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四年と一日 Back Together
現在時刻は午前五時五十三分。目覚まし時計が鳴るより先に目が覚めた。これが昨日ならば、二度寝を決め込み、毛布のなかでうだうだと過ごして、始業のチャイムが鳴る寸前に教室へ駆け込んでいたところだが、今日ばかりは遅刻するわけにはいかない。ノロノロと遮光カーテンを開け放つと、朝の陽射しがいっぺんに流れ込んで、ちいさな部屋を隅々まで照らし出す。彼は目をきゅっと細めてから伸びをする。朝食の支度はいつもどおり。トーストしたパンにジャムをたっぷりつけて、インスタントコーヒーで流し込む。腹が減って途中でへばるようなヘマは踏みたくないのでソーセージも茹でた。
今日みたいな日には、ちょっと浮き足立たって当然というもの。
パジャマを脱ぎ捨てると、壁に吊るしたハンガーから制服をとる。ノリの利いた白いシャツと、ピンとまっすぐな筋のついた黒いズボン。テーブルの上では、開きっぱなしの黒い手帳の内側で、金色のバッヂがキラキラと陽光を反射している。
警察手帳。行使する公権力の正当性を証明すると同時に、法の遵守と正義の実現を誓うバッヂ。手帳といってもメモ帳ではなく、ぶあついカバーの内側には身分証明用のIDタグが埋め込まれている。付属のチェーンをベルトに通して、胸ポケットにおさめると、ポンポン叩いた。最後の仕上げに、備え付けの姿見の前に立って、身だしなみをチェック。右よし、左よし。彼は軽く舌打ちをして、くせのついた髪をなでつける。こればっかりは時間をかけてもどうにもならない。
部屋を出ると、梳かしたばかりの髪を冷たいビル風が蹴散らしていく。ぎゅっと首をすくめると、顔をあげて歩き出す。新人寮の真向かいにある四角い無骨な建物が、今日から三か月間、彼の職場となる『王都翠星(すいせい)区警察署』である。長かった警察学校での指導を終えて、今日からようやく、警察官としての勤務がはじまるのだった。
署内の案内板をたどって目的の場所に辿り着き、天井に揺れるパネルに「地域課」の文字を確認すると、彼はあらためて上着の裾をしゃんと引っ張る。こういうことは最初が肝心。背筋を伸ばして顎を引き、指をそろえて額に。踵が床をカツンと鳴らす。
「職場研修のため、本日付けで翠星署地域課地域一係に配属になりました、エース・トラッポラでーす。三か月間、よろしくおねがいしまーっす!」
「語尾を伸ばすな、バカタレが」
背後から突然頭になにかを乗せられて、反射的に「イテッ」という顔をした。だが思ったより痛くない。頭上には黒いバインダー。そして相手は地域課課長のバーネットだった。これからエースの上司になる人物だ。バーネットはエースを苦々しい顔をして見下ろしている。
「いや、ちょっと気合い入れ過ぎただけで悪気があるわけじゃ……」
「悪気があろうがなかろうが、警察官の品位に関わる。改めろ」
地域課の面々はふたりのやりとりに忍び笑いを漏らしている。思っていたのとは違うが、まあいいか。とにかく第一印象はイイ感じだし。新人は特にイジメや嫌がらせのターゲットになりやすいから、最初は明るい溌剌とした雰囲気を保って、敵を作らないようにしなければ。
始業の鐘が鳴って地域課の朝礼を終えると、今後の業務について説明があると会議室に連れていかれて、ぶあつい資料の束を渡された。
「なんすか、これ」
「今年の夏は王都代表選挙がある。王都全域がいつもよりいろいろと騒々しくなるから、公職選挙法を頭に入れておけ。新人だろうが、取り締まり対策チームの一員だからな」
「うげ……サイアク……」
「最悪でもなんでも、そういう決まりだ」
ぐちぐち文句を言いながらも、用紙の空いたところにメモをとる。ふと顔をあげると、いかめしい顔で彼をじっと見つめていた。
「ひとつ聞いてもいいか」
「はあ、なんなりと」
「お前はどうして警察官を目指したんだ。解析学の院卒なら、就職先はいくらでもあったはずだろ」
あー、ハイハイ、その話ね。エースは内心、ゲンナリする。やはりここでも同じ事を聞かれるのか。院の指導教員、警察学校の同期たち、先輩、後輩、友人、家族。いままで何度も聞かれてきた。彼は紙の上にペンを走らせながら、もはや唇で覚えてしまったフレーズをスラスラと吐き出す。
「……知り合いに、馬鹿で間抜けで勉強ができない奴がいるんですけど、そいつが警察官の採用試験に合格したんですよね。んで、アイツにクリアできたなら、オレにもできるはずだと思って」
バーネットは呆れ気味に笑った。
「そりゃまた、どうしようもない理由だな」
「理由はどうあれ試験にパスたし、キビしい警察学校も乗り越えました。理不尽なルールに従わされるのは慣れてるし、こう見えて、オレってケッコー優秀なんですよね」
「まあ、確かにな」
エースはギョッとして顔をあげる。まさかここで肯定のことばがかえってくるとは。
「調子にのるんじゃないぞ。警察学校での成績を見るかぎり、お前は確かに『結構優秀』だ。試験も実務もうまくこなす要領の良さを持ち合わせている」
これはちょっと想定外の事態である。いやまあそれほどでも、とニコニコしていると、バーネットはもとから厳つい顔をさらに険しくした。
「調子にのるなよ。警察官の仕事は要領だけじゃどうにもならんこともある」
「あ、スンマセン。でもスッゲー嬉しいっす! 課長にも認めてもらえるようにこれから頑張りマス!」
「無駄口なら今のうちに思う存分叩いておくことだな」
「ハーイ」
「だから語尾を伸ばすんじゃないと何度言えば……」
会議室のドアが軽くノックされる。庶務係がお茶でも持ってきてくれたのだろうか。バーネットがなぜかニヤリとして席を立った。
「おい、トラッポラ。馬鹿で間抜けで勉強ができない奴が来たぞ」
「……え?」
「遅くなって申し訳ありません」
ドアノブが回って扉が開く。黒い革靴のつま先、彼と同じ警察官の制服――その人物があまりにも見知ったものだったので、彼の顔は驚愕のかたちに大きくゆがむ。
「新人指導担当、地域課第三係のデュース・スペード巡査長です」
と、先輩警察官は言った。
「よろしくな、新人」
■
継ぐべき家業も、遥かなる目標も、追い求めるような夢もない。
カレッジを卒業したあと、エースが大学院への進学を選んだのは、道と呼べるものがその先にしか見当たらなかったからだった。専攻科目は魔法解析学。特別好きだったわけではなく、一番成績が良くて、性にあってそうだったから。大学院修士課程(モラトリアム)の二年間が過ぎ去ってわかったのは、自分には博士号を取るほどの情熱もなければ、やはり「やりたいこと」も「やるべきこと」も見当たらないな、ということだった。大学院を卒業してさらに二年もあっという間に過ぎていった。職と場所を点々としながら、家族や知人や友人たちに数多の胃痛と心労をばらまいたのち、さすがにいつまでもこの暮らしを続けるわけにはいかないぞ、と思い始めた。そんなときに思い出したのが、一途に夢を追い求めて警察官の採用試験に合格した馬鹿真面目君の存在だった。
ナイトレイヴンカレッジ卒業後、デュースは警察官の採用試験に合格していた。一年の浪人を経たという。だったら、オレは一発合格をキメてやろうじゃないの。デュースより二年遅れた挑戦だが、構うものか。すぐに追いついてみせる。デュースが相手ならハンデがあるくらいで丁度いいし。それに、アイツの「魔法執行官になる」という夢に相乗りしてみるのも、面白いかもしれない。分不相応なデカい夢をみているのだから、一人増えたところで重量オーバーにはならないだろう。
エースが採用試験をうけたのが四月下旬。合格発表が六月上旬。一息ついたのも束の間、九月には警察学校初任科に入学した。分刻みの時間割り、情け容赦のないトレーニング、合格必須の検定試験の数々。運動神経には多少の自信があったのに、鼻っ柱はあっという間にへし折られた。地獄の初任科で警察官としての基礎知識をみっちり仕込まれること、半年。やっと、警察署での職場実習がはじまった。警察署内の各課をまわり、捜査実習、交通実習、生活安全実習を受けながら、指導係の先輩警察官とともに地域の業務に携わるのである。
そしていま、先輩警察官役として登場したのが、デュース・スペードというわけだ。
なにこれ。冗談キツすぎでしょ。
警務課で拳銃貸与の手続きをすませると、弾数を確認して腰のホルダーに収めた。ここに無線機、警棒、手錠も装備するので、右側ばかりがずっしり重たくなる。慣れていないと右に傾いでまっすぐ歩けないほどだが、さすがにもうよろめいたりしない。それでも、今は立っているだけで床にずぶずぶ沈んでいきそうだった。朝食のコーヒーとソーセージが腹の底でぐるぐる回って、喉までせり上がってきそうな、最悪な気分。特大のため息を何度も吐き散らしたいところだが、着任初日に怠惰な態度をみせて、イジワルな先輩に目を付けられてはたまらない。なんとか平静を装おうと深呼吸をしてみる。だいたい、なんで研修役がデュースなのだ。将来有望な新人が着任したのだから、現場で一番優秀な者を寄越してくれたっていいだろうに――なんてね。少し気が楽になった。顔の筋肉のこわばりが僅かにほどける。
廊下にでると、デュースは既に準備を終えて待っていた。エースと目があう。すると、「行くぞ」も「ついてこい」も「なんてツラしてんだ、もっとシャンとしろ!」もなく、無言のまま背を向けてさっさと歩きだした。なにそれ。なんか、すっげーヤなかんじ。久しぶりの再会だというのに可愛げの欠片もない。いや、別に、学生の頃からデュースには可愛げなんてものは欠片もなかったけれど。
現実を直視することになるのが嫌で、自分のつま先のあたりを見たまま歩く。ふと、頭の前から気配が消えて顔をあげると、いつの間にかデュースは反対側の廊下を歩いていた。
「おい、駐車場はあっちでしょ?!」
「僕たちは徒歩警らだ」
「ハァ、徒歩?! なんで?!」
「当たり前だろ。馬にでも乗るつもりだったのか?」
徒歩警らとはその名のとおり、徒歩による市街見回り業務である。地域課の警察官は三交代勤務の二十四時間体制で市街の警らをおこなっている。新人警察官は誰もがまず地域課に配属されて、地域警らの仕事に就くが、警ら車(パトカー)に乗って地域を巡回するには、研修を受けて技能検定にパスする必要がある――そのくらい知っていたけど、デュースがエラソーな肩書を付けているからちょっとラクできるかもと期待したのに。
エースはため息を吐くと早足で廊下を引き返す。建物の裏口から外にでて、おもわず首をすくめた。もう四月だというのに風はまだ冷たい。デュースはというと、まるでお手本のようにシャンと背筋を伸ばしている。見せつけているつもりだろうか。エースは肩をまるめて後を追う。デュースは大股で歩いていく。エースはその後ろをほとんど走るようにしてついていく。コイツってこんなに歩くの速かったっけ。背中がじわっと汗ばんできた。
「あのさー、まだ午前中なんだから、こんな時間にワルさする奴いないって」
「そんなこと、分からないだろ」
「分かるし。犯罪統計資料見てねーの? この一か月、翠星区内で発生した盗難および暴力事件は五件で、そのすべてが十七時以降に発生って書いてあったケド?」
デュースはチラリとこちらを振り返る。ちょっと驚いたらしい。どーよ、さすがでしょ? エースはニヤリと笑う。昨日の夜、寝る前にネットで検索したのが役にたった。にしても、治安が悪いのは面倒くさいが、平和過ぎても困りものだ。
「一応、ここも王都内だってのに、意外とハデな事件は起きねーのな。窃盗の現行犯逮捕とか、強盗の立てこもりからの人質解放とか、もっといろいろあってもいいんじゃねーの?」
「あのな。警察官の仕事は犯罪捜査ばかりじゃないんだぞ」
「オレのことバカにしてる? そのくらいさすがに知ってるし」
地域課警察官の主な仕事は「道案内」「遺失物(おとしもの)対応」「違法駐車の取り締まり」である。とりわけ多いのが道案内だ。最近の薔薇の王国では外国人観光客が増加中。事実、街中のいたるところでスーツケースを引いて移動している旅行客を見かけるほど。特に増えたのは、薔薇の王国の湖水地方を舞台としたドラマが動画配信サービスに登場してからだ。緑豊かな草原を舞台に、ときに伝統的な価値観と対立しながらも理想を追って生きる若者たちの姿を描いたドラマは世界的に人気を博し、ロケ地のツアーも組まれているらしい。その影響で、薔薇の王国の首都である王都にも人が増えているのだとか。
「今は春休み期間だろ」
デュースは通りの先に目を向けた。雑居ビルの一階にゲームセンターが入っている。時代遅れの機材に薄暗い部屋。たむろしているこどもの姿もみえる。頭を寄せて話をしているようだが、そのうち数名は時々顔をあげて、窓の外のようすをうかがっているようなそぶりを見せている。
「こういうときは、小遣いを手に入れたこどもがハメを外しやすい。ゲームセンターで金銭を賭けて面倒なやつらに絡まれたり、いいバイトがあると誘われてヤバい仕事を手伝わされたり――お前にも覚えがあるだろ」
「いや、そんな物騒な思い出ねーよ、普通」
「とにかく、見回るに越したことはない」
だが、デュースはゲームセンターの前を素通りした。
「ちょっと、アイツらはいいの?」
「構うな。行くぞ」
「なんで」
「なんでもだ」
「ふーん。結局『お仲間』には甘いってワケだ、元ヤンデュースくん?」
デュースはムッとした表情でこちらを振り返る。服装と肩書きが変わっても、ふくれっ面(ツラ)は昔のままだ。こういうときは、デカい声で無茶苦茶に反論してくるか、あるいは、元ヤンの目つきで睨んでくるか。だが、デュースは無言のまま、つかつかとエースの後ろに回り込むと、肩と腰に手をかけてぐっと引っ張った。まるめていた背中が力任せに逸らされて、ゴリッと骨の鳴る音がした。おもわず「ぐえ!」と汚い悲鳴をあげてしまう。
「……中身は見習いでも、制服を着ている以上、警察官のはしくれなんだ。シャンとして歩け」
デュースはそれだけ言うと、さっさと歩きだした。
――なに、今の。
拍子抜けと同時に、むちゃくちゃ腹がたってきた。
デュースとは同じ学校を卒業して、元クラスメイトで、進級して一人部屋になるまでは寮でもずっと相部屋で、何度も一緒に飯も食った。大の友達、仲良しこよし――みたいなキモチワルイ関係ではないけれど、長い付き合いなのでお互いの性格はまあまあ把握している。それなのに、今、目の前にいるコイツは何だ。たった二年の勤務経験の差で、こんなに態度が変わるのか。それか、もしかして、当てつけだろうか。ボクの昇進の邪魔をしたらただじゃおかないぞ、的な。あり得るかも。
エースは伸ばされたばかりの背筋を無理やり丸めた。そっちがその気なら構わない。こっちはせいぜい、オマエより優秀なところをアピールして、先に魔法執行官になってやるもんね。
エースはゲームセンターの名前を頭のメモ帳に記録する。翠星区イトスギ通り二丁目。健康優良不良少年のたまり場、コージー・ステーション。
■
現在時刻は午前十時。エースはファストフード店でホットコーヒーをテイクアウトして、公園の電灯にもたれて啜っていた。放っておいたら延々と歩きまわろうとする体力馬鹿のセンパイから、どうにかもぎ取った十分間の休憩だった。
翠星警察署地域課の勤務は朝八時から翌朝八時までの連続勤務。もちろん、その間ずっとほっつき歩いているわけではなく、署に戻って作業する時間もある。書類を作成したり、落とし物の対応をしたりと、仕事は尽きない。歩き回るのは疲れるし面倒だが、上司が目を光らせているフロアで事務作業ってのも面倒くさそう。でも、口やかましいカタブツ上司のほうが、くそ馬鹿真面目の教育係よりはマシだろうか。どっちもどっちか。エースはしょっぱい顔でコーヒーをすする。デュースは少し離れた場所でお年寄りに道を聞かれている。
そのとき、横から誰かが近づいてくる気配がした。振りかえると、女性がふたり、控えめそうに立っている。傍らにはおおきなスーツケース。ひとりはスマートフォンで何かを検索中。もう片方がおずおずと話しかけてきた。
「『おたずねしてもよろしいでしょうか』」
「え?! あ、オレ?!」
当たり前である。飲みかけのコーヒーが喉に流れ込んだせいでむせてしまった。
薔薇の王国の公用語ではない。国際共通語。観光客だ。警察官の制服は嫌がられて避けられるのかと思いきや、全然そんな雰囲気ではない。駅前のインフォメーションセンターを利用するかのような気軽さだ。そういえば、民間人よりも正確な道案内を期待できるから声をかけられやすいって、警察学校の教官も言っていたような気がする。そりゃあ道を聞かれることもあるだろうな、とそのときはボンヤリ思っていたが、いざ本番となると面食らう。
「え、えーっと、実はオレもこの街にはまだ不慣れっていうか……」
「『どちらに向かいますか?』」
突如、共用語が割って入った。デュースである。片手ではスマートフォンで翻訳アプリを起動中。二人組はデュースに向きなおる。
「『バス停はどちらでしょうか?』」
「『バス停ですね。目的地はどちらでしょうか』」
「『西の大聖堂です』」
「ってことは、朱架(あけはし)区だな。えっと――『バスは十二番乗り場から出ます。緑の屋根です。大聖堂前で降ります。伝わりましたか?』」
かなりたどたどしいし、発音も怪しい。でも、ちゃんと会話は成立している。二人が感謝のことばを述べて立ち去るのを、デュースは手を振って見送った。
「……へーえ、要領いいじゃん」
「当たり前だろ。これも警察官の仕事だ」
「あーもう、だから、わーかってるし」
「分かってない」
デュースはきっぱりと言った。エースはなぜかギクリとした。
「……お前は何も分かってないだろ」
なんだよ、それ。
確かに自分はデュースよりも後輩だ。わざわざ言われなくても、遅れていることなど自分が一番知っているのだ。いくら学校で知識を得て、良い成績を納めても、実際に制服を着て街を歩けば、学んだ通りにはいかないことくらい想像していたし、さっきは油断していて上手く話せなかっただけで、コツをつかめば、デュースよりも流暢に会話してみせる自信だってあるのに。
それもこれも、デュースが先輩なんかじゃなければ、もっとうまくできたはずなのに。
「あのさ、朝からずっと言おうと思ってたんだけど」
「なんだよ」
「どーしてデュースなんだよ。オレの教育係なら他にもいただろ」
「文句を言うな。皆、選挙の応援に駆り出されて忙しいんだ」
「選挙?」
「もうすぐ統一王都選挙だろ」
そういえば、課長もそんなことを言っていたっけ。統一王都選挙の期間中は、選挙違反の取り締まりのため、王都警視庁に対策本部が特別編成されるのだとか。デュースは呼ばれていないんだな、と考えて、あ、と気が付いた。
「オレ、わーかっちゃった」
「は? なにがだよ?」
「デュースは選挙対策チームのメンバーから外されたんだ。それで、オレの教育係を任されて、朝からずーっとむくれてるんだろ」
返事がない。それに歩調も乱れている。分かりやすい答えである。
「スネてないで、ちゃんと新人教育してよね」
「……背中で学べっていうだろ。見て覚えろ」
「そりゃオレだって、頼りがいのあるデッケー背中だったらいくらでもついていくけど」
「うるさいな」
語気が荒くなった。目尻がギュッと吊り上がっている。その表情に、つい、懐かしさがこみあげる。在学中のコイツはよくこんな顔で怒っていた。そうそう、その調子。エースは内心にやりとする。だが、デュースは存分に睨みをきかせたあと、ふいっと視線を逸らした。そして、何事も無かったかのように歩き出したのだった――さっきと同じ。感情の導火線に火がついても、燃え上がらずにあっという間に消えてしまうような。
勤務経験の差は二年。ナイトレイヴンカレッジを卒業してからは四年の月日が経っている。たったそれだけの経験の差が、デュースを変えてしまったのだろうか。それとも、四年あれば、人が変わるには十分だろうか。そして、新人教育が終わってしまえば、デュースを知らない時間のほうが、どんどん長くなるはずだった。
■
現在時刻は午後四時半。着任にあたって提出が必要な事務所類があるといわれて、エースはいったん署に戻っていた。春の日中の陽はまだ本格的な暑さを備えていないとはいえ、背中は汗だくになっていた。重たい装備をぶら下げたまま、朝からぶっ続けで歩き詰めだったのである。地域課の片隅にあった扇風機を稼働させると、埃混じりの風にむかって「だあー」とため息を吐いた。
「着任初日、お疲れさま」となりのデスクにドーナツ屋の紙袋が乗せられた。「たくさん買ってきたので、よければ一緒におやつにしませんか?」
「うわー、メッチャ嬉しい! ありがとうございまーす、頂きます!」
頭のメモ帳をぱぱっとめくる。この人は――庶務係のエダ・フィンチ巡査部長。朝の時点で地域課メンバーの顔と名前を覚えてあった。
「エダさんに話しかけてもらえて安心しました。オレ、今日が初日だからスゲー緊張しちゃって」
「ご冗談。トラッポラさん、何年も前からここにいます、みたいな落ち着きぶりですよ」
「ええー、そうですか?」
ニコニコしながら頭をかく。新しい環境に馴染むのは得意なほうである。愛嬌をみせるのは最初が肝心。現場への適応力には自信がある。
「オレ、クタクタなのはホントですよ。朝から歩き詰めで、足、がっちがち」
「それは体力付けなくちゃですね。半年後には体力測定もありますし」
「ウゲー。オレ、身体動かすのは好きだけど、そーいうの苦手なんだよなあ」
警察官は体力勝負の仕事である。実務研修が終了した新人の配属先には体力測定の成績も加味される。特に成績の良いものは、運動神経と気力・体力・判断力のすべてが求められる機動隊員に回されて、特別な訓練を受けるらしい。そこまで頑張る根性はないし、いかにも激務ってかんじの場所に配属されるのはごめんである。自分の希望は通せる程度に優秀で、だけど飛びぬけすぎない程度に結果を残しておくのが賢い選択というもの。
「オレもデスクワークの部署を志望しよっかなあ。そしたら、エダさんみたいなやさしいセンパイに丁寧に指導してもらえそーだし?」
「ふふ、口がお上手ね。だったら、まずは簿記検定と秘書検定を受けてもらわないと」
「ゲッ」
「それから毎月、翠星区の全犯罪を集計して、表計算ソフトで統計資料を作って――」
「うわ、やっぱやめとこっかな」
「あはは」と、エダは笑った。「でも、庶務課は希望してもそう簡単には入れませんよ――まぁ、大怪我したり、出産したりすれば、否が応でもなれますけれど」
冗談みたいに付け足されたことばだったが、それはゴロッとした塊になって、飲み込んだドーナツと一緒に腹の底にころがった。エダの左手の薬指に指輪があることには気が付いていた。警察官にはめずらしい、穏やかな印象の人だが、目元はきりっと鋭くて、怒ると怖そうな雰囲気がある。疲れた様子の目元が気になっていたので、警察官は事務でも激務なのかと思っていたが、どうやら、妊娠出産という名の別の激務に携わっていたようだ。
病気や怪我で現場にでられなければ、署内で事務に携わることになる。一見すれば、職員に配慮した健全なやり方のようだが、エースはどこか薄気味悪いものを感じた。警察という巨大な組織は「特殊」をもとめず、健全な肉体と従順な精神を欲しているのだ。警察官のもっとも基本的な仕事である「警ら」に従事する者は、警察組織にとって「普通」と認められた者だけだということだ。
このまま同じ話題を続けるのは、ちょっと気が引けた。急いで職場を見わたした。すると、壁のグラフに目が留まった。取り締まり件数のランキングである。
「へえ、警察官にもノルマってあるんですね」
「ええ、ありますよ。といっても、努力目標ですけど。クリアできなくても罰則はありませんし」
「それでも出世には響いたりして?」
エダは「あー、まあ、どうでしょうね」などと曖昧に笑った。罰則はないけどペナルティはあります、ってところだろうか。となると、こちらもやはりそこそこの成績を収めておくのが無難だろう。とりあえず最下位にはならないようにと改めてグラフを眺め、一番下に書かれた名前に思わず噴き出した。
「ハハッ、ウケる。最下位、デュースじゃん!」
エダは一瞬「呼び捨ては……」と言いかけて、「そういえば、トラッポラさんはスペードさんと同じ学校でしたっけ」と言った。デュースを「さん」付けや役職名で呼ぶのはごめんだ。どれだけ先輩に叱られても、こればっかりは断固拒否するつもりだった。
「ええ、そーっすよ。同学年、同クラス。二年生までは部屋も一緒」
「どうりで。初日から仲良さそうですもんねえ」
「いやいや、カンベンしてくださいよ! なんとなーく一緒にいた時間が長かっただけで、別にナカヨシではないんですって。だいたい、オレみたいなタイプが、学級委員長気取りの頑固な真面目君と仲良いワケないじゃないですか」
「もしかして、スペードさんって、学生の頃から真面目だったんですか?」
「そりゃーもう、クソ真面目」
「あ、『クソ』がついちゃうんだ」
「そーなんです。クソ真面目で、クソ頑固。要領よくないクセになんでも自分でやろうとするし、手の抜き方ってものを知らねーんですよね。あいつが馬鹿で要領わるいから、仕方なくオレが面倒みてやってたんですケド」
「ふうん」
エダはほんの少し、遠くの方を見るような目をした。
「……でも、優秀ですよ、スペードさんって」
「ええ? でも、ノルマ最下位なのに?」
「点数のうえはそうなんですけども、彼は絶対にルールを守るんですよね」
「ふーん?」
でも、警察官が法を遵守するのは当たり前じゃないの、と問おうとしたとき、スピーカーからひび割れた鐘の音が響いた。耳ざわりなガリガリとした音。休憩終了を告げるチャイムである。
「じゃ、私はこれで。午後も頑張ってくださいね」
「あ――ドーナツ、ありがとうございました。スッゲー嬉しかったです。午後も頑張りまーす!」
おっと、語尾を伸ばすなと言われていたっけ。だが、周囲には上司も先輩もいない。エダは軽く手を振ってフロアをでていった。エースは残りのドーナツにかぶりつく。時刻は五時前。デュースには六時には現場に戻ると伝えてあるので、しばらくのんびり過ごせそうだ。熱々のコーヒーが少し冷めるまで待って、書類を見直してから提出しにいこう。そのあとは、またあの地獄の警ら業務に戻らねばならないのだから、ちょっとくらいはいいでしょ。人気(ひとけ)のないフロアでひとり、砂糖のついた指を舐めていると、廊下から会話が聞こえてきた。
「そういえばスペードは? 今日、当番だったよな」
「あいつ、新人教育係になったみたいだぞ」
「うわ、カワイソー」
「それ、どっちが?」
押し殺した笑い声。なんか嫌なかんじ。エースがわざとドーナツの袋に乱暴に手を突っ込んだら、彼らは言った。
「あいつと組んだら成績が下がるからな」
ほどなく、二人組は行ってしまった。エースはドーナツをたいらげると、紙屑をぐしゃっと丸めてごみ箱に突っ込んだ。コーヒーを一気に飲み干すと、提出書類をもってフロアを出て、事務室にむかってずんずん歩いた。
■
現在時刻は午後六時。日没直前の空にはまだ薄明かりがのこっている。これから夕方のパトロールがはじまる。エースが警察署正面門にむかうと、そこにはデュースが待っていた。
「なに、迎えに来てくれたの。やっさしーい」
「新人を一人で放っておくわけにはいかないだろ」
「優等生として?」
「そういう問題じゃない」
「あっそ。それで、結局なれたんだっけ、『優等生』に」
わずかな間のあと、デュースは言った。
「……お前はよく知ってるだろ」
デュースは歩きだした。エースはそのあとを追った。
翠星区は王都のなかでも古い歴史を持つ河港都市だ。公園が多く人口密度が低いため比較的治安が良い。統計資料でも確認したとおり、凶悪な犯罪などはそうそう起こらない地域である。それでも、夕方の見回りのほうが事件・事故と遭遇する可能性は高くなる。状況次第では職務質問や武力行使も必要になるだろう。ようやく「警察官」らしい仕事ができるのだ。不謹慎だがちょっとだけワクワクしてしまう。いやいや、一応警察官なのに、犯罪の発生を待ち望んでどうするのだ。でも、やっぱちょっと楽しみじゃん? エースの足取りは少しだけ軽くなる。
すると、腰にぶら下げた未使用の装備品がチャリチャリ鳴った。
そこには銃をぶらさげたホルダーもある。
銃の存在を思い出した途端、右側の腰ががくんと重たくなって、浮ついた気持ちが一気にしぼんだ。腹の底がスンとつめたくなった。本物の銃弾が飛び出す本物の銃は、刑事ドラマで見た銃よりずっと不格好だ。こんなもので、だれかの胸や頭を狙うのか。これなら拳で語りあったほうがずっと平和的だとすら思う。魔法が使えればいいのに――それでも、一般の警察官が許可なく魔法を行使すれば、越権行為として厳しく処罰される。どれだけ不本意だろうと、状況次第では銃を使うしかない。
日没後の街並みはまるで違って見える。道を往くひとの顔ぶれも、聞こえてくる音も、一番目立つ看板も、日中とは様変わりしていて、同じ場所を昼間も歩いたはずなのに、全然知らない場所に来たようだ。
あのゲームセンター「コージー・ステーション」はというと、昼間に通りがかった際と似たり寄ったりだ。内部は薄暗く、様子はうかがえない。雑居ビルの前には人影がひとつ。昼間もたむろしていた少年たちのうちの一人だろうか。もしかして、あれからずっとここにいたとか? デュースは車道を挟んで反対側のとおりを歩いている。こちらの様子を見ることはできない。あるいは――見ようとしていないのかもしれないが。何が「ルールを守る」だよ。青少年保護育成条例、十八歳未満の者が十九時以降に外出している場合は自宅への帰宅を促す努力義務規定はどうした。
エースは少年の背後からこっそりと近づき、そっと声をかける。
「キミ、中学生だよね」
遠目には十八歳前後に見えていたが、もっと幼い。十四、五歳といったところか。眠たそうな目をしていたが、こちらを振り仰いで警察の制服を見るや否や、ギョッとして立とうとする。エースは彼の肩に手をおく。筋肉の少ないぺらぺらな腕。
「悪いけど、こどもが夜中に外出してると、ワルさはしてなくても一応声かけなくちゃいけねーんだよね。保護者の人は一緒じゃなさそーだし、ちょっとだけ、話、聞かせてもらっていいかな?」
少年は何かを言いたげに口を開く。しかし、緊張でことばがでてこない。エースは口元に微笑みを浮かべていたものの、目だけは笑っていなかった。少しでもナメた真似をすればただじゃおかないつもりだった。
突然、少年がもがくように腕を振った。エースは腹にゲンコツををうけて呻いた。一瞬息ができなくなるほどの勢いだった。こどもと思って油断した。このくらいの年齢のこどもが、どれだけズルくて悪賢くて、しかも残酷になれるかは、彼もよく知っているハズだったのに。もし、相手がこどもじゃなくて、大柄な成人男性だったら。もしも刃物を持っていたら――腰に吊るしたチェーンが音を立てて、その先にあるものの存在を示した。
「コノヤロ――」
次の瞬間、何が起きたのか分からなかった。気づくと地面の上に転がっていた。左目が開かない。口の中で血の味がした。ぼやけた街灯をあおむけに眺めていると、視界にデュースがはいってきた。まだぐわんぐわんと振動する頭を無理やりもちあげると、目が合った。高温で燃えるガスの塊みたいな青い瞳。デュースは学生の頃によく見た目をしていた。
あ、オレ、殴られたんだわ、デュースに。
「お前みたいな奴が、なんで警察官になったんだよ!!」
――うるせえ、馬鹿。それが分かれば苦労しねーんだよ。
口に溜まった血の味の唾をベッと吐きだす。右手をぐっと固めて、狙いも無茶苦茶のままに振りかぶる。デュースは避けない。腕全体にジンと響く嫌な衝撃。誰かの悲鳴。怒声と喧騒。通りの方角からサイレンが鳴る。どんどん近づいてくる。事件ですか、事故ですか、あるいは救急、それとも火事。パトカーが目指す現場は、今、自分たちいる場所だった。
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在学中、デュースがことあるごとに繰り返した『優等生』が、具体的にどんな存在を意味するのか、きっと、デュース自身も分かっていなかったのだろう。それは自己評価ではなく、主に他者の評価によるものだとは、考えたことも無かったのだろう。学習意欲や言葉遣いをなおしたところで、どうにかなる類のものではないのだと、デュースがようやく気付いたのは、二年生の終わり頃だった。
「遅ッ。オマエ、今頃気づいたの?」
と、エースは言った。そのとき、デュースはどんな顔をしていただろう。どうして教えてくれなかったんだ、とも、うるさい黙ってろ、とも、言われなかった気がする。ただ、その後も今までどおりがむしゃらに勉強をして、他人の嫌がる作業も積極的に引き受けて、困っている同級生には手助けして、先輩や教師に対して礼儀正しくふるまっていた。デュースの成績は中の下あたり、落第こそしなかったものの、優等と言うにはほど遠く、エースより少し下の位置をキープしつづけて、きわめて平凡な成績のまま卒業した。
だから、とっくに諦めたと思っていた。魔法執行官になる夢も、警察官になることも。
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不愉快な夢をみて目が醒めた。現在時刻は午前五時。エースは重たい瞼をむりやり持ち上げて顔をこする。眠い。ちょっと気を抜くとまた目を閉じそうになる。ぬるくなった保冷剤が腕の間から滑り落ちて、書類の上にぐにゃりと着地した。ぶるっと身震いをして、背もたれにひっかけた上着を羽織る。空調は効いておらず、フロアの照明は地域課の上にしか灯っていない。建物全体から活気と熱が失われて、室内は温度計が示す温度よりもずっと冷え冷えと感じた。
日報作成の途中だったのだ。勤務時間と見回り地区など、頭を使わずに書ける部分は埋めたものの、それ以外の欄はまだ真っ白。特に、午後七時頃に発生した警察官同士の暴力沙汰については、詳しく報告するように言われていたのだった。
詳しく、と言われても、特別に書くことなんてない。デュースに殴られたのでエースは殴り返した。現場付近の男性が通報したので、近隣を巡回中だった別の警察官が止めにきた。それだけだ。デカめの文字で適当に埋めてしまおうか。それともカビ臭い文体で大袈裟に記そうか。この度の傷害事件発生の折、諸先輩の方々を煩わせご苦労をおかけし誠にかたじけなく候――なんてさ。
フロアのドアの電子錠が音をたてて開いた。顔をだした人物が「よっ」と片手をあげる。バーネットだ。
「どうだ、調子は」
「メッチャ痛いっすね。怪力バカにフルスイングで殴られましたんで」
「お前も殴り返したくせに、よく言うよ。警察官見習いが勤務初日に傷害事件の当事者になってどうする」
「オレは条例違反の中学生に声をかけようとしただけですし。っていうか、最初に『しでかした』のはデュースですし?」
「らしいな」バーネットはため息をついた。「お前はよほどの悪ガキらしい」
「なにそれ。オレが悪いみたいな言い方じゃん。納得できねーんですケド?」
すると、バーネットは一枚の紙を差し出した。広告である。随所でよく見るフリー素材のイラスト。文書作成ソフトの見出し作成機能で作ったロゴ。家庭用コピー機で印刷されたのか、ところどころインクがかすれている。フリーダイヤルの電話番号の下には「お気軽にどうぞ!」の文字。
「なんすか、これ」
「『コージー・ステーション』のチラシだよ」
「は?」
もう一度、紙面に目をおとす。どうみてもゲームセンターのチラシではない。
「ここ、何をする場所なんですか」
「いろいろさ。宿題を手伝ったり、一緒に遊びに行ったり。相談に乗ることもある」
「相談……っていうと?」
「学校や家庭での問題事とか、友達付き合いの悩みとか」
「……つまり?」
「あそこはゲームセンターじゃない」と、バーネットは言った。「王都で昨年から始まった青少年支援プログラムのひとつでな。学校でも自宅でもないけれど安らげる場所――言ってみれば『休憩所』だ。常時、福祉専門のカウンセラーが滞在していて、地区のこどもなら誰でも利用できる。昨夜、お前が声をかけたのはその利用者だ」
なんだ、そういうこと。エースは俯いて、ペンの先でコツンと軽くおでこを叩く。オレが一人で空回りしていたってワケ。ずいぶん「らしく」ないことをしてしまった。これではまるで、どこかの誰かさんのようだ。
「……そーいう大事なコトは、最初に教えといてくれません?」
「確かに、教えなかったスペードにも非はあるが。しかし、今回のことに懲りたら先走って行動するんじゃないぞ。お前は罪のない未成年を犯罪者にするところだったんだからな」
そのとおりだった。そのことを思うと、腹の底がひやっとした。自分が手を置いたときの少年の顔を思い出した。絶望と恐怖で固まった表情。警察官の制服を着て、装備を持っているだけで、より強く、より偉くなったように錯覚していたのかもしれない――こどもの頃から中身はまるで変わらないのに。
「それで、反省文はもう書けたのか」
「右手が痛くて書きにくいんですよねえ。なんでパソコン使っちゃいけないんですか」
「お前みたいに要領のいい奴がコピペで仕上げるのを防ぐためさ。書き終わるまでここにいろよ。くれぐれも、勝手に行動するんじゃないぞ」
「……ハイ」
「よろしい」
バーネットが部屋を出て言ったのを見届けて、ため息をつくと、ふたたび万年筆を握る。学生時代からずっと愛用しているマジカルペンだ。それも今は役立たず。地域課職員に許可されているのは拘束魔法と簡単な防衛魔法だけ。胸ポケットの警察手帳には、使った魔法を記録する機能があって、自動筆記魔法を使えばズルしたことがすぐにバレてしまう。あーあ、メンドクサ。
エースはペンを動かす手をとめる。
――いっそ、全部、辞めてしまおうか。
警察学校の厳しい訓練に耐えかねて去っていった奴は何人もいた。ちょっと遅れて辞めたところで、別に今更、恥ずかしくもない。それより、やりたくもない仕事をイヤイヤ続けるほうが時間の無駄だ。人生一度きりなのだから、自分に正直に生きなくては。
赤い宝石のなかの自分と目があった。宝石の中のエースは愛想笑いを浮かべながら言う。
――オレノシリアイデイチバンノバカガゴウカクシタカラジブンニモデキルトオモッテ。
――なあ、オマエみたいな奴が、なんで警察官になったんだ?
電子錠が鳴ってドアが開いた。机に投げ出したままのペンを慌てて手に取って、反省文の続きを書くフリをする。カツカツと靴を鳴らして近づいてきたその人物は、デスクのとなりに立って、じっと彼のことを見下ろした。
横目で見上げると、そこにはデュースが立っていた。
「……なんすか、センパイ。手元が暗くて邪魔なんですけど。どいてくれません?」
デュースは唇をへの字に曲げたまま言った。
「殴ったのは悪かった」
「ナニソレ、謝罪のつもり? 『自分のしたことは間違ってませんけど、ご不快な気持ちにさせたのならば謝ります』ってこと? バカにしてんの?」
「おい、こっちは謝ってるのにその言い草はないだろ」
「じゃあもっと真剣に謝ってくれませんかね。誰のせいで反省文書いてると思ってんの?」
デュースは今度はぐっと目を瞑ると、やけくそみたいに頭をさげた。
「……悪かった。二度としない」
「当たり前だ、バカ」
「うるさい。馬鹿はお前だろ、事情も知らないで先走りやがって」
「その手の小言は別のセンパイからさっき聞いたばっかなんだよね。事情があるなら先に言っとけっつーの」
「それは……そうだが」
デュースはバツが悪そうに目をそらした。
「おっ、教えようと思ったんだ! でも、相手がエースだと思うと、何から話していいか分からなくて。お前が僕の話を素直に聞くとも思えなかったし、それに、学生の頃、勉強はいつも僕が教えてもらう側だっただろ。僕がお前にモノを教えるなんて、なんだかこそばゆくて……」
デュースはもごもごと言い訳のことばを並べていたが、エースは途中から真剣に聞いていなかった。ただ、どうしても肩がぷるぷる震えて、腹に力を入れても我慢できなくて、ほおが緩んで、ついに「ぶはっ」と噴きだした。エースは思いっきり腹から笑い声をあげた。殴られた左頬がじんじん痛んだけれど、構わなかった。笑い転げるエースを見て、デュースは呆気に取られていた。
「そっ、そんなに笑う事ないだろ!」
「いや――だって――朝からずっとふくれっ面してたのは照れ隠しだった、ってコトでしょ? あのツラを思い出したらおかしくって――ぶはは」
「……やっぱり、おまえの教育担当は交代してもらう」
ぶすっとした声でデュースが言った。
「え、なんで?」
「僕が教えても、エースは真面目に聞かないだろ」
まあ、確かに、それはそうかもだけど。変わってもらうといっても、他に誰がいるのだろう。昼間、廊下で話をしていた二人組だろうか。あんなやつらに教えてもらうのはゴメンだ。それに、どうせ同じ内容を教わるならば、デュース相手のほうが気楽でいい。少々ズルしてもバレなさそうだし、適当に言い訳つけて休憩時間も増やせそうだし。
「いや、オマエでいいよ、教育係。手始めに、デュース君の得意分野を教えてよ」
「え? なんだよ、急に?」
「教えるのに慣れてないんでしょ。だったら練習ってことで。あ、そーだ。オレ、殴り方のコツとか知りたいんだけど」
「は? 殴り方?」
「警察官なら役に立つかもしれないっしょ。やっぱ、実戦で役に立つのは徒手空拳(ステゴロ)だし」
デュースは眉間にシワを作り、しばしエースを睨むと、ため息をついた。
「……お前、やっぱり何も分かってないな」
「なんでだよ」
「どんな理由があろうと、誰かを殴ったらダメなんだぞ」
「どの口が言うかな。ていうか、そんなもん当たり前でしょ。対話路線。暴力反対。世界平和。でもそれで解決できたら苦労しねーっつの」
「だから――そうじゃない。一回殴るとクセが付いちまうんだ」
「クセ? なにそれ?」
「最初から平気で人を殴れるやつなんていないんだ。でも、練習をすれば、そのうちできるようになる。相手と目があわないようにして、拳が痛くならない殴り方を覚えて、殴った後の罪悪感を帳消しにする言い訳を、いくつもひねり出して――そうすれば、そのうち、どんな残酷なこともできるようになっちまう」
デュースは自分の右手を見下ろす。先ほどエースを殴った手だ。
「殴れるようになったやつは、何度でもやる。『殴る』って選択肢ができちまうからだ。だから『殴れる奴』になる前にやめさせる。殴れる奴を増やさない。それが僕たちの仕事だし、このシマを守ることにつながるんだ」デュースは振り返った。「――と、先輩に教わった」
「なんだ、受け売りじゃん」
「う、うるさいな。でも、僕も先輩の言うことはただしいと思う」
デュースはそう言って、エースの方を振り向いた。
「だから僕も、お前で最後だ」
「なにが」
「僕が誰かを殴るのは、お前で最後ってことだ」
「ぶは。なにそれ?」
エースは笑う。そんな約束、コイツに守れるのだろうか。いや、守ろうとするのだろうな。優等生になろうと必死だったころのように、馬鹿が付くほど正直に、真面目に、一途に。もうこれっきり。これで最後。デュースは今まで、何度、同じ誓いを立てたのだろう。
「――なあ、エース」
デュースがキッと顔をあげて言った。
「なんだよ、急に改まって」
「いや、その、言いたくなければ答えなくて構わないんだが」
「気持ちワル。ビミョーな気遣いやめてくれない。だから何なの?」
デュースは言うかどうするか迷うみたいに目線をきょろきょろさせる。迷うくらいなら聞かなきゃいいのに。最終的には言うことにしたらしく、エースの方をがばっと振り向く。
「どうして警察官を選んだんだ? 解析の仕事なら民間企業も募集しているし、警察官になるよりもラクな仕事はいくらでもあっただろ」
お前みたいなやつが、どうして――先ほど言われたことばがよみがえる。あーね。そういうことね。確かにご指摘のとおりである。大学院卒の解析専門魔法士なら、ラクな仕事は他にもあった。
「デュースは、オレが警察官にならないほうがよかった?」
「当たり前だろ。お前のせいで、僕まで面倒事に巻き込まれるんだからな」
「そのセリフ、そっくりそのまま返してやんよ」
「お前がいなければ、真夜中のドワーフ鉱山に行くこともなかったし、入学直後に上級生に喧嘩をふっかけたりしなかった。パイを盗み食いして朝まで床に転がることもなかった」
デュースはふふっとほほ笑んだ。
「馬鹿みたいな思い出は、全部、お前が一緒だな」
ああ、そうだった。コイツはこんな風に笑うんだっけ。四年の時間を飛び越えて学生の頃に戻った気がした。学生時代は馬鹿みたいなことでたくさん笑った気がする。デラックスメンチカツサンドのキャベツの量がやばかったとか、色変え魔法の自主練で白衣を虹色に染めあげたとか――あの頃に戻りたいとは思わない。力もカネもない、若くて愚かでナマイキなだけの学生に逆戻りなんてツマラナイ。それよりも、今はどこか、別の場所に辿り着いてみたいとおもう。知らないところに行くのがいい。行ったことのない場所。観たことのない景色。ちょっとした旅行気分で。
――自分には、夢も目標もないけれど。
「さっきの答えだけどさ」
エースは言った。
「オマエがいたから、って言ったらどーする?」
「え?」
デュースはキョトンと目を見開く。マヌケな顔をたっぷり堪能したあと、エースはニヤリと笑う。
「……なんてね?」
デュースは深くたっぷりと息を吐いた。
「エースに聞いた僕が馬鹿だった」
デスクの上でジリリリリンと目覚まし時計のベルが鳴る。エースはバシンと時計をたたく。見回り再開の時間だ。ふたりは顔を見合わせる。
「行くぞ」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「ハーイ」
「だから語尾を伸ばすなって」
不機嫌な横顔を昇り始めた朝日が照らす。エースは廊下に伸びる長い影を追って歩く。
現在時刻は午前六時。あと少し、眠気を我慢していれば、はじめての当直勤務が終わる。先ほどよぎった後悔の念は少し薄れて、やっぱりもうすこし続けてみよーかな、なんて考えている。ま、辞めるのはいつでもできるし。
将来の夢、目標、信念――そういうものは全部、デュースに任せておくことにする。
