。
蒼穹山は現在魔界の殆どを治めている魔王、洛冰河の出身地である。人界と魔界が統合されかけた時も洛冰河は幻花宮と魔族を引き連れて蒼穹山に現れた。当時天狼君と対峙した現場で実際に何が起こったにせよ、洛冰河が人界と共闘し天変地異を治めたいう顛末は広く知られていた。その彼が魔界を統治しているのだから、未だ統制の取れない未知の魔族がいたとしても洛冰河幕下の魔族とは敵対しない。
蒼穹山でも明文化されているこれは大変に分かりやすい因果であり、黄金の為ならば多少の危険は投資のうちと言えるだけの一部の商人が魔界に手を出すのは自然な成り行きなのであった。
安定峰に用意された選択肢はそう多くはなかった。品質にはけちのつけようもない。加えて魔界との融合作──意欲的だが量産段階に入っておらず値段もそこそこに意欲的であった──を除けば価格も良心的な程で、魔界とは敵対しない旨を周知している蒼穹山としてはそれを内外に示す機会としてうってつけだったのである。
当然ながら蒼穹山の経費で魔界由来の素材を使用した商品を取引することはできない。百戦峰がアレルギーを起こすかもしれないという懸念は冗談としても、単価が高すぎて日常使いの品としては話にならない。峰主が着るものを数点仕立てるとしてもそれ以上ではない。これは向こうの見せ札なのである。
やり手だ、と尚清華は思った。
彼女はと言えば、彼女が仙姝峰に籍を置いて数年が経ち、実家と蒼穹山との取引が決まりかけた頃にどうしても見合いをして実家を継がねばならないと泣く泣く山を下りることになった。
仙境に入るにあたって俗世と縁を切ることが殆どの中、彼女と彼女を送り込んだ商家の目的は火を見るよりも明らかであった。良家の子女、大店の娘ともなれば俗世とは切っても切り離せぬものかと考えていた者もいたが、彼女の本心はついに誰も知らなかった。
尚清華が自ら取引先を訪れることになったのはそういう理由からである。蒼穹山全体の魔界へのこれからの姿勢を示すことにもなるこの取引が、蒼穹山にとっていかに重要であるかアピールしなければならないのだった。
そして馬車に乗って遥々やってきた尚清華は何故かこの町で待ち構えていた沈清秋にとっ掴まることになったのである。
沈清秋はひとしきり洛冰河がいかに商品を売り込むためのモデルとして適格かを酔っ払ったかのように情熱的に話していたが、話し相手を見つけて自分の考えを実際に言葉にしていくうちに落ち着いてきた様子だった。
尚清華が取った宿の一室──例の彼女の実家である商家が賓客を招く際に使用できるよう常に抑えてある部屋だということだった──で尚清華と向かい合ってゆっくりと茶を啜っている優雅な姿からは先程の興奮は既に伺えない。
大旦那との面会は二日後である。今日は旅の塵を落としてから少しばかり休んでのんびり観光でもしようかと思っていたところに思わぬ再会が激突してきた。ぽかんと痺れたようになっていた尚清華の思考能力は沈清秋が落ち着きを取り戻すのと時を同じくしてようやく戻りかけていた。
「まあ元気そうでよかった。キュウリさんがなんでここにいるかも大体わかったけど」
沈清秋はうむ、と頷いた。
「残念ながら俺も仕事で来てるからあんまりのんびりもできないんだよね」
「それは確かに残念だ」
「だからさ、暇だったら名所とか案内してくれない?折角一足先に来てるんだし」
尚清華とてあまり会わない同郷の友人とも再会は喜ばしいものであることに違いはないのだった。それを受けて沈清秋はにっこりと笑った。清静峰峰主らしさのない、現代人的な軽さと呑気さがうかがえる笑顔だった。
「俺、名所案内頼んだと思ったんだけど」
尚清華は荷物を置きながら自分の取った宿の部屋に居座って寛いでいる沈清秋を横目で見た。
供の安定峰の師弟たち六人ほどは各二人でそれぞれ別の宿にいた。尚清華と共に明日の面会に赴くのは一人である。
他は経験を積ませるために連れてきた面もある師弟で、それぞれが町を見て回り、安定峰らしい収穫を持って帰ることを尚清華は期待していた。
そして予想外の沈清秋である。彼は尚清華の他に知人が近くにいないと知るや、途端に口調が砕けて気の抜けた態度でさっさと茶を入れ始めた。沈清秋が尚清華を相手に周囲の耳目を気にすることなく酔ってもいないのに管を巻いているのはそういった理由からであった。
「それにしてもキュウリさんさ、俺相手でも結構口調いつものままになってきたよね」
「そうか?」
「うん。俺は割といつもこんな感じだけどキュウリさんギャップ大きかったし」
沈清秋は元々古風な話し方をするキャラクターである。いかにも清静峰の峰主といった振舞いを沈清秋は崩さなかった。中身が前世現代人同士の間柄で多少言葉遣いが崩れようと、沈清秋らしい整った話し方が染み着いてきているのだろうか。
それを特に意識していないらしい沈清秋は両手で湯呑を包んだまま小首を傾げた。このガワだとそんな仕草も優雅に見えるからズルいよな、と尚清華は思う。
事実尚清華がやってもこうはならない。周囲に比べるとどうしても背が低く、表情がよく変わる上に動きにも最低限の落ち着きがあるのみである。それが悪いわけではないというのは漠北君を見ればわかる。
ちがう、と尚清華は首を振った。ちがう。そんなことを考えているのではなかった。
「とにかく、俺たちもこっちでの暮らしが長いじゃん。結構忘れたこととかあるよね」
沈清秋はじっと目の前の尚清華を見つめた。そして迷ったように口を開いた。
「そうかもな」
「うん」
会話が途切れる。沈清秋は行儀悪く扇子をいじくりまわしながら何かを言おうとしているようだった。更に少し躊躇って、沈清秋はとっくに席を立って荷ほどきをしている尚清華の背に向ってこう言った。
「何年も前に、鼻歌を歌っていて、ふとその歌詞を思い出せないことに気が付いた」
頼りなげなその声に、尚清華は内心で俺もそうだよ、と答えた。
尚清華もそうだった。この世界については考えなければならないことばかりだったから、狂傲仙魔途のことは忘れにくかった。
しかし他についてはその限りではない。尚清華はこの身体が物心つく年齢には既に尚清華だった。沈清秋よりも当然この問題について考える時間も機会も多かったはずだ。
忘れてしまった歌のいくつか、自分のアパートの部屋番号、よく見ていたドラマの主演女優の名前、自分の顔すら曖昧になっていく。
少しぼんやりと手の届かなくなった記憶のことを考えていたが、その間沈清秋も何も言わなかった。
「まだ不思議な気分になるよ。俺らは結丹してるから、殺されでもしなきゃこれからあと二百年は生きるんだぜ」
「ああ」
それは尚清華にとってもなるべく考えないようにしていたことであり、一方では魔族のことを考えるならば自分にとって有利に働くことでもあった。
自分のことなのに他人事のような感覚でその事実を遠くから眺めている以上に考えられないのは、結局自分は前世の記憶をより色濃く残す化学の作り上げた現代社会の人間だからなのだろうと思う。
きっと沈清秋もそうなのだ。これからも生きていく他ない。
「でも俺らは不老不死になるわけじゃない。そこまでいけるなんて思ってないし」
「それは流石にな。死ぬことは当然恐ろしいさ。だが死なないと言われてもそれはそれで恐ろしい気もする」
「大王にしても洛冰河にしても俺らは先に死ぬことになるのがわかってるのはちょっとあれだけど」
「ん? ……ああ、冰河は混血だが、漠北君も純血の魔族だからそうなるか」
「まあね。大王も俺らと同じくらいだし、多分そうなる」
「そうか」
「洛冰河は死なないけど、大王は死ぬのかな」
バチリ、と卓を何かで打ち付けた音がした。驚いて振り向くと沈清秋がこちらを凝視していることに気が付いて尚清華は狼狽えた。
「死なない?」
沈清秋が呟いた。
「え、うん」
少なくとも狂傲仙魔途の洛冰河はそうだった。復讐を終えたのちは、誰にも心を動かされることなく永遠に老いぬまま魔王として君臨し続けるのだ。
「あ、これ原作の洛冰河のことだから、こっちの洛冰河がそうとは限らないし。原作程修為高くないかもしれないしさ。比べられないからわからないけど」
「手合わせした際には心魔剣の戦力差を除いて狂傲仙魔途の洛冰河とこちらの冰河の実力は完全に同等だった」
「待って何それ俺聞いてない」
「原作洛冰河が心魔剣で次元事故を起こして原作がこっちに来てたんだよ。うちの弟子が二日くらいあっちに放り込まれたままになってて、その間うちの弟子の振りしてたのは原作だった」
「待って待って待って?」
「とにかくうちのとあっちのは心魔剣の制御以外は同じだった。こっちの洛冰河は原作と比べて劣ることはない」
「あっうん、はい」
二人は数秒見つめ合ってからハッと我に返った。
「いや、すまん。ちょうどいいし報告しておくべきだよな。こういう普通ではないことは身内の耳目のある蒼穹山では話しづらいし」
「だよな! めっちゃ聞きたい。というかキュウリさんさ、よく殺されなかったよね……?」
沈清秋は顔をしかめた。
「うちの冰河とやり合って怪我をしている所を俺が見つけたんだ。魔界だったから、どこぞの魔族に襲われたのかと思って有無を言わせず清静峰に連れて帰って手当てした。何日か前からちょっと拗ねていたから、無言なのも不機嫌なのもそのせいだと思って適当にスルーしてたんだ。俺の部屋で寝かせて一晩調息してやって、百戦峰に文句言いに行ってる間は留守番もさせてた」
茶で喉を潤しながら沈清秋は続ける。
「なんかおかしいなと思ったところに丁度うちの冰河が心魔剣で帰り道作って魔界から清静峰まで俺探しにきてくれてさ。原作と俺の弟子で暴れた結果屋根に風穴開いたというわけだ。向こうの洛冰河は当然沈清秋のことが嫌いだし、俺の様子が自分の師匠と違ったから様子見してたみたいだな」
つらつらと語られる経緯に尚清華は叫んだ。
「コッワ!! サイコスリラーじゃん! よく生きてたよ、瓜さん」
「自分でも本当にそう思う。というか前に一度あいつにマジで殺されかけたことがあってな。昭華寺でミッション失敗して数値がゼロを割った時に、他の数値で代替する代わりにペナルティ受けて、その時に黒焦げの清静峰に飛ばされたんだが、そこに原作の洛冰河が現れたんだ。無造作に腕千切られてこのままじゃ足もって時に帰れたんだけど、あれってシミュレーションじゃなくて本物引っ張ってきてたのな。で、あの時は俺が向こうに転送されてたんだと思う」
尚清華は青くなって震えている。
ミッションを失敗してもそこまで深刻になったことがなければこんな目にあうこともないだろう。システムの滅茶苦茶具合に戦慄して当然だ。沈清秋だって知りたくはなかった。
「帰ってきたら手足が元通りだったのは心底安心した」
「システムって何? 並行世界まで思いのままなの?」
「それを言うなら偶然の事故でも並行世界との入り口を作れる心魔剣だって、メタ存在じゃないのに世界そのものに干渉できる超チートアイテムなんだが」
半目でどういうことだ原作者様よと責めてみると、尚清華はぶんぶんと首を振った。
「濡れ衣! 原作では並行世界なんて設定してないぜ。システムがいくつかの世界を混線させたからじゃないの? 俺本当に知らないって」
「天琅君みたいな隠し設定でもないのか」
ない、と断言した尚清華は疲れたように溜息を吐いた。
「気が遠くなるわ。少なくとも世界は三つあるってことか。別に知りたくなかった」
「俺だって知りたくて知ったわけじゃない。だがシステム絡みである以上情報共有はしておくべきだろう」
「それはありがとう。でも教えてくれるの遅くない?駆け落ちのすぐ後じゃん。何年前よ。俺は漠北一族の御家騒動すぐに話したのに」
口をとがらせる尚清華を沈清秋は鼻で笑った。
「俺たちはそこまで連絡取り合う仲でもないだろう。あれは俺たちがお前を偶々拾ったからお前の義務としての事情説明でもあったぞ。ところで駆け落ちと言うな。お前こそ漠北君とどうなんだ」
「駆け落ちじゃん。えー、まあ、その……、それなりに落ち着くところに落ち着いたというか。あの時はお世話になりました」
報告会から段々と話題が雑談に移ると、沈清秋は普段よりも雑な仕草で立ち上がった。そして尚清華を見下ろしてこう言った。
「観劇の出来る酒楼に行くぞ。城内でも有名な店がある」
それを聞いて尚清華は顔を輝かせた。
半刻後にこの宿の一階で集合しようと言って別れたはずの沈清秋を見て尚清華は目を剥いた。いつもは流している髪をポニーテールにまとめ、服装も緑を基調としたものから清静峰のものに似た青の校服風のものに変わっている。
「……なんで変装してるのか聞いてもいい?」
知ってか知らずか十年近く前に見た、まだ沈九だった頃の弟子時代そのままの姿で現れた沈清秋に尚清華は声を潜めて聞いた。
「この城邑で最も優秀なキャストを集めた舞台で必ず上演されている演目は何だと思う」
すべてを察した尚清華は無言で頷いた。自分のナマモノ創作があちこちで上演されてるって俺なら胃に穴空くわ、とは言わなかった。
それを知っていて観光にあちこちで歩いているのだから、洛冰河は未知数としてもこの自分の熱心な読者はかなり面の皮が厚く胃も丈夫に違いなかった。
件の酒楼というのはなるほど立地も恵まれた川のほとりにあった。川面に張り出した水榭まで備えていて、川面を吹き抜ける風に提灯が揺れていた。
小人数が座敷で吟じることもあるが、屋内に大きな劇場を備えていて、大半の客はそこで上演される演目を目当てにやってくるとのことである。
だが観劇と言ってもそこは酒楼、飲食に付随するサービスであってフロアに入る為の料金に加えて注文は必須なのだそうだ。
「ワンドリンク制ね」と尚清華は呟いた。沈清秋は思わずそれに苦笑する。
「今は夢を題材にした演目が多く書かれていて、ここでもそれをやるらしい。確か初日が一週間ほど前だったから、今はかなり演者も役に入ってきているんじゃないか」
番頭がそんなことを言っていた気がする、と沈清秋は付け加える。尚清華も特に演劇に明るいわけではないのでとりあえずへえ、と頷いておいた。
酒楼の劇場フロアに入り、舞台を見やすいように並べられた何組もの卓と椅子を見回して適当な場所に座る。酒とつまみを注文している間にも思い当たることがあったらしく、尚清華は顎に手を当てては探るように話し始めた。
「夢ねえ。もしかして人界魔界統合騒動の時に結丹してる仙師が全員予知夢を見たっていうあれのせいで市井では夢に対する神秘的なイメージが強くなったのかな」
「ああ、多分そうだろうな。まあ冰河がやったことなんだが」
こともなげにそう言った沈清秋に、注文した酒を舐めていた尚清華は激しく噎せて顔を真っ赤にした。
「書いた覚えないしなんか変だとは思ってたら何やってんの!?」
「俺がやれって言ったわけじゃない。天琅君がやろうとしてることは知ってるけど説得材料がないなってなった時に気が付いたら冰河が終わらせてたんだ」
若作りした沈清秋は両手で頬杖を付いてそう溢した。
「はー! 満足した。夢が題材なだけあってベタっちゃベタだけど面白かった。ご飯も美味しかったし脚本も役者も音楽も良かった。流石観光地一の劇場だね。ありがとうキュウリさん、商談でも話題に出来るよ」
「エンタメで溢れた時代と一緒にするわけにもいかないが抑えるところは抑えていてよかった。俺も始めて来たが評判通りだな。冰河が帰るまでにまた来よう」
二人が観たのは夢で逢瀬を重ねた若い男女が現実で出会い、障害の数々を乗り越え結ばれるという脚本だった。劇場入り口付近でオタク二人が話していると、二つある劇場のもう一部屋でも演目が終わったらしく、出口に向かって客がどっと溢れてきた。
なんとなく目をやった沈清秋が違和感を感じて観察していると九割が女性客である。ハンカチで目元を抑えた女性ばかりよろよろと流れてくるので沈清秋は少し唖然としてそれを見ていたが、店員は慣れたものなのか表情一つ変えずに客を誘導している。
「あっち、春山恨」
隣の尚清華が沈清秋を肘で突きながらこっそりと教えた。
「ああ……」
入り口の看板を見た沈清秋はこめかみを揉みながら眉間に皺を寄せた。帯に差していた扇子を広げてさりげなく顔を隠す。まさか本人だとは思われないだろうが、隠れたいというより直視したくないというのが本音である。しかし尚清華には顔を隠そうとしているとしか思われなかったらしくこう言ってきた。
「そんな心配しなくてもいいと思うよ。十中八九バレないって」
「何故そう言える」
沈清秋が小声で答えると、尚清華は複雑そうな表情でとりあえず出てから話そうと言った。
川沿いの遊歩道は殆ど誰とも擦れ違うこともなかった。祭りのように提灯が下げられているわけではない。時折思い出したようにぽつぽつと灯りがある程度である。
「まず春山恨の洛冰河と沈清秋は現実の二人そのままじゃないわけ」
尚清華は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。両手は後ろで組まれ、些か緊張した面持ちである。近くに人口の灯りはないが、良く晴れた夜空は峰主二人には十分な光量をもたらしていた。
「詳しい内容は知ってる? 知らなきゃ知らないでいいけど」
「遊郭で聴いたことがある。あとは宿で何となく手に取った本がそれだったな」
洛冰河が閨事の参考に持ち込んだことがあるとは言えなかった。言ってたまるかというものである。尚清華は気の毒そうな顔をした。
沈清秋が努めて何でもないような顔をしているためそれ以上の反応はしないことにしたらしい彼は少し唸ってまた続けた。
「最初に出た二人のあれの、その、春山恨で世間での二人のキャラの方向性が決まったわけだけど、この二人のキャラが実際の二人とはまるっきり違うんだよ。見たことあるならわかるんじゃない?」
沈清秋は竹枝郎を撒くために入った遊郭や、宿に置いてあった妙に綺麗な表紙の本の内容を何とか思い出そうとし、冰河の持ち込んだ『指南書』の内容に内心でOOCを叫んだ記憶を掘り返してみた。
そう、盛大なキャラ崩壊だった。沈清秋はゆっくりと頷いた。
「確かに自分たちだと思って見ると誰だこれ、という感じだったな」
でしょ、と尚清華も頷き返す。
「簡単に言うと洛冰河が師尊にだけヤンデレな暴君で、沈清秋が自ら魔王の生贄になったけど快楽堕ちしない姫騎士って感じなん痛い!! 何すんの!!」
「何!! お前!? お前が何……何だって!?」
沈清秋に扇子で思い切り脳天を叩かれた尚清華は悲鳴を上げて頭を両手で抑えた。叩いた沈清秋は扇子を握りしめてわなわなと震えている。
「姫騎士とか快楽堕ちとか言うな馬鹿か!?」
「だってそんなキャラなんだよ二次創作の品性高潔で冷徹な峰主様は!」
「ああああ……」
でも春山恨の俺そんな感じだった気がしてきた、と思い当たる節を見つけてしまった沈清秋も頭を抱えた。嘘だろう、と言いたいが現実である。尚清華はまだ頭を擦っている。
「現実の二人ときたら万年新婚で空気にあてられるだけでこっちは向こう三日は菓子も食べられないんだから、二次の暴君姫騎士冰秋しか知らない一般の人たちが実際に二人を見た所でやたら距離の近いイケメンがいるなって思うだけだよ」
「俺たちをカップリング名で略すな……」
今にも消え入りそうな沈清秋の最後の抵抗に尚清華は乾いた声で笑った。
「冰秋吟読んでおいて今更? 表面的なキャラだけで言えばむしろ原作の洛冰河と沈清秋に近いんじゃないかと俺は思うよ」
「そうかな……そうかも……」
「自我保ちなよ。とにかく、世間は二人が堂々と一緒にいたって気が付きやしないってこと。わかった? それに悪いことばっかりでも、というか」
「メリットなんかあるのかよこんな世の中に……」
「あー……。一般にというか、俺らにもわかる感覚でもあると思うけど、師匠と弟子の恋愛関係ってあんまりいい目で見られないじゃん。タブーじゃん? それが冰ニキが蒼穹山の戦神すら敵わない暴君で、師匠は自分の弟子を止める為に身を差し出したって設定のカップリングだからこの関係が世間に受け入れられてるところはある、っていうのもわかるかな」
師匠と弟子の関係は三世にも渡る深い絆であり、師匠は父または母として、弟子は子としての疑似的な親子関係でもある。実際沈清秋も一度は洛冰河の良き義父になろうと決意したこともある。
一方洛冰河は少年の頃から師である沈清秋に懸想していたが、そこは一般に思慮分別を持つべき沈清秋が思いを受け入れたことを責められるべき局面であるはずだった。
だがそれは状況が一般的なものであった場合である。洛冰河は師の遺体を奪い返すために蒼穹山に攻め込み、彼の師を除いてその暴挙を止めることのできる者は誰もいなかった。
「それに春山恨の沈清秋は基本的に洛冰河のことを受け入れてはいないんだ。それが世間の許すラインってわけ。ごめん、あー、こんな言い方したかったわけじゃないんだけど。でも蒼穹山や関係者は本当の経緯知ってて二人のことわかってるから」
「わかってる」
それについては心の底から有難いと思ってはいる。自分の峰に二月に一度寄り付けば良い方の不良峰主の身である。
三年間は肉芝の世話の為もあったが何となく山を下りては放浪しており、五年間は死んでいた。それからすぐに洛冰河を連れて飛び出していった。掌門師兄、師弟、師妹、弟子たちが自分を心配していたことも重々承知している。
「俺たちが本当に恵まれていることはわかってる」
「ま、そこは俺もだね。まさか掌門師兄がとりなしてくれるとは少ししか期待してなかった」
魔族のスパイで一度は魔界に亡命しておいて少しは期待していたのかこいつ、と沈清秋は尚清華の厚かましさに慄いた。それが顔に出ていたのか尚清華は半目で沈清秋を見た。
「俺だって無難にやり過ごしたかったけど蒼穹山から魔界に逃亡するミッションがあったの。俺じゃなくてシナリオ上の不都合のせいなの」
「ああ、そういう」
「まあそういうことだよ。大体わかったでしょ、これまでもバレたことなかったんじゃない?」
「そうだな。確かにチラチラ見られることはあっても俺といる時の冰河を見て暴君だと思うやつはいないだろう」
尚清華は頭の隅で、(もしかして冰ニキが師匠の前であざといってレベルじゃねえぞみたいなキャラになるの、俺があの時の恋愛相談会議でそれっぽいこと並べた命乞いを参考にしたのかな)と考えそうになったがすぐに何も思い出さなかったことにした。
「有意義なような下らないような話も聞けたことだし、今日はそろそろ帰るか」
「だね。俺んとこで酒でも飲む?」
「いや、自分の宿に帰る」
「ええ? 早くない?」
尚清華は尚清華なりに流れで同郷の友人と気兼ねなく飲み会をするのだろうと思っていたために多少不満げな声になる。
「早く寝ないと冰河が不安がるからな」
不可解な返答である。
「俺がこの町に残る代わりに毎晩夢に来いと言ってあるんだ」
沈清秋はこともなげにそう言った。尚清華は以前システムのミッションで二人に質問した時のことを思い出し、やっぱり洛冰河と恋愛するのは大変らしいと改めて考えた。
「反物の為に残ったんだっけ。俺も見ておこうかな。何て名前の商品なの? サンプル置いてあった?」
何気なく尚清華がそう聞くと、沈清秋は珍しくパッと笑顔になった。
「名前か。あれの名前は、ふふん、なんと『黒蓮』だ」
バッッッッッカじゃねぇの? と叫びそうになる衝動を尚清華は何とか堪えた。
黒蓮花とは白蓮花の対義語である。前世のオタク用語である。白蓮花は純粋無垢なキャラ、黒蓮花は腹黒キャラとかそういう感じである。たった今思い出していた以前の『質問』で沈清秋が洛冰河を例えて黒蓮花と言った際に洛冰河はその意図を理解できなかった。当たり前である。可哀想に。
「まさかギャグ……一発ネタ……いや、何……その為に魔王を一人で魔界に帰したの? うそでしょ?」
「何だその顔。心外だ。あれが良いものなのは本当だし冰河に黒蓮を着せたいのも本当だ」
ムッとした顔の沈清秋に尚清華はそっちこそ何だその顔と言いたかった。
「そうじゃなくて、俺らにだけわかるネタみたいな名前の布で仕立てたのを絶対に冰ニキは死ぬほど喜んで着るでしょ。それは流石に気の毒なんじゃ……」
尚清華にも良心はある。目の前の友人が主人公のハーレム小説を書いて一山あてようとしていてもそれはそれ、これはこれであった。都合のいい良心を痛める同郷に沈清秋は首を傾げて答えた。
「そうか? 確かにネタはネタかもしれん。概念グッズみたいで前世振りにテンションが上がってしまっていたような……? ネタはネタでも計算ずくで俺の前で一生懸命可愛い振りをするあの子が可愛いのはもう仕方ないからいいんだよ」
勿論不意に沈清秋から触れられて顔を真っ赤にしたり、思わずといった様子で涙目になる格別に可愛いところもある。
そこまで教えてやるつもりは少しもなかったが、ここまでは以前にも話したことがあったような気がしたため、沈清秋は恥じる様子もなくそう言ってのけた。
水気を含んだ夜風が二人の間を吹き抜けていった。
そうか、今キュウリさんが言った“黒蓮花”は多分変化球の方だったんだ、と尚清華は現実逃避のように考えた。
潔白の仮面を被った謀略家を白蓮花と呼ぶように、悪意無く甘える為だけの洛冰河の意図した“可愛らしさ”をこの目の曇った男は“黒蓮花”と称しているのだ。
「やってらんねぇ」
尚清華はぼやいた。もう好きにしてほしいと心から思った。
川沿いの道を逸れて街中に戻り、二人はしばらく黙って夜道をゆっくりと歩いていた。
「あ、ひとつだけ聞いてもいい?」
それぞれの宿への別れ道で尚清華は気の抜けた声で急にそう言った。
「なんだ?」
「推しに会った感想、作者としては気になるなあ、とか」
沈清秋は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな場合じゃなかったんだが」
「まあまあ。サイコスリラーから生還してこそできる話もあるじゃん?」
尚清華は諦め悪く言い募り、両手を背で組んだまま地面を爪先で蹴ったりした。
「詳細は省くぞ。あいつにうちの冰河と自分は同じだろうと言われて滅茶苦茶腹が立った。そんなわけないだろうと思った。あいつの師匠は俺じゃない」
「んー? 状況はわかるようなわからんようなだけど、推しに会っても嬉しくなかったの?」
「あれは洛冰河で、俺は沈清秋だぞ」
尚清華にしか伝わらない言い回しで沈清秋は断言した。危うく貞操を失いかけたことや自分の弟子の拙さを揶揄されたことは当然として、傷を付けられて驚愕した顔を見た時に一瞬感じた憐憫、「一緒に来てください」と言われたことはどうしても口には出せなかった。作者相手と言っても、偶然に見てしまった他人の個人的な感情を軽々に誰かに伝えるべきではないと思ったのかもしれなかった。
「そんなもんかぁ」
妙に納得しきってはいない様子ではあったが、尚清華はそれ以上追求することなくじゃあここで、と言った。おやすみ、と挨拶を交わして、その夜は別れた。
後日、尚清華はこの町のとある店の主人が夢を訪れた仙人から外袍の注文を受けたという話が広まっていることを知った。
料金は翌朝前払いで届けられ、仕立てを請け負った職人であるその主人は自分が仙師と同じように不思議な夢を見たことに大層深く受け止め、より一層精進することを決心したという。
同郷の師兄は自分と弟子と職人の三人でデザイン案でも詰めたくて弟子の能力で夢を渡ったのだろうな、と思った。見た目に反し大層俗っぽい師兄がまた一つお伽噺を作ってしまったことに尚清華は呆れたような面白がるような気分になる。
ともあれ、尚清華のこの世でたった一人のオタク仲間は無事競争相手に勝利を収め、狙いのものを入手したようであった。
