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Rating:
Archive Warning:
Category:
Fandom:
Relationship:
Characters:
Additional Tags:
Language:
日本語
Series:
Part 1 of 僕と王様
Stats:
Published:
2019-02-24
Completed:
2019-02-24
Words:
32,900
Chapters:
4/4
Kudos:
8
Hits:
138

ロシアンブルー

Summary:

月影月同軸リバの大学生/社会人同棲シリーズ4作目。影山が現役を引退する時期の短編集。及川、宮兄弟、赤葦と木兎が出張ってます。

Chapter Text

 人気の○○エリア、こだわりのデザイナーズ・リノベーション!
 ポストに突っ込まれていた中古マンション販売のチラシを、月島はいったんは備え付けのゴミ箱に捨てようとして思いとどまった。三十代半ばに差し掛かっている自分たちの年齢を考えると、本気で検討を始めるべきなのかもしれなかった。どうせあいつは何も考えていないのだし、アンテナを張って情報収集するのはこちらがやらなくてはならない。実家から離れた関東近郊に骨を埋めるつもりが本当にあるのかと問われたら答えに窮するが、相場感くらいは持っておいてもいいだろう。
「ただいま」
 ソファで丸くなっている影山にジャケットとチラシとを投げつけると、彼は凶悪な目つきで月島を見上げて「遅かったな」とすごんだ。つまりは「おかえり」である。温かみのある暮らしだの何だのといった、不動産会社が好みそうなフレーズとはかけ離れた雰囲気の持ち主ではあるが、人には向き不向きがある。
「飯は」
「適当に食べてきた」
 こくり、影山は頷いてソファの左端に寄ると、首の筋を揉み始めた。
「……首いてえ」
 寝違えたのだろうか。自分が監督だったらイライラするどころの話ではないが、一同居人という立場で彼を眺めてきて久しい今となっては、馬鹿じゃないのと言いながら平気で首をつついてしまう。ある種の駆け引きのようでもある。家の中ではバレーボール選手としてではなく、その他全てを引っくるめた影山飛雄という個人を見ているのだと、言外に示すことによって。
「何だこれ」
 フローリングの床の上を滑っていったチラシを、彼は猫のように身体を伸ばして拾い上げた。体格の割には柔軟性のある背中がしなやかなカーブを描く。
「にーでぃーけー、三六九〇万円……」
「間取りはこの部屋とほぼ一緒だね」元の位置に戻ってきた彼の肩に、月島は頭を載せた。「ポストに入ってた。うちのすぐ近くみたい」
 建物名に聞き覚えはなかったが、地図によるとその物件はここから徒歩十分もしない場所にあった。大通り沿いのスーパーに行く途中だから、眼の前を通りがかったこともあるはずだ。あれ分譲マンションだったんだねえと歌うように続けたら、斜め上から怪訝な視線を注がれるのを感じた。
「お前、家買うのか」
「一人で家なんて買わないよ」
 影山は一瞬呼吸を止めて、「……俺も買うのか」
「さあねえ。そういう選択肢もあるんだって思っただけ」
 月島はそう言って目を閉じた。巷でいう人生設計とやらを見直す時期に自分たち二人が差し掛かっているのは、月島以上に彼の方が強く意識しているはずだった。
 ──現役引退の話は家の中ではもちろん折にふれてしていたが、外でもたびたび持ち上がっていたらしい。影山はブラジルから帰国した直後のシーズンでは日本代表の正セッターに返り咲いたものの、それ以降は控えに回っていた。自社チームにおいても若手の活躍が目立つようになっていた。アキレス腱断絶ほどの故障はなくとも、長年のハードワークによって身体のあちこちに小さな爆弾を抱え、若い頃のような無茶ができなくなるのは、三十代を迎えたどの選手も同じである。けれど彼に焦る様子がなく、むしろ後輩たちがいかに頼もしいかを言葉少なに自慢してきたりするのが、月島には切なかった。未練のなさを際立たせていて。
 バレーボールなしでは生きられない、ミカサのボールと心中するような人間だとずっと思っていたのだ。数年前、他でもない彼自身に手厳しく否定されてもなおその思いは消せなかった。バレーなしの影山飛雄を受け入れる態勢を整えられていない、のではない。覚悟はとっくに決めたつもりでいる。ただただ現実味がなかった。彼の方では、現役選手としての強い信念を手放しつつあるにも関わらず。
 とはいえその日は近いうちに必ずやってくるのだと、月島も頭では理解していた。なのでつい二ヶ月前、十月に入ったばかりの週末に、
「来年の五月で辞める」
 と宣言されても、あからさまに動揺しないで済んだ。済んだと思う。次の黒鷲旗選手権が最後になるんだね、と面白みのないコメントをした自身の声はやけに遠くから聞こえたけれど。
 戦力外通告をされたわけでもないのに何も今辞めなくても、とでも言って引き留めるべきだったのかもしれないが、ひたすら孤独に──仲間はいても、何かを極める人間は常に孤独に戦っているのだと思う──バレーボールと向き合い続けてきた影山が下した決断を、どうして自分が覆せよう。迷っているなら迷っていると正直に言う、あるいは何も言わない男だ。辞めると言い切るからには辞める以外の道はない。
 影山の主たる身分はあくまで一企業の会社員であり、契約ベースのプロ選手とは異なる。選手を辞めても仕事はあるし、安定した収入も保証されている(このご時世にそんなものは絵空事かもしれないが、ともかく)。表向きの変化は、合宿やら遠征やらがなくなって週末も家にいるようになる、くらいだろうか。否、コーチやスタッフとしてチームに残るのであれば、Vリーグ中のスケジュールは変わらない。もしかして何も変わらないのか。
「指導側に、回るの」
 おそるおそる尋ねると、彼は「決めてねえ」と開き直った。「だって考えらんねえだろ、今はまだ、明日の試合があんのに。コーチにもシーズン終わるまでは保留って言ってきた」
「そう……」
 えらく悠長なコーチである。驚きというより呆れて言葉を続けられずにいたら、もっと何かねえのかよと彼は鼻を鳴らした。何か言わせたいのなら解説の一つでもしろよ。月島は言い捨てて腰を上げ、キッチンで電気ポットに水をたっぷり汲んでスイッチを押した。
 影山は静かについてくると、「お前、間が持たなくなるといつもこうだよな。昔から変わんねえ」
「喉が渇いただけです。言っとくけど君の分はないから」
「いやなやつ」
 耳元で声がして、背後から腕が巻き付いてきた。かたかたと揺れ始めた電気ポットが湯を沸かし切る前に、月島はそれこそ間を持たせるために「温泉でも行こうよ」と口走っていた。「年末年始どうするか決めてなかったし。慰労ってことで、僕が全部準備するからさ」
「……俺はいいけど」
 釈然としない様子ながらも、オーケーが出たのでその場で宿を探した。そこそこの等級で都心からのアクセスがよくて部屋で食事が取れて、と絞り込んでいくと選択肢はほとんどないに等しかった。世間の人々は随分早くから先の予定を立てているらしい。計画的なことだ。
 間もなく公式発表が出た。地上波のニュースでも流れたようだが、月島が見たのはネット上に掲載された小さなインタビュー記事だった。記者からの問いに対して、影武者が答えたとしか思えないほどまともな返答が書いてあった。自分との会話の中でもたまにはこれくらい流暢に話してくれればいいのに。きちんとした記者会見もいずれあるとのことなので、そのときばかりはテレビをつけようと思った。
「影山引退すんだって?」
 と日向からも連絡がきた。彼から直接話が行っているのだろうに、公になるのを待ってわざわざ月島にも声をかけてくるなんて律儀というか暇人というか。一足先に現役を退いた日向は、今はスタッフとして自社チームのために駆けずり回っていると聞いていたが、今度時間作って飲み行こうぜ、大王様も呼んでさ、などと不穏な発言を始めたのでとりあえず無視した。行くのは勝手だが、人を巻き込まないでほしい。

 影山はマンションのチラシを指でピンとはじいて月島に突き返した。「それとこれとは話が別だろ」
「だから買うなんて一言もいってないじゃん。単なる参考資料だよ」
「テメエがなんか言い出すときは絶対裏があんだよ」
 月島はまともに取り合わず、スマートフォンで資産管理アプリを起動して直近の入出金状況をチェックした。ここ数年で一番大きな金額が動いたのは、今の部屋に引っ越してくるにあたって敷金礼金と先二ヶ月分の家賃を合わせて振り込んだときである。その程度ならぽんと支払えるくらいの余裕はいつでもある。しかし毎月少なくはない金額が引き落とされ続けているのを見ていると、いつまで賃貸で暮らすのだろうと考えずでもなかった。
 今後の生活資金のためにと一応投資信託を運用したりもしているが、税金を差し引いても儲かっているのかはよく分からない。いまいち興味が持てないのだ。説明文を読んでいると眠くなるし、それよりも勉強しなくてはいけないことが山程あった。何にせよ、総資産がゆるやかに上昇しているだけでよしとしている体たらくでは、多額の現金を銀行口座に眠らせっぱなしの影山のことを笑えない。
「貯金、いくらあるんだっけ」
 明確な答えは得られないだろうと思いつつも尋ねると、あの銀行口座にはいくら、と思いのほか具体的に返ってきて驚いた。給料日に預金額を確認したばかりだと彼は言った。運用しなくてもいいからせめて把握はしておけよ、とアプリをインストールさせた際、メインの口座だけは登録したようだ。
「……他の銀行にもあるぞ」
「いいよ別に。君の方が金持ちなのは知ってるけど、搾り取ろうってんじゃないから」
「あと生命保険が」
 あれね、と月島は失笑した。入社してすぐ、保険会社の営業に勧められたままに加入して保険料を払い続けているらしいが、いったい誰に何を遺すつもりだったのか。まあ当時は色々な可能性があったのかもしれない、彼の頭の中にはなくとも、周囲が放っておかなかっただろうし。けれど今となっては余計に要らない。彼が両親より早く亡くなりでもしない限りは、完全に掛け捨てだ。
 順番に風呂に入った。ドライヤーで髪を乾かしながら、以前と比べて明らかに髪質はよくなったなと思った。去年短く切りそろえて以来、染めていないからだ。ぽつぽつと白髪が生えているけれど、地毛の色が薄いおかげで大して目立たない。もう年齢が年齢だから隠す気にもならない。
「マンション、買いたくなったら買ってくれていいよ」
 同じベッドに潜り込んでから呟いたら、
「買ってから文句言うなよ」
 彼は背中を向けて言った。一緒に連れて行ってもらえるようだ。

 同居していても顔を合わせない日などざらにある。彼が遠征に出れば二週間は軽く間が空くし、一ヶ月近く食事をともにしなかった年もあった。春から夏は日本代表の合宿や大会が、秋以降はVリーグの日程が目白押しなのだ。そのせいか、十二月に入ってからの時の進みはやたらと遅く感じられた。
 月島自身も、十二月の上旬にメインで手がけていたプロジェクトのカットオーバーを迎え、アフターフォローは運用チームに引き渡してしまったので、年末までの残り半分は消化試合のようなものだった。平日は早めに帰宅し、身体を酷使して帰ってくる彼のために料理を試みたりもした。クリスマスには少し高めのレストランに出かけてスパークリングワインで乾杯し、ほろ酔いのまま自宅でセックスした。
「暇なの?」
 年内の最終営業日、定時で切り上げてきた月島が、自宅の玄関で恋人に出迎えられて発した第一声はそれだった。影山はムッと唇を引き結び、
「掃除してたんだろ。お前が何もしねえから」
 両手にピンクのゴム手袋を嵌めた彼は、この寒いのに半袖を着て鳥肌ひとつ立てていなかった。いくら室内だからとはいえ季節感がなさすぎる。月島は口元まで巻き付けたマフラーをおそるおそる外しながら、暖房の効いているであろうリビングに逃げ込んだ。幸い暖まっていたので、カシミア混のコートからも腕を抜いた。
「外注しようって言ったじゃん、家事」
 返事の代わりに廊下の奥で扉が開閉する。風呂場の掃除をしていたらしい。「いいんだよ、今日は時間あったし」
「……もう引退しちゃったみたい」
 聞こえるように言ったつもりはなかったが、影山は地獄耳だった。ゴム手袋を外して戻ってきて、してねえよと仏頂面で吐き捨てた。「十二月後半は試合がねえの知ってんだろうが」
 ええ知ってますよ、と胸の内で言い返す。彼のチームは月の前半に四回試合があって、スターティングメンバーに選ばれたのはそのうちわずか一回だ。他は控えだった。月島がちょうどケーブルテレビの中継を流していたとき、どうやら腰を痛めているようだと、山口が電話をかけてきた。消音にしてビール片手にちらちら眺めていただけなので、影山の状態が公式にどう説明されていたのかは分からない。
 チームの成績はよかった。この勢いならファイナル6に進出するだろう。ベスト4に食い込めるかは微妙なところだ。トップ3は昨シーズンに引き続いて盤石の体制で、今の影山たちのチームが残り一枠に入れるとは正直思えない。メンバーを率いるのが全盛期の影山飛雄だったら、あるいは──。
「何だよ」
 慌てて首を振る。全盛期が過去のものとなった事実を二人ともが認識してから、その単語が家の中で使われることはなくなった。二度と取り戻せない若さを惜しんだって意味はない。「何でもない。ほんとに」
「あっそ」
 彼はくるりと背を向けてテレビの電源を入れた。月島は密かに安堵し、翌日の荷造りを始めた。時間はあったはずなのに、何も手をつけていない。

 神奈川の東端から日光までは三時間弱の道のりで、いくつかの電車を乗り継いで行かなければならなかった。東京駅から東北新幹線という手もあったが、所要時間はそれほど変わらないのに料金が二倍になると影山が頑なに拒否したので、北千住まで出て東武線に乗ることにした。
 地上の駅のホームは凍える寒さだった。コートにマフラー、足元はショートブーツと、できる限り温かい格好をしてきたつもりでも、風に吹かれているとたった五分の乗り換え待ちでもつらかった。毎年のように「関東の今年の気温は平年並みか高いでしょう」と予報が出ている気がするのに、月島はこの十年間、一度たりとも冬が暖かいと感じた試しがなかった。北海道や東北の寒い地域では建物自体に防寒対策がなされているため、屋内においてはもともと中途半端な東京の家屋よりも暖かいのだが、外を歩いていても一向に感じない。上京して初めての冬はさすがに感じたのかもしれない。遥か昔、若かりし頃の記憶であり、もはや無いも同然だが。
 ホームで震えていたら、ほら、と影山がココアを差し出してきた。開けてよ、と目で訴えると彼はぎろっと睨めつけてきて、けれど渋々プルタブを起こしてくれた。左手で受け取って口をつけた。熱い。熱く甘い液体が、食道を滑り落ちていくのが分かるほどに。
「もっと暖かいとこ住みてえって思わねえの」
 けったいな名前の列車に乗り込み、腰を落ち着けてから影山が口を開いた。
「九州とか、冬でも雪降んねえんだろ。気温もだいぶ違うし」
「暖かいのはいいんだけど」
 月島はココアの残りを流し込んで、仕事で行った博多の街を思い起こした。空港から市街までが近くで便利そうだった。が、感想としてはそれだけである。観光目当てで訪れたらまた違うのだろう。九州の他の県に足を踏み入れたことはまだない。
「仕事が少ないじゃん。それに僕、都会が好きだし。東京を離れるつもりはないよ」
 影山は眉を上げた。「人が多いの嫌いなんじゃねえのかよ」
「大嫌い」と月島は断言して、「でも田舎の息苦しさはないから」
「田舎、か……」
 影山はそう言ったきり窓の外に目を向けて黙り込んだ。彼はきっと、少なくとも自分よりは故郷が好きだし、影山家の一人息子として実家をどうするのかも考えなくてはいけないはずだ。今は両親が住んでいるからいい。けれど二人が一人になって、ついにはいなくなったら。月島家の実家は、兄が相続して移り住むなり売却なりするだろう。弟である自分は、もらうものがない代わりに面倒もない。
 ヘッドホンを被ってぼうっとしていたらあっという間に終点に着いた。隣で寝入っていた影山の肩を揺さぶって起こす。二人はそれぞれの荷物を棚から下ろして、東武日光駅に降り立った。
「さみい」
 太陽は山の向こうに沈みかけている。さすがの影山もダウンの前をかき合わせてハァと白い息を吐いた。夜になれば気温は氷点下になる。それでも大晦日の東照宮には行列ができるというのだから驚く。どれだけの防寒具を着込んでも、月島には耐えられそうになかった。熱海や別府あたりにしておくべきだったろうか。せっかくだから初詣にも行こうかと日光を選んだのは自分だが、深夜から並びたがりかねない影山の横顔をちらと見て、月島は一抹の後悔を覚えた。
 バスに乗り、旅館に到着する頃にはあたりは真っ暗になっていた。冬の澄んだ空をろくすっぽ見もせずに館内に入る。影山は昔ながらの台帳に二人分の名前を書き入れてから、「お前と旅館に来たことあったっけ」と首を傾げた。
「ないよ。ホテルしかない」
「……変な言い方するなよ」
「何がだよ。ただの事実じゃん」
「お前が言うとやらしいんだよ」
「はあ? 自分の頭の中のことまで人のせいにしないでくれる。中学生でもあるまいし」
 と中学生みたいな会話を交わしながら和室になだれ込み、そのまま食事を取った。多少値が張っても、部屋まで運んできてくれる旅館を探したのだ。いかにも高そうな食器に盛り付けられた料理が座卓いっぱいに並ぶと、贅沢をしている気分になった。実際しているのだが。
 影山は珍しく日本酒を注文して月島にも勧めてきた。あまり得意ではないのを知っているくせに、と思いつつも飲み始めたら意外と舌触りがよく、調子に乗って何杯も空けてしまった。たちまち酔っ払った。
 ──寝返りを打った、と知覚した瞬間に目が覚めた。ゆっくり瞼を持ち上げれば、視界はすこぶる不明瞭でことごとくがぼやけていた。室内に一人きりでいることはすぐ知れた。あいつは優しくも僕の眼鏡を外して出ていってくれたわけか。月島は青っぽい座布団から頭をもたげ、座卓の上に手のひらを滑らせた。指先に硬いものがぶつかり、カツン、と微かな音を立てて畳に落ちた。
「……ったくもう」
 熱く重たくなった身体を引きずって眼鏡を探しているとがらりと襖が開いた。何やってんだ、大きな影は呆れたふうに言って机の脇から月島の探し物を拾い上げた。まともな視力を取り戻して見た彼の顔は桃色に上気しており、視線を下にやると紺色の浴衣を着ていることも分かった。部屋に置いてあったものだ。
「しゃあねえだろ、いくら起こしても起きねえんだから」誰も責めていないのに、言い訳がましく彼は口にした。ろくにドライヤーを使わなかったようで、濡れた髪がうなじに張り付いている。「露天、悪くなかったけど、行くなら酒が抜けてからにしろよ。転んだらマジで死ぬぞ」
「本望かも?」
「ふざけんな」
 満腹で酔っ払った状態のまま苦しまずに死ねたらどんなに幸せか。冗談ではなくそう考えることもあるが、せめて存命の両親を見送ってからにすべきなのだろう。ハイハイとおざなりな返事をして手を差し出すと、彼は月島を引っ張り上げるのではなく、再び横たわらせて隣であぐらをかいた。腿の上で赤い冊子を広げている。日光くんだりまで来て月刊バリボーはない。旅館の売店には並んでいない。ありそうなものといえば、
「漫画?」
「ジャンプ」と答えて影山は裏表紙をこちらに向けた。細々と字が書いてあって結局は何も読み取れない。
 高校時代、一つ上の先輩たちが部室で好んで読んでいたのは表紙に女性のグラビアがある青年誌で、それだって日向は一緒に覗き込んでいたけれど彼は見向きもしなかった。バレー一筋の君には漫画を読む習慣はないよね、ましてやグラビアなんてねえと嫌味ったらしく言った記憶もある(我ながら幼稚にすぎる)。実際、彼の持ち物に漫画はなかったし、読み方を知らない可能性もあると思っていた。大人になってから初めて触れると、どういう順番でコマを読み進めればいいのか分からないらしいから。
 面白いの、と腿に顎を乗せて尋ねた。別に、と彼はすげなく首を振った。「バレーの漫画があんだよ。子どもに人気みたいで、誰々のわざ教えろとか言われる」
「誰の?」
「いちいち覚えてねえよ。お前読んでんのか?」
「わざじゃなくて、子どもの方」
「子ども?」影山は顔を上げて考えるふうな目つきをしたが、すぐに我に返った。「そんなの余計知るわけねえだろうが。普通に地域のバレー教室に来た──おい何で泣いてんだ」
「は?」月島は半笑いで聞き返した。
「は、じゃねえよ」
 彼は険しい表情になってジャンプを放り捨てた。その迫力につられて目元に手をやると、目尻に濡れた感触があった。酔っ払って無自覚に涙を流すなんて老人でもあるまいし。ごろりと寝転がって、「単なる生理現象だよ」と乾いた笑いを漏らせば、彼は眉間の皺を少しだけゆるめて細く息を吐いた。
「お前といるとたまに心臓に悪い」
「大丈夫、君の心臓には毛が生えてる。元気に長生きするよ」
 月島は笑って言った。これまでの人生をもう二回は繰り返せるくらい生きるよ、ゼロからバレーチームを育ててインターハイに送り込むことだってできる、日本がオリンピックで金メダルを獲る日も夢じゃない、だから引退後もちっとも暇にはならなくて、下手くそな英語で世界中を飛び回って──などと思いつくままに並べ立てていたら、ふわっと鼻先にシャンプーの香りが漂った。自宅で使っているのとは違う香りで、まるで別の家の人みたいだった。唇が目元に押し当てられ、次いで下に降りてきた。月島は目を閉じてあたたかい舌を受け入れた。こちらは歯磨き粉の味がした。
 不意に、眼球の奥がツンと痛んだ。今度こそ言い逃れできそうになく、彼の頭に腕を回して胸元に抱きかかえた。
「……君に憧れていた子どもが泣くんだね」
 うぐ、と胸の上でくぐもった声がした。影山は反射的に喉を鳴らしただけかもしれないが、そんなわけねえだろ、と言っているように聞こえた。湿った髪の毛に指を通して言った。
「あるんだよ」
 だって僕もそうだった。
 一応は真剣にバレーボールに取り組んでいた高校時代、あんなプレーがしたいと思わせてくれる選手の一人や二人は月島にもいたのだ。家で試合の録画を見て、バレー雑誌を読み込んで、部活中に密かに真似したりして。表立って言うことはなかったが、仲間内で話に出たらさりげなく情報を付け加えたし、今のブロックはあの選手に似てたと指摘されればほくそ笑んだ。
 彼らが引退を発表した頃、月島はとうにバレーから離れていた。それでも報道を目にしたときには胸がつかえた。
「仮に俺に憧れてたやつがいたとして」と影山は言った。英語から翻訳したかのようなかっちりした言い方だった。「とっくに乗り換えてるだろ、今の正セッターに。あいつは上手えよ。あいつがチームに馴染んでうまくハマるようになったら、日本はもっといい位置に行ける。だから誰も泣いたりしねえ」
 お前以外はな、と皮肉っぽく彼は続けた。その口調とは裏腹に深い優しさがにじむ声音は、出逢った当初はもちろん五年前にもなかったもので、自分たちは一体どこまで遠くに来てしまったのかと改めて意識せずにはいられなかった。月島は努力して大きく息を吸い込み、君のために泣いてるんじゃない、君を見送らなきゃならない人のための涙なのだと声にはせずに言い返した。
 部屋が静まり返ると、時計の針の音が耳についた。昔ながらの木彫りの振り子時計が壁にかかっているのだ。フロントにはきょうび滅多にお目にかかれなくなった大型の柱時計も置いてあった。随分古そうだったが、時間きっかりになれば鐘の一つも鳴らすのだろう。きっと何十年も前から、周りに人がいようといまいと、自らの仕事を粛々と遂行してきたのだろう。
 やがて月島は言った。「今何時かな」
「今日は大晦日じゃねえぞ」と影山が笑った。
「分かってるよ」と月島も笑った。今日はまだ三十日で、今年はあと一日残っている。それだけあれば、彼のバレーボール選手としての最後の年末を惜しむには十分だと思いたかった。

 元旦は快晴だった。
 二人は旅館をチェックアウトしてから初詣に向かったので、東照宮前に着く頃にはほとんど昼になっていた。人出は多かったが予想していたほどではなく、月島はほっと胸を撫で下ろした。拝観料がそこそこするからというのもあるだろうが、何事も東京基準で考えてはいけないのだ。都心のど真ん中にある明治神宮とはわけが違う。
 道なりに並ぶ屋台を、影山は一つ一つ丹念に眺めた。朝食を取ってから三時間ほど経っており、燃費の悪い彼が空腹を覚えるのも当然だった。
「食べたいなら買えばいいじゃん」
 月島は親切から申し出たのに、なぜか彼の怒りを買った。さっぱり理解できないまま好きそうなものを二つ三つ購入して「持って」と迫ると、彼は素直に受け取って口をつけ、最後には自分でも買い足していた。一年の計は元旦にありと言うけれど、ジャンクフードを我慢して得られるものなどたかが知れている。どうせ脂肪にはならないのだし。
「……お前もちょっとは運動しろよ」
「してますよ、君が知らないだけで」
「してんの?」と影山は聞き返してきて、ベビーカステラを手品のように飲み込みながら、「バレーか?」
「違うよ、どうしてそうなるんだよ」
 もはや笑うしかなかった。月島が通っているのは関東でチェーン展開しているスポーツジムで、週に数回黙々と走ったり筋トレのマシンを使ったりしている。三十代後半になったら一気にガクッと来るぞと周囲に脅された末の入会だった。しかし「ガクッとくる」年齢は人によって様々で、つまりは日頃の行いがものを言う。たっぷりの睡眠、適度な運動、バランスの取れた食事。
 バレーについては、久々にボールを触って遊んでみるのも悪くないと思える程度には割り切れており懐かしくもあったが、何も今やらなくたっていい。影山が無事に引退して、二人ともがただの会社員になってからでも遅くはない。人生は長い。彼に伝えた通り、うんざりするほどの時間が目の前に横たわっている。漫画で言ったらようやく第一部完、ってな具合である。
 ──何て贅沢な遊びだろう。
 賽銭を投げ、無心で手を合わせて影山を振り返ると、彼はやけに熱心に祈りを捧げていた。帰りの電車に乗り込んでから、いったい何を願掛けしていたのかと尋ねれば、
「消費税がこれ以上あがりませんように、って」
 しょぼいお願いするなよ、と月島は肩を落とした。