Work Text:
そっと空気が揺らいだ気配を感じて、瞼を震わせる。
重い瞬きをしてから自分が今どこにいるのかを認識して、シャリアは眠気の残る身体をゆっくりと起こした。
随分久しぶりによく眠ったような気がしていた。
ベッドの中でクッションに背中を預けて、薄明るい室内に目を細める。身を隠すためだけに購入した地球のセーフハウスは穏やかな朝の空気に包まれていた。入り用があって何度か地球に訪れたことはあったものの、いつまで経ってもこの空気には慣れない。本来息のしやすくなるはずの空気にシャリアは妙な疎外感のようなものを感じずにいられなかった。
なんとはなしに腕を擦り、突き刺さる視線につい吹き出す。ひと言も発していないのに、彼の視線はうるさく感じてしまうほど分かりやすい。それは以前の彼からは想像もできないような可愛らしさだった。
気付いていないふりをしていた目を扉の方へと向ける。じっとこちらを見る青い目と目が合った。様子を窺っているらしい彼の分かりやすさに眉を下げる。目を細めて「早いですね」と声を掛けると、シロウズはほんの二ミリほど扉を開いてこっくりと頷いた。
「そのままでいい」
立ち上がろうとして、硬い声に止められておやと瞬く。昨夜あんにも勢い込んでこちらへと踏み込んできた彼は、どうしてか自分よりも緊張しているようだった。
色々とあって彼と一緒に暮らすことになったらしい、最初の朝である。
シャリアは、今もどうしてあの時の自分が頷いてしまったのか分からなかった。
彼に『一緒に暮らしてくれないか』と言われた昨夜、シャリアは確かに動揺していた。長年上手く隠し通せていた五感の不調をあっさりと見抜かれてしまったから、なんて些細な理由ではあったものの、隙があったことは確かだった。まさか水だと思っていたものが酒だったとはと眉を寄せる。そんなことも分からなかったなんて油断していたとしか言いようがない。共に居た彼も知らなかったようだったから、あの状況は完全に偶然の産物だった。
しまった、とは思いはしたものの、あの瞬間シャリアが考えたことはそれだけだった。自分の味覚や嗅覚がどうなっていたとしても彼には関係ないだろうと思っていた。視覚や聴覚なら操縦関係の物事に繋がるだろうが、彼に頭を突っ込んでほしくないと思っている以上どちらにせよ報告する必要性はない。そうだったのか、で終わる話だと思っていた。
それなのに、シャリアの些細な欠落はどうしてか彼にひどい衝撃を与えたようだった。そこから何がどうして彼の中で結論付けられたのかは分からないが、手を握った彼に伝えたられた言葉はあの『一緒に暮らしてくれないか』だった。何が起きたのかよく分からなかった。
感じた心に嘘がひとつも無かったことや、以前から漏れていた彼の好意のようなものが一気に膨れ上がったのが不思議で、シャリアは呆気にとられているうちについ頷いてしまっていた。もちろん本当は嫌だったなんてわけではない。立場を考えてくださいだとかどこで暮らすというのですだとか、そんな風にやんわりと断る予定だったのに、ぽろりと零れた言葉は『試してみますか』だった。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、扉の向こうの影をしげしげと眺める。目だけを覗かせた小山のような影、今はシロウズと名乗るかつての上司は、あの頃からは考えられないような可愛らしい様子でこちらの様子を窺い続けていた。
彼自身が選んだという言葉に弱いのかもしれない。分かりきっていたことを今更再認識して、来ないのだろうかと首を傾げる。じっとこちらを見つめていた彼は、そろそろと扉を開いて忍び足で入ってきた。完全に怪しいそぶりについ笑ってしまいそうになる。わざとらしい動きは彼なりの歩み寄り方であるようだった。
それならばこちらも向き合わなければ、と居住まいを正す。彼がどんな話題を切り出したとしても、真摯に応えたかった。
そわそわとどこか落ち着かない調子でベッドの横までやってきた彼が、無言のままに片手に持っていたマグを突き出す。目を丸くして受け取ると、シロウズは何やら満足そうな顔をして大きく頷いた。半ば反射的に頷き返す。甘酸っぱい、なんとも言えない空気が彼の周りを満たしていた。何の目的でやって来たのかまるきり分からなかった。
咄嗟に受け取ってしまったマグを見下ろして、あたたかな透明の液体にほっと息を吐く。なみなみと注がれたぬるま湯の、どこか間の抜けた様子がなんだかおかしかった。一気になんでもない日常に引き戻されたような気がして「ありがとうございます」と彼を見上げる。腕を組みかけて途中で止めたシロウズが腰に手を当てて頷いた。彼の中ではな何やら取っても良い行動と避けたい行動が分かれているようだった。
どうすれば、と思いながら、手渡された湯をひと口含む。働きを忘れてしまった舌を刺激するようにあたたかな液体を意識した。
心配そうにこちらを見る彼の目にくすぐったさと申し訳なさが湧く。別になにも、全てが失われてしまったわけではなかった。薄くにおいを感じ取ることも、微かな味を感じることもある。昨夜は特別調子が悪かったから気が付かなかったのだと伝えなければならなかった。
あなたが気にするようなことではありません、と言おうとして、開いた唇に彼の手が伸ばされる。「いいか」と尋ねられて反射的に頷いてしまった。綺麗な彼の指先が肌に触れる。おとがいを小指の先で支えたシロウズは、器用にシャリアの唇をなぞると親指を忍び込ませた。
「ん……」
意図せず鼻にかかった声が漏れてしまって羞恥にまつ毛を伏せる。彼がよこしまな思いなく触れていることは明白だった。それなのに勝手に羞恥を抱いてしまうことが申し訳なくなる。出来るだけ彼に感じ取らせてしまわないよう必死に意識を逸らした。
「…………っ、ふ…………」
シロウズの長い指が、舌を挟む。人差し指と親指に撫でられた舌の先が情けなく震えた。唾液が溢れてしまいそうになるのを恥じながら、早く触診が終わることを祈って上目に彼を見る。真剣な顔で舌を見つめていたシロウズは、シャリアと目が合った途端にどうしてか頬を真っ赤に染めた。
耳まで赤い彼が弾かれたように飛び退る。濡れた指が引き抜かれた。唾液に塗れた指先に咄嗟に手を伸ばす。目を見開いた彼の指を握り、なんとかシーツで拭かせると、シロウズは「すまない」としゅんと肩を落とした。不躾に触れてしまったと思っているのかもしれなかった。
「いえ、かまいませんよ。その……見た目上は特に変化は無いかと思いますが」
「ああ、そのようだな」
真っ赤な頬を逸らしていた彼が、「いつもそうなのか?」と目だけをこちらに向ける。早いうちに伝えておいた方が良いだろうと首を横に振った。「昨夜は特別調子が悪く」と言い訳のように答える。だから心配する必要はないのだと心を向けると、シロウズはなんとも言えない顔をして「そうか」と頷いた。真相を知っても帰る気は無いようだった。
沈黙が落ちる。
なにか言わなければ、と口を開いたシャリアが言葉を発するよりも先に、シロウズは「散歩にでも行かないか」と窓の外を指さした。
「あなたが良ければ」
子犬のような目を向けられて言葉を詰まらせる。帰った方が良いですよという言葉は封じられてしまっていた。彼がこの頃言うようになった慣れない『あなた』にむずがゆいものを感じながら頷く。口調だって、以前よりはいくらか気さくになったような気がする。それはシャリアにとってこの上なく喜ばしいことだったが、何故だか自分に向けられると途端に気恥ずかしさのようなものが湧いてきてしまっていた。
自然な動きで彼がシャリアの手からマグを抜き取る。流れるようにエスコートされて、気付けばシャリアは完全に身支度を終えていた。一瞬の出来事だった。
この技術は一体、と思っている間に背中を押されて外に出る。セーフハウスの周囲の安全は確認済みだったから、この辺りであれば自分たちが出歩いても問題はない。空はよく晴れている。散歩をするのにこの上なく良い条件が揃っていた。
「シャリア」
そっと名前を囁いた彼に手を差し出される。考える間もなくその手を撮ってしまって、シャリアはやけに嬉しそうな彼に連れられて道に足を踏み出した。
いつの間にか鍵を手にしていた彼がポケットに押し込むのを眺めながら、どうしてこうなったのだろうと首を傾ける。いつにない彼のまっすぐな想いにあてられてしまったのかもしれなかった。
いやに機嫌の良さそうなシロウズの横顔を見つめる。人気のない場所を選んだから、シャリアのセーフハウスの周囲はひっそりと静まり返っていた。朽ちかけた建物に囲まれた通りを抜けて、空から身を隠してくれるような影の下を歩く。どうしてか無性に彼が青空の下に立っているのが見たくなって歩く速度をはやめた。「お」と気の抜けた声が聞こえる。笑った彼の声が静かな影の下に響いた。
手を繋いだまま競うように走って、比較的広い通りに抜ける。半歩分先に駆けていた彼が振り向いて「はは」と笑った。
風に吹かれた、金いろの髪が青空に透ける。眩い太陽がきらきらと彼の髪に輪を落としていた。細められた目が無邪気に輝いている。「たまにはこういうのも良いな」と言いながら零した息が荒い。つられて笑ってしまうような、気持ちのいい疲労感だった。
ひとりでいる時よりも随分歩きやすい道だったなと思いながら、半ば意地になったような気持ちで彼の前へと大きく踏み出す。歩きやすくはあったが、彼に救いを求めたくはない。そんな光にさせるわけにはいかない。なにより、手を引かれてばかりというのも気に入らなかった。
おかしそうに笑ったシロウズが隣を歩く。
ふいにシャリアは、普段そばにいる若者二人に『そろそろ住所ぐらい持ってはどうですか』と言われていたことを思い出した。
握った指にほんの少しだけ力を込める。
しばらくの間、ここにいても良いのかもしれなかった。
