Work Text:
蜘蛛の糸
「…それで終わり?」
「うん」
スティードは膝の上の本をパタンと閉じると、私に微笑みかけた。図書室の淡い光がえんじゅ色の上質な革表紙を照らしている。まるで途中でページをざっくりと破り落としたような終わり方に、私は思わず戸惑ってしまった。
「この後は?落っこちた主人公はどうなったんだ?死んだのか?」
「どうだろうねぇ」
「もし主人公が下を見なかったらどうなってたんだ?そもそも、どうやってあんなモノに掴まったんだ?」
「それをあれこれ自分で考えるのも小説の醍醐味だよ、エド」
様々な疑問が、次から次へと湧いて出てくるが、スティードはイエスともノーとも答えてくれない。物語にしみじみと感じ入っているようだ。
スティードが毎日読んでくれる本の中には、こういった終わり方をするものが少なからずあった。一昨日の魔法使いの話も、七日前のジャングルでの冒険の話も結末に私は納得できず、色々とスティードに問いただしたのだ。彼はやはり、スルリスルリと答えをはぐらかしてしまったのだが。
「そうやって不思議に思ったことがあったら、自分で筆を取ってみるのも良いよ。日々何か動かされた感情を、そのまま形にするんだ」
透き通ったその青い目を細めて、スティードは声を弾ませた。文字は僕が書くよ、とページの上でその指先が動く。夕暮れの暖かな日差しに照らされて、角張った指が文字の列に長い影を伸ばしていた。
「“読んだ本の意味が分からなかった”とか“髭が湿気で広がって最悪”みたいなことでもいいのか?」
「ふふっ、もちろんさ。気持ちがまとまって、すっきりすると思うよ」
そういうものなのだろうか。部屋の壁に隙間なく敷き詰められた本の数々に目をやる。あれも全部、そんな取り止めのない気持ちの集合体だって言うのか。
「面白そうだな。今度やってみよう」
そう返すと、隣でスティードが優しく頷く。彼のブロンドの髪が窓の外のマーマレードみたいな夕焼けに照らされて、溶け合って見えた。
あれから数ヶ月。
「…全然すっきりしねぇじゃねえか」
夜のリベンジ号はインク壺の中みたいに黒く、ずっしりと雲ののしかかった空は随分低く見える。
右手に握った、ルシアスが書き留めた詩が書かれた紙の断片に目を落とした。言葉にしてみても今の気持ちはまとまるどころか、乱気流のようにいっそう掻き乱れてしまっている。インクの掠れた跡や、形の違う線や点。どれも私には何か黒い虫が這いずり回っているようにしか見えない。たぶん最後の方で何度も繰り返されている箇所に「hold on」と書かれているんだと思う。
甲板の手すりにもたれて、ぼんやりと暗い海を眺めた。
スティードはなぜ消えてしまったのだろう。今どこにいるんだ。そもそも生きているのだろうか。私のことを、どう思って…。
『気になるなら、聞きにおいでよ』
その時、どこからかホットケーキのような声が降ってきた。牛乳で仕立てた、少し砂糖多めのホットケーキのようにふんわり優しい声。
「スティード?スティードなのか?」
慌てて周囲を見渡すが、深夜の甲板には私以外誰も居る気配はない。聞き間違いだっただろうかと自分の耳を疑う。
『こっちこっち』
頭上だ。曇天に突っ込んでいてよく見えないが、マストの先端辺りに小さなランプほどの明かりがぼんやりと光っているのに気づいた。
『なぁ、そこにいるのか?今行く!』
首が痛むほど見上げて叫びながら、垂れ下がるロープに手をかけた。暗くてはっきり見えないが、いつものロープよりなにか絹糸のようにほっそりしていて、妙に掴みづらい。だがスティードの声がする方へ、私は光に寄せられる羽虫のようにずんずんと登っていった。
登り始めてしばらく経った頃。ただの船のマストのはずなのに、なかなか上に辿り着かないことに私は気づいた。掴んだ糸はなぜか手の間をすり抜けてしまうほどに細くなっている。すぐ横に建っていたはずのマストを支える柱も、いつの間にか消えて見えない。
「なぁスティード、話したいことがたくさんあるんだ…」
暗い夜空に向かってそう語りかけてみるが、返事はない。気づけば頭上の灯火は濃霧に隠れ、辺りはどす黒い雲に覆われてしまった。
「詩も作ってみた。聞いてくれるか?」
自分の喉から出た声は情けない程にか細くて、しかも裏返っていた。以前スティードがしてくれた話が、ふと脳裏をよぎる。なんだっけ、天の国を目指して、地獄に垂らされた糸を登っていった男は…
そこまで考えて、つい下を見てしまった。気づけばはるか眼下になっていた地べたに、何かうぞうぞと蠢いているものがある。
「…なんだ?」
目を凝らして見ると、それは人の集団だった。何十人、何百人という人が、皆それぞれ苦悶や怒りに満ちた、死に顔みたいな顔で私の登る糸に群がってきている。あれは私が今まで殺してきた人間たちだと、すぐに察した。
そしてその中でも、他の男たちを押し退け一番に登ってこようとしている男ははっきりと見覚えがあった。
「エドワード!てめぇどの面下げてそこにいる?」
「父さん…!」
幼い頃、俺と母さんに毎日地獄を見せた男。怒りと老いで深くシワが刻みつけられたその男は、記憶の中の親父そのものだった。
アイツを絞め殺した時の感触が蘇ってきて、ぎゅっと指が強張る。
「俺を殺したってのに上に登るつもりか?俺だけじゃない、こんなにだ!まさか自分に、選ばれる資格があるとでも?」
親父は私を思いっきり睨みあげて、ここまで唾が飛んできそうな勢いで叫んだ。私の人生全てを見通しているような低いがなり声が、私の鼓膜を揺らす。
「ち、違う、俺はただ、」
動揺して口から自分でも訳の分からない言葉が漏れる。細い細い糸を持つ手が滑り、ぐらっと体のバランスが崩れた。
そこで、親父の真横に一人の少年が居ることに気がついた。他の奴らのようにここまで登ってこようとする訳でもなく、ただぼんやりと立ってじっとこちらを見上げている。焦茶の癖っ毛、大きな瞳に光はない。全てを諦めてしまったような表情をしている。
あれは、少年時代の私だ。
「あっ」
その瞬間、糸から手が離れた。
落ち葉のように散った体はくるくると、どこまでも落ちていく。手を伸ばした空の向こうが、一瞬だけ金色に光った気がした。
その後どうなったのかは、誰も知らない。
