Work Text:
穏やかな曲に耳を傾けて、ほうと息を吐く。
シロウズは出来るだけ音を立てないよう気をつけながら、傾けていたグラスを机の上へと置いた。こつ、と微かに響いた音を聞きながら視線を上げる。ボックス席の向かい側、深い赤のシートに残されたコートに目を細めた。
やっとの思いで誘い出した相手、歳上の友人であるシャリアは今はここにはいない。なにか重要なメッセージが来たらしく、ほんの数分前に席を外していた。
椅子の背に凭れて息を吐く。そうしてようやく自分が緊張していたことに気がついて、らしくもないと小さく笑った。
シロウズとして生きるようになって随分経つ。身を隠してイオマグヌッソの建設に関わっていた頃から使っていた名前ではあるものの、あの頃はこうまで身に馴染む名になるとは思わなかった。ましてや特定の誰かに呼ばれることを望むものになるだなんて、あの頃の自分は欠片も想像すらしていなかった。再会を果たし、機会を狙っては会いに行くようになった男の顔を頭に描く。初めの頃は戸惑いがちに呼びかけていた彼は、最近になってやっとやわらかな音で名前を呼んでくれるようになっていた。
一度は命を賭けて戦ったシャリア・ブルを、果たして友人と言って良いものかシロウズには未だ判断出来ないでいる。許すだとか許さないだとかどちらが悪いだとか、そういった話ではない。単純に好きなひとにどう思われているのかが気になって仕方がないというものである。あんなことがあった後に友人だと言って好きなひとに不快に思われないか、違うと言われてしまわないか、『そう思われていたのですか』なんて困った調子で言われてしまわないか、そんなことばかりが気になってしまっていた。
恋の悩みである。
今はシロウズと名乗るなんでもない男は、遅れてやってきた初恋にウンウンと唸って子どものように悩み続けていた。
今日の自分に何かおかしなところはなかったかと待ち合わせからの行動をなぞる。服はおかしくはないだろうし、髪形だって崩れてはいないはずだった。朝は大変だった。人生初の、鏡の前で悩んだ数時間だった。ちなみにシャリアとの予定は夜からである。以前はそんなことを気にしたことなんて無かったのに、彼への想いを完全に自覚してしまってからは信じられないような感情の動きにばかり襲われていた。
慣れないことをしている自覚はある。恋、だなんてものに掛ける時間は無いと思っていた。そもそも考えたこともなかったのかもしれない。まさか人ひとりにどう見られているのかが気になってしまって落ち着かなくなる日が来るなんて、メッセージの返信を待ってクッションに顔を埋めて待つ日が来るだなんて、こうなるまで一度も想像したことなんてなかった。
緊張に火照る頬を手の甲でなぞって、こんなにも動揺していてはだめだと息を吐き出す。深呼吸をしてから席に座り直した。彼はまだ戻ってこない。随分重要な話をしているようだった。
注文した飲み物を運んできたウェイターが向かい合った席にふたつのグラスを置く。透き通った水のグラスに頷いて返して、自分に冷静さを言い聞かせるようにそっと息を吐いた。
身体の力を抜いた途端に周囲の音が耳に飛び込んでくる。楽しげな笑い声に頬を緩めて、なんとはなしに店内を眺めた。ここなら問題なく過ごせるだろうと選んだ店はそれなりに賑わっていた。ロマンチックというよりもややカジュアルな店は、あちこちで恋人たちや友人たちの明るい囁き声が交わされている。静かすぎず、うるさすぎもせず、誰も自分たちに興味を抱かない空間は心地よかった。元々はもっと静かな場所の方が良いと思っていたが、このぐらいの方がかえって良いのかもしれない。人の声は不思議な穏やかさをもたらしていた。
聞こえた足音に、ぴく、と指が跳ねる。動揺を隠すように自分の手を握りこんだ。恋だなんてそんな、自分が抱くとは思えなかったものに心拍を乱されている。未だ片想いで留まっている相手は、なんでもなかったような顔をして正面の席へと腰を下ろした。
反射的に時期と時間から内容を推察してしまいそうになるのを留めて、何も聞かずに上目に彼を見る。自分が関わらない方が良いことはよく分かっていた。わざと興味なんて抱いていませんよという顔をして、「ナッツも美味いらしい」と全く関係のない話題に触れる。離れた席に置かれたチョコレートとナッツの皿を目で示すと、シャリアはおかしそうに笑って「頼みますか?」と目を細めた。
きゅんと心臓が鳴る。
片想いの相手にほんの少しリラックスしたような顔をされただけでこのざまだった。
自分の反応に信じられないと唸ってしまいたくなりながら、なんでもないふりをして頷く。彼が注文しようとするよりも先にスマートに済ませた。
別に張り切っているわけではないという顔をして、机に両肘をつく。身を乗り出すような格好になった分彼との距離が近くなった。さり気なく頬に視線を向ける。以前会った時に負っていた傷はもう治っていた。まつ毛から爪の先までそっと視線でなぞって、どこにも新たな怪我が増えていないことに安堵の息を吐く。彼は彼自身の持つ印象以上に自分を大切にしてくれない。負傷が避けられるものではないことは分かっているが、気になってしまうものは止められなかった。
「気になりますか?」
「……目立っていただろう」
「見た目だけですよ」
「それでもだ」
はっきりと言い切ったシロウズの声に、シャリアが困ったように肩を竦める。いつまでも心配されることに慣れないでいるようだった。自分もそんなようなことを言われたことがあるな、と唇を緩める。困ったような顔をするようになったのは進歩だった。自分にも経験があるから知っている。心配されている、ということを理解するのはシロウズにとっても極めて困難だった。
今のシャリアは、間違いなくシロウズの拙い感情に気が付いている。知っていて目を逸らしている。だからこそシロウズは全く隠す気がなかった。先日出掛けた時は偶然とはいえ手を繋ぐことが出来た。想いを彼が聞いてくれるようになるまで、思っていたよりも遠い道のりではないのかもしれなかった。
聞いてくれたところで、彼がどう返すのかはまた別の話だったが。
好きになってもらうためには、なんてティーンの子どものようなことを考えて運ばれたばかりのグラスを手に取る。透き通った水はどうしてか重たげに見えた。意味もなく揺らして、ちら、と髪の隙間から彼を盗み見る。まつ毛を伏せたシャリアは、眼鏡の向こうで美しい瞳を揺らめかせていた。ぼんやりとグラスを眺めているだけでさまになる男だった。
そもそもシロウズは、彼の外見も好ましく思っていた。今だから言えることだが、初めて会った時のあの瞳にやられたといっても過言ではない。共にワインを飲んだあの日、ほの暗い部屋の中でこちらを見る目には確かに熱がこもっていた。あれを美しいと思った瞬間から心を奪われていたのだろう。まっすぐにこちらを見る目はいじらしくすらあった。やわらかなウェーブを描く緑灰の髪も、儚さを孕んだ顔の輪郭も、彼を形作る何もかもが美しい。蠱惑的な声も背筋を伸ばした彼の一挙手一投足も、全てが美しく彼を彩っていた。
そう考えれば考えるほど好きなひとが眩しく見えてくる。今のシャリアはあの頃とはまた別の魅力を携えていた。やわらかな燐光が彼をふちどっているような気がして目を細める。不思議そうにこちらを見たシャリアは、「シロウズ?」とやわらかな声で囁いて首を傾げた。
確かな意思を持った声に名を呼ばれるのはやはりたまらない。
いつかその中に、自分だけに見せる色が滲むことを願わずにいられなかった。
好きなところをひとつひとつ頭の中でなぞる。思考を読んだのか、目の前に座る彼の頬がじわじわと赤くなった。もっと並べてやろうと頬を緩める。ひと言も発さないままあれもこれもと彼の魅力を囁き続けていると、シャリアはふいと顔を逸らして唇を曲げた。真っ直ぐな感情表現に慣れていないような顔だった。
もっと並べてやろうかと唇を緩めたまま身を乗り出して、ふと彼のことで知っていることがそう多くないことに気が付いて眉を寄せる。そういえば、自分たちはそんな話をしたことがなかった。今思えばもっと話をするべきだったのかもしれない。彼のことが知りたかった。
好きな色が何か、好みの装飾は、どんなことに喜びを感じるのか、どんな食べものが好きか、尋ねたいことを頭の中でリストに連ねる。それすら感じ取ったのか、シャリアはきゅうと眉を寄せてこちらを見た。今更隠すようなこともないだろうと小さく笑う。今の自分たちには尋ねることを許されるだけの時間があった。
好きなものをたくさん知ることが出来たら、彼にプレゼントがしてみたい。彼の喜ぶ顔が見たかった。定番ではあるが、花束は好きではないだろうか。食事にだって本当はもっと誘ってみたかった。今の状態では半ば定期連絡のようになっているから、単に好きなものを共有するという目的のための夕食にでも誘いたかった。
そうしてもっと近い距離が許されるようになったら、プロポーズがしたい。一緒に暮らしてくれないかと彼の手を握って伝えたかった。そのためにもまずはもっと彼のことが知りたい。好きな食べもののひとつも知らないことを考えると、今の自分はあまりにも無力だった。
ゆっくりと聞いていこう、と気分が上向くのを感じながら自分の分のグラスを傾ける。舌を湿らせるように水をひと口含んだ。飲み込むよりも先にアルコールを感じて手を止める。全く違っている風味に眉を寄せた。どこかの机と間違ってしまっていたのかもしれなかった。
もしかすると彼のものも間違っているのかもしれないと顔を上げて、なんでもない顔をしてグラスを傾ける彼に動きを止める。自分たちは口直しのために同じものを注文していた。つまり、彼のものも正しければ水である。間違っていればすぐに分かる。それなのに、シャリアはひと息に飲みほすように口にしていた。
自分のものだけ間違っていたのだろうと思いながらも、嫌な予感ばかりが頭に響く。考えるよりも先に手が伸びた。つい先程までののぼせたような熱が急速に消え失せる。片手で彼の指を引き剥がし、反対側の手でグラスを奪い取った。冷えたグラスに触れた指は知らず震えていた。
「……シャリア」
「……なにか?」
「ここは水も美味いな?」
目をさまよわせた彼が、一拍遅れて「私のものは間違っていたようで」と笑みを見せる。彼らしくない、下手な反応だった。
グラスを鼻に寄せる。透明な液体からはアルコールのにおいがした。少なくともあんな飲み方をするものではない。彼が気付いていなかったことは明白だった。
「……舌か? 鼻もだな。いつからだ」
「…………あなたには、」
「関係のない話だと?」
気まずげに目を逸らしたシャリアが顔を伏せる。拒絶に怯んだ手が震えた。それでも離すわけにはいかなくて、指を握りこんで顔を見つめる。ほとんど立ち上がるように身を乗り出し、鼻の触れるような距離で「シャリア」と囁くと、彼は観念したようにまつ毛を震わせてこちらを見た。
「……木星探査船の話はご存知でしょう」
「ずっとか?」
「困ることでもないので」
眉を下げて笑った彼が、もう良いでしょう、と示すように手を引く。絶対に離したくなくて、シロウズは握った指に力を込めた。戸惑ったような目をまっすぐに見つめ返す。この男を放っておいてはいけないような気がしていた。
「他はどうだ? 視覚に影響は?」
「問題ありません」
「これはどうだ?」
彼がひとつも隠すことの出来ないよう見つめながら、両手で指を握る。緩く力のこもっていた手に触れてそっと開かせた。晒された手のひらを指でなぞる。尋問に答えるように「問題ありません」と言ったシャリアは、シロウズの反応に戸惑っているようだった。
「触覚は問題ないな。熱は?」
「……伝わっています」
「視覚や聴覚も良いだろう。他は……」
「その……離していただけますか?」
困惑したようにシロウズの顔を覗き込んだシャリアが、恥じるように瞳を揺らす。ほんのりと頬を火照らせた彼は「熱くて」と困ったように囁いた。
「私と一緒に暮らしてくれないか」
「はい?」
ぽかんと見開かれた美しい目がシロウズを見つめる。
遅れて自分が発した言葉に気が付いて、シロウズは「ああいや」と眉を下げた。
こんなタイミングで言う予定ではなかった。
もっとロマンチックで、ムードに溢れた空間で、花束や指輪を揃えて言うつもりだった。
しまったと思いはするものの、発した言葉を訂正するつもりはない。照れくさくなるほどの本心だった。
「無理だと分かっているでしょう」
「それでもだ。あなたを放っておきたくはない」
「放っておかれているわけでは……」
「言い方が悪かったか? あなたのそばにいたい」
関係を築き直してから使い始めた二人称に、未だ慣れないでいるらしい彼が困ったような顔をする。どう断るべきか考えている。自然とそう読み取れてしまって、シロウズは咄嗟に彼の手を両手のひらで包み込んだ。
懇願するように見つめて、「私が、そうしたいと思っている」と囁く。
美しいひとは出会った時と変わらず優しい目をしている。
彼をふちどるものが、燐などではあってはならなかった。
困り果てたように目をさまよわせた彼が、「試してみますか」と意外な言葉を零す。どう粘るかばかりを考えていたから、シロウズは一瞬言葉を返し損なって彼を見つめ返した。
再び開かれた唇が何か言うよりも先に大きく頷く。
シャリアの目がやわらかく細められた。
受け入れられたことに安堵しながら、まずはこの危機を誰に伝えるべきかと彼の周囲の人々の顔を頭に描く。
当の本人はこんな時にばかり見せる何も知らないような顔をしていた。
今更自分が腰を浮かせていたことに気が付いて、手を握ったまますとんと席に座る。動きを追ったシャリアの目が絡んだ指先を見て、それからシロウズを見て瞬いた。いつ離すのか聞きたげな瞳に気付かなかったふりをして、彼が体温を感じていることを確かめるように指を握り込む。解放した方が良いと分かっているが、今だけは安堵を感じていることを許してほしかった。
今ひとつよく分かっていないような顔をしている彼に小さく笑って、なんでもない話を続けようと頭を巡らせる。どれほどおそろしかったのか、どうしてシロウズの背を冷たい汗が走ったのか、彼が知るのはもっと後で良い。これ以上動揺を悟らせてしまっては、彼は不要なことと切り捨てて彼自身のことを隠してしまいそうだった。
「シャリア、好きな色はなんだ?」
なんとか話題を探して、一番最初に頭に浮かんだものを尋ねる。
ぽかんとした彼は尋ねたシロウズの思考に嘘がないことに戸惑っているらしかった。
ちら、とこちらを見た彼が、恥じらうように頬を染める。
好きだと再認識したばかりの声で告げられた色は、シロウズの顔を染め上げるのに十分な力を持っていた。
握った手が熱い。
どちらからも離すことが出来なくなってしまって、シロウズとシャリアはしばらくの間そのまま無言で見つめあっていた。
クールな顔なんて全くできなくなってしまったのを悔しく思いながら瞳を見つめる。
シャリアは丸い目で見つめ返してからおかしそうに笑った。尖らせた唇とそれに伴った悔しさを読んでしまったようだった。
一見欠けたところなんて無いように見える、男の美しさに初めて知る種の恐怖を抱きながら微笑む。
悟らせてはならない。
このおそろしさを彼に知られないでいるまま、彼の壊れた内面を覆い隠そうとする輝きを止めなければならない。
指先の熱はシロウズにとって幸いだった。
シャリアの空いていた方の手がグラスに伸びる。透明な液体をひと口含んだ彼は、目を細めて「なるほど」と呟いた。
小さく零れたような酒の名前に背筋が凍る。彼はそうして、壊れたところなんて感じ取らせないでいる方法を学んできてしまったようだった。
「……よく分かるな」
「ただの勘ですよ」
肩を竦めたシャリアが微笑む。
その美しい微笑に背が震えるのを感じながら、シロウズも同じように笑った。
彼の手を掴むことが出来ている幸運がなによりおそろしい。
今この瞬間に知ることが出来なかった可能性を思うとぞっとせずにいられなかった。
好きなひとが笑っている。
きっかけが何であれ彼のそばにいられるようになったことは確かだった。
やはりあの頃もこうして話せば良かった。
シャリアの、あたたかな手がほんの少し体温の落ちた手を握り返す。
彼が首を傾げた拍子に、変わらず美しい瞳が前髪に隠れた。
そのやわらかな髪を掻き上げてやりたい。
隠された瞳を覗き込みたい。
彼のことがもっと知りたかった。
