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どちらから言い出したわけでもなかったが、朝の散歩はいつの間にか日課のようになっていた。
いろいろとあってシロウズと暮らすようになって数日、シャリアは自分がいつの間にか当然のように朝出かける準備をするようになってしまっていたことに気が付いて呆然と立ち尽くした。
こんな予定ではなかった。
確かにしばらくは彼と暮らすセーフハウスに居るのも良いかもしれないと思いはしたけれど、まさか習慣になるようなことが出来てしまうだなんて思いもよらなかった。
もう少し考えてから行動した方が良かったのかもしれないと今更考えながら、着替えたシャツの袖のボタンを留める。既に穿いてしまっている靴下が赤色であることを意識しないようにしながら、シャリアはひとりの部屋で小さく息を零した。
今日はやけに静かだった。
いつもならこのぐらいの時間にやってくるシロウズの姿が無い。たったそれだけなのに、そう広くもないセーフハウスはシャリアに静まり返っているような錯覚を抱かせた。鳥の鳴き声や窓を揺らす風の音が聞こえていないわけではない。たったひとつ、意識せざるを得ない気配が無いだけだと分かりきっている。それなのに静かだと感じてしまうのは、シャリアが今抱くべきでない感情を抱いてしまっているからなのかもしれなかった。
シロウズが出掛けたのは昨日の昼のことだった。突発的にシャリアのセーフハウスに転がり込んできた彼は、昨日一度身の回りの物を取りに行きたいと困ったように眉を寄せていた。いや、あれはもしかすると不安を抱いていたのかもしれない。彼の考えていることが分からずにぼんやりとつま先を見下ろす。変わろうとしているシロウズのそばにいるシャリアは、出来る限り彼の心を読まないようにしている。彼が言い出したわけでも自分が宣言したわけでもない。いつの間にか不思議とそうなっていた。なにか、彼のたいせつなものを守るためにそうしなければならないような気がしたのも一因なのかもしれなかった。
兎にも角にも、シャリアの意識は咄嗟に読もうとしてしまった自分を諌めるのに向いてしまって、あの時のシロウズが何を思っていたのか分からなかった。
何度も何度も念を押すように『ここに居てくれ』『必ず帰ってくる』と言っていたのは、彼なりの後ろめたさの現れだったのかもしれない。五年も戻らなかったことに気がとがめているのか、一緒に来てくれと強制的に連れていくにはまだ自分たちの関係はそう強固でもないと思っているのか、彼は『一緒に暮らそう』と言った時の勢いなんて忘れたように言葉ばかりを重ねていた。
身を隠すことを、考えなかったといえば嘘になる。
シロウズの乗ったバイクがセーフハウスのある一角を離れ、エンジンの音が聞こえなくなって、ぼんやりと日の光を見つめて、それからシャリアはほうと息を吐いて見送った道の壁に凭れた。一瞬頭に浮かんだ考えはそれだけで実行できないものになってしまった。『ここに居てくれ』と手を握って言った彼の、かつてないほど必死な瞳にやられてしまったのかもしれない。結局シャリアはふらふらと帰って、夕食を食べる気にもなれずそのまま眠ってしまった。つまらないということを感じたのも随分久しぶりだった。
そうしてやってきた朝は、静けさをシャリアの身体の中心に侵食させようとしているようだった。
やはりこんな感情を抱くべきではないだろうと小さく首を振る。彼のそばにいて、ほんの僅か、彼を『託しても良い人』にならないよう引きずり落とす重りにはなれたとしても、こんな感情を抱くことを許される人物になって良いはずがなかった。
自分の胸を撫でて息を整える。
どうするべきか迷って、結局普段の生活リズムを崩さない方が良いだろうと扉へと向かった。
いつも出掛ける時は彼が鍵を閉めていたから、どこにしまってあるのかを探すのにほんの少し手間取ってしまった。
まさかこんなところで影響が出るなんてと不思議とおかしく感じて、笑ってしまいながら外へと足を踏み出す。いつもよりやや遅い時間の外気はなまぬるくシャリアの頬を撫でた。
どうしてか少しだけ気だるく感じる空気に眉を寄せて、小さく息を吐き出す。気のせいだと大仰に首を振っていつもの道を歩き始めた。
曇っているからなにだか落ち着かない気持ちになっているのかもしれないと思いながら、何気なく見下ろした道に彼の声を思い出して唇を緩める。小さな段差のある道は以前彼が『危ないだろう』とシャリアの手を引いた場所だった。引っかかるとしてもせいぜいつま先だろうという小さな段差に、やけに真剣な顔をして手を引いた彼を思い浮かべてひょいと飛び越える。自分らしくなく浮ついた歩き方になってしまったような気がして、二、三歩進んでからひとり咳払いを零した。
細い曲がり角は彼が興味深げに覗き込んでいた場所だった。道の端で風に揺られている花は彼が『こんなものもあるのだな』と面白そうにつついていたものだったし、少し歩いて出た大きな通りは『見失ってしまうかもしれないだろう』とありもしないことを言っている自覚のあるような顔をした彼が袖を引いた場所だった。つんと顔を逸らした彼の、照れきったような赤い耳を思い浮かべて小さく笑う。心の内を見ることなく、真正面から眺めた彼の顔は、かつてシャリアが感じていたよりもずっと素直なものだった。
時々彼が覗いている店を倣うように訪れて、結局何を買えば良いのかわからずに水のボトルだけを買って外に出る。そろそろ戻ろうかと何気なくボトルを見下ろして、そういえばこの水も以前彼が気に入っていたものだったな、と気が付いて顔を覆った。
そんなわけがない。
まさか、こんな、自分がティーンの初恋ようなことをしてしまうなんて――まさかこんなにも呆気なく『寂しい』だなんて思ってしまうなんて、認めたくはなかった。
いやいやまさかそんな、と誰に言うでもなく心の中で呟いて、ここ数日ずっと共に行動していたからだと言い訳を作る。彼と共に歩いた道だから思い浮かべてしまうのも自然なものだろうと自分に言い聞かせて、顔を上げて見た店先に並ぶサンドイッチに好きそうだなと目を細めた。
「………………」
そんなわけが、ない。
たった数日寝食を共にしたからといって、これはあまりにも、あまりにもわかりやすすぎないだろうか。
自分はこんなにも単純だっただろうかと引き攣った笑みを浮かべて、そのなんとも言えない引き攣った顔のまま日替わりメニューのサンドイッチをふたつ購入した。
彼が好きそうだから、ではない。
単純に、家に食べるものが何も無かったからである。
そんなわけがないと胸の内で何度も呟いて、やや足早に帰路につく。そうであっては困る。しばらくの間ここで暮らすのも悪くないかもしれないと思いはしたものの、今の状態は一時的なものでなくてはならない。彼の気の迷いをいつまでも続けさせるわけにはいかなかった。彼の隣に経つ覚悟は他の誰にも譲る気は無いが、自分は彼の帰る場所には相応しくないだろう。もっと安定して、もっと共に歩めるような、何ひとつ影の差さないような誰かこそ彼と共に人生を歩む人物に相応しいに違いなかった。
ぎしぎしと軋んで痛んだ肺に眉を寄せる。宇宙空間と地上との圧力の違いで不調を来すことはありえるが、それが地上で数日過ごした後に突然訪れるとは聞いたことがなかった。
不自然に乱れた呼吸を整えて、あと少しでセーフハウスに辿り着く道の角を曲がる。
青い目と目が合った。
「大佐……」
とどめだった。
反射的に零れてしまった自分の言葉に息を詰める。ずるずるとしゃがみこんで、大きく肺の中の空気を吐き出した。顔を覆った指が震えている。自分自身の欲というものを、随分久しぶりに意識させられていた。
これでは否定のしようがなかった。
言い訳が出来ないほど、シャリアは彼のことばかり考えていたし、隣にいないことに違和感を抱いていたし、誰かがそこに立つだなんて考えたくなかったし、寂しいと思ってしまっている。呆れるほど分かりやすくて、単純な自分を認めなければならなかった。
「んなあお」
「……はい」
目の前に寄ってきた青い目に返事をする。擦り寄せられた身体に慰められたような気がして、シャリアは白い猫の背をそっと撫でた。
「君、ひとりですか?」
「んなんな」
綺麗な毛並みの猫が目を細める。やわらかな毛は珍しい種類のものであるように見えた。頭を撫でて毛に埋もれた首を探す。水色の首輪がつけられていることに気が付いて、保護するべきだろうと声をかけた。
「……うちに来ます?」
「にゃあお」
「君のおうちへ連絡しましょう」
「んなお」
言葉を理解しているように返事をした猫が、どこか不満げにシャリアを見つめる。首輪に付けられたシルバーのタグを確認して、白い猫の名前が無いことに困ってしまって眉を下げた。
シャリアの手に思い切り頭突きをした猫が「んなんな」と鳴く。どうしてか促されているような気がして、「タイサ?」と首を傾げた。
ものすごく満足そうな顔をした猫が「んなお」と鳴く。青い瞳の彼は、『タイサ』と呼ばれているのかもしれなかった。
ひとまず家で保護をしようと白い毛の塊を抱き上げる。人に慣れているのか、タイサは大人しくシャリアの腕の中に収まってくれた。
飼い主にどう連絡を取るべきかを考えながら、ぽかぽかとあたたかな体温を感じて唇を緩める。手の中では握った紙袋ががさがさと音を立てていた。
「んなお」
「これは大佐のものですよ」
「んなな?」
「ああ、君ではなくてね」
神妙な顔をして鳴いた猫に吹き出しそうになって、ふと明日の日替わりサンドイッチも彼が好きそうなものだったな、と思い浮かべる。
もしも明日彼と出掛けるとしたら、お好きですか、と尋ねてみるのも良いのかもしれない。
この頃専ら好き嫌い探しに精力的らしい彼が、シャリアのなんでもない質問にどう答えるのかが楽しみだった。
ひとりごとのように彼の名を呟いて、外に出た時よりもずっと明るいような気のする道を歩く。
自分の感情をほんの少し認めたからといって何が変わるわけでもないと思っていたけれど、彼はどう答えるだろうだなんてそんな期待を抱けたのはシャリアの中で大きな変化だった。
明日が来るのが楽しみになりましただなんて、そんな陳腐なことを言ったら彼は笑うだろうか。
想像した彼の顔にシャリアは小さく笑った。
思っていたよりもずっと間の抜けた顔は、ただのひとりの男である彼によく似合っていた。
