Work Text:
今更、何も聞こえない。
新宅はある国営瞑想室に居る。壁が防音なので、ついに平和を感じる事が出来るのである。彼女に聞こえる音は唯一つ。
それは、鼓動である。
最近、その鼓動は益々反響が大きくなっていくのである。理由は分からないが、誰にも反響について言えないから、とても一人ぼっちなのである。寂しさに慣れてきたであろう。
壁が防音であるが、与党が新宅を聞いている事を彼女は知っているのが、こんなに静かな部屋ではそれも忘れる事が出来る。こんなに静かな瞑想室で、新宅は瞑想が出来る。他の全てがどうでも良い。
その内、新宅は部屋を出て、また音が戻ってくる。鼓動のお陰で辛うじて考えられる。ドキドキ。ドキドキ。近い、遠い──ドキドキ。
微かな覚えがあるのである。その記憶では、今よりも聞けていた:鼓動以上の物が。人々の話し声。言語。新宅は今でも日本語の話し方を分かっているが、あまり話す事は無い。もう流暢に聞こえない事は分かっている。
ある友人と会う。友人の数は多くないが、他人と違い、その友人達とも大体あまり親しくないのである。難しいからであるよ。聴く事が、という訳でない──唇が読める──寧ろ、誰かと親しくなったり、信じたりする事いつも罪悪感に苛まれる。
であるが彼女を弁護すると、他人を信用出来る筈が無いのである。新宅が今会っているこの友人でも、他の人達と同じ様に、恐らく政府所有の者であろう。
それに、友人なんて要る訳無いよ。
彼女が覚えている限り、これまでに信頼出来た人物は唯一人だったのである。
新宅の養母──宮地──は、普通の人が母親らしいと思う様な人でなかったであろう。新宅を友人の様に扱い、特に新宅が聴力を失い始めた時にはそうであった。新宅は宮地の姓を名乗る事が出来なかった。刑務所で服役した後、宮地は法律上、新宅に姓を名乗る事が不可能であった。養子縁組を組む事も合法でなかったが、新宅の父親の死去後、宮地は密かにそれをした。
(父親の事は殆ど何も覚えていないが、新宅が生まれた数年後に死んだ生母の記憶に比べると、その少ない記憶が多く見える。)
宮地は可也高齢であった。彼女は未だに終戦時を覚えていた。日本が勝った時。広島には武器の備蓄地がとても大きく、東京に次いで、最大の祝典を催した。
日本が勝った時、宮地は他人の様に祝う為家から出ようとはしなかった──その日は殆ど自分の部屋から出なかったのである──寧ろ、宮地は泣いたのである。彼女には中国人の友人が居た。韓国人の友人も居た。その戦勝に、宮地は危うく打ちのめされた。(その友人と再び会う事は無かった。)
最初は、抗議していた。然し、結局、投獄された。
その後も──否、特にその後も──宮地は政府を憎しみ続けていたが、口に出し言う事は無くなった。
ある日、宮地は新宅に伝えた、
「ねぇ、新宅よ!」
「はーい?」
理解してよ、唯の子供だったのである。世界の仕組みが分かっていなかった。
「友人の一人が最近子供健康局に入ってさ…」
「…で?」
「僕等を助けてくれるって言われたよ!」
新宅はちゃんと理解出来なかった、
「本当?どうやって?」
「完全に法的ではないけど、法的拘束はあるし、君の名字を変更出来るんだ!つまり、私の名字に。」
全ては新宅の為であった。毎日毎日、彼女は自分の名によって、自分が宮地の本当の娘でない事を思い知らされた。
「うそー⁈」
「嘘なんかじゃないよ!」
本当であった。でも新宅──直ぐに名乗る宮地──は、言うまでも無く非常に興奮していた。
子供の頃、興奮すると、何が起こる?つまり、何をする?
そうである。友人に全てを話す。
未だに新宅はこれが分かっていない:
その友人なのか、それとも他の誰かに友人は言っただけなのか。
政府にバラしたのは。
数日後、新宅は空き家に帰った。誰が話したか分からなかった為、誰も信用出来ず小学校の間は、誰とも口を利かなかった。
心の底では、時々、夜更けて、誰かに話してしまえば、こんな事が起こると知らなかったかと考える。宮地が直ぐに出なかったらきっとバレて真実を知るであろう。新宅は実は耳が聞こえなくなっている訳でない事。
そう成ればどうすれば良いのか分からなかった。今でも分からない。
『弱肉強食』
きっと嘘であろうね。それ以来、新宅は一度も自分を強く感じた事が無い。
墓地では鼓動がいつもより静かで遅く感じる。墓地に居る他の人々、新宅の悲哀を分かち合う。鼓動が彼女の煙草の様に柔らかい。
この墓地には宮地の名を分かち合う墓があるのである。新宅の母──というか養母──は墓石を贈られる事は無くこの墳墓で事足りるのである。新宅は墓石に何も言わない。何故なら今まで言えなかった事は全て、何度も言われたからである。彼女は泣かない。
(部局より怖い機関が唯一つある。然し、新宅はその存在を知ってはならない。それを知っているのは与党と彼女の様な人間だけである。
そして彼等彼女の様な人間は欲しい。)
新宅は帰宅途中、監視カメラの存在を強く意識している。
到着する時、彼女は疲れていたが寝る事が出来ない。この疲れが感情的な物だからである。彼女は自分のした事に対する罪悪感を決して止められないのである。
明日は仕事である。晩御飯はもう作った。食器洗い機はもう片付けた。この新しい家は、居心地が悪い。新宅はもう飽きたのである。
幼年期の家に戻る。国に差し押さえられて収用されていた物である。代わりにマンションを建てるそうである。マンションのの方が警備が良いからである。
新宅はごくりと喉を鳴らし、中に入っていく。
強い鼓動が聞こえてきて、直ぐに自分が今日母親達と一緒に成る事が分かる。何故なら最近、自分の鼓動が益々反響していっているからである。
何故分かるのか分かっていないが、確かに理解している:終わりは、直ぐそこまで来ているのである。
宮地の書斎に行くと、宮地が良く読んでいた本が未だにそこにあるのに気付き、新宅は少し驚く。部局が本をここに残しておいたのかな?新宅が帰ってくるかどうかを見る為にとか?そうであれば、部局は可也忍耐強かった。
収用は彼女を誘き寄せる試みだけであった?
突然、宮地からの正当な大義であると思っていた事が無意味に思える。稚拙で可哀想。彼女は一秒でも同じ信念を分かち合った事が今恥ずかしく堪らないのである。
それが齎したのは、二人の死だけであろう。
カッとして最寄りの本を本棚から掴み、出来るだけ強く投げる。床に投げ付けると背表紙がバタンと切れ、音は何故か心地悪い。快感である。彼女は、同じ事を繰り返す。一回、二回、三回。ページを本から破り取り、彼女の可憐な指の下で、この扇情的な文章が容易に崩れていく事を見る。
鼓動が近付いている。
新宅は段階を下りて一リットルの食用油の瓶を手に取り、また二階へ戻ると紙に油を掛ける。
(建物は既に解体されるつもりであったね。)
鼓動が家の入り口で響いている。
煙草に火を付ける。
鼓動が段階を上がってくる。
ページに煙草を落とし
ぼっと本に火が燃え上がる。工作員が新宅の元に辿り着く。銃を持っている様である。
新宅の心拍があまりにも大きく反響している。それはあまりにも弱い。唯一つ聞こえるのは、工作員の鼓動だけなのである。それは殆ど自分の鼓動を掻き消している。
「静かにおいで。」
ついに、母──というか生母──が新宅の様な者であったと気付く。もしかして、母親は未だに他人局の地下に居て、工作員に彼女の所に連れてきた人達の寿命はどのくらいかを告げているのかもしれない。毎回、彼等は彼女にドラッグをもう一服与える、然し彼女はしたいのは現実逃避だけなので好きに成ってきたのである。
工作員が新宅を殺しに来たのでない事に気付く。
追い越しが今日であろうと、たった今であろうと、彼女の心臓の反響が銃弾で終わる事は無いのであると気付く。
彼女は最後の油を自分に掛け、後ろに倒れる。
彼女が発する悲鳴はとても大きく、心拍が──ついに──終わるのを聞く事は無い。
今更、何も聞こえない。
