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私たちに幸福は訪れるのでしょうか?

Summary:

かなり暗くて悲しい物語ですが、ハッピーエンドです。二人の登場人物、特にハンジの心理描写に力を入れました。もしかしたら、まだ改善できる点がたくさんあるかもしれません。物語はハンジが司令官になってから約6ヶ月後を舞台にしています。

これはロマンティックな物語で、少し甘い物語でもあります😊。

Notes:

注:- 心理描写、トラウマ、ネガティブな内容が含まれています…
- 妊娠に関する内容が含まれています
- 物語のテンポが読みにくいかもしれません

(PosTypeプラットフォームに韓国語版を投稿しましたが、オリジナルの日本語版もまだ公開されているので、今回改めてこのプラットフォームに投稿します。)

(See the end of the work for more notes.)

Work Text:

1.
エルヴィンの遺した椅子は、木の節目が痛々しいほど浮き出ていた。ハンジは毎朝、そこに座るたび、背もたれの冷たさが骨まで染みるのを感じた。書類の山は増え続け、壁外調査の報告書には「生存率低下」「資源不足」「民衆の不満」という文字が並ぶ。夜になると、彼女は独りで地図を広げ、赤い矢印を何度も引き直した。指先が震え、インクが滲む。

リヴァイは、いつも廊下の隅に立っていた。マントの裾が風に揺れ、足音を殺して近づく。ハンジが俯いたまま「もう無理かもしれない」と呟くと、彼は無言でティーカップを置いた。湯気だけが、彼女の頰を濡らす涙の代わりに立ち昇る。

ある夜、調査兵団の本部は雷雨に見舞われた。窓を叩く雨音が、まるで巨人の足音のように響く。ハンジは机に突っ伏し、肩を震わせていた。リヴァイは、いつものように背後から近づき、彼女の髪に触れた。指先が、乱れた前髪をそっと梳く。

「お前は、笑うべきだ」
彼の声は低く、雨に紛れて届いた。「エルヴィンは、お前が泣き顔を見せるのを嫌った」

ハンジは顔を上げた。瞳は充血し、頰は涙で濡れていた。リヴァイは、ポケットから折り畳んだハンカチを取り出し、彼女の頰に当てた。布地は、彼の体温で温かかった。

「でも、私は……」
「司令官は、弱音を吐いてもいい」リヴァイは、初めて彼女の前に膝をついた。「俺が、聞く」

朝が来るまで、二人は言葉を交わさなかった。ただ、雨音と、互いの呼吸だけが、静かに響き合っていた。

 

2.
本部の奥、司令官室のドアは厚い鉄板でできていた。リヴァイは廊下に立ち、耳を澄ます。最初は小さな音だった。紙が裂ける音。次に、インク壺が床に落ちる鈍い響き。そして、椅子が倒れる甲高い悲鳴。

彼はノックしなかった。鍵はかかっていなかった。ドアを押し開けると、部屋の中は嵐の後だった。地図は床に散らばり、矢印の赤い線が血のように滲んでいる。ハンジは壁際に立ち、両手で髪を掻き毟っていた。

「もう、全部無駄だ……!」
彼女の声は掠れ、叫びは途中で途切れた。次の標的は、棚に並んだ古い書物だった。エルヴィンが愛読していた戦略論。ハンジはそれを掴み、力任せに床に叩きつけた。背表紙が折れ、ページが舞い上がる。

リヴァイは一歩、また一歩と近づいた。破片を踏みしめ、音を立てない。ハンジが振り向いたとき、彼は既に彼女の腕を掴んでいた。力は強く、しかし骨を折るほどではない。

「離せ!」
ハンジは暴れた。肘がリヴァイの頬をかすめ、薄く血が滲む。それでも彼は離さない。代わりに、もう片方の手で彼女の腰を引き寄せ、床に座り込ませた。破片が二人を囲む。

「壊せばいい」
リヴァイの声は静かだった。「全部壊せ。終わったら、また拾えばいい」

ハンジの息が荒い。胸が激しく上下し、涙が頬を伝って落ちる。彼女はリヴァイの胸に拳を打ち込んだ。一度、二度。そして、三度目で力が抜けた。拳は開き、代わりに彼の制服を掴んだ。

「エルヴィンは……私に、何も教えてくれなかった……」
嗚咽が漏れる。「どうやって、みんなを殺さずに守るか……」

リヴァイは、彼女の背中をゆっくりと撫でた。指先が、震える肩甲骨をなぞる。破片の上で、二人の影が重なる。外では、風が窓を叩いていた。

「俺がいる」
彼は呟いた。「お前が壊れるまで、壊れてもいい。俺が、残りを拾う」

ハンジは、ゆっくりと顔を上げた。瞳は腫れ、唇は血の味がした。リヴァイは、ポケットからハンカチを取り出し、彼女の指の傷に巻いた。布地は、すぐに赤く染まった。

部屋の中は、静寂に包まれた。壊れた物の残骸が、二人の間に横たわる。だが、その向こうに、朝の光が差し込み始めていた。

 

3.
ハンジはリヴァイの腕に抱きしめられていた。白い肌には無数の傷跡が深く刻まれていた。肩の古傷、肋骨の傷、鎖骨下の火傷。息は熱かったが、声は出さなかった。喉の奥からこぼれる深い呻きを抑えようと、唇を噛んだ。爪がリヴァイの背中に食い込み、まるで痛みを感じているのか確かめるように深く食い込んだ。

リヴァイはハンジの腰に腕を回した。彼は動きを止め、静かに見上げた。ハンジの目は潤み、生気を失っていた。額から汗が彼の胸に流れ落ちていた。

「……どうして声を抑えようとするんだ?」

彼の声は深く、嗄れていた。指は彼女の頬を撫でた。親指は、まだ噛み跡が残る下唇を軽くなぞった。

ハンジは頭を下げた。体がわずかに震え、彼女は呼吸を整えた。リヴァイは再び尋ねた。今度は耳元で囁いた。

「前の私は全然違ってた。叫んだり、大声で笑ったり、君の名前を呼んだりしてたのに…」

彼女の肩がぴくぴくと動き、ゆっくりと顔を上げた。目に涙が浮かんだ。

「声が不快になった気がする。」

彼の声は震えていた。「廊下の兵士たちに…私がどれだけ弱っているか、わかってしまうだろう…」

リヴァイは彼女の背中に腕を回し、強く抱きしめた。ハンジの額が彼の肩に寄りかかった。熱い息が彼女の首筋を煽った。

「僕以外に、誰がこれを聞くんだ?」

彼は囁いた。「この部屋には君と僕だけだ。」

ハンジはゆっくりと顔を上げた。彼女の唇は震え、涙が頬を伝った。リヴァイは彼女の髪を撫でた。指先が優しく彼女の耳たぶに触れた。

「音を立てろ」と彼は言った。「君が倒れる音、全部聞こえるぞ。」

ハンジは息を吸った。喉を鳴らし、小さなうめき声が唇から漏れた。リヴァイは彼女の腰に腕を回し、ゆっくりと動いた。ハンジの唇が開き、今度は声が漏れた。嗄れ、震えていたが、力強かった。

「リヴァイ……」彼の名前が部屋に響き渡った。降り積もる雪の音と二人の息づかいだけが応えた。

夜明けまで、二人の声と温もり、そして傷跡だけが静寂の中に混ざり合っていた。

 

4.
訓練所の朝は、霜が降りるほど冷え込んだ。リヴァイは、兵士たちの叫び声を背に、木陰のベンチに腰を下ろした。手には、折り畳んだ便箋。インクはすでに乾き、封蝋は彼の指紋で薄く凹んでいる。

> ハンジ
> 今日も飯を抜くな。
> 昨日、首都の食堂で出たスープは薄かったと聞いた。
> 肉は残すな。骨までしゃぶれ。
> 夜は寒い。毛布をもう一枚持て。
> リヴァイ

便箋は、毎日一枚。訓練の合間、夜の見回りの後、時には朝の点呼の直前。兵士たちが寝静まった兵舎の片隅で、彼は蝋燭一本を頼りに文字を綴った。言葉は短く、しかし確かだった。

首都では、ハンジの机の上に、同じ便箋が積み重なっていた。会議の合間、書類に埋もれながら、彼女はそれらを一枚ずつ開いた。リヴァイの字は、いつもより丁寧で、筆圧が強い。「肉」「骨」「毛布」——命令形の文字が、彼女の指先を温める。

ある夜、首都の宿舎は雪が降り始めた。ハンジは、窓辺に立ち、リヴァイからの最新の手紙を胸に押し当てた。

> ハンジ
> 訓練生の一人が、剣を振り回して肋骨を折った。
> お前なら笑うだろう。
> 明日は、雪が降る。
> 風邪を引くな。
> 早く、戻れ。
> リヴァイ

彼女は、机に向き直った。便箋を取り、ペンを握る。インクが、紙に滲む。

> リヴァイ
> スープは飲んだ。
> 会議は長引く。民衆の不満は、巨人の咆哮より大きい。
> でも、あなたの手紙を読むたび、笑える。
> 雪が降ったら、一緒に見たい。
> 待ってて。
> ハンジ

手紙は、翌朝、馬車に託された。雪が降りしきる道を、便箋は静かに運ばれていく。訓練所に着く頃、リヴァイはすでに朝の点呼を終えていた。彼は、封蝋を割らずに、胸のポケットにしまった。兵士たちの前では、表情は変わらない。だが、指先だけが、便箋の角をそっと撫でていた。

二週間が、ゆっくりと過ぎていく。手紙だけが、二人の距離を繋いでいた。雪は積もり、溶け、また積もった。だが、便箋の文字は、決して冷たくならなかった。

首都の司令部は、雪解けの匂いがした。ハンジは机に向かい、書類の山に埋もれていた。窓の外、馬車の車輪が水溜まりを跳ね上げる音が響く。彼女はペンを置き、額を押さえた。指先は、インクで汚れていた。

そのとき、窓の外に影が動いた。黒いマント。短い髪。リヴァイだった。彼は、馬から降り、泥除けのブーツを鳴らして歩いてくる。顔は、雪と風で赤く、しかし目は変わらず鋭い。

ハンジは、椅子を倒して立ち上がった。書類が床に散らばる。彼女はドアを蹴り開け、廊下を駆けた。靴音が、静かな建物に響く。階段を二段飛ばしで下り、玄関ホールに飛び出す。

リヴァイは、ちょうど扉を押し開けたところだった。マントの裾が、雪解け水で濡れている。ハンジは、勢いよく彼に飛びついた。腕が、首に回る。体が、ぶつかる。

「……遅かった」
彼女の声は、震えていた。顔を、彼の肩に埋める。リヴァイのマントは、冷たく、雪の匂いがした。

リヴァイは、ゆっくりと腕を回した。彼女の背中を抱きしめる。指先が、震える肩を撫でる。彼は、彼女の髪に顔を寄せた。息が、白く立ち昇る。

「手紙、全部読んだ」
彼の声は低く、耳元で響いた。涙が、頬を伝う。彼女は、リヴァイの胸に額を押し当てた。心臓の音が、聞こえる。速い。

「雪、一緒に見よう」
彼女は呟いた。「約束、守った」

リヴァイは、彼女の腰を抱き上げた。足が、地面から離れる。ハンジは、驚いたように目を丸くした。だが、すぐに彼の首に腕を回した。二人は、玄関ホールで、静かに抱き合っていた。外では、雪解け水が、静かに流れていく。

オフィスに戻るまで、二人は離れなかった。書類は、床に散らばったまま。だが、誰も、それを咎めなかった。司令官室のドアは、静かに閉まった。雪解けの光が、窓から差し込む。二人の影が、ゆっくりと重なった。

 

5.
司令官室の空気は、紙とインクと埃で淀んでいた。ハンジは机に突っ伏し、ペンを握ったまま動かない。書類の端が、彼女の吐息で震えている。蝋燭はすでに芯が短くなり、灯りは揺れていた。

リヴァイは、ドアを静かに開けた。足音を殺し、彼女の背後に立つ。肩が小刻みに上下している。呼吸が浅い。彼は手を伸ばし、彼女の首筋に触れた。熱はない。だが、脈が速すぎる。

「……ハンジ」
声をかける。返事はない。彼女の体が、ゆっくりと横に傾いた。ペンが床に落ち、インクが広がる。リヴァイは、素早く腕を回し、彼女を抱き止めた。頭が、彼の肩に落ちる。意識がない。

彼は、彼女を抱き上げた。軽い。あまりに軽い。廊下を駆け、階段を下りる。靴音が、建物に響く。外は、雪解けの後の泥濘だった。馬車を呼び、病院へ急ぐ。ハンジの頭が、彼の膝の上で揺れる。髪が、頬にかかる。

病院のベッドは、白く、冷たかった。医師は、聴診器を当て、眉を寄せた。瞳孔を確かめ、脈を測る。リヴァイは、ベッドの横に立ち、彼女の手を握っていた。指先が、冷たい。

「過労です」
医師は、静かに告げた。「肉体的にも、精神的にも。睡眠不足、栄養失調、ストレス……司令官の負担は、常人の限界を超えています」

リヴァイは、頷いた。声は出ない。医師は、点滴を準備しながら続けた。

「まずは、絶対安静。少なくとも一週間、仕事は禁止。食事と睡眠。それだけです」

ハンジの瞼が、微かに動いた。意識が戻る。彼女は、ぼんやりと天井を見た。白い壁。薬の匂い。そして、リヴァイの顔。

「……ごめん」
彼女の声は、掠れていた。「書類が……」

「黙れ」
リヴァイはハンジの手をぎゅっと握った。「寝なさい。全部私がやるから。」

ハンジは目を閉じた。涙が頬を伝った。リヴァイはベッドの端に腰を下ろし、優しく彼女の髪を撫でた。医者が去ると、部屋に静寂が戻った。

 

退院の日、家の中で聞こえるのは溶けゆく雪の音だけだった。薄い毛布にくるまれたリヴァイは、彼女を寝室へと運んだ。ベッドは整えられ、枕はふかふかで、窓には新しいカーテンが掛けられていた。これらはすべて、彼がその朝に済ませたものだ。

リヴァイは優しく彼女を寝かせ、毛布を肩まで引き上げた。

「動くな。」

短い言葉だったが、彼の声は深く、力強かった。

ハンジは呆然とハンジを見つめた。彼女の頬はまだ青白く、目は腫れていた。「…水。」

彼はかすれた声で呟いた。

リヴァイはベッドサイドテーブルからカップを素早く掴み、彼女の背中に腕を回して抱き上げた。ゆっくりと水を口元に運び、一口、そしてまた一口飲んだ。こぼれた水を親指で優しく拭った。

「他に何か?」

「ない。」

「嘘をつかないで。」

彼は優しく言い、彼女の額に手を置いた。熱はなかったが、額はまだ冷たかった。

ハンジは頭を下げた。

「ごめん…また邪魔しちゃった。」

「黙って。」

リヴァイは再び言った。今度は少し優しい口調で。「何かあったら言って。それだけだ。」

彼は立ち上がり、部屋の隅にあった椅子を近づけた。彼は座った。背筋を伸ばして彼女を見た。ハンジはゆっくりと横たわった。毛布の中で彼女の指は震えていた。

「…リヴァイ」

「はい?」

「ここに残るの?」

彼は答えず、ただ頷いた。そして彼女の手を握った。彼女の手は温かかった。

外から水滴が落ちる音が続いていた。部屋は静まり返っていた。時計は秒針を刻み、分刻みに進んでいた。ハンジの呼吸は深くなっていった。

リヴァイは動かなかった。

彼がただ、彼女が眠りに落ちるまで、目を閉じるまで、彼女のそばにいた。

彼は何もしなかった。

ただ、必要な存在だった。

 

朝の光が溶けた水を金色に染めていた。リヴァイは寝室のドアをそっと開けた。ハンジはまだ眠っていた。彼女の呼吸は深く、頬は淡いピンク色を取り戻していた。彼はベッドサイドテーブルに、真新しい花瓶とリンゴを置いた。短いメモだ。

>リンゴを食べなさい。

>リヴァイ

彼は司令室へ向かった。机の上にはまだ書類の束が置いてあった。赤い矢印が描かれた地図、資源配分報告書、市民の嘆願書。リヴァイは袖をまくり、ペンを取り出した。筆跡は小さかったが、正確だった。

二時間後、仕事の半分が終わった。残りの仕事を封筒に入れ、アルミンの名前を書いた。兵舎に行く前に、アルミンの部屋のドアをノックした。

「リヴァイ兵長?」

アルミンは目をこすってドアを開けた。ベッドから出たばかりで、髪は乱れていた。

「これだ。」

リヴァイは彼に封筒を手渡した。「これはハンジの仕事だ。俺が兵舎にいる間にやってくれ。」

アルミンは封筒を受け取り、中を見た。彼は眉をひそめた。

「でも、これは団長の仕事だ…」

「許可したんだ。」

リヴァイは優しく言った。「君ならできる。」

アルミンは頷いた。彼の目には決意が満ちていた。

「わかった。任せてくれ。」

リヴァイは振り返った。寝室に戻った。ハンジはまだ眠っていた。しかし、彼女の眉間にはしわが寄っていた。夢を見ているようだった。

彼はベッドの端に腰を下ろし、優しく彼女の髪を撫でた。

「もうすぐ終わる」誰にも聞こえない声で呟いた。

野営地へ向かう馬車の中で、リヴァイは窓の外を眺めた。雪解けで道はぬかるんでいた。しかし、春の香りが既に漂っていた。

アルミンがハンジに代わって任務を遂行することになった。

彼の仕事は彼女を守ることだった。

それだけだ。

 

陽光が雪解けの水たまりを銀色に染めていた。ハンジはゆっくりと目を覚ました。ベッドは暖かく、枕にはリヴァイの香りがまだ残っていた。彼女は布団からそっと抜け出した。少しよろめきながら、床に足をつけた。

「少しだけ……」
呟きながら、彼女は椅子に腰を下ろした。書類の山は、半分に減っていた。赤い矢印の地図。資源配分の報告。彼女は、ペンを握った。指先が、震える。

最初は、一枚。次に、二枚。そして、三枚目。インクが、紙に滲む。彼女は、集中していた。眉間に皺が寄る。だが、瞳は、生き生きと輝いている。

廊下の向こうで、ドアが開く音がした。足音。リヴァイだった。彼は、兵舎から戻ってきた。マントの裾が、泥で汚れている。ハンジは、慌ててペンを置いた。書類を、引き出しに押し込む。

リヴァイは、寝室のドアを静かに開けた。彼女は、ベッドに戻っていた。毛布を肩まで引き上げ、目を閉じている。だが、頬が、赤い。息が、少し速い。

「……起きてたか」
彼の声は、低かった。ハンジは、目を細めて開けた。
「ううん、今、起きた」
嘘は、すぐにバレた。

リヴァイは、机に近づいた。引き出しの端が、半開きになっている。彼は、そっと開けた。書類が、三枚。赤い矢印が、新しく引かれている。

「言っただろ」
彼は、書類を手に取った。「動くな」

ハンジは、ベッドから体を起こした。
「でも、少しだけ……」
「少しも、ダメだ」
リヴァイは、書類を机に戻した。そして、彼女の前に膝をついた。瞳が、まっすぐに見つめる。

「俺が、全部やる」
彼は、彼女の手を取った。「お前は、寝ろ。食え。笑え。それだけ」

ハンジは、唇を噛んだ。
「……ごめん」
「謝るな」
リヴァイは、彼女の額にキスをした。「次、caughtしたら、罰だ」

ハンジは、笑った。涙で、頬が濡れる。
「どんな罰?」
「考える」

 

6.
夕暮れの光が、雪解けの水溜まりを橙色に染めていた。リヴァイは、ソファに腰を下ろし、ハンジを膝の上に抱いていた。彼女は毛布にくるまり、頭を彼の肩に預けている。指先が、彼のシャツの裾を握っていた。

「……人恋しい」
ハンジは、ぼそりと呟いた。瞳は、窓の外を見つめている。「外の空気も……風の匂いも……」

リヴァイは、彼女の髪を撫でた。指先が、耳の後ろをなぞる。
「数日だ」
彼の声は、低かった。「体調が戻ったら、連れ出す」

ハンジは、ゆっくりと顔を上げた。瞳が、輝いている。
「どこ?」
「どこでもいい」
リヴァイは、彼女の頬に手を当てた。「お前が、行きたいところ」

彼女は、笑った。頬に、薄い色が戻る。
「市場……パン屋の匂い……子供たちの声……」
「全部、連れてく」
彼は、彼女の額にキスをした。「約束だ」

ハンジは、彼の胸に顔を埋めた。息が、温かい。
「……ありがとう」
リヴァイは、彼女の背中を撫でた。

数日後——
春の匂いが、近づいていた。

週末の夕方、首都の劇場は雪解けの水で濡れた石畳を映していた。リヴァイは、ハンジの腕をしっかりと掴み、群衆を避けるように歩いた。彼女は厚手のコートにマフラー、頬はまだ青白いが、瞳だけは生き生きと輝いている。

「ここだ」
彼は、脇の階段を上った。個室の扉を開ける。狭いが、暖かく、舞台が一望できる。椅子は二つ。窓には厚いカーテン。外の喧騒が、遠のく。

ハンジは、ゆっくりと座った。マフラーを外し、コートを脱ぐ。
「……本当に、個室?」
「邪魔されねえ」
リヴァイは、隣に腰を下ろした。プログラムを彼女に渡す。「全部、見ろ」

幕が上がった。舞台は、壁内の小さな村。子供たちが巨人ごっこをし、笑い声が響く。ハンジは、最初は静かに見ていた。だが、次第に肩が揺れ、笑いが漏れる。涙が、頬を伝った。

幕間、リヴァイは、廊下に出て温かい飲み物を買ってきた。蜂蜜入りの紅茶。ハンジは、両手でカップを包み、息を吹きかける。
「昔、こんなの見たかった」
彼は、彼女の肩を抱いた。

第二幕。恋人たちが別れ、壁を越える。ハンジは、リヴァイの手を握りしめた。指が、震えている。終演の拍手が、個室に届く。彼女は、立ち上がろうとした。だが、リヴァイは、彼女を抱き寄せた。

「まだ、終わりじゃねえ」
彼は、彼女の耳元で囁いた。「外の空気、吸うぞ」

劇場の裏口から、二人は抜けた。雪解けの夜風が、頬を撫でる。ハンジは、深く息を吸った。

星が、雪解けの空に瞬いていた。二人は、ゆっくりと歩き始めた。劇場の灯りが、背後に遠ざかる。

劇場の裏通りを抜けると、雪解けの水溜まりが街灯を揺らしていた。リヴァイはハンジの腕をしっかりと掴み、石畳の段差を避けるように歩いた。

「ここだ」
小さなレストランの扉を押し開ける。暖炉の火がパチパチと鳴り、シチューの香りが立ち込めていた。店主はリヴァイに軽く会釈し、奥のテーブルへ案内する。窓際、街の喧騒が遠のく席。

ハンジはメニューを開いた。指が震え、文字がぼやける。
「……全部、食べたい」
「食え」
リヴァイは短く答えた。店員に、コース全部と温かいパンを注文する。

最初に出てきたのは、クリームスープ。ハンジはスプーンを握り、一口。また一口。頬が内側から温まる。
「熱い……でも、美味しい」
彼女は笑った。涙が、瞳の奥で揺れる。

次は、ローストビーフ。厚切りで、肉汁が滴る。彼女はナイフを握り、ゆっくりと切った。一口頬張る。目を閉じる。
「……生きてる味」
リヴァイは、黙って彼女を見ていた。自分の皿には手を付けていない。

メインの最後は、魚のグリル。ハンジは、骨を丁寧に外し、身を口に運ぶ。皿が、空になっていく。彼女は、フォークを置いた。
「もう、お腹いっぱい……」
だが、瞳はまだ輝いている。

デザートは、温かいアップルパイ。バニラアイスが溶け、シナモンの香りが立ち昇る。ハンジは、小さくスプーンを動かした。一口。また一口。
「……こんなに、食べられた」
彼女は、リヴァイを見た。涙が、頬を伝う。「ありがとう」

食事が終わる頃、彼女の皿は空だった。
外では、雪解けの夜風が吹いていた。
二人は、ゆっくりとレストランを出た。

 

7.
リヴァイは、台所に立ち、鍋の湯気が立ち昇る音を聞いていた。卵を割り、牛乳を注ぎ、ゆっくりとかき混ぜる。トーストは、すでに焼き上がり、香ばしい匂いが部屋に広がる。

ハンジは、まだ寝室で眠っている。昨夜のレストランの余韻で、頬に薄い色が残っていた。リヴァイは、トレイに朝食を並べた。スクランブルエッグ、温かいトーストにバター、蜂蜜入りの紅茶。そして、小さなリンゴ。皮をむき、薄く切ってある。

彼は、寝室のドアを静かに開けた。ハンジは、毛布の中で小さく丸まっている。呼吸は深く、夢を見ているようだった。リヴァイは、ベッドサイドのテーブルにトレイを置いた。メモを、一枚。

> 全部、食え。
> 俺は、昼まで戻る。
> 動くな。
> リヴァイ

彼は、彼女の額にそっとキスをした。髪の毛が、頬にかかっている。指先で、そっと分ける。

リヴァイは、マントを羽織った。ドアを閉め、鍵をかける。外は、春の匂いがした。雪解けの水が、道を流れていく。彼は、馬車に乗り、兵舎へ向かった。
仕事は、待っている。
だが、心は、彼女の傍に残っていた。

家の中は、静かだった。
朝食の香りが、ゆっくりと寝室に漂っていく。
ハンジは、ゆっくりと目を覚ました。
トレイを見て、笑った。
「……リヴァイ」
呟きながら、スプーンを握る。
新しい一日が、静かに始まった。

朝食の皿は、空になっていた。紅茶の湯気が、最後の一筋を残して消える。ハンジは、ソファに座り、膝に毛布をかけていた。静けさが、耳に痛い。窓の外、雪解けの水が滴る音だけが、規則正しく響く。

「……退屈」
呟きながら、彼女は立ち上がった。足取りは、まだ少しふらつく。書棚から、本を取り出す。古い調査報告。だが、ページを開く手は、すぐに止まった。

 

8.
机の上に、書類の山がある。
リヴァイが、昨日まで書いていたもの。

彼女は、そっと近づいた。指先が、紙の端をなぞる。
「少しだけ……」
呟きながら、一枚を手に取る。赤い矢印。資源配分。彼女の字ではない。リヴァイの、小さく、確かな筆跡。

ページをめくっていく。 三枚目。四枚目。 そして、ある一枚で、手が止まった。

紙の間に、折り畳まれた便箋。 封蝋は、割られていない。 宛名は、リヴァイの名前。 差出人は、知らない女性の名前。

ハンジは、息を止めた。 指が、震える。
「……開けちゃ、ダメ」
呟きながらも、手は動いていた。 封蝋を、そっと割る。 便箋を、広げる。

> リヴァイ兵長へ
> 初めてお会いしたあの日から、あなたの瞳が忘れられません。
> 戦場で背中を預けられる存在。
> 私と、一緒にいてください。
> いつか、戦いが終わったら。
> あなたを、愛しています。
> エレナ

文字は、丁寧で、震えていた。 インクは、涙で滲んでいる。

ハンジは、便箋を握りしめた。 胸が、締め付けられる。 痛い。 息が、できない。

彼女は、ゆっくりと椅子に座った。 手紙を、机の上に置く。 指が、震えている。 瞳が、熱い。

「……知らない人」 呟きながら、彼女は笑おうとした。 だが、涙が、頬を伝った。

窓の外、雪解けの水が、静かに流れていく。 部屋の中は、静かだった。 ただ、ハンジの心臓の音だけが、大きく響いていた。

ハンジは、便箋を握りしめたまま、ソファに崩れ落ちた。 指先が、紙の端を折り曲げる。 胸の奥が、熱い。 息が、詰まる。

頭の中に、映像が浮かぶ。 見知らぬ女性——エレナ。 長い髪。優しい笑顔。 リヴァイの隣に、寄り添って歩く。 戦場で、背中を預け合う。 夜の兵舎で、二人きりで話す。 リヴァイが、彼女の髪を撫でる。 彼女の頬に、キスをする。 彼女の名前を、呼ぶ。
「……エレナ」

ハンジは、目をつぶった。 だが、映像は消えない。 増える。
リヴァイが、笑う。 彼女のために、朝食を作る。 彼女のために、手紙を書く。 彼女のために、劇場に連れて行く。 彼女のために、全部を。

「……私じゃ、ない」
呟きながら、涙が頬を伝った。 熱い。 止まらない。

彼女は、膝を抱えた。 毛布の中で、体を丸める。 震える。 胸が、痛い。 息が、できない。

「リヴァイ……」
名前を呼ぶ。 だが、声は出ない。 ただ、嗚咽が漏れる。 肩が、震える。 涙が、毛布を濡らす。

「もう……愛してくれてない?」
呟きながら、彼女は首を振った。 違う。 違うはずだ。
でも、 手紙は、そこにある。 リヴァイは、返事をしていない。 でも、持っている。 大事に、挟んでいる。

「……私、司令官で……疲れて……」 涙が、止まらない。
「もう、必要とされてないのかな……」

彼女は、目を閉じた。 リヴァイの顔を思い浮かべる。 でも、隣に、エレナがいる。 笑っている。 リヴァイも、笑っている。 彼女は、一人。

部屋の中は、静かだった。 雪解けの水音だけが、遠くに響く。 ハンジは、泣き続けた。 胸が、締め付けられる。 痛い。 でも、 誰も、いない。

正午の鐘が遠くで鳴り終わる頃、玄関の鍵が回った。
リヴァイは泥と雪解け水のついたブーツを脱ぎ、静かに廊下を進んだ。
部屋は、まるで時間が止まったように静まり返っている。
暖炉の火は弱く、窓の外だけが春めいた光で揺れていた。

ハンジはソファに座り、膝に毛布をかけた。顔を窓の方に向け、頬は乾いた涙で赤く染まっていた。目は赤く、唇は固く結ばれていた。

「ただいま」リヴァイは優しく呼びかけた。ハンジは答えなかった。彼女はゆっくりと右手を伸ばし、テーブルからくしゃくしゃになった手紙を取り上げた。くしゃくしゃになった紙は彼女の指先の下でわずかに震えていた。

リヴァイは眉をひそめた。それは今朝、書類の中に紛れ込んで忘れていた手紙だった。兵舎に届いた手紙だった。彼はそれを読んだが、返事はしていなかった。しかし、捨てる時間がなかったので、「後で」というメモと一緒に戻しておいたのだ。

「あれは…」彼は一歩近づいた。

「いや。」

彼の声は途切れた。

ハンジはゆっくりと頭を上げた。涙が目に溢れ、瞬きするたびに頬を伝って流れ落ちた。

「…エレナ。」名前を口にした途端、彼女の声は震えた。

「君…君…今、私は私のものだ…」
言葉が詰まった。

代わりに、嗚咽が喉を裂いた。

彼女は立ち上がった。毛布が床に落ち、手紙を握りしめる彼女の手は震えた。

「私がお前にふさわしくないのか?! 私は指揮官で、疲れているし、文句も言っている…だからもう…!」彼女の声は詰まった。涙が頬を伝った。

「劇場も、レストランも、朝食も…全部彼のためだ…!」

リヴァイはすぐに彼女の前に立ち、両手で彼女の肩を掴んだ。強く、しかし優しく。

「いいえ」彼ははっきりと言った。「読んだ。返事はしていない。捨てるつもりだった。」

ハンジは首を横に振った。涙で視界がぼやけた。

「でも、まだ持ってるんだ…!大切にしてるんだ…!」

リヴァイは彼女の頬に手を置き、親指で彼女の涙を拭った。「君は僕が愛した唯一の人だ。」

ハンジは息を呑んだ。

「…嘘つき。」

「嘘じゃない。」

彼は額を彼女の額に押し付けた。

「エレナ?君のことは知らない。顔さえ覚えていない。もらった手紙は全部捨てた。

君以外と食事をしたことも、映画に行ったこともありません。

毎朝目が覚めると、君しか見えなかった。」

ハンジの唇が震えた。再び涙が溢れてきた。

「…でも僕は…」

「君は僕にとって全てだ。」

リヴァイは彼女を強く抱きしめ、離さなかった。

「泣かないで。ごめん。すぐに捨てればよかった。」

ハンジは自分の胸に顔を埋めた。すすり泣きで肩が震えた。

「…リヴァイ…」

「ここにいる。」

彼は彼女の背中を撫でた。

「彼はずっとここにいる。」

 

9.
午後の日差しが雪に覆われた道を照らし、きらめく光を放っていた。

リヴァイはハンジの手をぎゅっと握りしめ、馬車から降りた。

「行くぞ」リヴァイは軽く頷いた。

兵舎の中庭では、訓練を終えたばかりの兵士たちが賑やかに談笑していた。アルミン、ミカサ、エレン, ジャン、コニー、サシャ――皆、指揮官の姿を見ると、すぐに背筋を伸ばした。

「ハンジ!」

サシャが真っ先に駆け寄り、ハンジを抱きしめた。アルミンが前に出た。

「無事でよかった」

ジャンが「指揮官、おかえりなさい」とささやくと、コニーは敬礼した。

リヴァイは一歩前に出た。

「聞いて」

彼の声は低く、兵舎全体に響き渡った。 「本日をもって、指揮官は正式に任務に復帰いたします。ただし、まだ完全に回復したわけではありません。私が傍らにいます。指揮命令は変わりません。ただし、まずは私に報告してください。ハンジに直接渡す書類は、私が確認させていただきます。」

兵士たちは即座に頷いた。誰も異議を唱えなかった。

「ほら」リヴァイは机を指差した。書類はきちんと整頓されており、彼女自身の筆跡で「緊急」「資源」「民間対応」とラベルが貼られていた。さらに、それぞれの書類の束には「リヴァイ経由」と記されていた。

ハンジは目を見開いた。

「…全員?」

「はい。」

リヴァイは彼女の肩に手を置いた。

「…ありがとう。」

「仕事で報いてくれ。」

リヴァイは椅子を彼女のそばに引き寄せ、座るのを手伝った。

ハンジはペンを手に取った。彼女の指はもう震えていなかった。

キャンプはいつもの静かな活気を取り戻していた。春の風が窓から吹き込んでいた。

彼女は自分がここにいることを確信していた。リヴァイのそばに。誰よりも自分が必要とされている。

 

帰還二日目の午後、司令室の窓は春の風に少し開いていた。

ハンジは机に座り、地図に赤い矢印を描きながら、時折かすかな微笑みを浮かべた。

頬はまだ少し青白く、ペンを握る手は止まっていた。しかし、彼女の目には確かに光が戻っていた。時計が三時を告げると、リヴァイはノックもせずに部屋に入ってきた。

「時間だ。」

彼が言ったのはそれだけだった。

ハンジはペンを置き、無理やりため息をついた。「あと五分…」

「あと三分だ。起きろ。」彼は彼女のコートを拾い上げ、奥へ行った。肩にかけ、ボタンを留めた。ハンジは無理やり微笑んで立ち上がった。

「…本当に、ちょうど3時間?」

「医者の指示通りだ。見張りにつく。」

キャンプを出る時、春の陽光が二人を包み込んだ。

馬車の中で、ハンジはリヴァイの肩に頭を預けた。

「今日はアルミンが完璧なリソースリストを作ったし、ジャンが自ら訓練計画を改訂してくれたし…みんなが君を待っているみたいだ。」

リヴァイは答えなかった。ただ優しく彼女の髪を撫でた。「幸せ…かい?」と優しく尋ねると、ハンジは目を閉じて頷いた。

「ああ。前よりずっと幸せだ。」

家に着くと、ハンジは鍵を開けて彼女を招き入れた。リビングのソファには、毛布と熱いお茶が既に用意されていた。「残りは片付けておくわ。」

毛布にくるまりながら、彼女は呟いた。

「明日、3時間10分後…」

「いや。」

リヴァイは彼女の額に優しくキスをした。

「三時間後に世界はひっくり返るだろう」

窓の外では桜が咲き始めていた。

リヴァイは机に座り、残りの書類を片付け始めた。

 

10.
——3時間で十分。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
ハンジはソファに座り、膝に毛布をかけていた。 紅茶のカップを手にしていたが、突然、指が震え、カップが傾く。 熱い液体が、毛布に染みる。
「……っ」
彼女は額を押さえた。 視界が、ぐらりと揺れる。 頭の奥が、鈍く痛む。 めまいが、波のように襲う。

リヴァイは、台所からすぐに駆け寄った。
「……どうした」
彼は、彼女の前に膝をついた。 顔を覗き込む。 頬は青白く、瞳が焦点を失っている。

「頭が……痛い」 ハンジは、掠れた声で呟いた。
「めまいも……でも、普通の……」
「病院だ」 リヴァイは、即座に立ち上がった。 コートを手に取る。

「待って」 ハンジは、彼の手を掴んだ。 「ただの頭痛……一晩寝れば……」
「前回も、そう言った」
リヴァイは、彼女の額に手を当てた。 熱はない。 だが、脈が速い。

「違う」
ハンジは、首を振った。
「今回は、本当に……疲れが……」
彼女は、ソファに体を預けた。 目をつぶる。
「……寝かせて」
リヴァイは、黙って彼女を見ていた。 数秒。 そして、ゆっくりと膝をついた。
「……わかった」

ハンジは、小さく頷いた。
リヴァイは、彼女の頭を、自分の膝の上に載せた。 指先で、こめかみ
をゆっくりと揉む。

 

部屋の中は、静かだった。 時計の針だけが、規則正しく進む。 ハンジの呼吸が、徐々に深くなっていく。 リヴァイは、動かなかった。
——一晩。 それで、治るなら。 だが、 朝が来るまで、目を離さない。

真夜中の静寂が、家を包んでいた。 窓の外、春の風がカーテンを軽く揺らす。 ハンジは、突然、目を開けた。 夢だった。 だが、胸が締め付けられる。 息が、詰まる。

夢の中では、エルヴィンが立っていた。 背筋を伸ばし、静かに微笑む。 「ハンジ、よくやっている」 彼は言った。 だが、背後には、亡くなった仲間たち。 モブリット。ナナバ。 みんな、笑っている。 でも、遠い。 届かない。

「……エルヴィン」 彼女は、呟いた。 声が、震える。 涙が、頬を伝う。 熱い。 止まらない。

彼女は、毛布の中で体を丸めた。 子供のように。 肩が、震える。 嗚咽が、漏れる。
「ごめん……ごめん……」
誰に謝っているのか、わからない。 でも、
「みんな、死んじゃって……私だけ……」

リヴァイは、すぐに目覚めた。 彼女の震えが、伝わっていた。 彼は、そっと体を起こし、彼女を抱き寄せた。
「ハンジ」 低く、静かに呼ぶ。

彼女は、彼の胸に顔を埋めた。 涙が、シャツを濡らす。
「夢……見た……」 彼は、彼女の背中を撫でた。 「俺も、見たことある」

ハンジは、首を振った。
「違う……私は、司令官で……みんなを……」

彼女は、泣き続けた。 だが、徐々に、嗚咽が小さくなる。 リヴァイの胸が、温かい。 心臓の音が、聞こえる。 生きている。

「……リヴァイ」
「ここにいる」
「離れないで……」
「絶対に」

 

11.
午後の陽射しが、司令官室の窓を金色に染めていた。
ハンジは机に向かい、資源配分の書類に赤い矢印を引いていた。 復帰して一週間。 3時間ルールは守られ、笑顔も戻り、兵舎の空気も軽くなっていた。
「……これで、来週の補給は……」 ペンが、紙を滑る。

突然、胃の奥が逆流するような感覚。 視界が、ぐらりと歪む。
「っ……!」
彼女は額を押さえた。 吐き気が、喉を突き上げる。 机の端を掴むが、指が滑る。 書類が、床に散る。

めまいが、波のように襲う。
「……リヴァ……」 名前を呼ぼうとした瞬間、 意識が、闇に落ちた。

椅子から、体が横に傾く。 床に、鈍い音。 ペンが、転がる。 インクが、広がる。

ドアの向こうで、アルミンが書類を持って近づいていた。
「……司令官、次の報告を——」 ノック。 返事がない。 もう一度。 「……失礼します」

ドアを開けた瞬間、 彼は凍りついた。 ハンジが、床に倒れている。 顔は青白く、唇は震えている。
「……ハンジさん!?」アルミンは、書類を落とし、駆け寄った。 脈を取る。 弱い。
「……リヴァイ兵長!!」
兵舎中が、ざわめいた。 リヴァイは、訓練場から全力で走った。

廊下を、靴音が響く。 ドアを蹴り開ける。

ハンジは、床に横たわっていた。 意識がない。
「……ハンジ」 彼は、彼女を抱き上げた。

「馬車! 病院! 今すぐ!」 命令が、飛ぶ。 兵士たちが、動く。

リヴァイは、彼女を胸に抱き、馬車に乗り込んだ。 「……目を開けろ」 低く、繰り返す。 「俺が、いる。離すな」

馬車が、雪解けの道を疾走する。 春の風が、窓から吹き込む。 ハンジの髪が、揺れる。 リヴァイは、彼女の手を握りしめた。 冷たい。 だが、 まだ、温もりはある。

病院の白い廊下が、目の前を過ぎていく。 医師たちが、駆け寄る。「……過労の再発……だが、それだけじゃ……」 言葉が、遠くなる。

リヴァイは、待合室の椅子に座った。 握りしめた拳が、震えている。
——今度こそ、 絶対に、離さない。

 

リヴァイは、ハンジの手を握ったまま、医師の前に立っていた。 彼女はまだ意識が薄く、ベッドに横たわっている。 頬は青白く、唇は乾いている。

医師は、カルテを閉じた。 「……過労による体力低下に加え、妊娠6週目です」
一瞬、部屋が静まり返った。
リヴァイの瞳が、わずかに揺れた。
「……妊娠?」
「はい。 胎児は無事ですが、母体の状態が極めて不安定です。 吐き気、めまい、失神——すべて、妊娠初期の症状と過労が重なった結果です」

医師は、処方箋を書きながら続けた。 「新しい薬を処方します。
吐き気止めと、栄養補給のためのもの。 そして——」
彼は、リヴァイを見据えた。
「当面の間、完全に仕事を休んでください。 司令官の職務は、命に関わります。 母体にも、胎児にも、危険です」

リヴァイは、頷いた。 声は出ない。 ただ、ハンジの手を、強く握る。医師は、退出した。 部屋に、二人だけ。

ハンジは、ゆっくりと目を開けた。
「……リヴァイ?」
「ここにいる」
彼は、彼女の額に手を当てた。
「聞いてたか?」
「……うん」 彼女は、小さく頷いた。
涙が、頬を伝う。
「……赤ちゃん?」

リヴァイは、彼女の髪を撫でた。 「ああ」
「でも……私、司令官で……」
彼は、彼女の唇に指を当てた。 「お前は、今、母親だ。 それが、一番の仕事だ」

ハンジは、泣いた。 だが、今度は、悲しみじゃない。
「……怖い」
「俺が、いる」
リヴァイは、彼女を抱きしめた。 「全部、俺が守る。 お前も、赤ちゃんも」
窓の外、桜の蕾が、ほころび始めていた。 新しい命が、 静かに、確かに、 ここにあった。激動の時代、暗闇の中、一人の子供が現れる。これは幸福をもたらすのだろうか?二人とも未来を予見することはできない。ただ一つ、この脆くも芽生えた喜びを守り続けることだけが、彼らに残された道だった。

 

退院の朝、病院の廊下は春の陽射しで明るかった。 ハンジは車椅子に座り、膝に毛布をかけていた。 頬はまだ青白いが、瞳には小さな光が戻っている。 リヴァイは、彼女の横を歩き、荷物を抱えていた。 小さな紙袋——薬と、医師の指示書。

「……家に、帰れる」
「ああ」
彼は、彼女の手を握る。 「ゆっくり、休め」

家に着くと、居間のテーブルに、山のような本が積まれていた。 古い調査報告書、壁外の動植物図鑑、 子ども向けの絵本、詩集、果ては料理本まで。 すべて、リヴァイが昨夜のうちに書店へ走って買い集めたもの。

ハンジは、目を丸くした。 「……これ、全部?」
「読め」 リヴァイは、ソファに彼女を座らせ、毛布をかける。 「退屈したら、言え。また買ってくる」

彼女は、一番上にあった絵本を手に取った。 表紙は、巨人と子どもが手を繋いでいるイラスト。 「……これ、読んでくれる?」
リヴァイは、ため息をつきながら隣に座った。
「子供じゃねえだろ」
「でも、今は患者さん」 ハンジは、笑った。

彼は、渋々本を開いた。
「……むかしむかし、あるところに……」
声は低く、ぶっきらぼう。 だが、ページをめくる手は優しい。

ハンジは、目を閉じて聞いていた。 薬のせいで眠気が来る。 だが、心地いい。 リヴァイの声が、耳に心地いい。

夜の帳が下り、居間の灯りを落とすと、 寝室だけが小さなランプの明かりでほのかに浮かび上がった。 リヴァイは、枕を二つ並べ、毛布を丁寧に畳み直し、 ハンジの背中に当てるクッションの位置を微調整していた。
「温度は?」
「ちょうどいい」
「枕、高すぎないか?」
「うん、大丈夫」

彼は満足げに頷き、自分の毛布を畳んで脇に置いた。
「……俺はソファでいい」 そう言って踵を返そうとする。

瞬間、ハンジが腕を伸ばし、彼の手首を掴んだ。
「……一緒に寝て」 声は小さく、でも確かに。

リヴァイは足を止めた。
「邪魔になるかもしれないだろ」
「昔から、邪魔だったくせに」
ハンジは笑いながら、ベッドの端を軽く叩いた。 「ここ。いつもの場所」

彼はため息をつきながらも、 ゆっくりと靴を脱ぎ、マントを椅子に掛けた。
「動かない」
「吐き気したら、すぐ言え」
「はいはい」

腕を、そっと彼女の腰の下に回す。 腹に触れないよう、慎重に。 ハンジは自然に彼の胸に背中を預け、 深い息を吐いた。

「……リヴァイ」
「ん?」
「赤ちゃん、感じる?」
「……まだ、早い」
「でも、いるよね」
「ああ」
ランプの火が、ゆれゆれと消えていく。

 

12.
カーテンの隙間から朝日が差し込む中、ハンジは額に冷や汗をかきながらベッドの端に腰掛けていた。
怒りがこみ上げてきた。
「またか…」
何も言わずに立ち上がり、バスルームへと駆け込んだ。
リヴァイもすぐに後を追った。ドアを開けると、ハンジは両手で便器を掴み、何度も嘔吐していた。水音が嗄れた嗚咽をかき消していた。
「大丈夫か?」リヴァイは優しくハンジの背中を撫でた。
ハンジは首を横に振った。
「…吐けない…でも、吐き気がする…」涙が頬を伝った。
一日中、こんなことが続いていた。

トーストの香り、お茶の湯気、そして昨日まで楽しんでいたスープの香りさえも、彼女の胃をむかつかせた。口に入れるたびに、すぐに吐いてしまった。彼女は水さえ飲み込むことができなかった。
「薬を飲んで。」
「飲んだんだけど…効かなくて…」彼女は膝を抱えて浴室の床に崩れ落ちた。
ハンジはやや不機嫌そうに言った。「男性はつわりに耐える必要がなく、身体の変化を経験する必要もなく、それでも子供を持つことができるので、とても幸運です。」
「それなら女性は男性よりはるかに素晴らしいのね」とレヴィは彼女を慰めた。

 

「もう何も食べられない…」
午後遅く、キッチンで、彼は氷水にレモン汁を薄く絞り出し.
「これでいいの?」
「少しだけ…」
一口。
二口。
三口目で、彼女はまた吐き気を覚えた。
その夜、ハンジはソファに横になり、小さな毛布にくるまっていた。
リヴァイは彼女のそばに座り、指先で彼女のこめかみを優しくマッサージした。
「赤ちゃんが動いているだけよ」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「すごく活発なのね…」
「ええ」
彼は彼女の手を取り、自分のお腹に置いた。「ママが、僕も昔はこうだったって言ってたよ」
「そんなにいたずらしないで、お子ちゃま。ママに優しくしてね。」
ハンジはその言葉を聞いて思わず笑みを浮かべた。

...

柔らかな朝の光が寝室の壁を照らしていた。ハンジはベッドに横たわっていた。頬はこけ、唇は乾いていた。吐き気は治まっていたが、胃はまだ固形物を受け付けなかった。

リヴァイはベッドのそばに座り、小さなスプーンで薄く切ったリンゴを彼女に差し出した。

「一口だけ。」

彼女はゆっくりと口を開けた。舌に触れると甘さが広がった。
しかし、すぐに顔をしかめた。「…ごめんなさい…」
「大丈夫。」
彼はスプーンを置いた。
「水を飲んで。」
彼はカップの縁を彼女の唇に押し当てた。彼女の喉を流れ落ちたのは水だけだった。冷たい水。それが彼女が生き残るために必要なものだった。
「もうたくさんだ…」レヴィはカップを置き、優しく彼女の髪を撫でた。
「痩せてきたね。」
「わかってる…」彼女は弱々しく微笑んだ。
「でも、赤ちゃんはまだ生きているよね?」
「ええ。」彼は彼女のお腹に手を置いた。まだ腫れの兆候はありませんでした。

 

13.
兵舎の門をくぐると、朝の空気が明るくなった。

アルミンが書類を持って駆け寄ってきた。「リヴァイ兵長!ハンジはどこだ?」

ジャンは稽古用の剣を置いた。「指揮官、大丈夫ですか?」

頬にパンのかけらがくっついたサシャが尋ねた。「もう食べられますか?」

コニーが後ろから叫んだ。「本当に赤ちゃんなの!?」

リヴァイは言葉を止めず、一言だけ言った。「…大丈夫です。」

アルミンが前に出た。「でも、もっと詳しく聞きたいことがあるんだけど…」

「医師の指示だ。書類は全部持って来る。」彼は書類の束をアルミンの胸に押し付けた。「今日の報告はこれで終わりだ。」

エレンが小さく呟いた.「指揮官、お休みですか?」

「ええ。」

リヴァイは振り返らずに歩き始めた。 「彼女には休ませる。お前らは仕事に集中しろ」

静かに敬礼した。 誰も、もう質問しない。 ただ、 全員の瞳に、 同じ願いが宿っていた。

リヴァイは机に座り、 書類を開く。
「……待ってろ」 呟きは、誰にも届かない。

一方、ハンジは部屋で休んでいた。. 午後の光が、カーテンの隙間から細く差し込む。 ハンジはベッドに横たわり、開いた本を胸に載せていた。 ページは、もう30分もめくられていない。 目が、文字を追わない。 代わりに、頭の中を、兵舎の風景が駆け巡る。

アルミンが、書類の山を抱えて走る。 ジャンが、訓練生を叱りながら剣を振る。 サシャが、パンをかじりながら補給表を計算する。 コニーが、馬の世話をしながら誰かに叫ぶ。 ミカサが、黙って壁を補強する。 エレンはいつも、百もの考えに迷ったかのように遠くを見つめていた。
——みんな、私の仕事を。
——私が、背負うべき重荷を。
彼女は、ゆっくりと本を閉じた。 「……私、何もしてない」
呟きは、部屋に吸い込まれる。 手が、腹に伸びる。 まだ、ふくらみはない。 でも、そこに、確かに命がある。 それが、 彼女を、ここに縛る。彼女は指揮官だったが、今はチームメイトを助けることができなかった。彼女は無力感と、皆に対する罪悪感を抱いていた。

窓の外、 春の風が木の葉を揺らす。 外では、みんなが動いている。 世界が、進んでいる。 自分だけが、 止まっている。
「……役に立たない」
涙が、頬を伝う。 熱い。 止まらない。
「司令官失格……母親失格……」 声が、震える。
「リヴァイにも、みんなにも、 ただ、負担を……」

彼女は、毛布の中で体を丸めた。 膝を抱え、 子供のように。 不安が、胸を締め付ける。 息が、できない。

ドアがきしむ音を立てて開いた。リヴァイだった。昼間の報告を終えて早く戻ってきたのだ。リヴァイの姿を見つけると、すぐにベッドサイドに駆け寄った。

「どうしたんだ?」

彼はひざまずき、彼女の頬に手を当てて涙を拭った。ハンジは首を横に振った。「みんなの邪魔をしている…」

「いいえ」とリヴァイは即座に言った。

「みんながあなたのために働いているんです」

彼女は顔を上げた。目は腫れていた。「でも、僕は…」

彼は彼女の手を握った。

「赤ちゃんを育てること。それが今のあなたの仕事です」

ハンジは彼女の唇を噛んだ。「でも、外では…」

リヴァイは優しく彼女を抱き上げた。

「みんながあなたを待っています。でも、今はここで休んでいてください」

彼は彼女の背中を撫でた。

窓の外に桜の花びらが舞い落ちた。彼女はもう一人ではなかった。誰もあなたを役立たずだとは思っていない。ただ生きて待つだけでいい。世界は回り続ける。

昼食の皿を片付けると、リヴァイは玄関で静かに靴を履いた。

「会議がある。今夜戻る。」ハンジはソファから優しく手を振った。「旅の安全を。待ってるよ。」

ドアが閉まり、鍵の音が消えていった。ハンジは毛布を肩にかけ、

しばらく天井を見つめた。静寂は彼女を不安にさせた。小さな声が胸の奥で繰り返し響いた。

――もう少しだけ。

――もう少しだけ、大丈夫。

彼女はゆっくりと立ち上がった。足は震えていた。しかし、壁に手をつき、一歩、また一歩と踏み出した。机まで十歩。

机の上には、
リヴァイが昨夜整理した書類の束。
「緊急」「資源」「復興計画」 リヴァイの小さな字でメモが添えられている。

彼女は、ペンを握った。 「……一枚だけ」 呟きながら、 一番上の書類を開く。 壁外調査の補給計画。 数字が、並ぶ。 彼女の頭が、ゆっくりと動き始める。

赤いペンを手に、 小さな矢印を一本。
「……これで、効率が……」 指が、震える。 だが、止まらない。 もう一本。 三本目で、 視界が、ぐらりと揺れた。

「……っ」
彼女は、額を押さえた。 吐き気が、喉を這い上がる。 ペンが、床に落ちる。 インクが、点のように広がる。ハンジは、椅子にしがみついた。 「……ダメ、だよね」 自嘲の笑みが、唇に浮かぶ。 涙が、一滴、書類に落ちる。 赤い矢印が、滲む。

彼女は、ゆっくりと立ち上がった。 デスクを離れ、 ベッドに戻る。
毛布に、潜り込む。

 

夕方、 鍵の音が響く。 リヴァイが、戻ってきた。 彼は、すぐに寝室へ。 ハンジは、毛布の中で小さく丸まっている。
デスクの上、 ペンが一本、転がっている。 書類に、赤い矢印が三本。
リヴァイは、静かにそれを片付けた。 ペンを戻し、 書類を元通り。 そして、ベッドの端に座る。
「……これらのことをしましたか?」 低く、優しく。
ハンジは、目を閉じたまま頷いた。 「……少しだけ」
「バカ」 彼は、彼女の髪を撫でた。
「次は、俺に言え。 一緒に、やる」
彼女は、小さく笑った。 「……うん」

 

14.
ハンジが妊娠して以来、リヴァイの過剰な不安は増大した。リヴァイはハンジに家事を一切させず、休息のみを許し、あらゆる行動を制限した。ある時、ハンジが掃除をしていると、リヴァイは即座に止めた。次第に、リヴァイの無意識の不安はハンジの重荷となり、ハンジはより一層無力感を覚えるようになった。

最近ハンジは物思いにふけっている。夕暮れの光が、居間のカーテンを橙色に染める頃。 リヴァイは、台所から戻り、 ハンジがソファ座って、膝に毛布をかけているのを見た。 彼女は、開いた本を手にしていたが、 ページは、まだ同じ位置にある

「……紅茶、冷めた」 彼は、トレイを置き、新しいカップを差し出す。 ハンジは、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」 声は小さく、笑みは浮かばない。 瞳は、窓の外—— 春の桜が舞う空の、ずっと向こうを、 ぼんやりと見つめている。

リヴァイは、隣に腰を下ろした。 彼女の横顔を、静かに観察する。 最近、こうだ。 理由もなく、 突然、沈黙が落ちる。 言葉が、途切れる。 涙は出ない。 ただ、 心が、どこか遠くへ行ってしまう。

「……どうした」 彼は、低く尋ねた。
ハンジは、首を振る。 「……なんでも、ない」
嘘だ。
リヴァイは知っている。 彼女は、嘘が下手だ。彼は、彼女の手を取った。
冷たい。
「……俺に、言えないことか?」
ハンジは、唇を噛んだ。
「……怖い」 声が、震える。 「私……このまま、  みんなの役に立てなくなって…… リヴァイにも、赤ちゃんにも、 ただの、荷物になって……」「何もせずに部屋に居るのはとても退屈に感じます」

言葉が、途切れる。 彼女は、目を伏せた。
リヴァイは、彼女の肩を抱いた。 「お前は、荷物じゃねえ。 俺の、全部だ」「あなたを連れて出かける時間を調整してみます.」

彼女は、首を振った。 「……でも、私は——」
彼は、彼女の頬に手を当て、
瞳を覗き込んだ。 「それだけで、十分だ。 俺は、お前が笑ってるだけで、 世界が回る」
ハンジの瞳が、揺れた。

 

15.
定期検診の朝、春の陽射しが病院の白い廊下を柔らかく照らしていた。
リヴァイはハンジの腕をしっかりと支え、ゆっくりと歩いた。 彼女はまだ顔色が優れず、足取りは重いが、 瞳だけは、かすかに期待を宿している。

診察室で、 「……8週から10週へ。成長は順調です」 医師は微笑み、カルテに記入しながら続けた。
「栄養状態も、徐々に回復傾向。 吐き気はまだ残りますが、薬でコントロールできています」

リヴァイは小さく頷いた。 「……元気?」 「とても元気です」 医師は答えた。
「ただ、精神的な不安定さが気になります。 過度な自己否定、孤立感、将来への恐怖…… これは、母体にも胎児にも負担です」

医師は二人に向き直った。
「外出を勧めます。 短時間で構いません。 春の空気を吸う。 人ごみは避けて、 公園、市場の端、馬車での遠出でも。 気分転換が、何よりの薬です」

リヴァイは、すぐに頷いた。 「……了解」
「医者の指示だ」 リヴァイは、彼女の手を握った。 「明日から、連れ出す」

馬車の中で、 彼女は窓の外を見た。 桜の花びらが、風に舞う。
「……少しだけ」
「ああ」
「リヴァイと、一緒に」
「約束だ」

 

翌朝、馬車はゆっくりと首都の外れの公園へ向かった。
春の風が、窓から吹き込み、ハンジの髪を優しく揺らす。
彼女は膝に毛布をかけ、リヴァイの手を握っていた。
「……久しぶり」
「ん」
「外の匂い……」

公園に着くと、リヴァイは彼女を支えて降ろした。 桜並木の下、ベンチが一つ。 人影は少なく、鳥の声だけが響く。

ハンジは、ゆっくりと座った。 風が、頬を撫でる。 リヴァイは、隣に腰を下ろした。 彼女の肩に、コートをかける。
「……寒いか?」
「ううん」
彼女は、ゆっくりと目を開けた。 桜の花びらが、一枚、膝に落ちる。
「……綺麗」

その日から、少しずつ、 変化が始まった。
1日目 — 公園
ハンジは、30分だけ外にいた。 帰ると、ベッドで眠った。 だが、夢の中で、 初めて、笑っていた。

3日目 — 市場の端
果物売りのおじいさんが、
「司令官! お久しぶり!」
と、リンゴを一つ差し出す。 ハンジは、驚いて、 「……ありがとう」 受け取った。 家に帰り、
リヴァイが皮をむき、 薄く切って、 一口ずつ、食べさせた。 「……甘い」 彼女は、笑った。

5日目 — 馬車で郊外
壁の外、草原。 風が、強く吹く。 ハンジは、馬車から降り、 土に触れた。
「……ここ、昔、調査で……」 リヴァイは、彼女の手を握る。

1週間後
桜の枝を、一本、摘んだ。 花瓶に、挿す。
リヴァイが戻ると、 彼女は、ソファで、 絵本を読んでいた。
「……リヴァイ」
「ん?」
「今日、赤ちゃんに、 外の話をしたよ」
彼は、隣に座った。
「……何て?」
「桜が、綺麗だって。 風が、気持ちいいって。 パパが、守ってくれるって」

リヴァイは、彼女の腹に、 そっと耳を当てた。 まだ、音はしない。 だが、 確かに、 そこに、未来がある。

ハンジの瞳は、 もう、遠くを見ない。 リヴァイを、 桜を、 春を、 まっすぐ、見つめる。

彼女は、変わった。 悲しみは、まだ残る。 だが、 外の空気が、 少しずつ、 心の奥まで、 染み込んでいく。
「……明日も、行こう」
「ああ」
「どこでも」
「どこでも、いい」

春は、 確かに、 彼女の中に、 根を張り始めた。

 

16.
夜の寝室は、春風がカーテンを軽く揺らすだけだった。 ランプの灯りは低く、二人の影を壁に長く伸ばしている。 ハンジはリヴァイの胸に頭を預け、 指先で彼の鎖骨をなぞっていた。
「……リヴァイ」
「ん?」
彼女は微笑み、ゆっくりと体を起こした。 毛布が肩から滑り落ちる。 「……触りたい」

リヴァイは、彼女の腰に手を回し、 「……体調は?」 「今日は、吐き気もなかった」
ふと、彼女が体を起こした。そのまま腰を落として、リヴァイの上にまたがった。
「……ハンジ?」
「ん……?」
「……久しぶりに、
あなたを感じたい」
ハンジは悪戯っぽく微笑みながら、リヴァイの頬に両手を添えて、
そっと唇を重ねた。最初は軽いキスだった。 でもすぐに深くなって、舌が絡み、吐息が熱を帯びる。彼女の唇が、彼の首筋に触れる。 熱い吐息。 指が、シャツのボタンを外していく。 リヴァイは、彼女の背中を抱き、 だが、すぐに動きを止めた。
「……待て」 彼は、静かに言った。 ハンジの手を、そっと掴む。
彼女は、瞳を潤ませて見上げた。 「……嫌?」
「違う」 リヴァイは、彼女の頬に手を当てた。
「赤ちゃんが……」 声が、少し震える。
「子どもに、もしものことがあったら…… 俺は、お前を許せねえし、自分を許せねえ」
ハンジは、唇を噛んだ。
「……でも、私は——」
「知ってる」
彼は、彼女を優しく横に倒し、 自分の横に寝かせた。
「今は、ダメだ」
リヴァイは、彼女を抱き寄せ、 額にキスをした。
「……代わりに、こうしてる」
彼は、彼女の腹に、 そっと手を当てた。
「ここに、全部、 俺が守る」

ハンジは、目を閉じた。 彼女は、彼の胸に顔を埋めた。
「……愛してる」
「俺もだ」
「……わかった。じゃあ、予約ってことで」
「ああ」
「生まれたら、倍返しだからね」
「……好きにしろ」

 

17.
週末の朝、春の陽射しが家の窓を優しく包み込んでいた。玄関のチャイムが鳴り、リヴァイがドアを開けると、104期生たちが笑顔で立っていた。サシャが一番に飛び込み、アルミンが静かに敬礼し、ジャンそしてエレンが少し照れくさそうに微笑み、コニーが元気に紙袋を掲げ、ミカサは無言で頷いた。リヴァイは小さくため息をつきながら彼らを通したが、ハンジはすでにソファで目を輝かせていた。みんなの顔を見て、彼女の心が一気に温かくなるのが分かった。

リビングに集まると、プレゼントの時間が始まった。サシャが少し焦げた手作りクッキーを差し出し、アルミンが壁外植物の新刊を図鑑として渡し、ジャンが手編みの小さなベビー靴を照れながら見せ、コニーが木彫りの馬を「赤ちゃんが乗れるように!」と元気に振り、ミカサが柔らかい毛布をそっと置いた。エレンは私に小さな枕をくれました。ハンジは一つずつ手に取り、言葉を失いながらも瞳を潤ませていた。ありがとうという言葉が、喉の奥で震えていた。

やがて皆がキッチンへ移動した。リヴァイが「台所は俺の管轄だ」と呟きながらも、104期生たちは楽しそうに動き回った。ハンジは椅子に座って見守り、時折笑いながら「私も手伝いたい」と言うと、皆が声を揃えて「今日はお客様!」と制した。キッチンは笑い声と香ばしい匂いで満ち、まるで昔の兵舎の食堂のようだった。

食卓には、野菜たっぷりのスープ、焼きたてのパン、新鮮なサラダ、そしてハンジが大好きなリンゴのコンポートが並んだ。ハンジはスプーンを握り、一口味わうと、目を閉じて微笑んだ。美味しい、という言葉が自然にこぼれ、涙が一滴頬を伝った。会話は尽きなかった。サシャが赤ちゃんの性別を尋ね、アルミンが名前を考えているかと聞き、ジャンが子守りを買って出...

食事が終わり、104期生たちは「また来ます」と笑顔で帰っていった。ハンジはソファに座り、ぽつりと呟いた。の笑顔は、その春そのものだった。

 

18.
午後の陽射しが、市場の石畳を温かく照らしていた。 ハンジはリヴァイの腕に軽く手を添え、ゆっくりと歩いていた。 果物売りの匂い、パンの焼ける香り、子供たちの笑い声—— すべてが、彼女の心を優しく揺らした。

角を曲がったところで、小さな泣き声が聞こえた。 道端に、赤いリボンの女の子が一人で立っている。 頰を涙で濡らし、肩を震わせていた。
ハンジは、瞬時に駆け寄った。
「ねえ、どうしたの?」
膝を折り、女の子の目線に合わせる。 女の子は、嗚咽を漏らしながら、 「……ママが……いなくなっちゃって……」

ハンジは、迷わず女の子を抱き上げた。 小さな体が、彼女の胸にしがみつく。 「大丈夫、大丈夫だよ。 ママもパパも、きっと探してる」
彼女は、優しく背中を撫で、
涙を拭い、
リボンを直してやった。

リヴァイは、少し離れたベンチに腰を下ろし、 「……あそこに座ろう」 と、静かに提案した。 「両親が来るまで、話でもしようぜ」

女の子は、ハンジの腕の中で小さく頷いた。 リヴァイが座ると、ハンジは隣に座り、 女の子を膝の上に載せた。
「……名前は?」
「リナ……」
「リナちゃん、かわいい名前ね」 ハンジは微笑み、
「私、ハンジ。こっちはリヴァイ。 リナちゃんみたいな子、大好きだよ」

リヴァイは、無言でポケットからハンカチを取り出し、 リナの頰を拭った。 「……泣き顔より、笑顔の方が似合う」

三人は、ベンチで話し始めた。 リナは、最初は震えていたが、 ハンジの温かさとリヴァイの静かな存在に、 徐々に落ち着いていく。
「……ママ、赤い帽子……」
「分かった。すぐ見つかるよ」

十分ほど経った頃、 遠くから、 「リナ!?」 という女性の叫び声。 赤い帽子をかぶった母親が、 涙目で駆け寄ってきた。
「ママ!」
リナが飛び降り、母親に抱きつく。 父親も後から続き、 「ありがとうございます……本当に……」 と、何度も頭を下げた。

ハンジは、立ち上がり、 「よかったね、リナちゃん」 と、微笑んだ。 リヴァイは、静かに頷いた。
リヴァイはその横顔を、黙って見つめていた。……いつか、こんな風に。すると、レヴィは思わず優しい笑みを浮かべた。
「おい、リヴァイ、何を笑ってるんだ?」ハンジが尋ねた。
「何もないよ」リヴァイは答えた。
リヴァイは急いで彼女の手を取り、家へと歩いて行った。燃えるように赤い夕焼けの中、二人の影が道に長く伸びていた。

 

19.
春が過ぎ、夏の気配が近づく頃。 ハンジの腹は、ほんのりと丸みを帯び始めた。 朝の吐き気はまだ残るが、 水も固形物も、以前より確実に喉を通るようになった。
リヴァイは毎食、彼女が十分に食べられるように気を配った。「おい、もっと食べろ!」
「もうお腹いっぱいなのに、無理やり食べさせるのか?それとも豚みたいに太らせたいのか?」ハンジは冗談半分で言ったが、それでも彼女は素直にもっと食べた。
リヴァイは毎朝、彼女の体重を測り、 「……0.3キロ増えた」 と、メモに記す。 彼女は笑って、 「赤ちゃん、頑張ってるね」 と、腹を撫でる。

外出は、週に三度。 公園、市場の端、郊外の草原。 リヴァイは常に腕を貸し、 彼女はゆっくりと歩く。
「……今日は、風が気持ちいい」
「ん」
「赤ちゃん、揺れてる?」
「……蹴ってる」
彼は、時折、耳を腹に当て、 小さな鼓動を確かめる。家では、
本の山が減り、 代わりに、 小さなベビー服が積まれていく。 104期生たちが、 「これ、似合うかな?」 と、持ち寄る。

 

妊娠4ヶ月の中頃。 窓から差し込む。 ハンジは、
鏡の前で、 自分の腹を見つめる。
「……ここに、いるんだね」
時間は、 ゆっくりと、 確かに、 新しい命を、 育んでいく。 春の桜は散り、 夏の風が、 静かに、 吹き始めた。

夏の陽射しが強まる頃、 朝、ベッドから起き上がるのも億劫で、
「……もう少し、寝る」 と、毛布に潜り込む。

深夜、夏の風がカーテンを静かに揺らしていた。ハンジは突然息を詰めて目を開け、汗で冷えた背中を震わせた。夢の中で彼女は暗い森に立ち、腹は大きく膨らんでいるのに手を伸ばしても赤ちゃんの鼓動が聞こえず、リヴァイの声が遠くで「ハンジ!」と叫ぶが振り返っても誰もいない。巨人の影がゆっくりと彼女を飲み込もうとする。現実に戻った彼女はベッドで体を起こし、息を荒げて涙をこぼした。「リヴァイ……」と震える声で呼び、彼はすぐに腕を回して抱き寄せた。「悪夢か」と囁きながら彼女の背中をゆっくり撫でる。ハンジは彼の胸に顔を埋め、子供のよう泣き出した。「赤ちゃんがいなくなって……私、一人……」と嗚咽が喉を突き破る。リヴァイは彼女の腹にそっと手を当て、「ここにいる……動いてる」と確かめ、確かに小さな鼓動が響いていた。彼女は震える手で彼の手を重ね、「ごめん……怖くて……」と呟く。彼は「いい」と答え、額にキスをした。「夢は夢だ。」。彼女は泣き続けたが徐々に嗚咽が小さくなり、リヴァイの胸の温かさと二つの心臓の音に包まれて涙が乾いていく。彼は「もう寝ろ」と彼女を横に倒し、抱きしめたまま目を閉じず、悪夢を追い払うように見守った。

 

20.
光が黄色に染まるとき金色に染める頃、リヴァイは黒の礼装に身を包み、馬車を降りた。 王妃ヒストリアの召集は簡潔だった。
「外国使節団の歓迎を、調査兵団の顔として担ってほしい」
彼は短く「了解」と答え、謁見の間へと足を進めた。

広間は絢爛だった。 シャンデリアの光が水晶のグラスを煌めかせ、 壁には新大陸の絹が掛けられ、 楽団が優雅なワルツを奏でている。
使節団の将軍、商人、学者—— 異国の衣装に身を包んだ者たちが、
好奇と敬意の視線をリヴァイに投げかけた。

王妃は玉座の傍らに立ち、 微笑みながら彼を迎えた。
「リヴァイ兵長、今日は存分に楽しんで」
「任務です」
短い返事に、彼女は小さく笑った。

やがて貴婦人たちが波のように寄ってきた。 金髪を高く結い上げた伯爵夫人、 翡翠の首飾りを揺らす公爵令嬢、 香水の甘い匂いを漂わせる商人令嬢—— 皆が、微笑み、扇を広げ、
「兵長、踊っていただけますか」
「戦場のお話を」
「私どもの国へ、ぜひ」

リヴァイは無表情で一礼し、 「失礼」と短く断る。 だが、次の瞬間には別の手が差し出され、 別の声が耳元で囁く。 彼は、静かに距離を取り、 壁際のテーブルに立つ。 グラスを手に、 視線は出口へ。

使節団の将軍が近づき、 「巨人討伐の英雄と、こうして酒を酌み交わせるとは光栄だ」 と、杯を掲げた。
リヴァイは軽く合わせ、 「調査兵団の功績は、皆のものだ」 とだけ答え。

歓迎会は夜まで続いた。 華やかな笑い声、 舞踏の旋律、 貴婦人たちの熱い視線。 リヴァイは、 ただ、 任務を終えるまで、 耐えた。

馬車が宮殿を離れる頃、 月が中天に昇っていた。 彼は窓の外を見ながら、 ポケットから小さな紙片を取り出す。 ——ハンジが朝、握らせたメモ。
「早く帰ってね」。 文字は乱れ、 インクが少し滲んでいる。 彼は、それを胸に押し当て、 馬車を急がせた。
家に着くと、 灯りは消えていた。 リヴァイは静かに靴を脱ぎ、 寝室へ。 ハンジは毛布にくるまり。

しかし、パーティーで起こったある出来事を、レヴィは家に帰るまで気づかなかった。その時…
宮殿の舞踏室は、夜の熱気で満ちていた。 ワルツの最中、若い女性がふいに足を滑らせた。 金髪を高く巻き、薔薇色のドレスを翻し、 「きゃっ」と小さく叫んで、 リヴァイの胸に倒れ込む。 彼は反射的に腕を回し、 相手を床に落とさなかった。
女性は頬を染め、 「ありがとうございます、兵長……」 と囁き、
一瞬だけ、彼の襟元に唇を寄せた。 柔らかな口紅の跡が、 白いシャツに、 小さな薔薇のように残る。リヴァイは、 「気をつけろ」 とだけ言い、 すぐに離れた。 背後で貴婦人たちがざわめくが。 襟元の痕など、 気づくはずもなかった。

家に着くと、 玄関のフックに上着を掛けた。 白いシャツの襟に、 淡いピンクの跡が、 月明かりに仄かに浮かぶ。 リヴァイはそれを見ず、 そのままバスルームへ。 ドアを閉め、 水音が静かに響き始めた。

寝室では、 ハンジが毛布の中で小さく身じろぎし、 「……遅い」 と、眠たげに呟いた。 小さく呼びながら、毛布を肩にかけ、 ゆっくりと立ち上がった。 廊下へ出る。 彼の声は聞こえた。 「おかえり」と答えるつもりだった。

だが、バスルームのドアが閉まり、 水音が響く。 「……もう、入っちゃった」 呟きながら、彼女は玄関へ。 フックに掛かった上着。 白いシャツの襟が、月明かりに浮かぶ。

ハンジは、近づいた。 指先で、襟をそっとつまむ。 淡いピンクの跡。 小さな、薔薇のような形。 「……口紅?」 息が、止まる。
鼻を近づける。 強い香水の匂い。 甘く、華やかで、 彼女の知らない香り。 胸が、締め付けられる。 「……誰?」 は、出ない。

彼女は、シャツを握りしめた。 指が、震える。 頭の中に、
宮殿の光景が浮かぶ。 貴婦人たちの笑顔。 リヴァイの無表情。 誰かが、 彼に、 触れた。
涙が、頬を伝う。 「……嘘」 呟きながら、 彼女は、 バスルームのドアを見つめた。 水音が、 遠く、 響く。
「……違うよね」 自分に言い聞かせる。 でも、 匂いは、 確かに、
そこにあった。
彼女は、 寝室へ戻った。 ベッドに座り、 膝を抱える。 腹を、 そっと、 撫でる。
「……ママ、 バカだね」

水音が、 止んだ。 ドアが、 開く。 リヴァイの足音。 彼女は、 顔を上げなかった。 ただ、 静かに、 待っていた。

 

リヴァイがバスルームから出てきた瞬間、寝室の空気が爆発した。
ハンジはベッドの端に座り、膝を抱えていたが、 彼の足音を聞いた途端、 まるで火薬に火がついたように立ち上がった。 「……これ、何!?」 彼女は、玄関から掴んできた白いシャツを、 握りしめたまま、 リヴァイの顔に叩きつけた。 「口紅! 香水! 誰!? 誰なのよ!?」 声は、 叫び、 咆哮、 喉が裂けるほどだった。
涙が、 頬を、 首を、 胸を、 洪水のように流れ落ちる。 「……宮殿で、誰と踊った!? 誰に、触られた!? 私、妊娠してて、 家で、 一人で、 待ってるのに……!」

彼女は、 枕を、 本を、 ランプを、 花瓶を、 次々と、 掴み、 投げ、 叩き割り、 床に、 壁に、 リヴァイの胸に、 ぶつけた。
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
破片が、 月明かりに、 血のように散る。 「……嘘つかないで! 私、バカみたいに、 信じてたのに……!」 この瞬間、ハンジの感受性が、彼女に信じられないほど激しい感情の爆発を経験させた。

リヴァイは、 一歩、 また一歩、 近づいた。 投げつけられるものを、 腕で受け、 床に落とす。
「……落ち着け」
「落ち着かない!!」
彼女は、 シャツを、 彼の顔に、 何度も、 何度も、 叩きつけた。
「……名前、言え! 誰!? 誰に、 キスされた!?」
リヴァイは、 シャツを、 掴み、 彼女の手を、 強く、 掴んだ。
「……ハンジ、落ち着いて聞いて。このままじゃ赤ちゃんに良くないよ!」
声は、 低く、 確か、 でも、 震えていた。
「パーティーで女性が転倒したのですが、私はただ助け起こしただけでした。彼女がうっかり襟に口紅をつけっぱなしにしていたとは、全く知りませんでした。」
ハンジは、 首を、 激しく、 振った。
「……嘘!! 嘘!! 嘘!!」
彼女は、 彼の胸を、 拳で、 何度も、 叩いた。

リヴァイは、 彼女の肩を、 抱き寄せ、 強く、 離さないように、 抱きしめた。 「……俺は、お前しか見てねえ」 声が、 震える。
リヴァイはハンジを落ち着かせるためにしばらく抱きしめ、何度も軽く叩きながら謝った。 彼女は、 崩れ落ちた。 床に、 膝を、 つき、 嗚咽が、 喉を、 突き破る。
「……ごめん…… 怖くて…… でも、 あなたを、 失うのが、 怖くて……!」
リヴァイは、 彼女を、 床に、 抱きしめた。 「……俺が、悪かった」.
少し落ち着いた後、リヴァイは彼女をベッドに運び、部屋を片付けた。
ハンジはベッドに座り、リヴァイのことを誤解し、物を壊してしまったことへの罪悪感でいっぱいだった。
「レヴィ、怒ってるの?」
「もちろん怒ってないわ。嫉妬するってことは、あなたを愛してるってことよ。」
「本当にバカね。でも、私も物を壊したり、あなたを殴ったりしたの。感情をコントロールできないのよ。」
「大丈夫よ。ホルモンバランスが変わってるだけよ。」

その夜、ハンジはまるで謝るかのようにリヴァイを強く抱きしめた。

 

21.
朝、目を開けるたび、まず腹に手を当て、小さな鼓動を確かめる。
それが生きている証だと自分に言い聞かせる。 でも、その鼓動が重くのしかかる。 「あなたがいるから、私はここに縛られている」。 そんな声が、頭の片隅で囁く。 彼女は、すぐにその考えを振り払おうとする。 「違う。守られているんだ」。 でも、振り払えば振り払うほど、 その声は、 より大きく、 より鋭く、 彼女を刺す。

窓の外では、 世界が動いている。 鳥が飛び、 風が木々を揺らし、 子供たちが笑いながら走る。 彼女は、 カーテンの隙間から、 そのすべてを、 覗く。 「……私も、昔は、あそこにいた」
調査兵団のマントを翻し、 巨人の首を切り、 仲間と笑い、 叫び、 生きていた。 今は、 ただ、 ここに、 座っている。

彼女は、 立ち上がる。 足が、 重い。 まるで、 鎖で繋がれているよう。 玄関のドアに、 手を伸ばす。 鍵は、 かかっていない。 リヴァイは、 「いつでも、出られる」 と言った。 でも、 ドアノブを、 握る手が、 震える。 「……外、怖い」 心臓が、 激しく、 鳴る。
「もし、倒れたら?」
「もし、赤ちゃんに何かあったら?」
「もし、私が、もっと弱くなったら?」

彼女は、 ドアから、 離れる。 「……ダメだ」 呟きながら、 ベッドに、 戻る。 毛布に、 潜り込む。 「……監禁されてる」 その言葉が、 頭の中で、 繰り返す。 「自分で、自分を、閉じ込めてる」

鏡を見る。 腹は、 日に日に、 大きくなっていく。 でも、 瞳は、 死んでいる。 「……私、弱すぎる」 涙が、 頬を、 伝う。 「妊娠してるから、 こんなに、 自由を、 失った」

彼女は、 腹を、 撫でる。 「……ごめんね」 赤ちゃんに、 呟く。 「ママ、 弱くて…… 怖くて…… あなたを、 守れるか、 分からない……」
...
リヴァイが、 帰ってくる。 彼女は、 「……おかえり」 と、 小さく、 呟く。 彼は、 「……今日は、どうだった?」 と、 尋ねる。
彼女は、 「……同じ」 と、 答える。 でも、 心の中では、 叫んでいる。 「助けて」 「私を、 ここから、 連れ出して」

でも、 その言葉は、 喉の奥で、 凍りつく。 彼女は、 ただ、 微笑む。 「……大丈夫」 嘘を、 つく。 自分に、 リヴァイに、 赤ちゃんに。

夏の陽射しは、 窓から、 差し込む。 でも、 彼女の心は、 暗い。 自由は、 すぐそこに、 ある。 でも、 彼女は、 動けない。 弱すぎるから。 そう、 信じている。 その信念が、 彼女を、 さらに、 深く、 閉じ込めていく。

午後の陽射しが、台所のテーブルを白く照らしていた。 ハンジは、ソファから立ち上がり、 ゆっくりと、 足を引きずるようにして、 棚の前へ。 手が、 無意識に、 ガラスの瓶に伸びる。 白い砂糖。 瓶の蓋を、 回す。 カチッ、という音。
スプーンを、 取り出す。 銀の先が、 光る。 一匙、 口に、 運ぶ。 甘さが、 舌の上で、 爆発する。 「……あ」
漏れる。 喉が、 熱い。 でも、 心地いい。
もう一匙。 また一匙。 甘さが、 頭の奥まで、 染み込んでいく。 「……もっと」 呟きながら、 彼女は、 瓶を、 膝の上に、 置いた。 スプーンが、 砂糖を、 掻き出す。 音が、 シャリ、 シャリ、 と、 響く。
喉が、 痛くなる。 舌が、 痺れる。

でも、 やめられない。 甘さが、 空っぽの心を、 埋めてくれる。
「……これで、 いい」
でも、 スプーンは、 止まらない。 時間が、 溶ける。 瓶の中、 砂糖は、 半分に、 なっていた。 彼女は、 スプーンを、 握りしめたまま、 膝に、 瓶を、 抱えた。
ハンジはなぜそんなことをするのか理解していなかったが、ストレスが彼女を何か行動を起こさなければならないと駆り立て続けたので、無意識のうちに砂糖を食べ続けた。
甘さは、 一時的な、 逃げ道。
...
リヴァイは部屋に戻り、ハンジの手から砂糖の瓶を素早くひったくった。リヴァイは、一度に砂糖を摂りすぎると神経系に悪影響を与えることを知っていた。特にハンジは妊娠中だったため、これは本当に良くないことだった。
リヴァイは瓶をテーブルに叩きつけるように置き、 蓋を回す手が震えていた。 「……半分だぞ」
声は低く、 でも、 底に、 恐怖が、 滲んでいた。
彼は、 ハンジの前に、 膝を、 ついた。
「……喉、 焼けてるだろ」
指先が、 彼女の頬を、 震えながら、 撫でる。
「どうしてそんなことをしたんだ?あんなに砂糖をたくさん食べるのは体に悪いって分かっているのに、それでもやったんだ。何かあったのか、ハンジ?何か甘いものが欲しかったら私に言ってください。」
言葉は、 怒りのように、 聞こえる。
でも、 瞳の奥に、 底なしの、 不安が、 渦巻いていた。
「……なぜ、 こんなこと、 する?」
声が、 裏返る。 彼は、 彼女の瞳を、 食い入るように、 見つめた。
「……俺に、 言えよ」
ハンジは、 唇を、 噛んだ。 「……分からない」
涙が、 頬を、 伝う。 ……ただ、 甘さが、 欲しくて……」
リヴァイの、 胸が、 締め付けられる。 「……妊娠中だぞ」 声が、 震える。 「……血糖値が、 急に上がったら、 赤ちゃんに、 何かあったら……」 言葉が、 途切れる。 彼は、 彼女の手を、 強く、 握った。 彼は、 彼女を、 抱きしめた。 「……バカ」
声が、 震える。 「……次は、 俺に、 言え。 ケーキでも、 クッキーでも、 買ってくる」
でも、 心の中では、 叫んでいた。 「……お前が、 こんな風に、 壊れていくのを、 見てるのが、 怖い」 瓶は、 テーブルに、 置かれたまま。

夜が深まり、寝室のランプは小さな炎を揺らしていた。 リヴァイはベッドの端に腰を下ろし、ハンジの横に座る。 彼女は毛布を肩まで引き上げ、腹をそっと撫でていた。 沈黙が、部屋を重く包む。
「……ハンジ」
リヴァイの声は低く、 でも、 震えていた。
「……俺は、 お前が、 壊れていくのを、 見てるのが、 怖い」
彼は、 彼女の手を、 握った。
「……砂糖のことも、 全部、 俺に、 言え。 心に、 秘めてるものが、 あるなら、 今、 全部、 打ち明けろ」
ハンジは、 目を、 伏せた。 涙が、 頬を、 伝う。
「……私、 自由を、 失ったみたい」
声が、 震える。
「……家に、 閉じ込められて、 何も、 できない。」
彼女は、 リヴァイの、 瞳を、 見つめた。
「……私、 弱すぎる。 妊娠してるから、 こんなに、 動けなくなって…… みんなの、 役に、 立てなくて……」

涙が、 止まらない。 「……監禁されてるみたい。  自分で、  自分を、 閉じ込めてる。  怖い。  赤ちゃんに、  何かあったら、  って……」
彼女は、 腹を、 強く、 抱えた。 「……私、 母親に、 なれるか、 分からない。 リヴァイに、 負担に、 なってるだけ……」

リヴァイは、 彼女を、 抱きしめた。 「……俺が、 悪かった」
声が、 震える。 ……お前を、 守ろうと、 しすぎた。 自由を、 奪った」
彼は、 彼女の髪に、 唇を、 寄せた。
「……明日からは、どこへでも行き、好きなことを何でもできる。以前と同じように自由でいよう。」
ハンジは、 彼の胸に、 顔を、 埋めた。 「……ごめん」
彼は、 彼女の背中を、 撫でた。 「……全部、 聞かせて、 くれて、 ありがとう」

 

22.
その後の数日間、ハンジは家の周囲をゆっくりと歩き回った。 朝の陽射しが心地よく、彼女は近所の小さな公園まで足を伸ばす。 ベンチに座り、桜の木の下で風を感じ、 「……ここまで、来られる」 と、呟く。
リヴァイは、 「……何かあったら、すぐ呼べ」 と、玄関で見送る。

近距離の外出は、 彼女の、 自由だった。 市場の端まで、 パン屋まで、 花屋まで。 遠くへ行く場合は、 リヴァイが、 一緒だった。 郊外の草原、 川辺の散歩道、 壁の外の小さな村。 彼は、 彼女の腕を、 支え、 「……疲れたら、  言え」 と、 言う。

...

彼女の、 心は、 少しずつ、 開いていく。 自由は、 近距離でも、 遠距離でも、 リヴァイと、 一緒なら、 確かに、 ここに、 あった。

午後の陽射しが市場の石畳を金色に染める頃、ハンジは小さな籠を手に歩いていた。 足取りはまだ慎重だが、頬には春の色が戻っている。
魚屋の前で新鮮な白身魚を、八百屋でトマトと玉ねぎを、香草屋でローズマリーを。 「……リヴァイ、魚好きだっけ」 呟きながら、彼女は袋を胸に抱え、 ゆっくりと家路についた。

台所に立つと、 エプロンを締め、 包丁を握る手は震えていたが、 確実に、 魚を三枚に下ろし、 玉ねぎを薄くスライスし、 トマトをざく切りにする。 鍋にオリーブオイルを熱し、 香草を散らし、 白ワインを注ぐ。 「……昔、兵舎で作ったこと、あるよね」 独り言が、 湯気に溶ける。

オーブンで魚を焼き、 付け合わせにじゃがいもを茹で、 最後にレモンを絞る。 香りが、 家中に広がる。 彼女は、 出来上がった皿を、 布で包み、 籠に入れた。 「……行こう」 自分に言い聞かせ、 玄関を出る。

兵舎までの道は、 馬車で十五分。 ハンジは、 籠を膝に置き、 窓の外を眺める。 「……リヴァイ、驚くかな」

兵舎に着くと、 訓練を終えた兵士たちが、 「司令官!」 と、敬礼する。 彼女は、 微笑み、 「……リヴァイは?」 と、尋ねる。 アルミンが、 「訓練場です」 と、案内する。

ハンジの姿を見ると、 眉を上げ、 「……どうした」 彼女は、 籠を、 差し出す。 「……夕食、 作ってきた」

「……一緒に、  食べよう」
訓練場の隅、 小さなテーブル。 二人は、 向かい合って座る。 ハンジは、 皿を、 開ける。 焼きたての魚、 香草の香り。 リヴァイは、
フォークを、 握る。 「……食ってみる」

一口。 目を、 閉じる。 「……美味い」 声が、 少し、 震える。 彼女は、 「……よかった」 と、 笑う。

二人は、 静かに、 食べる。 兵士たちが、 遠巻きに、 見守る。
「……司令官、 復帰?」
誰かが、 呟く。 ハンジは、 首を、 振る。 「……今日は、  リヴァイの、 奥さん」

リヴァイは、 「……バカ」 と、 呟くが、 口元が、 緩む。 陽が、 兵舎を、 赤く染める。 二人は、 皿を、 空にした。
ハンジは、 「……また、  作るね」
リヴァイは、 「……ああ」 と、 頷く。

彼女は、 籠を、 抱え、 家路に つく。 足取りは、 軽い。

ハンジは、愛する人のために料理を作ることも、小さな喜びの一つだと気づいていた。リヴァイはいつも仕事で忙しかったが、家に帰ってくるといつも彼女のことをよく世話してくれた。だから、ハンジはリヴァイの面倒を見ることが、彼にとって一番の幸せだと考えた。
また別の時、ハンジは夕食の準備をずっと前に終え、リヴァイの帰宅を待っていました。一緒に食事をするためです。リヴァイは遅くなるかもしれないから先に食べるように言っていましたが、ハンジは待っていました。待ち時間が長すぎて、ハンジは眠くなり、椅子にうとうとと寝てしまいました。リヴァイが戻ってきて、夕食のテーブルと、自分を待っていたハンジが眠っているのを見ると、リヴァイは喜びで胸がいっぱいになりました。ハンジの寝顔を見て、リヴァイは安らぎを感じると同時に、長い間待たせてしまったハンジを申し訳なく思いました。
...
ハンジにとって、妊娠は大きな障害ではあったが、同時にリラックスできる休息も与えてくれた。家で時々、ハンジは独り言を言ったり、お腹の中の赤ちゃんに色々なことを話したりした。そして、リヴァイが生まれた時の顔をよく想像した。リヴァイが赤ちゃんにどんな反応をするだろうかと、ハンジは想像した。その想像は、ハンジを幸せそうに微笑ませた。

 

23.
夏の終わりが近づく頃、ハンジは妊娠五ヶ月半ばを迎えていた。 鏡の前に立つと、腹ははっきりと丸みを帯び、 シャツの裾が自然に持ち上がる。 「……もう、隠せないね」 彼女は呟き、 両手で腹を包むように撫でた。
赤ちゃんの動きは日増しに強く、 朝も夜も、 小さな足が内側からぽこぽこと突き上げる。
リヴァイが買ってきたマタニティ用のワンピースは、 ゆったりとしたシルエットで、 「……ちょっと、大きすぎ?」 と笑いながらも、 彼女は袖を通す。 胸も、 重みを増し、 ブラジャーのサイズを二度上げた。

歩くたびに、 重心が前に傾き、 背中が少し丸まる。 市場への道は、 以前よりゆっくり、 途中で二度、 ベンチに座って休む。 「……重い」 と呟いても、 腹を撫でる手は、 優しい。

夜、 ベッドに横たわると、 リヴァイは必ず、 彼女の腹に耳を当てる。 「……今日も、元気だ」 小さな鼓動と、 時折の蹴りが、 彼の頬に伝わる。 ハンジは、 「……もう、名前、決めない?」 と、 微笑む。 彼は、 「……まだ、早い」

五ヶ月半ば。 体型は、 大きく、 確実に、 変化していた。 でも、 彼女の笑顔は、 日に日に、 柔らかく、 なっていった。

 

24.
午後の陽射しが、住宅街の石畳を優しく照らしていた。
ハンジは、ゆったりとしたワンピースに身を包み、 腹を軽く支えながら、 ゆっくりと歩いていた。 近所の主婦たちが、 「司令官さん、お腹大きくなったね!」
と声をかけ、 彼女は笑って、
「……もう、五ヶ月半ばよ」 と答える。
花屋のおばあさんが、
「元気な子が生まれるわよ」 と、小さな花束を差し出し、 ハンジは、
「ありがとう」 と、受け取った。
時計が六時を回る頃、 彼女は、 「……そろそろ、帰ろう」 と、呟き、 家路についた。
夕陽が、 背中を、 赤く染める。 彼女は、 尾行されていることに、
気づかなかった。

角を曲がった瞬間、 二人の影が、 素早く、 駆け寄った。
「……っ!」 バッグを、 強く、 引っ張られる。
ハンジは、 バランスを、 失い、 地面に、 倒れた。 腹を、 守ろうと、 手を、 回す。 衝撃が、 頭に、 走る。 視界が、 暗くなる。 「……リヴァ……」 呟きは、 途切れ、 意識が、 遠のいた。
二人は、 バッグを、 奪い、 走り去った。 彼らは市場によく出没し、女性を狙ってスリや強盗を働く泥棒です。奴らは人気のない道路や住宅街を利用して犯罪を犯す。(悪党どもめ!)

一方、リヴァイは家で山積みの書類を整理していた。その時、一枚の紙切れが彼の手を切った。そこから、通常の切り傷ではありえないほどの大量の血が流れ出た。リヴァイは困惑したが、それが何かの前兆だとは知る由もなかった…

夕陽が、 彼女の、 倒れた体を、 静かに、 照らす。 住宅街は、 静かだった。 誰も、 気づかなかった。夕暮れの住宅街は、静かに沈んでいった。 ハンジは、地面に倒れたまま、 意識を失っていた。 腹は、 小さく、 震えていた。

通りかかった少女は、 最初、 「……おばさん?」 と、 小さな声で、 呼びかけた。 返事は、 ない。
彼女は、 ハンジの、 青白い顔を、 見て、 悲鳴を、 上げた。 「……助けて!!」

 

近所の主婦たちが、 駆け寄る。 誰かが、 馬車を、 呼ぶ。 少女は、 ハンジの手を、 握りしめ、 「……大丈夫、  すぐ、  病院よ」
と、 震える声で、 繰り返した。
病院の、 救急室は、 慌ただしかった。 医師たちが、 ハンジを、 ストレッチャーに、 乗せる。 「……出血が、  ひどい」 「……胎児の、 心音が……」

一時間後、 救急医は、 リヴァイの前に、 立った。 「……流産です」 声は、 低く、 重い。 「……母体は、  命に、  別状は、  ありませんが……」
リヴァイは、 一瞬、 凍りついた。 「……何?」 声は、 出なかった。 医師は、 「……すみません」 と、 頭を、 下げた。

彼は、 病室へ、 駆け込んだ。 ハンジは、 ベッドに、 横たわり、 目を、 閉じていた。 腹は、 平らに、 なっていた。 「……ハンジ」 声が、 震える。 彼は、 彼女の手を、 握った。 冷たい。

彼女は、 ゆっくりと、 目を開けた。 「……リヴァイ……」 「赤ちゃんはどこ?」涙が、 頬を、 伝う。
「……ごめん…… その子はもうここにはいません。」 リヴァイは、 彼女を、 抱きしめた。 「……俺が、  悪かった」 声が、 震える。 「……守れなかった」 おそらくその瞬間は二人にとって人生で最も辛い瞬間の一つとなるだろう。

二人は、 抱き合ったまま、 泣いた。 ハンジのすすり泣きは容赦なく、終わりがなかった。彼女は声が枯れるまで泣き続けた。
病室の時計が、 二時間を、 刻んだ。

ハンジは、 リヴァイの胸に、 顔を、 埋めたまま、 泣き続けた。 嗚咽は、 最初は、 激しく、 喉を、 裂くようだった。 「……ごめん……  ごめん…… ごめん……」 言葉は、 途切れ、 涙だけが、 洪水のように、 流れ落ちる。
リヴァイは、 彼女を、 強く、 抱きしめた。 「……俺が、  悪かった」 声は、 震え、 何度も、 繰り返す。 「……お前を、  守れなかった」

彼女の、 肩が、 震える。 指が、 彼のシャツを、 掴む。 「……私、  弱くて…… 赤ちゃん、 守れなくて……」 二人とも自分の非を認めた。

二時間。 涙は、 止まらない。 ハンジの、 声は、 次第に、 小さくなり、 息が、 荒くなり、 ついに、 彼女は、 リヴァイの腕の中で、 気を、 失った。

リヴァイは、 彼女を、 ベッドに、 そっと、 横たえた。 額に、 手を、 当てた。 熱い。 涙で、 濡れた、 頬を、 指で、 拭う。

彼は、 ベッドの、 そばに、 座った。 椅子を、 引き、 彼女の、 手を、 握る。
「……ハンジ」 呟きは、 誰にも、 届かない。

部屋は、 完全に、 静まり返った。 時計の、 針だけが、 規則正しく、 進む。 窓の外、 夏の夜は、 深く、 暗い。

リヴァイは、 動かない。 ただ、 彼女の、 寝顔を、 見つめる。 瞳は、 赤く、 腫れている。 でも、 表情は、 静かだ。 彼は、 彼女の、 手を、 離さない。 「……俺が、  いる」 呟きは、 部屋に、 吸い込まれる。

静寂は、 重く、 二人を、 包む。 涙は、 乾いていく。 でも、 痛みは、 まだ、 ここに、 あった。

動かない。 彼女の指は、 まだ温かい。 でも、 その温かさが、 彼の胸を、 抉る。
「……俺が、 悪かった」 心の中で、 何度も、 繰り返す。 頭の中は、 嵐だった。
「なぜ、  一人で、  出させた?」 その時、 彼女が、 「……市場、 行ってくる」 と言った時、 彼は、 「……気をつけろ」
と、 だけ、 言った。 それだけ。 もっと、 「……俺も、  行く」
と言うべきだった。 いや、 言わなかったのは、 彼女の、 自由を、
尊重したかったから。 でも、 それが、 間違いだった。

「守れなかった」 その言葉が、 頭の中で、 何度も、 響く。 調査兵団の、 英雄。 巨人を、 斬った。 壁を、 守った。 でも、 一番、 守りたかった、 彼女を、 赤ちゃんを、 守れなかった。
「……俺は、 何のために、 生きてきた?」 自嘲が、 胸を、 刺す。 「強かった、 はずなのに」
でも、 強さは、 何も、 変えられなかった。 彼女の、 涙を、 止めることも、 赤ちゃんを、 守ることも。
彼は、 彼女の、 寝顔を、 見つめる。 「……お前が、  笑ってた、  あの時を、  返せ」
心が、 叫ぶ。 でも、 声は、 出ない。
「これから、 どうすればいい?」
彼女が、 目を覚ました時、 何を、 言えばいい? 「……ごめん」 それだけ? それで、 済むのか? いや、 済まない。 でも、 他に、 言葉は、 ない。

呟きは、 自分に、 言い聞かせる。 でも、 心の奥で、 別の声が、 囁く。 「……お前を、  幸せに、  できるのか?」

葛藤は、 彼を、 蝕む。 守りたい。 でも、 守れなかった。 愛してる。 でも、 傷つけた。 強かった。 でも、 無力だった。

部屋は、 静かだった。 でも、 リヴァイの、 心は、 嵐だった。 彼女の、 寝息だけが、 彼を、 繋ぎ止める。 「……ハンジ」 呟きは、 誰にも、 届かない。 でも、 彼は、 離さない。 絶対に。

 

25.
彼女は1週間後に退院したが、その後の数日間は精神的に悪夢のような日々だった。
家の中は、 音を、 すべて、 飲み込んでいた。 ハンジは、 ソファの、 片隅に、 座ったまま、 動かない。 膝を、 抱え、 毛布を、 肩に、 かける。
水の、 グラスは、 テーブルに、 置かれたまま、 一滴も、 減らない。 スープの、 皿は、 冷えきって、 膜が、 張る。

彼女は、 時々、 立ち上がり、 部屋を、 歩く。 足音は、 しない。 床が、 軋むことさえ、 ない。 窓に、 近づき、 カーテンを、 指で、 つまむ。 外を、 見る。 でも、 何も、 見ていない。 「……」 唇が、 動く。 でも、 声は、 出ない。

リヴァイは、 いつも、 そばに、 いる。 彼女の、 横に、 座る。 手を、 差し出す。 「……水」 呟く。 彼女は、 首を、 振る。 沈黙が、 深くなる。

夜、 ベッドに、 横たわる。 二人は、 並んで、 いる。 でも、 言葉は、 ない。
彼女の、 呼吸だけが、 小さく、 聞こえる。 リヴァイは、 彼女の、 手を、 握る。
...
朝、 陽射しが、 差し込む。 でも、 部屋は、 暗い。 カーテンは、 開かない。 時計の、 針だけが、 進む。 チク、 タク、 チク、 タク。
リヴァイは、 「……何か、  食え」 と、 言う。 でも、 声は、 沈黙に、 吸い込まれる。 彼女は、 「……」 と、 答えない。

悲痛な、 沈黙が、 家を、 覆う。 でも、 リヴァイは、 そばに、 いる。 彼女の、 手を、 離さない。 沈黙が、 二人を、 包む。 でも、 その、 沈黙の中に、 彼の、 存在が、 確かに、 あった。

ハンジの目は、 かつての光を、 完全に、 失っていた。 ベッドに、 横たわり、 毛布を、 胸まで、 引き上げ、 天井を、 見つめる。 動かない。 食べる、 という、 行為さえ、 忘れたように。 頬は、 こけ、 手首の、 骨が、 浮き出る。 体重は、 日に、 一キロ、 ずつ、 減っていった。

リヴァイは、 毎朝、 彼女の、 横に、 座る。 「……ハンジ」 呼びかける。 でも、 返事は、 ない。 スプーンを、 口元に、 運ぶ。 「……一口」
彼女は、 唇を、 閉じたまま。 水さえ、 喉を、 通さない。
悲しみが、 胸を、 抉る。 「守れなかった。  笑顔を、  返せなかった」

兵舎に、 着くと、 皆が、 遠巻きに、 見つめる。 アルミンは、 書類を、 抱えたまま、 立ち尽くす。 ジャンは、 剣を、 握りしめ、 唇を、 噛む。ミカサは、 無言で、 リヴァイの、 背中を、 見つめる。
誰も、 声を、 上げない。 「ハンジさんは?」 と、 聞く、 勇気は、 ない。 リヴァイが、 もっと、 悲しむのを、 恐れて。

彼は、 机に、 座る。 書類を、 開く。 でも、 字は、 読めない。 「……すまねえ」 心の中で、 皆に、 謝る。 でも、 声は、 出ない。

家に、 戻ると、 ハンジは、 同じ、 場所に、 いる。 「……おかえり」 掠れた、 声で、 呟く。 と、 答える。 彼女の、 横に、 座る。 手を、 握る。 ハンジが傷心しており、立ち直るには時間がかかることをリヴァイは知っている。だからこそ、リヴァイは彼女の気持ちを全て尊重し、早く立ち直るようプレッシャーをかけることはしない。ただ一つ、ハンジに知ってほしいことがある。それは、自分はいつでも彼女のそばにいるということだ。

翌朝、 まだ薄暗い空の下、 104期生たちは兵舎の厨房に集まっていた。 薪を割るエレン, サシャが卵を割り、 アルミンが野菜を刻み、 ジャンが鍋をかき回し、 コニーがパンを焼き、 ミカサが静かに皿を並べる。 「……ハンジさんに、 元気を」
誰かが、 呟いた。 皆が、 頷く。
馬車に、 温かい、 料理を、 詰める。 スープ、 焼きたてのパン、 卵焼き、 サラダ、 小さな、 ケーキ。
「……行こう」 アルミンが、 静かに、 言った。

家に、 着くと、 リヴァイが、 ドアを、 開けた。
「……お前ら」 声は、 驚き、 でも、 どこか、 安堵。

ハンジは、 ソファに、 座っていた。 毛布を、 肩に、 かけたまま。 皆の、 顔を、 見て、 目を、 丸くする。 「……みんな?」

サシャが、 「……司令官!」 と、 駆け寄り、 抱きつく。 アルミンが、 「……少しでも、  元気に、  なってほしい」 と、 料理を、 テーブルに、
並べる。
ジャンが、 「……食えよ」 と、 照れくさく、 言う。 コニーが、 「……ケーキ、 俺が、 焼いた!」 と、 自慢する。

ハンジは、 スプーンを、 握る。 手が、 震える。 「……ありがとう」 声が、 震える。 一口。 スープが、 喉を、 通る。 温かい。 「……美味しい」 涙が、 頬を、 伝う。

皆が、 彼女の、 周りに、 座る。 ハンジは、 何日ぶりかで、 食事を、 口に、 運ぶ。 スープを、 半分。 パンを、 一口。 卵焼きを、 少し。 「……ごめん、 みんな……  ありがとう」 声は、 震える。
でも、 瞳に、 小さな、 光が、 戻る。

リヴァイは、 隅で、 静かに、 見守る。 口元が、 わずかに、 緩む。
昼食は、 静かに、 終わる。
104期生たちは、 「……また、  来る」 と、 笑顔で、 帰る。

ハンジは、 ソファに、 座ったまま、 「……温かい」 と、 呟く。 ハンジは、周りの人々がいつも自分のことを気にかけていて、自分に何か起こるたびに心から慰めてくれることに気づきました。
リヴァイは、 彼女の、 横に、 座る。
彼女は、 少し、 笑った。 小さな、 でも、 確かに、 笑った。

 

26.
数日間、 リヴァイは毎朝、 「……行くか」 と、 短く、 ハンジの手を、 引いた。 近所の、 小さな公園、 市場の端、 川沿いの、 散歩道。 彼女は、 ゆっくりと、 歩く。 風が、 頬を、 撫でる。
「……気持ちいい」 呟きは、 小さく、 でも、 確かに、 聞こえる。

ある午後、 住宅街を、 歩いていると、 病院の、 門から、 夫婦が、 出てきた。 若い母親が、 小さな、 赤ん坊を、 抱き、 父親が、 荷物を、 持つ。 赤ん坊は、 小さな、 泣き声を、 上げる。 母親が、 「……しーっ」
と、 優しく、 揺らす。 ハンジは、 足を、 止めた。 瞳が、 凍りつく。 胸が、 張り裂ける。 「……あんな、  家族……」 心の中で、 叫ぶ。 「私も、  あんな風に、  抱きたかった」 涙が、 頬を、 伝う。
彼女は、 リヴァイの、 腕を、 強く、 握る。 「……リヴァイ……」
声が、 震える。
彼は、 彼女を、 抱き寄せる。 「……見るな」 低く、 言う。 でも、 彼女は、 首を、 振る。
夫婦は、 笑顔で、 通り過ぎる。 赤ん坊の、 泣き声が、 遠ざかる。
ハンジは、 その、 背中を、 見つめる。 「……私、  あんな風に、  なれたかな……」
リヴァイは、 彼女の、 肩を、 抱く。 「……お前は、  十分、  強かった」 声が、 震える。
「……ごめん……  私、  まだ……」 涙が、 止まらない。
二人は、 その場に、 立ち尽くす。 風が、 通り過ぎる。 でも、 痛みは、 まだ、 ここに、 あった。そういう家族もいる。しかし、彼らにとって幸せは贅沢であり、今はそれを脇に置いておくしかないのかもしれない。

 

27.
秋の風が、 初めて、 冷たく、 感じられた朝。
ハンジは、 鏡の前で、 制服を、 着た。 腹は、 もう、 平ら。 でも、 彼女は、 ボタンを、 一つずつ、 留める。
「……行く」 呟きは、 小さく、 でも、 確かに。

リヴァイは、 玄関で、 彼女を、 見つめる。 「……まだ、  休め」 声は、 低く、 心配で、 いっぱい。 彼女は、 首を、 振る。 「……私、 動きたい」

兵舎に、 着くと、 皆が、 息を、 呑む。 「……司令官」 アルミンが、 小さく、 呟く。

机に、 座る。 書類を、 開く。 赤い、 ペンを、 握る。 手は、 える。 でも、 矢印を、 一本、 引く。 「……これで、  補給は……」
昼、 食堂で、 皆と、 食べる。 「……美味しい」 スープを、 一口。

痛みは、 まだ、 胸に、 ある。 でも、 彼女は、 動く。 書類を、 読み、 兵士に、 指示を、 出し、 笑顔を、 作る。
ゆっくりと、 痛みを、 乗り越える、 術を、 学んだ。 仕事は、 彼女の、 一部。 リヴァイは、 そばに、 いる。 「……お前が、  決めたなら」

秋の、 陽射しが、 彼女を、 優しく、 包む。 痛みは、 消えない。 でも、 彼女は、 歩く。 一歩、 また、 一歩。

政情は、 まるで、 嵐の、 前の、 静けさの、 ように、 複雑に、 絡み合っていた。

...

朝、 兵舎の、 机に、 書類が、 山積み。 「……マーレの、  動きが……」 呟きながら、 地図を、 睨む。

会議が、 始まる。 「……マーレの、  艦隊が、  パラディ島に、  接近」 報告が、 飛ぶ。 「……内部の、  反乱分子が……」 「……資源が……」
彼女は、 立ち上がる。 声は、 確か。 悲しみに、 浸る、 暇は、 ない。 仕事が、 彼女を、 飲み込む。

夜、 家に、 戻る。 リヴァイが、 「……飯」 と、 スープを、 運ぶ。 彼女は、 「……後で」 と、 書類を、 開く。

仕事に、 追われ、 考える、 暇を、 奪われる。 政情は、 悪化する。 でも、 ハンジは、 止まらない。
夜が深まるにつれ、 家は静寂に沈んだ。 ランプの火は消え、
窓から差し込む月明かりだけが、 ベッドの端を薄く照らしていた。
ハンジは、 眠りに落ちた。 最初は、 ただの、 闇。 でも、 その闇が、 ゆっくりと、 形を、 持つ。
——あの、 悪夢の、 日。 住宅街の、 石畳。 彼女は、 腹を、 支えながら、 歩く。 夕陽が、 背中を、 赤く染める。 「……リヴァイ、  待ってる」 呟きながら、 角を、 曲がる。 瞬間、 二つの、 影が、 駆け寄る。 バッグを、 強く、 引っ張られる。 「……っ!」 バラスを、 失い、 地面に、 倒れる。 腹を、 守ろうと、 手を、 回す。 衝撃が、 頭に、 走る。 「……赤ちゃん……」 声が、 途切れ、 視界が、 暗くなる。
夢の中で、 彼女は、 叫ぶ。 でも、 声は、 出ない。 ただ、 腹の、 鼓動が、 止まる、 感覚だけが、 胸を、 抉る。 「……っ!」
ハンジは、 ベッドで、 体を、 起こした。 汗が、 背中を、 冷たく、 濡らす。 息が、 荒い。 「……また……」 呟きながら、 涙が、 頬を、 伝う。

リヴァイは、 すぐに、 目覚める。 彼女の、 震えを、 感じて。 「……ハンジ」
低く、 呼び、 腕を、 回す。 彼女は、 彼の、 胸に、 顔を、 埋める。 「……忘れようと、  したのに……  また、  夢に……」 声が、 震える。

彼は、 彼女の、 背中を、 ゆっくり、 撫でる。 「……俺が、 いる」
彼女は、 泣く。 「 まだ、 辛くて……」
リヴァイは、 「……いい」 と、 答える。 「……夢は、  夢だ」

月明かりが、 二人を、 包む。 すべてが、 過ぎ去っていく、 ように、 思えた。 でも、 悪夢は、 まだ、 彼女を、 離さない。 でも、 リヴァイの、 腕は、 確かに、 ここに、 あった。
精神的なトラウマにより、ハンジは悪夢を見るようになった。また悪夢を見るのではないかと恐れ、寝るのが嫌になることもあった。

28.
朝の光が、 まだ薄い、 うちに、 ハンジは、 目を、 開けた。 ベッドの、 横は、 空。 リヴァイは、 いつもより、 早く、 出かけていた。 「……どこ?」 呟きながら、 彼女は、 起き上がる。 制服を、 着る。 鏡の前で、 髪を、 束ねる。 表情は、 硬い。

兵舎に、 着く。 机に、 座る。 書類を、 開く。 でも、 手は、 動かない。

昨晩の、 夢が、 頭を、 支配する。 石畳の、 衝撃。 腹の、 鼓動が、 止まる、 感覚。 「……また……」 呟きは、 誰にも、 届かない。

窓の外、 兵士たちが、 訓練を、 始める。 声が、 響く。 でも、 彼女の、 耳には、 入らない。 視線は、 書類の、 一箇所に、 釘付け。

「……ハンジさん?」 アルミンが、 近づく。 彼女は、 はっと、 顔を、 上げる。 「……あ、 うん」 ペンを、 動かす。 矢印を、 一本、 引く。 でも、 心は、 まだ、 夢の中に、 さまよう。

リヴァイの、 不在が、 胸を、 締め付ける。 「……どこ、  行ったの?」 呟きは、 机の、 上に、 落ちる。
仕事は、 進む。 でも、 彼女の、 考えは、 昨晩の、 悪夢を、 離れない。 すべてが、 日常のように、 見えても、 心の、 奥は、 まだ、 暗い。

 

兵舎の執務室は、 昼下がりの静寂に沈んでいた。 書類の山は片付き、 兵士たちの足音も遠ざかり、 ハンジは一人、 机の前に座っていた。
窓から差し込む陽射しが、 机の上のナイフを、 冷たく光らせる。 彼女は、 無意識に、 それを手に取った。 指先が、 柄を、 包む。 刃を、 自分の方へ、 向ける。

長い、 長い、 時間。 瞳は、 刃の、 鋭さに、 釘付け。 「……これで、 終わらせられる」 呟きは、 声にならない。
夢の、 痛み。 失った、 鼓動。 すべてが、 胸を、 抉る。
手が、 ゆっくりと、 動く。 刃が、 胸に、 近づく。 息が、 止まる。

——ガチャ。 ドアが、 開いた。 リヴァイだった。 彼は、 一瞬で、 状況を、 理解した。 「……ハンジ!」 声が、 部屋を、 切り裂く。
彼は、 駆け寄る。 ナイフを、 彼女の、 手から、 奪おうと、 しない。 代わりに、 刃を、 自分の、 掌で、 掴んだ。 血が、 滴る。 でも、 彼は、 動かない。

「……離せ」 低く、 強く、 言う。
彼女は、 震える。 「……リヴァイ……」 涙が、 頬を、 伝う。

彼は、 ナイフを、 ゆっくりと、 彼女から、 遠ざける。 刃を、 自分の、 手で、 包み、 床に、 置く。 血が、 床に、 落ちる。
「……俺が、 いる」 彼は、 彼女を、 抱きしめる。 強く、 離さない。 「……お前を、  失うのは、  嫌だ」
彼女は、 彼の、 胸に、 崩れ落ちる。 「……ごめん……  怖くて……」 嗚咽が、 喉を、 突き破る。
リヴァイは、 彼女を、 抱きしめたまま、 動かない。 血は、 止まらない。 でも、 彼は、 離さない。 「……生きろ」 呟きは、 彼女の、 耳に、 確かに、 届く。

部屋は、 静かだった。 でも、 二人の、 温もりは、 確かに、 ここに、 あった。
リヴァイは、 彼女を、 失うことを、 恐れるかのように、 強く、 強く、 抱きしめた。 腕に、 力が、 こもる。 彼女の、 震えが、 の、 胸に、 伝わる。

初めて、 涙が、 頬を、 伝った。 熱い。 止まらない。 「……ハンジ……」 声が、 震える。 「……俺は、  あまりにも、  多くの人を、 失った」 彼は、 彼女の、 髪に、 顔を、 埋める。 「……チームメイト…… 友人…… そして、 我が子まで……」
言葉が、 喉を、 突き破る。 「……今、 今度はあなたが私を捨てる番ですか?……」
涙が、 彼女の、 肩に、 落ちる。 「……頼む……  生きてくれ」 声は、 低く、 でも、 切実。
リヴァイの言葉を聞いて、ハンジは彼女が自分に対して何かひどいことをしそうになったような気がした。

「……俺に、 お前を、 失うのは、 耐えられない」
ハンジは、 彼の、 胸に、 顔を、 押し当てる。 「……ごめん……  リヴァイ……」
「……私、 怖くて…… でも、 あなたを、 傷つけたくなくて……」

彼は、 彼女を、 離さない。 「……お前を、  絶対に、  離さない」

二人は、 床に、 崩れ落ちる。 抱き合ったまま、 泣く。部屋は、 静かだった。 でも、 二人の、 心は、 繋がっていた。 失う、 恐怖を、 乗り越えるために。
ハンジは、 震える手で、 リヴァイの、 血に、 濡れた、 掌を、 開いた。 机の、 引き出しから、 包帯を、 取り出す。 「……動かないで」 声は、 小さく、 でも、 確か。
白い、 布が、 血を、 吸い、 赤く、 染まる。 「……痛い?」 リヴァイは、 首を、 振る。 「……お前が、  いるから、  平気だ」

包帯を、 巻き終える。 結び目を、 固く、 結ぶ。 彼女は、 彼の、 手を、 両手で、 包む。 「……私、  決して、  あなたから、  離れない」

瞳に、 涙が、 浮かぶ。 でも、 声は、 震えない。 「……何が、  あっても、 二人で、 いる」
リヴァイは、 彼女の、 額に、 自分の、 額を、 当てる。 「……約束だ」 声は、 低く、 でも、 確かに。
も、 二人の、 心は、 繋がっていた。 何が、 あっても。

 

29.
二ヶ月後、 朝の光が、 いつものように、 家を、 照らす。
兵舎に、 着く。 机に、 並んで、 座る。 書類を、 開く。 赤い、 ペンと、 黒い、 ペンが、 交互に、 動く。 「……補給は、  これで」 彼女が、 言う。 「……了解」 彼が、 頷く。

昼、 食堂で、 一緒に、 食べる。 「……今日の、  スープ、  美味い」 彼女が、 笑う。 「……お前が、 作ったからだ」 彼が、 呟く。

夜、 家に、 戻る。 「……疲れた」 彼女が、 ソファに、 座る。 リヴァイは、 彼女の、 肩を、 揉む。 「……少し、  休め」

二人は、 互いに、 支え合う。 仕事で、 生活で、 心で。 痛みは、 まだ、 胸に、 ある。 でも、 二人は、 動く。

生活は、 元通り、 のように、 見えた。 でも、 二人の、 絆は、 より、 強く、 なっていた。 何が、 あっても。

_終わり_

Notes:

エピローグ:この物語のいくつかのディテールについて、もう少し詳しく書きたいと思います。

二人が普段過ごしている部屋ですが、実は団長の部屋です。以前はエルヴィンをはじめとする歴代団長たちが使っていました。その後、ハンジも使っていました。しかし、ハンジは仕事に熱中するとなかなか部屋から出てこなくなるため、リヴァイは部屋を改装することにしました。部屋は隣の部屋と繋がっており、その後、寝室、リビング兼作業スペース、バスルーム、そして小さなキッチンと、複数のスペースに分割されました。まるで小さなアパートのようです。リヴァイにも専用の部屋があります。以前は二人は別々に寝ていて、親密な時以外は同じ部屋で過ごしていました。しかし、ハンジが疲れ果て、後に妊娠したため、リヴァイはハンジの部屋に入り、彼女の世話をするようになりました。

二人の泥棒についてですが…彼らは麻薬中毒者で、常に麻薬を買うためのお金を必要としています。彼らは主に首都郊外に住んでいますが、盗みを働く時は閑散とした時間帯に住宅街に繰り出して活動します。これまで数え切れないほどの窃盗を繰り返してきましたが、警察にも捕まったことがなく、おそらく誰も彼らの行為に関心を寄せていないのでしょう。(社会はなんて冷酷なのでしょう!)

エレナの手紙に関して、リヴァイは後に彼女と直接会い、自分には既にハンジがいるため、エレナの気持ちに応えることはできないと説明した。最終的に彼女は理解し、すべては円満に解決した。

ここまで読んでいただきありがとうございました。