Work Text:
アキからの電話を鈴木が受けたのは、行きつけのバーのカウンターで一人飲んでいた平日の夜だった。
「もしもし信也?房ちゃんから連絡あって、来週からまた四人での練習再開したいって。いいよね?」
騒つく思考を煙に巻くように、物理的な煙を大きく吸い込み、ゆっくり吐き出すと「ん。」と言って電話を切った。
飲みかけのダークラムの琥珀色に揺らぐバーの照明が、自らの動揺を映し出しているようで、その不安定な光に飲まれそうになる前に、一気に飲み干した。四十度のアルコールが、喉を焼く。
ポケットから紙幣を丸めた束を取り出し、千円札を三枚抜き取ってカウンターテーブルに置き、空のグラスを重しに乗せる。そして短くなったタバコの最後を吸いきり、灰皿で揉み消すと、立ち上がった。
「なんだもう行くのか。」
バーを切り盛りするマテオが、空のグラスと紙幣を回収する。
「釣りはいらない。」
そう言って踵を返した鈴木の背に、マテオは「また来いよ。」と声をかけた。答える代わりに軽く片手を上げて、鈴木は店を後にした。
漸く猛暑が落ち着いてきた九月の終わりの夜風は、秋の気配を含んでいて、まだまだ気温の高い日中に汗ばんだ頭皮を宥めるように撫でてゆく。はっきりとどっち付かずの季節の変わり目が、嬉しさと不安がないまぜの鈴木の感情を煽るようだった。待ち望んでいた知らせを受け取った事に対する安堵を孕んだ興奮と、現実にどうなるのか、彼と、どう接したらよいのか、何も明確になっていない事への、不安交じりの焦燥。
アジアカップのデモンストレーションで、鈴木は杉木から、一度は拒まれた手を確かに差し伸べられ、手を取り合って踊り、キスを交わした。そこに和解があった事は間違いない。しかし、今の自分達の関係が一体何なのか、杉木が自分とどうなりたいのか、何一つ言葉にしてもらってはいない。そもそも、鈴木自身が杉木とどうなりたいのか、明確に言葉に落とし込めているわけでもない。ステップとホールドで交わってきた彼らは、言葉を交わす事にはあまり長けていなかった。
気づけば昨年のクリスマスの日と同じ道を辿っていた。歩道橋の階段を上がり、何を期待してか、ここに来てしまった自分の滑稽さを半ば自嘲しながら、まさか居るはずはないだろうと見下ろした公園で、見間違えようもない立ち姿が、一人でワルツを踊っていた。
——嘘だろ、何で居るんだよ。
いや……と、鈴木は立ち止まり、手摺に両手をついて大きくため息をついた。
居て欲しかったから、ここに来たのだ。杉木ダンススタジオで改まって顔を合わせる前に、あわよくば二人で話したいという思いがあって、まさかとは思いつつも、半ば無意識にここまで足を運んだのだ。
しかしいざ本当に居られてしまうと、何をどう切り出せばよいのか、言葉の用意の一つも無い事実に直面し、焦りが立つ。近くに行く踏ん切りも、このまま何も言わずに立ち去る諦めもつかないまま、一人でステップを踏み続ける彼を、遠巻きに眺めていた。
彼の特徴的な大きなホールドの中に収まる自分の身体が重なって見える。言葉の用意もないのに、その腕の中に飛び込んで一緒に踊りたい衝動ばかりが、踏み出せない身体の中に湧き上がってくる。酒の力を借りてその衝動に身を任せるには、まだ酔いが足りなかった。
どれ程そうしていただろう。もういっそ、先に立ち去ってくれないだろうか、或いは——。
言葉にならない曖昧な願望が、うっかり届いてしまったのだろうか。ふとステップを止めた彼が、その場で振り返った。
杉木の視線が迷わず鈴木を捉える。——見つかってしまった。
こんなに遠い距離からでも、自分を認識された事に一瞬驚くも、自分だって顔もはっきり見えないこの距離から、例え踊っていなかったとしても、彼の立ち姿は認識できてしまう確信が、当たり前のようにあった。
鈴木は観念して、公園に繋がる階段に足を向ける。階段を下る間もずっと、何を言おうか、何を言われるだろうかと、ぐるぐると考えていた。
歩道橋を降りたところに、自販機があった。そこではじめて、自分の喉が酷く渇いている事に気づき、ポケットから取り出した小銭で水を二本買った。
ずっと視線を自分に向けたままの杉木の方に、殊更ゆっくりと歩いてゆく。顔のパーツがはっきりと認識できる距離になると、先に言葉を発したのは杉木だった。
「いつから見ていたんですか?」
相変わらずのばか丁寧な杉木の口調に、鈴木の緊張が少し和らぐ。
「ちょっと前から。」
実際は、ちょっとと形容するには些か長かった時間を曖昧に濁しながら、鈴木は冷たいペットボトルを一本差し出した。
「ありがとうございます。」
ずっと踊り続けていた彼も、喉が渇いていたのだろう。すぐにキャップを開けて、ボトルの半分程を一気に喉に流し込んだ。鈴木も自分の分のボトルから水を飲みながら、近くの植え込みの縁に座ると、杉木もその隣に腰を下ろした。
「アキから聞いたよ、練習再開したいって。」
結局、至極当たり前の事から話を振った。それでも向き合ったままでは落ち着かない対話に、横並びの距離は丁度良かった。
「僕から矢上さんにお願いして、連絡して貰いました。」
思えば自身のパートナーのアキも、杉木のパートナーの房子も、男共の都合でろくに説明もないまま練習が中断していた事を咎めもせず、あまつさえこんな時ばかり連絡役に使われて、よく文句の一つも溢さず付き合ってくれていると思う。
「……でも、どんな顔をしてスタジオであなたに会ったらいいのかと思案していたら、じっとしていられなくて。」
それで彼は、こんな時間にこんな所で一人で踊っていたというのか。鈴木は正直、意外に思った。
「あんたはケロっとしてられんのかと思った。」
悔しさをおくびにも出さずに、笑顔を貼り付けて道化を演じられる、杉木はそういう男だった筈だ。あのブラックプールの夜に、鈴木がどんなに手を伸ばしても、その冷たい死神の仮面を、遂に剥ぎ取る事はできなかった。
「正直、こんな事ははじめてです。」
その声に、確かに滲む温度を感じ取り、今一体彼はどんな顔でその言葉を発しているのか、どうしても知りたくて、気づけば気まずさも忘れて隣を向いていた。視線を察知した杉木が、横目でこちらを見ると同時に、顔を赤らめて口元を拳で隠した。
「そんな物欲しそうな目で見ないでください……調子が狂います。」
恋人をライバルに奪われても、そのライバルに何度挑んで敗れても、凍てついた笑顔を崩さなかった男が、ただスタジオで自分に会う事を考えただけで、こんなに熱を孕んだ表情を溢す事に、心臓が震えた。
「狂えよ。俺はとっくに狂ってる。」
口元を覆う彼の拳に手を伸ばし、そっと外した。視線が交わる。その黒い瞳に吸い寄せられるように、鈴木は顔を寄せた。
「……っ!」
唇に触れる直前の刹那、あの夜の記憶がよぎった。縋りついた手を無慈悲に離されたあの瞬間の、彼の瞳にはっきりと浮かんだ拒絶と、一瞬にして肺が真空になったような苦しさと絶望。知らず知らずのうちに詰めていた息を、震える唇から吐き出した。
「っあのさ……流石に俺だって怖いよ。」
次に拒絶されたら、今度こそもう終わりかもしれない。杉木の拳を握り込んだ自らの手を見下ろしていると、何かが額に触れた。鈴木の目にかかる前髪を、杉木の長い指が掻き分ける。
「……僕はせめて、あなたに弁解をする道義がありますね。」
鈴木が顔を上げると、杉木は少しバツが悪そうに微笑んでいた。その表情にはしかし、取り繕ったような影は見られない。
「四年前、僕はリアナからパートナーを解消されました。彼女とは公私共に長い付き合いで、ダンスの相性も良かった。僕のキャリアの頂点は、彼女と共にあると信じて疑わなかった、その矢先の出来事でした。」
初めて杉木自身の口から聞くリアナとの過去に、終わった事とは知りながら、どうしようもなく嫉妬心が湧き上がり、拳に力が入る。彼が自分を見向きもせずに、このままどこか遠く、手の届かない所へ行ってしまうような心地がした、ブラックプールでの二人のオナーダンスは、今も鈴木の目にじくじくと焼き付いて離れない。
「新しいパートナー探しは難航を極めました。今思い返せば、ろくに気持ちの整理もつかないまま、候補の女性たちに無理難題を突きつけた、僕自身の責任です。一向に先が見えず、もうここまでかもしれないと半ば観念して、僕は日本に一時帰国しました。」
房子から聞いて知っていた話を、杉木自身の言葉で聞くのは、また一層苦い感情を鈴木に齎した。彼が受けた裏切への憤りと、自らの嫉妬心が撹拌されて、腹の奥に重たく渦巻く。
「しかし、明確な目的もないまま帰国したところで、結局ダンス以外にする事もなくて、僕はたまたまその時開催されていた、アマチュアの大会を観に出かけました。」
徐に、杉木の表情がふわりと柔らかく綻んだ。
「そこで僕ははじめてあなたを見たんです。当時はまだ無名だったあなたは、規定などそっちのけで、全身であなたの身体に宿る歴史とストーリーを体現していた。あなたのダンスは、僕がついぞ知ることのなかった、純粋な踊る喜びに満ち溢れていた。」
はじめて聞く話だった。杉木が鈴木を知ったのは、鈴木がターンプロした後、国内大会で名を上げてきた頃だと当然のように思っていた。まさかアマチュアの頃の自分を彼が知っていたとは、考えもしなかった。
「そんなあなたのダンスに、僕は失いかけていた一条の希望を見出しました。あの日のあなたが、僕を前に進めてくれたんです。」
クリスマスの日、別れ際に電車のドア越しに伝えられた言葉の、これが本当の意味なのだと気付く。
「僕は日本に拠点を移し、矢上さんとペアを組み、再び大会に出場しはじめました。その間も順調に勝ち上がり、やがて日本の頂点に立つあなたの存在を、すぐ近くに感じながら。」
鈴木もまた、まとわりつくような彼の視線を傍に感じながら、日本チャンピオンへの道を駆け上がってきた。
「……僕は、あなたになりたかったのかもしれません。」
思いもよらなかった杉木のその言葉に、思考が理屈を形にするより前に鈴木を襲ったのは、正体のよくわからない悲しみだった。それと同時に、同じような言葉を彼の口から聞いた記憶も蘇る。
「……ブラックプールの死神に、とって代わろうとしたみたいに?」
対抗心、敵対心、彼が自分に抱く感情が、結局それだけに留まるのだとすれば、あの日告げられた言葉通り、二人が交わる事はできないだろう。
「……いいえ、畏れを原動力とするより他に、術を知らなかった僕は、あなたという存在と一つになることで、自分ではない何者かになって、あなたのように踊る夢を見たんだと思います。」
ああ、悲しみの正体はこれか、と思った。
「あんたがあんたじゃなくなったら、俺があんたと踊れないじゃん。」
杉木が自分を求める余りに、彼自身である事を捨ててしまったら、彼を求めてやまない自分の渇望は、どこに置いたらいいのだろう。
「そう、所詮は儚い夢だったんです。僕はあなたにはなれない。」
彼の言葉に安堵すると同時に、やはりそんな事を夢見る彼に、寂しさは尾を引いた。気高く美しいボールルームの帝王、残酷で優しい、その孤独な魂の光も闇も、彼の全てを鈴木はこんなにも切望しているというのに。
「ならなくていいよ。あんたはあんたのままでいい。」
自分を痛めつける事でしか強くなれないこの男を、他の誰でもない、自分の手で救ってやりたいという思いは、一度は拒絶された今も尚変わらない。そのためには、どう手を伸ばせばよいのか、今度こそ鈴木は、はっきりわかった気がした。
植え込みから腰を上げると、杉木の前に立ち、背筋を伸ばす。そして祈るような思いで、左手を差し伸べた。
杉木は目を見開いて、鈴木の顔を見上げる。
「ワルツの起源は求愛なんでしょ。」
他の誰でもない彼に愛を乞うのに、これ以外の方法などきっとはじめから存在しなかったのだろう。
杉木の表情いっぱいに、嘘偽りのない喜びが広がる。彼はすっと立ち上がり、鈴木の手を取った。触れたところから流れ込んでくる感情の鮮やかさに、鈴木の全身が満たされてゆく。その喜びをしっかりと受け止めて、ステップを踏み出した。
ボールルームのフォローはリードの指示で動く。まだ技術においては杉木に遠く及ばない鈴木のリードに、彼は素直についてきた。ただでさえ公園の地面と外履は、ダンスフロアとシューズに比べたら酷く踊りにくくて、必然的に落ちる踊りの質に、杉木がダメ出しをしようと思えばいくらだってできただろう。それでも一切の抵抗も示さず、評価も下さず、鈴木のリードにぴったりと合わせて踊る、彼のステップの一つ一つに滲む誠意に、気づけば鈴木の不安は溶けて消えていた。
持てる限りの技術と、それ以上の思いを込めて、大切に、大切に彼を扱えば、その思いの欠片の一つも取りこぼす事なく、彼は真摯に応えてきた。
鈴木がこんなにも誰かを想い、ましてやその想いを余す事なく受け取って貰えた事など、未だかつてなかった。こんなにも深く誰かと繋がれた事はなかった。満たされた心から溢れ出るようにして、鈴木の瞳から涙が零れ落ちた。
このままいつまでも踊り続けていたい思いに後ろ髪を引かれながら、それでも大切な事を、ダンスよりも幾分不得手な言葉でちゃんと伝えるために、静かにステップを止めた。漸く顔を見合わせると、鈴木の涙に気づいた杉木は、濡れた頬に大きな手を添えた。その体勢はあの夜と同じでも、今度こそ、想いはしっかり通じていた。
「俺のもんになってよ、お願いだから。」
鈴木がそう乞えば、親指で鈴木の涙を拭う杉木の瞳からも、涙が零れ落ちた。
「とっくに、あなたのものです。あなただけの。」
迷いのない言葉と共に、唇は杉木の方から寄せられた。鈴木も彼の頸と腰に手を添えて、強く抱き寄せた。誰もいない深夜の公園で、深く口付けを交わす。
夜風が二人を包み込むように熱くなった肌を撫でる。名残りを惜しみながら唇を離すと、額をつけたまま、鈴木は真っ直ぐ杉木の目を見た。
「あんたを愛してる。」
生まれてはじめて口にしたその言葉を、黒く濡れた杉木の瞳が確かに受け止めた。
「僕も、愛しています。あなたのダンスをはじめて目にしたあの日から、今この瞬間までずっと。」
再び唇を重ねた二人を、秋の月が静かに照らしていた。
