Work Text:
希望ヶ丘は、決して悪いところではない。建物も昭和のものが多くて商店も地元に密着したものが多く、都会の喧騒とはほど遠い、世田谷区の閑静な住宅街だった。理想的な住まいとは言えないが、それなりに住みやすい。
そんな環境にピッタリな住民も多かった。若い頃大きな夢や憧れをだいていても、就職や転職に失敗し、理想とはほど遠いが手に入れやすくて適当に心地よい暮らしに甘んじている。日向創もそうだった。実際、2倍ほどもそうだったが…とにかく、駅前にある交番に警察官として就職することになったのだから、それでいい。希望していた職業ではなかったが、町の人たちと触れ合い、必要なことを手伝うのはそれなりに楽しい。
希望ヶ丘には犯罪も少なく、巡回と自転車の登録チェックが主な仕事だったが、のんびりできて当面の独身生活を支えるには十分な収入になった。住民も親切で2年も経つとほとんどの名前を知っている、学校の先生からフリーターの配達員まで。巡回に出かけると必ずと言っていいほど挨拶があり、そこから会話がはずみ、楽しい毎日が続いていた。
だからその晩、交番に帰ってきた日向が上機嫌だったのも当然のことだった。自転車を停めると交番の建物を見上げた。周りの建物と比べたら結構近代的なもので、正直言って少し奇妙に見えた。が、何度考えても変わらないデザインだとすぐに納得し、中に足を踏み入れた。
「ただいま、先輩」
担当者がちらりと顔を上げ、また書類に目を戻した。
「おかえり、日向君」
と声をかけてくれた。
霧切響子巡査長は日向より1歳年下だが、3年長く勤務していて、交番の責任者として上役を務めていた。
「ご苦労様。なにも異例はないんでしょうね?」
「異例って、今まであったことある?」
霧切は再び彼を見上げ、小さな笑みをくれた。
「ないわね」
彼女は頭を振って机に向き直った。
「もう帰っていいよ。私はここで終わらせるわ」
「了解」
日向は更衣室に向かい、手早く制服を着替えてから前室に戻った。
「かがやきに行くけど、その前に夕食を買っておこうか?」
今度は顔を上げようともせず首をふった。
「その必要はない。うどんを頼んでいたから、もうそろそろ――」
「霧切さん!」
二人が玄関に目をやると、おなじみのある人物が出前箱を抱えて中に入ってきた。
霧切は微かに笑って立ち上がった。
「噂をすれば…こんばんは、苗木君」
苗木はにっこり笑って、箱を机の上に置いた。
「こんばんは、霧切さん。ご注文の品はお持ちしましたよ」
日向を見やると、頭を下げて挨拶した。
「日向クン、今退勤してるの?」
「ああ、今日はもう終わりだ。かがやきに食べに行くんだ」
日向は10月の寒空に出かける準備をするため上着を羽織った。
「苗木も、退勤いつ頃?勤務終了後、飲みに行かないか?」
霧切の夕食を出前箱から取り出しながら、苗木は首を振って照れくさそうに笑った。
「いや、このあと別のバイトがあんだ。それに、その…いや、花村クンはいい人だけど、ちょっと…」
日向はくすくすと笑い、ドアに向かった途中ですれ違った苗木の肩を叩いた。
「わかったよ。じゃあ、お先に」
「うん!」
苗木は快活に手を振って見送った。
「日向クン、お疲れさま!」
「また明日ね」
と、日向が道に出る直前、霧切は言った。
日向はそよ風に少し震えて上着をぎゅっと握り締めた。ついこの間まで残暑が厳しかったのに、もう秋の気配が濃厚になってきた。風を避けるために、近所の居酒屋までの数区画を早歩きで通った。
居酒屋「かがやき」の玄関に足を踏み入れた日向は、歩いている間息を止めていたかのようにほっとしたようにため息をついた。慣れ親しんだ照明と話し声は心地よくて、上着を脱ぎながらカウンターの席に向かった。
店主兼コックが顔を上げると、日向に気づいてにっこり笑った。
「こんばんは、日向くん!」
日向は頷きながらカウンターで腰を下ろした。
「やあ、花村。寒くなってきたな」
花村はカウンターに寄りかかり魅惑的な笑みを浮かべた。
「ふーん、そうだねぇ。今夜はぼくが温めてあげようか?」
「そうだな。じゃあ、温かい鮭茶漬けで」
クールな即答に花村はにやりと笑った日向をぼんやりと見つめる。
「なんだ?」
コックはため息をつき、首を横に振った。
「昔は反応もあんなに可愛かったのに…」
「そりゃ俺は2年もここにいるんだ。もうお前のやり方は知ってるはずだろう?」
花村は首を首を振り続けながらビールをグラスに注ぎ、日向の前に置いた。
「いつものやつをどうぞ。茶漬けを作るからちょっと待ってくれ」
日向は背の低い男に感謝の笑みを見せると、グラスを口に運んだ。食事を待っている間、日向は他の客に目を配り、声をかけてくる人に手を振っていた。常連客ばかりで、当然のことだった。かがやきは地元の勤労者に人気あり、20代の若者が夜な夜な通う店だが、町外からの客はあまりいないのだ。
ごく普通の夜だ、と思いながら日向は黙ってビールを飲んだ。ああ、なかなかいい暮らしだ。完璧ではないが、平和で予想通りの生活でよかったのだ。
「鮭茶漬けできあがりっ!」
と花村が日向の前に茶碗を置くと、正面のドアがガラッと開いた。
日向と花村の顔が玄関に向かうと、初対面の青年がいた。それだけでも不思議なのだが、彼がカウンターに近づくにつれ、日向はその異様さに気づかざるを得なくなった。背が低い。花村ほどではないが、日向より頭一つ分ほど低い。しかし、シャープな細線のスーツに金髪の坊主で、そして童顔にかかわらず不機嫌そうな表情が、実に圧倒的に見えた。
青年は日向の2つ隣の席にぐったりと座り込んだ。顔を合わせた日向と花村は、見知らぬ男が入ってきたから一言も発しなかったが、この展開に少し雰囲気が冷めたのは明らかだった。
日向は花村に向け、金髪の男に首をかしげた。ようやく意味を掴んだ花村は沈黙を破り、男に向かった。
「やあ、いらっしゃいませ!何にしましょうか?」
「焼酎。ストレートで」
と、ネクタイを緩めながら、男は明らかに何かに苛立っている様子で不機嫌に言った。
「どんどん注いで」
「はあ…」
花村は一瞬、日向に目をやったが、また一元客に戻した。
「身分証明書をお持ちですか?」
日向はかろうじてうめき声を抑えたが、同時に青年がうなり声を上げてカウンターに手をついた。怒りに燃える目でコックに近づいた。
「ガキ扱いする気か!?」
彼が叫ぶと、花村は身を縮こまらせた。
「見下ろすんじゃねーよ、あぁ!?」
「おい、ちょっと待てよ」
と日向は切り出し、状況を和らげようとした。
「あいつはいつも初対面の人にそう聞くんだ。あの弐大にも」
日向は、食堂の低いテーブルに座っている体格のいい高校の体育の先生を指差した。いつものように小学校の体育の先生と一緒に飲んでいる。
「珍しいかもしれないが、花村は被害妄想が強いんだ。そうならないようにと言い続けているんだけどね」
この言葉に日向は花村に鋭く睨んだ。何度も何度も、非番の警察官がいても、そんなに気張る必要ないと言ってきた。
金髪の男は口を引き結び、明らかにまだ苛立っていた。それなのに、席に座り直し、不機嫌そうに住基カードを取り出してカウンターに叩きつけた。
日向はそのカードをちらっと見ただけで、花村は手に取って確認した。その間、日向が分かったことは二つだけ。名字が「九」から始まっていることと、市章が確か内陸部の町のものであろうこと。やっぱり地元の人間ではなかった。なぜかがやきに来たのだろう?
「はい、いいですよ」
と花村は言って、住基カードを持ち主に返した。酒を注いでいる間に、青年はカードを戻してしまい、フッと息をついた。
日向はぼんやりと茶漬けを食べながら、見知らぬ男を横目で見ていた。花村が接客したのなら酒を飲める年齢なのだろうが、グラスに注がれた酒を飲み干しおかわりを要求してくるので、日向は本当に焼酎のストレートに耐性があるかと疑問に思った。かなり小柄で、しかも何も食べてないのだ。
案の定、アルコールはすぐに効いてきて、男はカウンターに頭を寝かせているにもかかわらず、まだ飲み物を追加注文していた。
「あの…」
日向は空になった茶碗を退けながら、たまらいながら口を開いた。
「本当にまだ飲んでいいのか?顔色も悪いし…」
「うっせーなぁ」
見知らぬ男の言葉はカウンターの上でくぐもった。
「飲みてーもんを飲めんの」
日向は花村をちらりと見たが、花村は力なく肩をすくめただけだった。
「せめて何か食べたほうがいいんだろ?おすすめなら焼き鳥とか――」
金髪の男はカウンターに手をつき怒鳴った。
「ほっとけぇなぁ、くっそ!オーナー!もう一杯!」
日向は花村の視線を受け、きっぱりと首を振った。しかし、花村はこういう時、いつも痛々しいほど押しに弱いんだ。焼酎が注がれる度に日向はため息をついた。
そのまま続いた。金髪の男はカウンターから顔を上げ、飲み物のおかわりを要求し、グラスが空になったらまたカウンターに下ろし、何度も何度も繰り返す。やがて、頭を上げることも完全に止まった。
花村は慌てた様子で日向を見た。
「注ぐのを止めろって言っただろう?」
「そ、そうだけどぉ…」
花村は言葉を失い、不安げに見知らぬ男の腕を揺すった。
「お客様?大丈夫ですか?」
金髪の男は体を起こし、ゆっくりと頭を上げた。花村の顔に安堵の色が浮かんだが、青年のまっすぐな指差しに対してまた消えた。
「テメー…」
花村は明らかに動揺していた。
「は、はいっ?」
「あのなぁ」
「はい…?」
見知らぬ男が焦点の定まらない目でコックを見つめたまま、しばらく沈黙が続いたが、やがてつぶやいた。
「テメー…いい男だなぁ」
そんな言い方に、日向は花村が淫らな冗談を言うの期待しかけたが、明らかに混乱していつもの思わせぶりな花村ではなかった。
「あ…どうも…?」
「ああ」
金髪の男はカウンターに頭をもたげ空になったグラスをいじっていたが、もはやおかわりを要求することはない。
「未成年げ酒を飲むクソガキが多すぎうし、それを放置してるクソバカも多すぎう。けどよー。テメーはいいやつだ、身分ちょ…んん…あんなもんぉチェックしてんのぉ。よぉやったなぁー」
そんな状況にもかかわらず、日向は面白くて仕方なかった。その男はあまりにも無愛想になって、ただ友好的な態度にループしてしまうようだった。
「人間なんてくそ食らえだぉ。バカヤローが多すぎう。マジで腹立っつんの。あとテメー!」
日向は、今度は自分に声をかけられていることに驚いた。背の低い男は体を持ち上げ、席を一つ移動して日向のすぐ隣に座った。もっともっと近くに寄って、直接日向の瞳を見つめた。日向はうずうずして、顔をそむけないようにしなければならなかった。自分の目をとても意識していて、見ず知らずの人にじっと見られているのはやっぱり気まずくなった。
「いい目だなぁ」
…は?
日向は、まだ引き下がらない小柄な男を見下ろして、瞬いた。いい目、って…日向の?嘘だろう?そんな虹彩の異様なストレス線はまだ薄くなっていないのに?日向はぎこちなく顔に手をやりながら、胸に不思議な温もりを感じていた。その温もりは…感動?嬉しさ?そういうことか?
金髪の男はまだ動かず、目の焦点も合っていない。この状況は時間がたつにつれて、ますます居心地が悪くなっていた。ついに、日向は沈黙を破ろうとした。
「あの…もう下がって…くれませんか?」
その男は最初は反応せず、もう完璧に状況を掴んでいないようだった。ようやく視線を再び日向に向け、眉根を寄せた。
「吐きそう」
「はーいはいはいはい!」
相手の胃の内容物がシャツに付着する前に、日向は素早く気まずい体勢から脱がし、席から飛び降りた。
「ここから出ようせ、な?」
見知らぬ男の腕を掴み、大きく身を屈めて肩で支え、ポケットから札束を取り出してカウンターに叩きつけた。
「ほら、花村。俺とこいつの分をまかなえるはずだ」
間髪入れずに日向は上着を手に取り、居酒屋の外へと男を連れ出した。
居酒屋から出ると、日向はありがたいに新鮮な空気を吸いながら、相手の体を支えるために少し肩を寄せた。
「おい、気分はどうだ?自分で歩けるのか?」
苛立つようなぶつぶつしか返ってこないので、日向はまたため息をつきながら大通りまでの道程に心の準備をした。
「タクシーを拾ってあげよう」
「何をしているのだ」
日向はわずかに飛び上がり、肩越しに誰が声をかけてきたのか確かめようと奮闘した。
街灯に照らされた眼鏡をかけ、銀色の髪を一本の三つ編みにして、黒いスーツを着た女性が颯爽とこちらに歩いてきた。
「あの…」
「言わなくても分かる」
女性は二人に追いつくと、小柄な男に一通り目を通しながらため息をついた。
「酔いつぶれてしまったか。やはり一緒に入れば良かったのだろう…」
日向はその女性をぼんやりと見つめた。背中に刀袋のようなものをぶら下げているように見えたので、衝動的に登録証を持っているかどうか聞きたかったが、それよりも重要の問題があると判断した。
「この男知ってるか?タクシーを呼ぼうと大通りに連れて行こうとしたんだけど…」
「その必要ないぞ」
女性は鋭く答え、一挙にスマートフォンを取り出した。彼女は一瞬、二人に背を向け、電話に向かって耳に届かない言葉を発した。電話を切ると、日向を厳しい視線で見据えた。
「お迎えの車を呼んだ。坊ちゃんの面倒を見てくれてありがとう。ここから私達に任せてくれ」
「車!?」
日向は思わず声を上げてしまった。希望ヶ丘で車を運転する人はほとんどいなかった。ここで普通車一台が通れる道幅はあるかどうかも疑問を持っている。それに、「坊ちゃん」と言ったか?一体どうなっているんだ?
1分も経たないうちに、日向は角を曲がったところからモーターの唸る音が聞こえてきた。案の定、黒光りする車が通りを突っ切り、居酒屋の前でぴたりと止まった。日向はその光景に目を見張りあまりの衝撃に、酔った男を押さえきれなくなりそうになった。あれは…ベンツか?正直なところ、日向は車にはあまり詳しくないが、高校時代の友人は詳しい。昔、こんな車が載っている自動車雑誌でよだれを垂らしているのを見たことがある。間違いない。
日向は頭がくらくらするほど混乱していた。こんなことは、希望ヶ丘ではありえない。十神のやつは時々、家業の投資先を調べに来るが、それはこれと違う。それはもっと…健全なこと?
日向は小柄な男を車に乗せながら固まり、女性を見つめると、いぶかしげな表情を浮かべた。見知らぬ二人の間に目をやり、自分の体が自動操縦で動きながら、少しずつパズルピースが重なっていくような感覚を感じた。こんなスーツ、こんな車、そしてこの二人が放つこんな雰囲気…
何か怪しい。
男を無事に車に乗せ、ドアを閉めると、日向は慎重に後ずさりした。女性は、もう一度日向を注意深く見てから、軽くお辞儀をして車の反対側に姿を消した。しばらくして、その車は角を曲がって見えなくなった。
日向は車が消えた先をじっと見つめながら、頭の中で歯車を回していた。あれは…
今起こったことを説明するものは、他にあるのだろうか?
きっとあるに違いない。
あるはずなのだ。
だって希望ヶ丘は静かで、平和で、はっきり言って退屈なところだ。
それなのに、一体どうしてヤクザがいるんだ?
