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リーミンは自宅のゲートを開いて、ハートを手招きした。リーミンの学校が早く終る水曜日、ハートの親には一緒に英語の勉強をすると伝えて、帰り道で待ち合わせをした。勿論勉強をするというのは建前で、今日は母親が来客のために一日中家に居るハートの家ではなくて、わざわざリーミンの家に来たのは、プライバシーを求めての事だ。
ハートはリーミンの家が好きだ。常にどこかのホテルみたいにピカピカに整えられている自宅と違って、郵便物がそのへんに広げられていたり、クッションが直前に誰かに使われたままの形で歪に積み重ねられていたり、そのうちまとめて洗うものが瓶の横の盥に無造作に放り込まれていたり、ジンボのお気に入りの家具の角がいつも毛まみれになっていたり、人が生活している痕跡が消されずに残っていて、映画の中の人達が暮らしてる本物の家、それはつまり映画の為に作られた偽物の家なのだけれど、ハートにとっては本物である自宅より本物の家っぽくてわくわくする。
吹き抜けのダイニングまで来たところで、リーミンが突然立ち止まった。
—だめ
振り返ったリーミンは、まるで幽霊にでも遭遇したかのような青ざめた顔で、その一言を手話で伝えた。
—だめって、何が?
—だめ、だめ、行く、俺たち、早く
わけがわからずまごついているハートの腕を掴んで、リーミンは引き返す。
—早く!
口も大きく「早く(レオ)」と動いているが、声がでていないのは、表情が大げさなのでわかる。リーミンが発声するときと、何かやましい事を大人に聞かれたくなくて、口の動きだけでハートに伝えようとするときには、微妙な表情の違いがある。
腕を引かれるがままに家を出ると、リーミンはそのままあてもなく早足でずんずん進んでゆく。わけがわからないままのハートは、空いた方の手で彼の手を掴んで止めた。
—一体どうしたんだよ?
リーミンは苛立たし気に眉間に皺を寄せると、道の脇のガードレールを指差した。ここに座ろうという意味だ。
—おじさん、いる、家
限られた語彙を一つ一つ並べるリーミンの手話は、まだ流暢とは言えないが、ハートとは十分会話が成立する。おじさんの声が聞こえたのか、とハートは合点する。二人きりを狙っていたので確かに残念だが、それならそれで、挨拶くらいしたかったのに、とハートは思う。
—Pウェン、いる、一緒
—二人の話し声が聞こえたの?
リーミンは両手を宙に浮かせたまま、眉間の皺を深くした。どう説明したら良いか迷っている?いや、何か言い難いことを言い淀んでいる?ハートはぴんときた。
—……もしかして、二人がセックスしてる音が聞こえた?
と、ハートが伝え終わる前に、リーミンはハートの手を掴んで黙らせた。リーミンはセックスの単語はまだ多分知らなかったと思うが、通じたらしい。
—やめろ、キモい
キモい?何か違うニュアンスの事を言おうとして言葉選びを間違えたのだろうか?リーミンに限って、自分がゲイなのにホモフォビアってほど捻くれてはいないだろうけど。ハートが怪訝な顔をしていると、リーミンが慌てて言葉を重ねる。
—ちがう、俺が言いたい
リーミンはまた手を宙に浮かせて考えている。言い難い事や微妙なニュアンスを、習得が未熟な言語で伝えるのはとても骨が折れる事だ。
—筆談にする?
—いや……待って
一呼吸おくと、リーミンの眉間の皺がとれて、彼の目がきりっと輝いた。このまま手話で伝えきる、と決意した顔だ。ハートはこういう瞬間のリーミンの凛々しさに、自分の心臓が否応無く高鳴る事を、最近自覚しはじめている。
—おまえ、想像して、おまえの母と父、セックス、おまえ感じる、何?
見せたばかりのセックスと言う単語を、リーミンはもう自分のものにしている。つまり彼はこう言いたいわけだ。「おまえの親のセックスを想像してみろよ、どんな感じする?」彼の飲み込みの早さに感心するも束の間、彼の言葉を解した瞬間、ものすごく気持ちが萎えたハートの眉間に深い皺が寄った。
—わかる?俺が言いたい、おまえ感じる、今
なるほど、言いたい事はわかった。でも、
—そりゃ俺の親はおじさんおばさんだけどさ、ジムさんもPウェンもまだ若いし、二人ともハンサムだし、セクシーだと思うけどな。
ハートがそう伝えると、リーミンがまたうげ、という顔をする。
—Pウェン、OK、でもおじさん……想像、無理
—えーそういうもん?
—おじさん、親ちがう、でももっともっと、俺の親
リーミンは伝わった?と首を傾げてくる。多分彼が言いたいのは「おじさんは実の親じゃないけど、自分にとっては親以上に親みたいなもの。」といった所だろう。ハートは伝わったよ、と伝えて続きを促す。
—俺が想像する、セックス、母は、まあまあ…OK、でもおじさんは、無理
「おじさんよりかまだ母さんの性的な事の方が想像できる。」と言いたいらしい。
—お母さんとは離れて暮らしてたから、お母さんの方が距離感としては親戚のおばさんみたいな感じだけど、おじさんとは一緒に暮らしてきたから実の親みたいな感覚ってこと?
—そう、多分
実の親みたい、と言われても、リーミンにとって実の母親とは彼女一人なので、多分としか言いようがないのだろう。Pトンと落ち着く以前の彼女は、リーミンをジムおじさんに預けて、新しい男をつくっては結婚と離婚を繰り返してきたという。ハートは少々身持ちの悪い母方の親戚のおじさんの事を考えてみる。母をそのまま男にしたような見てくれだが、確かに一緒に暮らしている実の親よりは、性的な一面を想像するのに抵抗はない。あえて想像したくもないけれど、良くも悪くも感情が動かない。そう考えると、この少しでも性と結びつけて考えるだけでものすごく萎える感覚は、その人との実際の続柄や年齢や容姿はさほど関係なくて、幼少の頃から自分を保護者として育ててきた、心理的距離の一番近い大人に対して起こるものらしい。
—ごめん、俺言った、おまえ、来る、俺の家、OK
—仕方ないよ、おじさんたちが居るとは思わなかったんだろ?店休日のおじさんはともかく、平日なのに、Pウェンも休みとってるとは思わないよ。
リーミンは足を投げ出して、愚図るようにハートの右肩に頭をだらりと預けてくる。彼の毛先が、先週またしても同じ所にでてきたハートの顎のニキビに当たってむずむずする。しばらくそのままにしておいてやったが、動こうとしないリーミンの顎を、ハートは右手でくすぐってやる。彼は性根がさっぱりしているので、少々不貞腐れてしまっても、ハートがちょっかいを出し続ければ、割と簡単に機嫌をなおしてくれる。案の定、ハートの右手を捕まえたリーミンの右手は、すぐさま彼の親指を押さえにかかってきた。こうしてどちらからともなく始まる指相撲は、彼らの口よりも饒舌な手のおしゃべりの一つだ。暫く攻防戦を繰り返した末に、ハートが押さえ込んだリーミンの親指ごと自分の腿に押さえつけて五カウントを取った。
—ズルいズルい!反則だ!
—両手使ってないからセーフ!
—アウトだよこのクソ野郎!
こういう時のリーミンの手話はとても流暢だ。内容のないじゃれ合いの延長のような喧嘩なら、いくらでもすらすらと言葉が出てくる。自分を罵ってくるリーミンの言葉の端々に、ハート自身の手話の癖が明らかに交じっていて、なんだかとてもくすぐったい。いまいち上達の兆しが見えない英語も、これくらいできればいいのに——。あ、そうだ。
—あのさ、おまえを連れて行きたい所がある。
—おまえが?俺を?どこ?
—ついてきて。
-
門限直前に帰宅したハートは、リビングに顔を出す。
—ただいま。
—おかえりハート、友達、よい?
母の手話はリーミンの手話ほど要領を得ていないが、まずはコミュニケーションをとろうとしている気持ちを汲み取っていくことが肝心だ。
—うん、リーミンは元気だったよ。母さんの友達はもう帰ったの?
—なに?
—あなたの、友達は、帰りましたか?
リーミンを相手に話す時よりも、ゆっくりはっきりと、なるべく簡単な単語で伝える。
—そう、ごはん?
—食べてきた。
約束を守って、何をしていたかちゃんと伝える事で、放っておくとどうしても母親が一人で不安に駆られて募らせてしまう心配が和らいで、健全な明日に繋がってゆくので、もどかしくても帰宅後の報告は欠かせない。そうこう言っている間に、ポケットで携帯が震える。
—じゃあ俺は部屋にいるから、何かあったらLINEして。
母は親指を立てて頷いた。
階段を駆け上がり、部屋に入り様にポケットから携帯を取り出して、ベッドにダイブする。門限を守るために仕方なく別れたが、いつも別れ際は話が尽きず、ここから先はオンラインの二人の夜は長い。
〈I miss you already <3〉
リーミンから届いたばかりのラインに口元が緩む。
〈気障な事言いやがって!誰の入れ知恵だ?〉
衝動的にそう返した後で、少し悩んで〈I miss you already too〉と送った。すると程なくして、太った猫がふてぶてしい笑顔で「かわいい人類め」と言っているスタンプが送られてくる。猫飼ってるやつって、やたらと猫のスタンプ送ってくるよな。
〈今日話したPジェーンの入れ知恵だよ。〉
〈俺の事話してただろ?〉
〈わかった?なんか、loveって付き合って日が浅い恋人同士の間では気安く使わないんだってさ、じゃあ相手に気持ちを伝えるにはどんな言葉がいいのかって聞いたら、miss(キットゥン)はよく使うって言うから。〉
あの後ハートは、教会の手話サークルで教えてもらった、英会話サークルにリーミンを連れて行った。試験に受かるための勉強とは違って、手話サークルと同じように、ただその言語での雑談を楽しみたい人達が、小額ずつの場所代だけカンパしあって緩く集まる会だ。
〈楽しかった?〉
〈うん、なんとなく、英語できそうな気がしてきた〉
ハートの心が誇らしさで満ちてゆく。
〈できるよ!おまえは文法だのスペルだの理屈を頭に詰め込むより、とにかく話してみる方が向いてると思う、手話だってすごく上達早いし〉
〈うっそだ!自分でわかってるよめっちゃカタコトだって〉
〈カタコトでいいんだよ、文法が間違ってても、最適の単語じゃなくても、おまえはとにかく伝えようとするし、そうやって会話の中で出てきた新しい単語はすぐ覚えるし、正直、俺が手話始めた頃より上達早くて悔しいよ〉
〈そりゃ俺にはおまえがいるからね、でもおまえは最初はネットの動画とか観て、ほぼ一人でやってたんだろ?そっちの方がすごいよ、俺には無理〉
〈うん、まあでも俺は座学もそこまで苦にならないから、それでもそこそこ身に付いたんだけどさ、でも正直言って、おまえと直接毎日いっぱい話すようになってから、俺も手話上達したよ〉
〈マジで?おまえの手話なんて俺と会った時にはもうほぼ完璧だと思ってた〉
完璧なんて浅はかな言葉、大抵素直には喜べないのに、彼くらい屈託がなく言われてしまうと、そうじゃないとは思いつつもどうしても嬉しくなってしまう。
〈まさか!俺だってネイティブじゃなくて、三年前から新しく学んだ言語なんだから、完璧にはまだ程遠いよ〉
〈えーでもわかんないけどな、手話サークルでネイティブの人達とすらすら話してるおまえの手話なんてめっちゃ早くて、俺全然読み取れないもん〉
手話サークルでは、どうしてもリーミンが置いてけぼりになってしまうことは多々あるのに、いつも彼は一緒にきて、少しでも読み取ろうと積極的に会話に参加してくれる。
〈おまえは俺の後追ってるからね、でも自分でわかるんだ、お前と会う前より確実に上達してるって〉
今はハートの方がずっと上級な手話だって、ハートがリーミンに与えているばかりじゃなくて、リーミンからも沢山貰っている事をちゃんと知って欲しい。
〈おまえはPナームと何の話してたの?〉
聴者の英会話に混じるのは流石に難しいハートは、暫くはリーミンの側にいたけれど、彼が英語話者達とちゃんと盛り上がり始めたあたりから、手話サークルでも一緒のPナームと話していた。
〈ASLをちょっと〉
すかさず子猫が首を傾げているスタンプが送られてくる。ジンボにちょっと似ている。
〈アメリカ手話のこと、American sign language 略してASL〉
〈そうか、おまえそうだよな、考えてみれば、英語だけじゃなくてアメリカ手話も覚えなきゃいけないんだ〉
聴力を失ってから、まるで知性まで不足した人間のように扱われることに慣れてしまっていたハートに、お世辞ではなくおまえ頭いいんだな、と言ってくれた最初の人がリーミンだった。そんな彼の言葉には一片も嘘がないものだから、ハート自身も一度は失った自信を取り戻し始めている。
〈あ、でも実は英語より楽っていうか、タイ手話がそもそもアメリカ手話の派生で親戚の言語だから、全くわからないってことはなくて、細かい違いに少しずつ慣れていく感じになると思う〉
〈へー!じゃあおまえ四言語わかるんだ、えーっと、Fouringal?すごいな〉
〈Quadrilingualな〉
〈うわ、おまえ今絶対ドヤ顔してんだろ〉
〈してない〉
〈嘘付け、ビデオ繋げ、顔見せろ〉
〈じゃあジンボ連れてきてよ〉
今夜も話は尽きそうにない。
-
一ヶ月後——。
「リーミン、どこ行くんだ。」
今日もいそいそと出かけて行こうとする甥っ子を、ジムは思いきって呼び止めた。
「ハートんち。」
大学は受験せずに、働きながらアメリカで勉強をすると言い出した甥っ子とは、幾度もの口論を重ねた末に、彼の意思を尊重してちゃんと応援するとジムは決めた。しかし、それならそれでやるべき事はあるはずで、あまり甘い顔ばかりもしていられないと、ここ数週間ずっとやきもきしていたのだ。毎日のように恋人と会うのに、一緒に英語の勉強をするなんていうのは建前であることは百も承知だ。はじめての彼氏ができて、浮かれる気持ちはジムにだってよくわかる。その眩しく青く鮮やかな気持ちを、きっと今しか体験できない時間を、思う存分味わって欲しいと思う。でもしかし、相手を尊重する事と、放任する事はやはり違う。半分大人と言える年齢の彼に対するその線引きは、なかなか簡単ではないし、煩がられるのはわかっているけれど、やはり今日こそ言わなければと、重い口を開く。
「試験を受けないからって、いい加減に本気で英語の勉強しないとまずいぞ、その土地の言語もろくにわからずに、すぐに職に就ける程人生は甘くないんだ。」
「あーもう……Stop fussing over me!(うるっさいな)」
「……は?」
言葉を失ったジムに、リーミンは生意気なしたり顔を向ける。
「Mind your own business.(ほっといてよ)」
固まったままのジムを尻目に、リーミンはバッグを掴んで出て行ってしまった。
「……あいつ、今何て?」
ジムは彼の傍らで、どちらに味方するともなくジンボを撫でていたウェンに訊ねる。
「あー……」
年下の恋人は、面倒な事を程よく回避する術を知る大人特有の、本音の読めない笑顔を貼り付けてジムに向き直る。
「大丈夫だから、心配しないでってさ。」
時にはあまり正確に伝わらない方が、円満に収まる言葉もあるのだ。
