Chapter Text
隙ができていたのかもしれない。沈垣が沈清秋として生きて十年以上の時がすぎた。だから、沈清秋はもう俺なんだと慢心していたのかもしれない。
「そういえば、師尊のお誕生日はいつなのですか?」
「誕生日?そういえば明日だったな」
「そ…そうなのですか?!そんな大事なこと…早く帰ってお祝いの支度をしましょう!」
蒼穹山派での、峰主会議という名の近況報告会が終わってすぐのことだった。沈清秋と離れたくないとぐずる洛冰河は、清静峰首席弟子という名目でついてきていた。会議が終わり、峰主たちや首席弟子たちの雑談で偏殿がざわめく中、なんとなく出た会話だった。洛冰河は目をまんまるに見開き、今聞いた重大情報にわなわなと体を震わせている。まったくこの子は大袈裟だ。沈清秋はどこかくすぐったい思いを感じながら、冰河に急きたてられて席を立とうとした。
「九月二十一日がかい?」
「ええ」
隣からかけられた何気ない声に相槌をうってから、沈清秋はハッと気がついて慌てて振りかえった。蒼穹山派第二席、沈清秋の隣には、蒼穹山派宗主、岳清源が座っている。岳清源は能面のようにのっぺりした読めない顔をしていた。
「沈清秋は本当の生まれた日を知らないよ…誕生日を祝うような生まれではなかったからね。それは誰の誕生日だい?」
『狂傲仙魔途』の沈清秋に誕生日なんてない。ネットのハーレムエロ小説の悪役に誕生日をつける作者がどこにいる?!沈清秋がうっかりもらしてしまったのは…沈垣の本当の誕生日だった。今の失言を聞いたのが別の人間ならなんとでも取り繕える。この世界の人間で、沈清秋の過去を知る峰主は誰もいない…岳清源以外は。
まずい。沈清秋は冷や汗が背中を伝うのを感じながら誤魔化した。
「…自分でつけたのです。誕生日の真似事をしてみたくて」
「違う、その日じゃなかった」
岳清源は目を細めた。不気味なほどに確信に満ちた顔をしていた。打飞机ニキ?!沈清秋の誕生日なんて裏設定が実はあったの?!沈清秋は尚清華をちらりと見たが、尚清華はただ唖然とした顔でなりゆきを見守っていた。
岳清源は少し息を吸い、覚悟をきめたような顔で問いかけた。
「ずっと前から、何度も聞こうか迷っていた。君は、いったい誰なんだい?」
シン、と偏殿に沈黙が落ちた。岳清源は今まで見たことのない、ラスボスじみた表情をしていた。沈清秋は気圧され、つい逃げだそうとしてしまった。
「待ちなさい」
岳清源は玄粛剣に手をかけた。鞘からわずかに覗く剣身が目の眩むような閃光を放ち、偏殿を真っ白に染め上げた。沈清秋は手のひらをかざして光をさえぎり、とっさに洛冰河の手を掴んでおさえた。数年まえに、埋骨嶺での魔界人界融合未遂事件をやっとのことでおさめたばかりなのに!いまここで冰河が沈清秋を庇うために戦い、蒼穹山派を木っ端微塵にしてしまったら目も当てられない。
「師尊––––」
「掌門師兄!衝動的なことはおやめください」
目の前に影が落ちた。光のせいで残像の散る目をしばたき、まともにものが見えるようになった時、柳清歌が乗鵉剣を手に沈清秋の前に立ち塞がっているのが見えた。洛冰河も正陽を抜き、沈清秋がおさえていなければいまにも飛びかかりそうな顔でうなっていた。岳清源は剣をおさめ、低い声でつぶやいた。
「おかしいとは思っていた。だからこそ何度も紅鏡剣を試してもらったのだけれど。君の癖も、嗜好も、眼差しも変わって…ただ何の確証も得られなかったから。でも今の話は、明らかに変だ」
沈清秋の手にじわじわと汗がにじんだ。そこまで地雷になるようなことを言っただろうか?驚いて逃げ出そうとしたのもまずかった。岳清源は、転生したばかりの頃はクエストNPCのように思ったほど、いつも穏やかだった。その岳清源の顔に、沈清秋に向けるはずのない表情が浮かんでいたせいで判断を誤った。『狂傲仙魔途』では生涯抱えていた秘密を打ち明けるほどに、岳清源は沈垣を沈清秋だと信じていると思っていたから…油断した。
偏殿は水を打ったように静まり返った。
「沈清秋が変わったというのも昔の話でしょう。今更そんな話を蒸し返すなど…」
「だが当時は君も、まるで奪舎されたようだと言っていたね。柳師弟?」
柳清歌は乗鵉をおさめることなく渋い顔をした。
「いずれにせよ、そんな風に剣を抜かずに沈師兄の話を聞くべきだ。穏便じゃない」
穏便!百戦峰主の口からそんな言葉が出るとは!
「そうだね、すまなかった。でも…小九が自分で決めた誕生日は…別にあった……」
岳清源は苦しげに顔を歪めて目をそらした。原作の沈清秋と、何か思い出のエピソードでもあったんだろうか?沈垣の知らない狂傲仙魔途の穴ぼこに、うっかり足をとられてしまった。でもまだ誤魔化せる。忘れてしまったと言えばいいだけなんだから…。
沈清秋が顔を上げると、洛冰河が瓶いっぱいの酢を飲まされたみたいな顔をしているのが目に入った。沈清秋が決して語らない過去、洛冰河と道侶になっても語らない過去を、岳清源は知っている。洛冰河は無理に沈清秋から聞き出そうとはしないけれど…冰河のしらない過去で、岳清源が大きな存在感を放っている。それが冰河を苦しめているのが、沈垣にとっても胸のつかえだった。冰河にこんな顔をさせたいわけじゃないのに!ほんとうに、思うままに動けない辛さを沈垣は久しぶりに味わっていた。仙師としての何百年を、このまま失言に気をつけながら過ごさなきゃならないのか?それに、岳清源に対しても罪悪感を感じないわけじゃないんだ。
【解放条件達成。「ミッション:沈九を取り戻せ」を受けますか?】
沈清秋の頭の中に、懐かしい人工的な音声が響いた。
原作版沈清秋を取り戻す?沈垣の脳裏に、『狂傲仙魔途』での沈清秋の人渣反派っぷりがよぎった。あいつは冰河を虐待した。柳清歌と岳清源を殺したし、絶世きゅうりが沈清秋去勢キャンペーンのスレを立てた事件だってある。秋府の滅門は情状酌量の余地ありだけど、かつて夢魔の力を借りて見た沈九はなかなかの殺人鬼っぷりだった。
だがシステムに向かってNOだ、NO!と叫ぶ前に、秋府で帰ってこない岳清源を待ち続けるあの痩せっぽちの子供が目に浮かんだ。埋骨嶺で岳清源の告白を聞いたときに、どれほど沈九にここにいてほしいと思ったか。
【承認を受け付けました。これよりミッションを開始します】
WTF?!?!
沈垣が頭の中でシステムに抗議するより先に、沈清秋の口が意思に反して勝手に動いた。
「…そうです。私は沈清秋…沈九ではありません。今まで黙っていて、すみませんでした」
沈垣は驚愕し、ヒュッと変な音を立てて息を飲んだ。
(シ−−−−システム!この裏切り者!俺を殺す気か?!?!)
驚愕したのは沈垣だけではない。洛冰河も、柳清歌も、岳清源も、ほかの峰主たちも愕然として沈清秋を見つめた。尚清華は自殺の現場に居合わせたみたいに絶望的な顔をしていた。
「いま…いま何と…?」
洛冰河はぎゅっと沈垣の手を握りかえした。力の入りすぎた手は少し震えていた。
「きみは…やっぱり…」
岳清源は呆然とつぶやいた。長年押さえ込んでいたものの箍が外れたような声だった。
「…この体を奪舎したものが何であれ、決して悪意のあるものではないでしょう。結局のところ、沈師兄はいつだって皆を助けてくれた」
柳清歌は無理に衝撃から立ちなおろうとするかのように拳を握りしめた。岳清源は強ばった表情で目を細めた。
「いつからだい?十年以上前の…あの熱病のときから?」
「……はい」
「君は何者だ?」
「…私は。私は…」
沈垣はカサカサになった唇を舐めた。沈垣を転生後一番の死地に追い込んだシステムはうんともすんとも言わない。降って沸いたクエストなんかより、どうすればこの危機を乗り越えるだけの自己弁護ができるかに必死だった。
「私は、沈九ではありません。こことは違う世界から来た精霊のような存在とでもいいましょうか…気がついたら沈清秋の体で目覚めていました。決して沈清秋に危害を加えるつもりはなかったのですが、どうやってこの体に入ったのかもわからず、この体から出る術もなくて。私は別の世界からこの世界の結末を…蒼穹山派の滅亡を見ていました。だから私は目覚めて以来、この世界で起こった悲劇が起きないよう、できる限りのことをしていたのです…それに免じてどうか許してはくれませんか…?」
沈垣は、これが倒される直前の悪役の長台詞みたいに聞こえませんようにと心の中で祈った。
「清秋師弟は…その体の本来の持ち主は?」
「…わかりません」
岳清源の声はひび割れていた。柳清歌と洛冰河が沈垣を守るように立ちふさがっている。岳清源はとつぜん何年も何年も老け込んだかのように、疲れた声を出した。
「十年以上だ。あの子がこの世からいなくなって。ずっと黙っているつもりだったのかい?」
沈垣は何も言えず俯いた。
「おかしいとは思っていた。君の気質はあの子とあまりに違うから。でも、奪舎の痕跡も何もない。こうして穏やかに過ごしているのなら、元の君に戻ってほしいというのは身勝手な押し付けにすぎないと思っていた。それで清秋師弟が幸せならばと飲み込んで、君の中にあの子の面影を探し続けていた。沈清秋は…小九は、私にとって何より大切な人なんだ。…これがどれだけ残酷なことだかわかるかい?」
…それはよくわかっていた。沈垣は顔を上げられなかった。ちらりと上目で見た岳清源は、怒りというよりむしろ沈痛な面持ちをしていた。激怒してくれたほうがまだマシだったかもしれない。
『狂傲仙魔途』で岳清源は、沈清秋がなにをしようと窮屈な靴を履かせるような真似をせず、無限に許していた。かつて救えなかったぶん、それだけ大事にしていた師弟を沈垣はカッコウの托卵みたいに奪ってしまった…沈垣が望んでやったわけではないにせよ!沈垣にはどうしようもなかった!
それに『狂傲仙魔途』では結局、洛冰河につかまった沈清秋はのこり少ない命を惜しんで岳清源を罠にはめて殺す手助けをした。岳清源がオナガの親鳥みたいに大事に抱えていたそれは、どのみちヘビの卵だった。
「でも…でもあの人は、あのままだと自分が死ぬ時に、岳師兄––––…あなたを道連れに殺してました」
岳清源の顔が殴られたみたいに歪んだ。
「それが、本来のこの世界の未来だったのかい?……構わないよ、小九にはその権利がある。それが小九の望みならば。小九とともに死ねるのならば本望だよ」
「かつての約束を果たせなかったからですか?そこまで思い詰めるほどの罪悪感なんて––––師兄は約束を果たせなかった以上に沈清秋に良くしたじゃないですか」
「君が何を見たのかは知らないけれど––––罪悪感なんかじゃない。小九のいない世界で生きるのは、きっともう嫌だったんだろう」
岳清源は暗い目をしていた。焼け落ちた秋府を見た時も、沈清秋が金蘭城で自爆した時も、沈九が本当は何年も前からもういなかったと聞かされている今だって…岳清源は何度も大切な人の死を味わっているわけだから。それにしても、小九とともに死にたいという岳清源の感情は罪悪感だけで説明するにはあまりに重たかった。
「でも…でも、あのままだったら。あの人は柳師弟も殺してました。あの人の生み出した禍いが蒼穹山派を、三界を焼き尽くしていました」
柳清歌は息をのみ、乗鵉を握る手に力を込めた。
禍い呼ばわりしてごめんな!と沈垣に内心で洛冰河に詫びた。絶世きゅうりとして『狂傲仙魔途』を読んでいるときは混世魔王の覇道を楽しんでいた。だが、沈清秋に転生してからは四肢切断ENDを回避したくて必死に世界を改変し、いまではこの世界そのものが好きだった。もう、『狂傲仙魔途』みたいに魔界と一つにされてほしくはなかった。
岳清源はふ、と大きく息を吐いた。眉間に苦悩の皺が刻まれている。
「やはり、小九なら…決して許してはくれないんだろうね…。昔から気難しい子だった。あの子の心の唯一の柔らかなところを、私が壊してしまった。でも、それでも。小九がここにいてくれるのなら、誰を手にかけたとしても、何を壊したとしても。私はそれでいいと思っている」
岳清源は決然と言い切った。柳清歌は息をのみ、偏殿の峰主たちはざわめいた。
沈垣は勝手だ!と声を荒げたかった。岳清源はいつだって、沈清秋をかばうためなら躊躇わずその被害に目をつぶる。いつだったか夢魔に見せてもらった、かつての洛冰河の姿を思い出す。清静峰に来て、茶をかけられて涙をこぼしていた。沈垣の胸が締め付けられるように痛み、ぎゅっと拳を握った。
沈垣は口を開こうとしたが、岳清源の顔を見て止めた。この場で余計なことが言えるほど、沈垣は命知らずじゃない。ああ。『狂傲仙魔途』で岳清源は、沈清秋の唯一の師兄としてあの虐待を止めなかった。岳清源と沈清秋は共犯者だったのだ、結局のところ。
(それでも、あんたは止めなきゃだめだったのに)
「ごめんなさい、本当に」
かわりに沈垣はそれだけ言って頭を下げた。この地獄のようなミッションが始まってしまったからには、沈九を連れてこれなければ収まりがつかなそうだ。
「お願いします、猶予をください。ひとつだけ、ひとつだけ、あの人を取り戻せるかもしれない心当たりがあるのです。必ず、彼をつれてきます」
「その心当たりとは?私も同行する」
そうは言ったものの、もとの沈清秋がどこにいるのかなど沈垣には知る由もない。知っているとしたら、裏切り者のクソシステムだけだ。
(––––システム!原作キャラクターはどこにいるんだよ?)
【この世界にはいません】
(じゃあなんでこんなミッション始めたんだよ?!)
【この世界はあなたが沈清秋に転生してはじめて生まれた『狂傲仙魔途』の派生世界です。現在この世界に沈九の魂は存在しません】
(…じゃああの『狂傲仙魔途』の世界にはいるのか?)
システムは達成できないミッションなんて与えないはずだ。この世界にいないとすれば、心当たりはひとつしかない。沈垣は冰妹と冰哥の頂上決戦を思い出し、心の中で渋い顔をした。
【はい。あちらの世界には沈九は存在します】
…やっぱり。だが沈垣は覚悟を決めるしかなかった。
「いえ、それはできません。この任務は、この世界の外から来た私にしかできないのです」
岳清源を『狂傲仙魔途』の世界に連れていくわけにはいかない。埋骨嶺の戦いのあと、あれだけの混乱を引き起こした洛冰河がお咎めなしでいられるのは微妙な力関係の均衡があってこそだった。『狂傲仙魔途』で洛冰河がしたことを岳清源に見られて、冰河を排除しなきゃならないなんて思われたらまずい。
「信じてください。私が言うのも無理な話かもしれませんが…最後に一度だけでいいんです」
逃げると思われてしまうかもしれない。この状況なら誰だってそう思うだろう。それでも、沈垣は必死の形相で見つめた。
「私の血を置いていきます。岳師兄には日月露華芝の準備をお願いしたいのです」
岳清源は葛藤するような顔をしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「…いいだろう。君を信じる以外に、あの子にもう一度会うすべはないのだから。小九を…沈清秋を取り戻せなかったら、私は君を許さない」
「…はい」
沈垣の鳩尾が冷たくなり、鳥肌が立った。いつのまにか内衣が冷や汗でドボドボになっていた。岳清源の言葉に洛冰河はぶわりと殺気だった。
「冰河、大丈夫だから」
沈垣は冰河だけに聞こえる声で小さくささやいた。
沈九を連れ戻せなければ、岳清源はきっと許してくれない。沈垣は蒼穹山派の峰主たちと、原作キャラよりもいい関係を築いている自信があった。だが岳清源はたった一人でも、勝てないとわかっていても沈垣に敵対するだろうし、そんなことになればいずれ、『狂傲仙魔途』の時みたいに洛冰河に肉味噌にされてしまう。
沈垣は、いつも穏やかな岳清源が底なしの井戸みたいに暗い目をしているのを見てぶるりと震えた。埋骨嶺で心魔剣に飲み込まれた冰河の瞳を思い出すような、狂気が宿っている。
『狂傲仙魔途』では、沈清秋の足を送りつけられた岳清源は、罠だとわかっていても沈清秋を助けに行き、万の矢に貫かれて死んだ。あの時、いったい岳清源はどんな気持ちだったんだろう?
絶世黄瓜は穴だらけのプロットの中で、洛冰河の覇道のために死んで言ったサブキャラの心情を深く掘り下げて考えようなんて思いもしなかったけど…
あの時の岳清源は、自分が斃れれば蒼穹山派も人界も持ち堪えられないとわかっていたはずだ。それでも沈清秋を選んで罠に飛び込んだ。蒼穹山派のために心から尽力する岳師兄を知る身からするとあり得ないような判断だった。
岳清源を罠にかけて殺そうとしたのが沈清秋だったから?沈清秋の死んだ世界で生きていくのが嫌だったから?
いずれにせよ、岳清源は今回だってきっと、沈九のいない世界で生きるよりは死を選ぶだろう。沈垣は自殺幇助なんてしたくなかったし、それに洛冰河を巻き込まれたららまったものではない。それに…沈垣だって岳清源に死んでほしくなんてなかった。
たとえクズ悪役の沈九をこちらの世界に連れてこなければならないとしても。
沈垣はうっかり仏心を出してミッションを受けてしまったことを後悔した。
「––––冰河。話がある」
「…はい」
竹舎に帰った洛冰河はむっつりと黙り込んでいた。不機嫌な顔…というよりむしろ、どこか怯えたような顔をしてるといってもいいかもしれない。
「先ほどはすまなかった。ちゃんと師の言うことを聞いて…あの場でことを荒立てずに収められて偉かったな」
洛冰河の髪に指を絡めて撫でると、冰河の顔がくしゃりと歪んだ。沈清秋は…沈垣は腹をくくった。いい加減、冰河にも真実を伝えなければならない。どんな反応が返ってくるのか、沈垣は少し怖かった。沈垣はすぅっと一度深呼吸した。
「先ほどの話は全て本当だ。私は…私は本来の沈清秋とは別人なんだ」
「師尊がこの体に入るきっかけとなった熱病というのは…双湖城に行くすこし前に寝込まれた時のことですか?」
「…そうだ」
あの熱病をきっかけに沈清秋の様子が変わった、というのはさすがに洛冰河もわかっていたようだ。
「弟子はよく覚えています。清静峰に入門したばかりの頃は…師尊は私を気にかけてくださらなかった」
気にかけないどころか虐待してたもんな。転生したばかりの頃に見たヤバすぎる折檻のあとを思うと、本当によく許してくれたものだと思う。
「でも、私に最初に傷薬をくれたのは、あなたです。あなたが初めて私を馬車に乗せてくれました。竹舎に部屋を用意してくれました。私が何度転んで抱きついても、辛抱強く剣術を教えてくださった。私をこっそり守ってくれて…この母の形見も持っていてくれた」
洛冰河は首から下げた偽翡翠観音の玉飾りを、服の上から愛しげにそっと撫でた。
「ぜんぶ師尊がしてくれたことです。私の師尊、私の娘子はあなたです。愛しています。あなたが何者であっても」
明けの明星のように輝く瞳が、まっすぐ沈垣を見つめていた。ああ…怖がることなんて何もなかった。冰河はずっと、沈垣を見ていたのに。沈垣はほっと息を吐いた。
「…ありがとう。私も…私も、お前を愛しているよ」
沈垣は頬が熱くなるのを感じた。いつも格好をつけて、ちゃんと言葉にしたことなんてなかった。慣れないことを言うもんじゃない。清静峰の竹林に穴をほって永遠に埋まっていたいくらいの恥ずかしさが込み上げてくる。
ちらりと見上げると、冰河も頬を真っ赤に染めていた。涙で潤んだ瞳が、明けの明星どころか銀河をそのまま閉じ込めたみたいにきらめいている。沈垣の心臓がどきりと跳ねた。
…こんな顔が見られるのなら、たまには素直になってみるのも悪くない。
沈垣はちょっと微笑んだ。
「師尊には何か秘密があると、知っておりました。でも、師尊が私を選んでくださったのならばそれでいいと。師尊が話したくないのならば聞かずともよいと思っていました。それでも、こうして聞くことができて、弟子はとても嬉しいのです」
「私は、冰河をずっと見ていたんだよ。この世界に来るより前から。お前のための物語は…もっと素晴らしいものであるべきだと思ってた。それこそ、あんまりの出来の悪さに饅頭を喉に詰めて憤死するほどに!」
沈垣は前世での間抜けな死に方を思い出して、ハハッと笑い声をもらした。だが、洛冰河は真剣そのものの顔で聞いていたので、沈垣は慌ててブラックジョークを引っ込め装Bを取り繕った。
「私が見ていた世界というのは…以前、別の世界のお前がこちらに来ただろう?あの世界を見ていたんだよ。…でも、私がお前の想いに応えたのは、死にたくなかったからじゃない。それだけはわかってほしい」
「わかっております、もちろん…師尊は私のために何度もその身を犠牲にしてくださったのですから。この世界に来た後も、その前にも。でも、もう決して、あなたを死なせはしません」
洛冰河はぎゅっと沈垣を抱きしめた。沈垣は両手をうろうろと彷徨わせてから、ぎゅっと抱きしめ返した。
「…冰河、聞いてほしい。私の、俺の本当の名前は沈垣というんだ」
「…沈垣」
洛冰河はその名前を大切そうに舌の上で転がし、味わうように小声で呼んだ。
沈垣は、自分の名前が十数年ぶりに呼ばれるのを静かに聞いていた。愛しい人の声が何度も何度もその名を呼ぶ。沈垣は洛冰河の背中をぎゅっとつかみ、しばらくじっと聞き入っていた。
「…頼みがあるんだ」
「はい。師尊の頼みならば」
沈垣が顔を上げると、洛冰河は忠実な目で沈垣を見つめた。
「以前、お前とは違う洛冰河がここに来たことがあっただろう。あの時、お前は入れ違いにあちらの世界へ行ったはずだ。そこで…私ではない沈清秋に会わなかったか?」
「…会っていません」
「…そうか」
ならばやはり、あの冰哥が来た時系列では、沈清秋はもうとっくに死んでいたのだろう。日月月華芝の準備を頼んで正解だった。
「…ですが、地下牢で…骨になった死体と砕けた剣を見ました。地宮にいる者たちは、それを沈清秋だと言っていました」
本当に、狂傲仙魔途の世界はこの子の目にどう写ったのだろう。知っているはずの者が知らない表情で話しかけてくる。一番そばにいて欲しい人は自分が地下牢に閉じ込め、拷問の末に殺したのだという。
「師尊、私は…あなたがあの沈清秋とは違うと聞いて本当に安心したのです。どんな世界でも、俺があなたを殺すなんて絶対に嫌なんです…」
洛冰河の瞳から水晶のような涙がポロポロとこぼれた。
「私は、あいつのようになりたくありません。あいつは人を愛したことがない。自分が本当に欲しいものを見つけられていないのです。師尊があいつの目に映るのが耐えられない」
沈垣は指先でそっと涙を拭った。
「それでも、私のわがままを聞いてほしい。もう一度道を開いてほしいんだ。あちらの世界にある沈清秋の魂をこちらに持ってくる」
あちらの世界で沈清秋の肉体はもう死んでいるとしても…システムがミッションを出した以上、何らかの形で沈九の魂は存在しているはずだ。ならばそれを霊鎖嚢に入れて持ってきて、日月露華芝に入れて復活させればいい。日月露華芝を育てるのに必要な血液は沈清秋の体にある。いくら岳清源が怒っていたとしても、日月露華芝が育つまでの間は協力体制を維持してくれるだろう?
「本当にあの者を取り戻すのですか?」
洛冰河は目を細めた。洛冰河は恨みも親切もしっかりと心の中に焼き付けるタイプの人間だ。洛冰河にとっての沈清秋が、冰河を虐待しただけの人間ならば…そして沈清秋を取り戻すために沈垣が危険に晒されるなら、渋るのは当然だろう。
「それよりも、このまま二人きりで逃げませんか?私ならば、蒼穹山派が束になってかかってきたとしても師尊をお守りできます。このまま地宮に逃げて、魔界の手勢を集めます。幻花宮から修真界に働きかけることだってできます。柳…柳師叔だって、師尊のことは本気で攻撃はできないでしょう。岳掌門はいきなり剣を抜いた。信用できますか?」
沈垣はちょっと目をつぶって考えた。沈垣がこの世界に転生してから、何度岳清源に心配をかけて尻拭いしてもらったかわからない。岳清源は沈垣の最も尊敬している人だった。
「信用したいと思う。岳師兄が怒るのももっともだから。それにきっと、もとの沈清秋を連れてくることができたら、師兄だってそれ以上責めたりしないはずだ」
「師尊はあの人よりもずっといい人です。岳掌門も、あそこまで怒らずとも…」
洛冰河はぼそりとつぶやいた。
「…私は、そんなことを言える立場にないよ」
沈清秋の死んでいたあの五年間を思い出す。もしもあの時、沈垣ではなくまた別の転生者が沈清秋の体で目覚めたとしたら?洛冰河は決してそいつを許さないだろう。それと同じだ。
「冰河には酷なことを頼んでいると思う。あの者はお前に…ひどいことをしたのに変わりはないのだし」
「…わかりました。でもあちらの俺には気をつけて、絶対に話を聞かないでください。師尊がこの世界に来る前に見ていたのがあちらの世界だったとしても…あなたの弟子はこの私、あなたの相公はこの私なのですから」
「あたりまえだろう?さあ、一緒に行こう」
洛冰河は乾坤袋から心魔剣を取り出し、封印を解いて空間を切り裂いた。竹舎の空間に紫色の光が走り、虚空に禍々しい気配を放つ裂け目が現れる。
沈垣は洛冰河に手を差し出した。冰河はじっと手をみつめ、強く握りしめた。沈垣は洛冰河の手をとって、『狂傲仙魔途』の世界へと踏み込んだ。
